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相似で逆接な在り方





 民としてのんびりと歩く彼と彼女の元に二人の男が近づく。誰有ろう、彼をずっと支えてきた大切な身体の二人が。

 詠の真名を呼ばずにあだ名で呼んでいる辺り記憶が戻っては居ないと判断を下し、安堵と寂寥の相反する感情を綯い交ぜにしつつも、どうにか男達はにやにやと茶化す目を浮かべて二人に後ろから歩み寄り、


「このやろっ、心配して損したぜ!」

「えーりんといちゃつきやがって……一発殴らせろ!」


 友達さながらに笑い掛けた。


「誰がいちゃついてんだよ誰が」

「てめぇ以外の何処にいやがる!」

「くっくっ、ゆえゆえと軍師様に言いつけてやらぁ」

「心配するな。許昌に帰ったら俺には説教が待ってるんだからよ……ひなりんとゆえゆえとえーりんからのな」

「そ、そりゃぁ……ご愁傷様」

「お、おう、強く生きろよ」

「クク、まあ心配してくれてありがとよ」


 やいのやいのと盛り上がる三人の男を見つめながら、大切な大切な身体である彼らに話すべきか詠は迷う。

 一寸戻った黒麒麟のことを話してもいいものか如何か。しかし……やめておいた。彼らの求める主が確実に戻ると分かるまでは希望を持たせるべきではない。むしろ彼らがアレに会わなかったのは幸運とさえ思えた。


――あんた達が一番、あんな秋斗を見たくないわよね。


 一人ごちる。黙すことが正しいかは分からない。けれどもせめて、雛里や月と話し合って彼らに教えるかどうかの答えを出そうと思った。

 大きなため息を吐いた後、盛り上がっている三人をまた見つめる。


「あんた達ご苦労様。ありがとね、一緒に探してくれて」

「気にすんな。何も無かったなら何よりだ」

「そうそう。心配して慌てる可愛いえーりんが見れただけで万々歳だぜっ」

「え、マジ? 俺も見たかったんだが」

「てめぇは心配された側だろうが羨ましい!」

「こんだけいちゃついてる癖にまだ求めやがんのか!」

「そりゃ可愛い女の子は目の保養になるんだもんよ。お前らただでさえむさいんだし」

「黙れ! てめぇだけ役得しやがって! えーりんと一緒の馬に乗ったり一緒にメシ食ったりもしてたくせにまだ言うか!」

「いいんだぜ? 殴って黙らせても」

「おっさんの拳はご褒美にならないんで止めてくれますかねぇ?」

「俺はまだ三十手前だクソ野郎! おっさんじゃねぇし!」

「俺もだ! おっさんがおっさんて言うな! てめぇだって街のガキ共におじちゃんって言われて落ち込んでただろうが!

 っておい……自分で言って自分で落ち込んでるんじゃねぇよ……」

「ああ、すまん。哀しくなるからやめよう」

「おう。俺らはまだ若いんだ。お兄さんなんだ」

「そうだな。嫁さんだってすぐ見つかる! 第三のバカみたいにな!」

「クク、お前はハゲてるから直ぐは無理じゃないか?」

「……やっぱてめぇ殺す」

「はははっ! 怒るなよ、余計にハゲるぞ?」

「ぐっ、おぉぉ……隊長、こいつ殺していいか!?」

「いいぞ、存分にやれ、ハゲ」

「てめぇもかぁ!」


 頭の痛くなる話題を繰り返す彼らはやはりバカ。秋斗も混じれば止まらない。

 周りの人々の視線から恥ずかしさも湧いて来て、若干だけ頬を赤らめた詠は怒鳴った。


「いい加減に黙りなさい! 此処はボク達の街じゃないんだから恥ずかしいじゃない!」


 怒気に静まり返る場。幾多もの視線が彼女に集まる。ハッと気づいた詠は顔を真っ赤にして俯いた。


「す、すまねぇ」

「申し訳ねぇ」

「クク、えーりんは可愛いなぁ。皆さんもそう思ったんじゃねぇですかい?」


 直ぐに謝った男達とは違い、彼だけは詠を茶化した。しかも、普段使わないおかしな言葉遣いで。

 何言ってやがるこいつ、という目で男達は彼を見やる。詠に至っては恥ずかしさが上乗せされて震えだした。

 うんうんと頷いて、秋斗は大仰な手振りで腕を巻き、民達をぐるりと見回す。


「喧嘩じゃねぇからご容赦を。俺らはこの街に来たばっかりでしてね。早々に警備隊に追い掛けられるのは御免なんでこの辺でこの場からお暇致しやす。

 大陸でも有数の名店、娘々の新設店がもうすぐ出来る。どうぞそちらをよろしくお願いしますぜ」


 にっこりと営業スマイルを浮かべて一礼を行った秋斗の所作は完全に不意を突いた。

 民の頭には店の名だけが刻まれる。良くも悪くも注目を集めた。思考誘導と誤魔化しは彼の十八番だ。


 自分達に注目していた民の間に投げ込んだ情報を聞いて……いや、彼が一瞬で行った心理操作に、詠は驚きを隠せない。

 グイと詠の手を引いた秋斗は、二人の男達を後ろに連れて歩き出す。もう此処には用は無い、と。

 しばしの沈黙。歩く速さはゆっくりと。詠に思考させる時間を与えるように。


「此処でも店長の店が繁盛するように……っても店長の店が繁盛しないわけないがな」

「……相変わらずね」

「ん? 何がだ?」


 ぽつりと呟いた詠に対して、秋斗は首を傾げた。


「……あんたがあんたらしくて安心したってこと」

「そうかい」


 深く聞こうにも語らない。詠は出しそうになった言葉を隠した。言わないなら聞かないのが秋斗という男で、それを知らぬ詠でも無い。


――心理操作と心理掌握。まるで昔のあんたみたいって思った。


 人心の操作が上手い男なのは知っていたが、それでも今回の即時対応力に違和感を覚えた。

 カマをかけて、相変わらず、と言っては見たが、間髪入れずに聞き返して来た彼はやはり記憶を失っているとしか思えず。

 昔の秋斗ならきっと、これくらい詠の方が上手く出来ると彼女に向けて言う。彼女が試したことを理解しながら。


――これがいい傾向なのか悪い傾向なのかは分からないけど、雛里と月に会ったらきっと答えも出るわよね。


 考えすぎても仕方ない。一人で悩み過ぎてもドツボにはまるだけ。自分は一人では無いのだと言い聞かせ、彼女は別の話をしようと思考を切り替えた。


「あんた何か予定ある? 当然ボク達は着いて行くけど」

「んー……あるっちゃあるけど……一回外に出ないとダメだな」

「なんで?」


 情報収集をする以上は外に出るのは下策だ。一度出て直ぐに戻って来ても怪しまれるだけである。意味するところが分からずに詠は問い返した。


「クク……まあ、別に“取って来なくてもいいか”、服は持ってきてるんだし」


 疑問の視線を受け止め、悪い顔で彼は笑った。

 兵士達はその顔に見覚えがあった。悪戯を企んでいる時はいつもこんな顔をしていたのだから。

 服は持ってきてる、そこまで聞いて詠が彼を睨みつけた。


「趙雲を誘って黒麒麟の真似してお酒を飲みに行く、とか言わないでしょうね。一対一は絶対に許可しないわよ」


 情報収集だとしても認められない。さすがに先程のことがあったからには看過出来るはずもない。

 咎めると、彼は首を振った。


「さすがにそれはしない。でも……近い、かな?」

「あんた……まさか……」


 もう読み取れた。この男が何を考えているのかを。そこまで言われれば詠にも分かる。

 服が必要なのは彼が黒麒麟を演じる為だ。“取って来なくてもいい”のは、ソレをこんな場所で使うつもりが無いからだ。

 出来ることは、彼がすることは自然と限られてくる。

 黒麒麟として何かをするのなら、自分達に与えられた仕事以外には……一つだけ。


「劉璋より先に、桃香に……会いに行くつもり……?」


 予測を語ると、彼は黙して詠をじっと見つめた。楽しそうに、嬉しそうに。

 呆れたようにため息を吐いてから、くつくつと喉を鳴らして苦笑した。


「会いに行くのは正解。でもそれだけじゃ面白くない」


 こういう時、彼の思考はいつでも読めない。あの官渡の時と同じく、何が……否、どれだけの影響を狙っているのか、詠には読めなかった。

 不敵な笑みがより深くなった。悪巧みをしている彼の雰囲気が、乱世を楽しんでいる華琳と重なった。


「イイコトをしよう。華琳の好きそうな楽しいことを。出来るかどうかはお前さんの……“荀攸”の知恵を貸してくれ」


 いつでも覇王と並ぼうと頭を悩ます彼にとって、機を見て敏なりなど当たり前。思い付いたのなら実行に移さずに居られない。

 幸いな事に軍師は居る。彼の思い付きの策を研鑽出来る頭脳明晰な曹操軍の軍師が。


 嗚呼、と二人の兵士は思う。

 久しぶりに見つけた戦前の彼の姿。不敵な笑みも、読めない策も、ほとんど“彼”と変わらない。秋斗の瞳の奥にナニカへの遣り切れなさを見つけて、昔の彼に似て来たとも感じた。

 自分達を鼓舞した覇王とよく似ていた。初めから曹操軍に来ていたら、きっとこんな彼が出来上がっていたのだろうと思い至る。


「隙を見せる方が悪いのさ。今は平穏な治世などではなく乱世……街がどれだけ平和に見えようと、人々がどれだけ安寧だと嘯こうと、たった一つの不可測で崩れ去る」


 勿体付ける彼。早く教えろという様に睨み付け、不機嫌を全面に押し出して、詠は唇を尖らせた。


「クク、俺達はただ、“劉備がしたいことの逆をすればいい”」


 片目を細めて詠を見つめた。これだけで分かると信頼して。

 ハッと息を呑んだ彼女の顔が青ざめて行く。目の前の男が、やはり異端だと再認識した為に。


「……沢山死ぬわよ」

「間違いない」

「……泣く人が増えるわ」

「当然だな」

「……罵られるのは確実でしょ」

「ごもっとも」

「……西涼に、間に合わないかもしれない」

「俺に任せたんだ、華琳だって是非も無しと呑み込むさ」


 一応カタチだけは止めてみた。カマかけも交えて聞いてみた。

 詠自身、彼が出した答えの有用性を瞬時に理解してしまったから、それ以上は止める気も無く。つつがなく返ってくる答えに、彼の策を確信する。


「じゃあ今から劉備に会うのって……」

「ああ、有体に言えば……」


 一呼吸の間を置いて、ゆっくりと吐き出される吐息。

 乱世を喰らう化け物の一人は、漸く作り上げられた平穏な大地を喰らおうと口を引き裂いた。


「宣戦布告ってやつだ。

 別に……此処で潰せるのなら叩き潰してしまっても構わんだろ?」









 †





 心地よい日光が差し込む昼下がり、そよそよと頬を撫でる風が窓から流れ込み、仕事の鬱屈とした空気を僅かに和らげてくれる。

 此処は劉璋が桃香に貸し与えた屋敷。城に住むのはさすがに許されないと部下達が反対した為、すこしばかり大きすぎる屋敷を貸したのだ。

 部屋の主である桃香は大きく伸びを一つ。今日も劉璋の部屋に半ば強引な押しかけを行った後で、通常業務の書類に目を通していた所である。

 義勇軍時代に比べれば随分、書類仕事も板についてきた。さらさらと筆で字を書き連ねる姿は、伸びた背筋からも分かる通りに経験という力を表している。


――初めは書類仕事から逃げたくて仕方なかったんだけどなぁ。


 ふと、桃香は考える。

 いつの間にやら書類相手の仕事を苦に感じなくなっている、と。

 頭を使って改善案を捻り出すよりも、街に出て実地調査等を行っている方が好き……今でもそれは変わらないが、机の前で居る時間も案外心地よく感じてもいる。


――いつからだろう……平原……ではまだ苦手だった。うん……白蓮ちゃんのことがあってから、かな。


 変わったと納得できるのは連合戦の後。それも白蓮が侵略を受けてからと桃香は考える。

 仕事だから、とやっていたのがそれまでの期間で、苦手とも思わず進んで取り組むようになったのはあの出来事があってからだ。


 過去を振り返れば思い出さずにはいられない出来事。自己の罪過をはっきりと自覚し、無力に打ちのめされた時期。

 困ったような、呆れたような苦い笑みを浮かべた彼女は小さな吐息を吐き出して宙を仰ぐ。


「あっと言う間だったなぁ……」


 独り言が止まらない。自分でも寂寞に浸っているなと自覚しながらも物思いに耽る。


――初めは愛紗ちゃんと鈴々ちゃん。


 思えば長いようで短い時間だった。

 始まりは三人。

 人を助けながら旅をしていた愛紗と鈴々に出会い、三人で村々を回り人助けをするようになった。

 彼女らの武力のおかげで義勇軍が立ち上がり、主と呼ばれるようになってからは人を率いて戦うようになった。


 初めの頃を思い出すと桃香の表情に悲哀が浮かぶ。割り切り始めたとは言っても、やはり最初の頃の戦いは忘れられないらしく。

 己の命令で死に行く人々。

 生きたいと望んでいたはずなのに死んでいく男達。

 何度も泣き、何度も悔いた。

 ただ命ずるしか出来ない己の無力。慕ってついて来てくれるのに自分では救えないその無力を。


 深手を負った兵士の死に際で、止めようとしても流れ続ける命の源、励ましても慰めても笑顔を見せても救われることの無い命。

 そういった時、男達はいつも最後の最後で笑う。自分が看取る時はいつでも笑顔で去って行く。

 苦しいはずなのに、痛いはずなのに笑顔を見せる男達の想いを、桃香も始めは分からなかった。


 悲壮に沈んでいた時、愛紗が伝えた言葉は忘れない。


 彼らは夢を見た。

 彼らは夢を追い掛けた。

 彼らは夢を信じた。

 だから笑顔で最期を迎え、悔いを見せずに旅立てる。

 彼らの、義勇軍の皆の夢は……あなただ、と。


 ただ目の前の人を救えるだけでいい、と義勇軍を率いながら考えていた桃香は、その言葉を聞いた時に変わった。

 それではダメなのだ。目の前すら救えない自分ではダメだ。何か自分にも出来ることはないか、何か自分にも返せるモノは無いか。

 そうして辿り着いたのが……あの大地。


――次は白蓮ちゃんと再会して、星さんに出会った。


 旧知の友が治める優しい土地。

 仲が良かったことも相まって、そして幽州の戦力を白蓮が欲しがっていたことも相まって、とんとん拍子に食客となれた。


 街を治め、太守としても経験した今なら桃香は分かる。

 白蓮がどれほどの無茶を推して義勇軍を抱えたのか。どれだけの苦労を背中に背負ったのか……なのに、好きにしていい、と言った彼女には頭が上がらない。


 また桃香は吐息を小さく漏らす。

 気付かなかった未熟な自身への自嘲の笑みであり、白蓮に対する感謝の笑み。


――同じ食客として働いてた星さんはそのことに気付いてたんだろうな。


 知られていないことではあるが、一度だけ誘ってみたのだ。

 幽州がこれだけ安寧に包まれているのなら一緒に大陸を救わないか、と。

 白蓮自身、星を桃香に着いて行かせようと同じ仕事を与えたりもしていた。


 が、結果は現状である。

 桃香は不思議と、どちらにしろ星は付いて来なかったのだろうと納得していた。

 飄々としていながらも義理と人情を重んずる星のこと、抜けるとしても黄巾の間は絶対に抜けなかったと予測している。

 ただし、いつかは仲間になってくれるだろうという、漠然とした勘のようなモノは持っていた。星が期待と興味を隠しても居なかったからかもしれない。

 そんな予測と勘に反して、彼女は白蓮に仕えた。

 そのまま仕えたのは……間違いなくとある人物の影響だと確信している。


――次に出会ったのが朱里ちゃんと雛里ちゃん……そして……秋斗さん。


 思い出して、彼女の表情が悲痛に沈む。

 あんなに仲が良かった二人の少女が、今は争い合う仲になってしまった。

 そして彼は……


 首を振る。大きなため息と共に後悔が吐き出される。


 あの時の目を桃香は忘れない。あの時の……交渉で見つめた絶望の目を。

 昏い暗い、何も希望を映さない瞳。信頼の中に狂気を孕んだ闇色。壊れる寸前の人間の眼。


 はらり、と零れた泪。

 震える吐息を吐き出した唇。

 泣いているのに、自嘲するように歪んで行く口元。


――あの人が、来るんだよね。


 思い出に浸ることはもう出来なくなった。幾日前に劉璋から聞いた事案によって。

 自分が絶望に堕とした人物が此処に来る。

 嘗ての仲間が敵として此処にやって来る。


――私じゃなくて、曹操さんと一緒に戦うって決めたあの人が……。


 近くで見てきたからこそ、共に戦ってきたからこそ分かる恐ろしさ。否、語弊がある。

 桃香にとって秋斗は……“理解出来ないから”こそ恐ろしい。

 敵同士で殺し合いをさせ、効果があるとなれば迷わず特攻させ、誰かに止められても自分の身を顧みずに死地へ赴く。

 命というのはもっと、もっと大切なモノで、そんな簡単に扱っていいモノでは無いだろうに……そう桃香は思う。


 ただ、意図してそう思わされていることを彼女は知らない。

 桃香は秋斗の影の努力を知らず、徐晃隊の想いは秋斗への忠義より桃香に伝えずと彼ら自身が口を封じており、彼に至っては劉備という大徳はそうあれかしと望んで介入を避けていた。


 始まりが違うから彼女は秋斗のようにはなれないし、ならない。


 非力だからこそ命の尊さを知り、大切に扱うことで人を惹きつけてきた彼女と、

 力を得たからこそ命の尊さを知り、散る華を咲かせと命じ続けて想いを引き連れて来た彼。


 相似でありながら逆接のような二人の違い。決定的な違いがあったから秋斗と桃香は相容れない。


 桃香だけは彼の想いを理解出来ない。

 今にどんな想いがあろうとも、誰であれ生きる歓びを与えたいから。


 秋斗は彼女の想いを理解出来ても認めることは決してない。

 生きる歓びがどれだけ素晴らしかろうと、死する者の想いを掬わずに居られないから。


 誰も知らないことで、誰も気付かない違い。

 当然、今の桃香であれども気付くことは無く……例え徐晃隊に対してであろうと、彼女の望みを語るだろう。


 閑話休題……あだしごとはさておいて、彼女はやはり彼が怖ろしい。

 敵として戦うことに悲哀はあるが、恐怖も同じほどある。


――どうして私は……あの交渉の時からずっと、あの人と戦うしかないって思うんだろう。


 恐ろしいなら戦わなければいいのに、通常の人間ならばそう考える。

 どれだけの人間が死ぬか分からない。友達同士を争わせることにも忌避がある。

 同じ夢を見れる男だと知っているから、桃香自身が描く未来を肯定していた男だったから、本来なら戦わなくてもよいはずだ。


 唸っても悩んでもいつも答えは出ずに、“戦わなければならない”とだけ思う。


 しばし考え込んでいた桃香であったが、不意に扉が“のっく”されて意識がそちらに傾いた。


「はーい」

「失礼します、桃香様」

「お疲れさまー、愛紗ちゃん♪」

「ええ、桃香様も」

「んー、私はあんまり疲れてないよ?」


 のんびりと言うと愛紗が沈黙で返した。悩ましげに眉を顰めて、漸く出した声はため息と共に。


「……その机の上に置かれている承認済みの書簡の山を見ては信じられませんが」

「あ、あはは。昨日終わらせた分だよ。朝から劉璋さんのとこ行ってたし」

「また夜更かしをしたのではないでしょうね?」

「最近はちゃんと寝てるもん。えっと、夜半過ぎには」

「ではもっと遅くまで起きているのですね」

「う……あー、愛紗ちゃんには嘘つけないなぁ」

「バレバレですよ。まったく……私や星に投げてもいいでしょうに。部下は使ってこそなのですから。白蓮殿からも教えられたでしょう? 白蓮殿や朱里が居ないからといって自分だけですることはありません。文官達に割り振り、少しくらい“残業”させたって――――」


 こんこんと語り始めた愛紗に対して、桃香はうへぇと抜けた声を零した。

 こうなると長いことは昔から知っている。まあいいかと切り替えて聞いている振りをしながら書簡を確認しようとして……疑問が浮かぶ。


「――――ですからあの白蓮殿だって無理ばかりして精神を病んだりしたことがあったのですからあなただって……」

「そういえば愛紗ちゃんはどうして執務室に来たの?」


 説教じみてきた彼女の話の途中、なんのことやあらんと桃香が挟み込む。

 ピタリと口を閉じた愛紗の眉が怒りを僅かに伝えていた。


「……私の話を聞いてませんでしたね?」

「えへへ」

「あなたという人は……はぁ……」


 大きなため息。確かに此処で長々と話すのもよろしくない。今回の優先順位はそれでは無い、と。


「昨日、星が不思議なことを言っていたので少々お尋ねに参った次第です」

「不思議なこと? 私に関係してるの?」

「ええ、桃香様に聞け、と言っていたので」


 何かあったっけー、と首を捻った桃香は顎に指を当て、愛紗は難しい顔のままで続きを綴った。


「……“私達劉備軍に大変なことが起きる”、星はそう言っていましたが心当たりはありますか? 私に覚悟しておけ、気をしっかりと持たなければ喰われるとも言ってました」


 大変なこと、と反芻した桃香は続きを聞いて一寸の内に固まった。

 星が愛紗に言ったというのが問題であり、その忠告を行ったという事は既に……


――星さんにもまだ伝えてないはずなのに……じゃあ、もう会ったってこと?


 偶然か、はたまた必然か。

 一番仲のいい者と出会ってしまう当たり何かの計らいを勘ぐらずには居られない。

 そういえば、と思い出した桃香は先ほどまで確かめていた報告書をバサバサとめくり上げて行った。


「と、桃香様? 何をしているので――」

「ちょっと待ってて」


 表情が真剣そのもので、さすがの愛紗とて彼女を乱すわけには行かず押し黙った。

 幾枚めくった辺りに、桃香の目が見開かれる。


「こ……これだ」


 街であった事案に対する警備隊からの報告書。警備隊の管理は愛紗達のような将に委任されているので普通は桃香の所まで回ってくることはない。未然に防げたという点でも優先度が低いはず。

 しかしながら書いてあった報告は間違いなく桃香まで回すべきモノであった。

 横から覗いた愛紗は感嘆の吐息を漏らす。

 警備の兵が称賛を以って報告を上げる程のその内容は……


「人質を取った暴漢に対して殺すことなく人質を救出。しかも男とは……私の所の部隊長でも難しいでしょうね。やはり世界は広いということでしょうか。ぜひ我らの軍に来て欲しいモノです」


 武力の高い男の前例を知っているから、愛紗は素直に称賛を口に出す。

 桃香も同じく、人材の確保の為に捜索の願いを出して監査済みの判を押した。


 震える唇と掌。じわりと噴き出す汗が止まらない。

 点と点が繋がる。星からの忠告と、劉璋からの情報があってこそ、この細かい報告書が事実を伝える。


「あ、愛紗ちゃん……直ぐに、準備しよう」


 声が震えていた。脚も震えていた。立っているのに倒れてしまいそうな程、胸から不安が溢れて脳髄を侵食していく。

 沸き立つのは恐怖。僅かな勇気を振り絞って自身の罪に立ち向かうしかない。


――お城? 違う。私達を敵として見てるなら、あの人はそんなまどろっこしい事をしない。

 ……昨日星さんが言ってたなら、自身での行動を主にするあの人は……


 桃香は星の言葉を間違わない。そして……彼が何をするかも、恐ろしいから間違わない。軍師よりも将よりも先に、桃香はその男の行動をおぼろげに読み切っていた。

 何かを行う時……桃香は自分で動きたいと望んでも動けない。彼は……動きたいと思うと好き勝手に動くのが常。

 そんな彼を羨ましく思っていたから、桃香は彼が行う不可測の道筋を読めた。


「だ、大丈夫ですか? 何を準備すると……」

「お茶とお菓子。それと藍々ちゃんをお城から呼び戻して、焔耶ちゃんをお城に帰して」

「何を……」

「星さんも呼んで。鈴々ちゃんも呼んで。出来れば紫苑さんと厳顔さんも呼んでほしい」

「何故――」

「はやくっ」


 必死な声を出し、愛紗の驚いた表情を見て直ぐバツが悪そうに俯いた。

 桃香の焦る姿に動揺を隠せない愛紗は、まだ彼女の不安の理由を把握できていなかった。


「ご、ごめん……」

「いえ……」


 沈黙。

 居辛い空気にどうしようもなく、気を引き締めた愛紗は優しい声で尋ねかけた。


「桃香様、何があるのですか? いえ、何を不安に思っているのです?」

「……るの」

「え……?」


 小さな、小さな声。聞き取れずに聞き返す。

 顔を上げた桃香の目には……悲哀と悔恨の色が浮かんでいた。


「来るの……曹操軍の使者として、秋斗さんが……ううん……“黒麒麟徐公明”がこの屋敷に……来る、と思う」


 そよそよと優しい風が窓から吹き込む。

 茫然と立ち尽くした愛紗はしばらくそのまま動くことが出来なかった。

 大変なことが起こる……星の言葉が頭に響く。


 嗚呼、確かに大変なことだ。未だ心にしこりを残している彼女達にとって、過去からの弾劾は首元にそのまま届く刃となる。

 戦場には用いられない、心を切り裂く言の葉の剣は黒き大徳がいつも使う武器。矛盾を突き刺す理の槍は黒き大徳が振るっていた諸刃の凶器。

 どちらもが遂に、彼女らに向けられるのだ。

 向けまい、向けまいと彼自身が抑えていた刃が。


 丁度良すぎる時機を以って、彼女達の部屋に客人の来訪を知らせる兵士が駆けてきた。

 慌てた様子で為された報告はよろしくないモノでしかなく、桃香はがっくりと項垂れた。


 報告の内容は、たった一つ。


「た、大変です! 劉備様と旧知だとおっしゃられる客人が訪れまして……現在、玄関で魏延様と揉めておられます!」


 応接広間に通して、と兵士に伝え、


「皆を呼んできて愛紗ちゃん。あの人と話すのは……私だけじゃ無理、だから」


 お願い……一つ零し、桃香は椅子に力無く座るしかなかった。一呼吸、二呼吸で胸の内から力を入れ直す。

 そうして顔を上げた先……瞳に燃える輝きだけは、強く、強く輝いていた。




読んで頂きありがとうございます。


黒の暗躍と桃香さんのお話。

桃香さんの感じを掴んで頂けたら幸い。

彼は言動でフラグを建ててしまった感が。


次は邂逅。益州の問題児とも一悶着あるようです。



ではまた

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