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飛龍舞う空に恋の音

 ある村で黒煙がもうもうと立ち込めていた。

 悲鳴が聞こえる。断末魔の叫び声が聞こえる。下卑た笑い声と愉悦に浸った声が聴こえる。

 若い女、まだ年端ものまでもが延々と慰めものにされていた。数だけで百は居る男の兵士達が群がって、何人も何人も順繰りにまわして、精神が壊れるまで弄び続けていた。

 子供達が磔にされていた。親の目の前で八つ裂きにされ、願う声など一滴も届くことは無く、血と臓物を吐き出した肉袋にされていった。


 兵士達はその狂乱の宴に心身を委ね、人では無いケダモノへと堕ちてしまっていた。

 否、兵士……そう呼ぶのも憚られる。もはやそれは兵とは言えない。ただの賊徒と変わらない。賊徒よりもっと酷いかもしれない。


 遠く外れた場所で、比較的まともな精神の兵士達を纏めながら、心底うんざりだというように一人の少女は空を見上げていた。


「……くだらないのです」


 悪龍の背に乗り、軍師として一段階上の高みへと一人昇りつつあるその少女――ねねが吐き捨てる。

 人の悪感情を利用して暴走させ、孫呉という昔からの敵対勢力への当て馬と為す。確かにその策は成功したと言える。

 主である孫策、統括頭脳である周瑜を洛陽に縛り付けたのは、今は亡き悪龍の命を使った策。彼女の誇り高さも気高さも、ねねの心の内にしっかりと残っている。

 欲望に支配されて果実に群がる下卑た男達とは全くの別。劉表のように己が生命すら策と為すことが出来るのは……それはなんと、なんと美しきこと。ねねはそう思う。


――ねねに未来を託してくれた龍飛の想い、こんなところで潰えさせるわけにはいかないのですよ。


 連合で散った友は、夜天の王の誇りを守る為に命を賭けた。

 仮初めの主は、乱世を喰らいきる為に命を賭けた。

 あの優しい夜天の王であれば……きっと命を賭けたのではないかとさえ思えた。


 それが出来ぬモノに此処に立つ資格など無い。幼いねねでさえ、命を賭して戦っているから……彼女の周りに侍る兵士達はついて来る。

 練度は平均的であろうとも、頭が付くだけでがらりと変わる。それでいて彼女の戦術的視点と爆発力は並み居る軍師の中でも群を抜いている。あの詠でさえ、彼女の爆発力を恐ろしいと評価していたのだから。

 ここ数か月の間に繰り広げた戦闘は十を超える。彼女はその度に兵士達に死線を潜らせて叩き上げして、実力的には劣ろうとも“呂布隊とほぼ変わらぬモノ”を創り上げた。

 信頼は並では無い。ケダモノに堕ちた同僚たちを哀れとさえ感じてしまう程に心を高めさせたのは……龍の想いを継ぐモノとして常に先頭で戦場を見抜いて来た彼女あってこそ。


「甘い……甘過ぎるのです孫呉……」


 舌打ちを一つ。

 美周嬢と小覇王が居なければこんなモノなのか、と落胆さえ隠せない感情の渦。

 策を進める度に彼女の苛立ちは増していた。


 この戦いはきっと、彼女の主が知れば悲しむであろう戦。

 人の命を数と駒として、村と街を落とすべきただの拠点と見て、孫呉の命を取りに行った。

 それでいて、ねね達劉表軍の本当の策は勝つ事ではないのだから厭らしい。


「陳宮様……孫家の軍とほんの数日前にぶつかった所でしょう? 少しお休みになられた方が……」

「……気遣いはありがたく受け取りますぞ。ですが、ねねはまだまだ行けるのです。たかだか数日前の戦闘の後で、民が暮らすだけの村を壊したくらいで疲れる程、ねねの身体も心も柔じゃないのです」


 心配して声を掛けた千人長に目礼を一つして、それでも彼女は休むことをしない。

 走り続けないとダメなのだ。気持ちが途切れたらダメなのだ。狂気を途絶えさせてはダメなのだ。彼女はそれをよく分かっていた。

 今回彼女が用いている策略は、乱世を治める王が使う事の出来ない最悪の下策であるが故に。


「しかし……周辺の村を焼き尽くすことを一つ遅らせるだけで――――」

「甘いのですよ。孫呉は土地に絆を求めて治めてきた家柄。此処で手を緩めることは下の下。

 襲われた村は救いを求め、燃やされた街は復興の為の力を求める。お優しい偽善者達は民の声に応えるしかなく、他の奴等への対応さえ送らせていくのです。だから燃やすのです。だから殺すのです。だから……全ての村と街を燃やして、尚且つ絶望した人間をそこそこだけ生かしてやるのです。

 人々の希望は鎖となり為政者を縛り上げる。孫呉は襲撃された村や街を救わずに居られない。軍としてカタチを為している以上、揚州の全てに広く分散された百人単位の“ケダモノの集まり”数十には対応しきれない。そして千人単位の本物の軍数個の対応に時間を掛けさせ、大陸で最強の飛将軍と……ねね達の“飛龍隊”が神出鬼没の動きで以って確固撃破……その為には、一つの村さえ残してはならないのですぞ」


 その策の全容を始めて知らされた千人長は生唾を呑み込む。

 ただ行く先々、目の前で繰り広げられているだけだと思っていた。そういえばやけに敵の増援が少ないと訝しんでも居た。まさか……黄巾の乱よりも計画的な賊徒の襲撃策などという、そんな人の道を外れた戦いをしているとは露とも思わなかった。

 百人単位で村を襲撃しているモノ達と、千人単位で街を燃やしに向かっているモノ達は……いわば生贄であり、餌。

 敵を釣る為の集団のどれが死んでも別に構わないという、軍師ならば普段出し得ない策であった。


 いくら孫呉の情報網と言えど、揚州の全ての村や街への襲撃に対応できるほど手広くは配置出来ない。

 大軍となって押し寄せられるよりも、治める地に住まう民を、それも広大な範囲で傷つけられることの方が為政者としては痛いのだ。


「今の孫呉は甘い。これに美周嬢が対応していたなら……“民をある程度の期間見捨ててでも、ねねと飛将軍の二人の居場所を特定することに時間と人員を割いたはず”なのです。

 一番最初の出鼻を挫かれたとしても直ぐに対応出来たはずなのです。なのに敵は……孫策と周瑜が居ないことで目の前にある命を見捨てることなど出来なかった。故にねね達はこれだけ上手くことを運べているのです」


 だから、ねねは呆れていた。

 優しいのはいいことだ。民を救うのは確かにいいことだ。それは為政者として当然であろう。

 しかし……綺麗な戦の在り方を台無しにされてしまえばこの通り。大徳として民を救うことをある意味で義務付けられている孫呉のモノ達は、姉の不在に姉の名を貶める行為は出来ない。

 せっかく取り戻せた自分達の土地を傷つけられることを看過出来ない、見過ごせない。


 さらにねねは、孫呉の血への期待を引き下げる効果も狙っているのだ。


『やはり小覇王が居なければ救われない』

『やはり美周嬢が居なければ誰にも勝てない』


 民にそう思わせたら勝ち。

 次世代の王や軍師に期待を持てなければ、長きに渡る安寧など永遠に来ない。躍起になって姉を追い抜こうとすれば綻びが出て、多くの隙を作ることが出来る。

 

 遠い視点を以って打ち放たれたこの不可測は、孫策が死ぬことでやっと機能する甘い毒。

 孫呉の天下統一など絶対に描かせず、孫呉を大陸でも下の位置付けに縛り付ける為の、復興されるであろう漢を見ての策なのだ。


 それでも、全ての時機が噛み合い、劉表という賢き悪龍が、孫策と周瑜二人の英雄を縛り付けたからこそ行えた……と、ねねは思う。

 自惚れは無く、慢心も無い。掻き乱すことを目的としている彼女は、優位にことを進めているからと余裕を持つことも絶対にしない。

 自分の能力がまだ足りていないことも彼女は把握していて、誰よりも勝っているなど思うはずも無い。


 何故なら、彼女の隣には……本当の意味で頂点に立つ存在が居るのだから。


「飛将軍と飛龍隊による遊撃だけがこの作戦での矛なのです。ねね達が動くから奴等はのこのこと釣られて出てきて、ゴミクズ共が気兼ねなく暴れられるのです。ねね達が休んでしまっては、全てを台無しにしてしまうのですよ」

「……呂布様は……大丈夫なのですか?」


 ふとした問いかけに、ねねの表情が悲壮に歪む。

 どれだけ彼女が恋のことを想っているか、知らぬ兵士達では無い。

 戦いに赴くだけの暴力、人形のように人を殺め続ける暴風、ソレを笑顔で見送った後に……必ず彼女は泣きそうになりながらその背を見つめているのだから。


「……正直に話してあげましょうぞ」


 ぽつりと、寂しげな声が漏れた。何を、と思う前にねねの口から言葉が流れる。


「今の恋殿に疲れなど無いのです。赤兎馬に跨り、単騎で万の兵士すら相手に出来るあの方はたった一人で戦況を変えられる。孫呉の将程度が寄り集まっても同じ事。黄蓋や甘寧、周泰、呂蒙、此処に孫策が加わってもあの方なら戦えるのです……」


 兵士達は改めて語られるとそのでたらめさに恐怖が滲む。万を超える兵士が集まっても勝てない個人など、間違いなく化け物でしかないのだから。自分達では歯が立たない武将が寄り集まっても勝てないのなら、どうやってそのモノを倒すことが出来ようか。


「……しかし、今の恋殿は心を閉ざしてしまった。今の彼女は剣そのモノ。扱い手を失ってしまえば、ある一定以上の相手が現れると計略に落ちてしまうのです。兵士と合わせることもできず、共に肩を並べて戦える将も居らず、たった一人で戦場を駆けるしかない彼女は……余りに脆い」


 矛盾した事柄ではあるが、ねねの言葉には確信があった。

 命令を聞くだけの人形になってしまった彼女の命は、ねねが少し間違えるだけでするりと零れてしまう。どれだけ強くとも、罠に掛かれば死ぬ。

 まだいい。まだ大丈夫。陸遜や呂蒙ならまだ戦える。黄蓋が老獪な手段を講じようと、隠密に長けた甘寧と周泰が気配を隠そうと、まだまだ戦える。二人の軍師が相手でも掻き乱した内部の状態によって相手の思考時間を奪い、有能な将でも飛び抜けた飛将軍の武によって容易に抑えられる。


――でも周瑜だけは……ダメなのです。アレは孫呉の中でも特に別種。今のねね達の弱点を容易く見抜き、其処に一点集中して終わらせに来る。陸遜と呂蒙には出来ない策を採用し、実行に移すだけの力と剣を持っている。飛将軍の弱点は……


 出来る限り長く引き摺らせたい戦。それでも、終わりは既に見えていた。

 軽くではあっても外部の情報は集めている。一つの大きな情報が入れば、この戦は終わらせるつもりであった。


 恋とねねが二人で生き残れば彼女の中では勝ち。今は亡き悪龍の策にはその“勝利”が絶対条件。

 目の前の兵士には教えなくていい。どれだけ慕ってくれようと、彼らは駒でしかないのだから。


「飛将軍は大丈夫、ねねも大丈夫、お前達も大丈夫……“孫呉が賊徒に堕ちたゴミ兵士達に手間を割かれている今はまだ”。

 しかし河北の動乱が全て終わった時に、孫策と周瑜の二人が帰還した時の戦闘でこの作戦には限界が来るのですよ。恋殿にも、ねねにも、お前達にも……待っているのは絶対的な死のみ、なのです」


 だが哀しい事に、ねねは信頼を向けてくれる兵士を裏切ることなど出来なかった。

 憎しみに燃える心に支配されていようと、彼女は人。頭が良すぎて、そして優しすぎて、獣にはまだ堕ちきれなかった。


――本来の策であれば、孫呉への最後の大打撃として本城を十面によって強襲、後に“恋殿とねねだけ”で離脱する手はず……その方が孫呉の内部をかき乱せた。でも、こいつらくらいは……救ってもよいですか、龍飛。


 共に戦ってきた兵士達。今は分かれてしまっている呂布隊達を思い出して、ねねの心がズキリと痛む。

 小さな命だ。飛将軍が刃を振るえば紙クズのように散らされる小さな儚い命達。

 それでも、彼女と共にこの戦を生き抜いた男達で、守ってくれた英雄達。


 なんのことはない、とねねは思う。

 自分もまだ少し甘いらしい。どちらが優先かは見るまでも無い。この飛龍隊を切り捨ててしまったら、きっと呂布隊は戻ってこない。彼らと同じモノを切り捨ててしまえばもう、自分は“飛将軍の軍師”ですら無くなってしまう……そう思ったから。


 驚愕に唖然としていた男に鋭い目を向ける。

 小さな身体には似つかわしくないその鋭さに、男は少し圧された。


「此処を死地として孫呉の肉片を食いちぎるか、それとも後々に孫呉の心臓を抉り取るか……お前達はそういう選択をしなければならないのです。飛龍の鉤爪はどちらになりたいのですか?

 ねねは所詮、飛将軍の軍師なのですぞ。恋殿とねねは反逆者を殺し切るまで死ぬわけには行かないのです。お前達が選んで決めてくだされ」


 問いかけは一つ。命令では無く、判断を彼らに委ねた。


「あなた方は……最後まで戦わない、ということでしょうか?」

「なのです」

「俺達や共に戦っている奴等を置き去りにして?」

「なのです」

「っ……なんて…………人だよ……」


 苦悶の表情だった。

 こんなに有利に進めているのに、ねねからの言葉はこの戦で勝てないと言っているに等しい。それでは、この戦は無駄ではないかと考えてしまうのも詮無きこと。

 彼女の能力に信頼を置いているからその未来は信じられる。遊びでそんなことを言うねねでも無い。


 長い時間待った。

 一番信頼しているこの千人長になら怒りで切り殺されても構わないとさえ思っていた。

 人を憎むのなら、憎まれてしかるべき。矛盾を背負うというのなら、殺される覚悟も持たずしては人は付いてなど来ない。


 千人長は、長い時間の後に笑った。


「いや……いいんでさ。そんな事を正直に話してくれる軍師なんて今までいやせんでしたからちょっと迷っちまって……。

 そりゃ……俺らだってあいつらに一泡吹かせたい。劉表様んとこで平穏に暮らしてたのに、あいつらは何回も攻めてきやがったんだ。孫家の人間なんて信じられねぇし、そいつらの為に働くなんてまっぴらでさぁ」


 一度目は乱世の前に、二度目は連合の後に……二回も攻められた。そんな奴等がこちらに攻め入って来ないはずがなかろう。しかも、主が居なくなってしまったこの大地に。

 連合にも参加せずに自身の土地だけを守っていた劉表の元で平穏に暮らしていた彼らからすれば、野心を以って袁家からこの大地を奪い取った孫呉は盗人と変わらない。

 特に揚州と荊州は、七乃と劉表の思惑によって別段敵対関係に居たわけでは無いのだ。それがどうだ。孫呉が関わると必ず荊州が荒れ果てる……兵士はもう、いや、民ですらもう、孫呉のことを信頼など出来ない。


――龍飛は……其処まで、考えていたのですか……。


 こんな所にも広がっている甘い毒を見つけて、ねねは内心、劉表の手腕に畏怖を覚える。


「陳宮様は、孫呉をどうするおつもりなのですか?」


 答えはまだ言わず、帰ってきたのは問いかけ。

 逃げた後のこと。自分達がどうするにしろ、ねねが見ている先を男は聞いてみたかった。


「……どんな手段を使おうとも勝ち抜き、ねねと恋殿の……否、今は亡きねねの本当の主と賢龍の下に置くのです。殺せばお前らと同じモノを創り上げてしまうので皆殺しにはしかねる。だから反発など出来ない程に殴って、殴って……殴って殴って殴って殴って殴り抜いて……絶対の服従を。

 龍飛の墓の前で土下座させ、自身の欲の為に引き摺り下ろした英雄に泣いて詫びさせ、荊州全ての人々に対しても、一族全ての未来を用いて償わせてやるのです」


 昏い瞳に怨嗟を写し、ねねは感情の挟まない声で綴った。孫呉を荊州の民に隷属させると、彼女は言っているに等しい。

 そしてねねの本当の主とは誰か、兵士達は知っている。

 深く繋がる為に秘密を少し明かしていた。悪逆の佞臣董卓と噂されているが、黄巾の時は確かに英雄であったのだ。劉表が連合に参加しなかった事も相まって、荊州に済むモノ達にとってその辺りの悪印象は薄い。故に、ねねから聞いた話はある程度呑み込めた。

 彼の連合は帝の為に戦った英雄を引き摺り下ろす為の戦であり、本当の忠義を持っていたのは董卓である、と。

 共に戦って、共に時間を過ごして来たから、彼らはねねの言葉を信じた。


 だからだろう。

 今の彼女の言葉に乗った想いの強さが、兵士の心を動かした。

 あくまで帝の為に戦っていた劉表と同じく、董卓に臣を貫いている彼女の言葉ならば信じても良かった。


「……たった二人では寂しいでしょうに。幾ら天下無双の飛将軍とてその手は二つしかありませぬ。我ら飛龍隊は……劉表様の後継者にして形見であるあなた様に従います。

 しかし、申し訳なくも願いを一つ託させて頂きたい。必ずや孫呉に報いを。我らが主の平穏を脅かした報いを」


 呪いの如き声には、優しさが乗っていた。

 幼い彼女がこれだけ大きな覚悟を以って挑んでいるのだ。大人の男が同等以上の覚悟を持たずしてなんとする。

 交わす視線は昏くとも強い光を宿し、互いの想いを受け取り合う。


 信頼の絆は、此処に確かに結ばれた。


「……ありがと、なのですよ」

「なんのことがありましょう? 天下無双と、天下無双の軍師に仕える事が出来るなら、我らにとってこれほど誇らしいことは無い。嘗ての部隊にはまだ届かないかもしれやせんが……必ずや追い付いてみせます。

 命じてくださいや。我らに死ねと。あなたがそう命じるのなら、俺達はその命令を越えて生き残ってみせますぜ」


 気にするな。そう不敵な笑みに乗せて。

 ああ、なんといいモノか……ねねは思う。

 昔から、恋を守り、恋と共に戦える部隊を創り上げる為にと、誰よりも兵士達と接してきたねねは、この兵士の在り方に嬉しさを覚える。

 此れなら嘗ての部隊と同じモノを作れる。あの時大陸で最強を誇っていた……天下無双の呂布隊に。


「ふ……ふふ……呂布隊のバカ共にもその内会わせてあげるのです。お前らも仲良くなれるに決まっておりますからな」

「そりゃいい。俺らも最強になりてぇんで――」


 不意に、その場の空気が変わる。

 話途中でガラリと変わったその空気に、ねねと千人長は一所を見つめた。


 ゆっくり、ゆっくりと歩いてくる人影があった。

 血を拭う事もせず、赤い髪をさらに紅く染めて……自分の傷は一つも見当たらない人が居た。

 幽鬼のように歩くその姿に、ねねの眉根がこれでもかと寄る。未だにその姿を見る度に、彼女の胸は悲鳴を上げる。

 近づいてくるからと、彼女は無理やり笑顔を作った。心の底から笑えているわけも無い、親に置き去りにされた子供が見せるような表情。

 その様が余りに悲痛過ぎて、千人長の瞳に涙がにじむ。

 ピタリと目の前で立ち止まった紅き飛将軍は、虚無の眼差しをねねに向けていた。


「……終わった」

「お疲れ様なのですよ恋殿! いやはや、こんな速くに終わるとはさすがは我らが飛将軍なのです! 千人長も感無量のようで言葉すら出ないようですぞ!」


 空元気な声が余計に哀しい。

 心の内を知っているから、千人長は涙を堪えるしかなかった。

 恋からの返答は無かった。じっと見つめるだけの、次の命令は何かと待つ人形でしかなかった。


「……次」

「で、では……ぅ……ぁ……」


 冷たい声、冷たい眼差し、冷たい心。

 飛将軍は何も温もりを与えてくれない。ヒトゴロシをしたいわけでもなかった。ゴミクズを散らすように、彼女は誰の想いも繋がない。それは近くに居る、狂いそうになるくらい恋を想っているねねさえも。

 続きの言葉が出なかった。

 さっき兵士の優しさに触れてしまったから、ねねの心は弱さを漏らしてしまった。

 涙を堪えて堪えて。だから言葉を零せない。枯れる事の無い涙が、彼女の喉から言葉を奪った。


「つ……つぎ……は……ぅぁ……ぅ……ぁぅ……」



 ねねがそれだけ苦しんでいても、心を閉ざした恋は反応を示さなかった。

 ずっとずっと傍に居た友達が悲壮に飲み込まれていても、彼女の心は戻らなかった。


 しばらく、ずっと……ねねは声を押し殺して俯いていた。

 小さな身体の下の大地が、幾多の水滴を吸い込んでいった。







 †






 文官武官に関わらず、建業の城内には人の気配が余りにも少ない。

 それもそのはず、陳宮が用いてきた策は孫呉のモノ達にとって余りに残酷で残虐過ぎた。

 村の一つが燃やされれば地方の領主くらいが赴く。領主たちに個別で軍を動かさせてはいるも、その数が余りにも多すぎて対応しきれていない状況。


 黄巾の乱以前でも領主が村の護衛を怠ったと苦情が相次いでいたくらいだ。袁家から孫家に従う側が以降した現在、腹の探り合いのような関係を維持している豪族達は、われ先に手柄を立てようと襲われた村の救援等に向かう。

 たかが百人程度どうとでもなる……そう高を括った所に手痛い攻撃を喰らうとも知らずに。


 陳宮が突いたのはその一点。手柄を求める人間たちの欲望。

 内部状況が安定しておらず、新しい主に忠を示そうと躍起になる豪族や領主の街を……軍として纏まりを持った部隊に襲撃させた。


 初めに村を襲うというのが厭らしい。大徳の風評が行き渡っている孫呉の大地は、どの村であれ孫家に希望を持って従っていることになる。

 それがどうだ。どの村でも守られることは無く、孫家に忠を誓った者達も助けてはくれず、街襲撃の報告があれば村の目の前で引き返していくモノが圧倒的多数。


 犯され、嬲られ、殺され、凌辱される自分達の村を救いに来てくれたはずの軍が、土煙を上げて引き返していく……そんな光景を見せられて、絶望しない人間がいようか。

 諦観と絶望に支配された人々はもう、その地の領主を信じられない。

 襲ってきた者達は憎い……だが、助けてくれなかったモノも憎くて仕方ない。そんな想いに支配される。


 遅れて救いに来たとしても……もう、遅いのだ。

 人々の心には絶望の種が植え付けられている。不振の芽が芽生えてしまった。そして大徳の風評にしか縋れなくなる。


 居ない、居ない。王が居ない。

 人々を救ってくれる小覇王が居ないからこうなった。勇猛果敢、才色兼備、偉大な虎がいれば敵も襲ってなど来なかっただろうに。

 あの大徳が、あの大徳さえ帰って来てくれれば……願いの渦は救済欲求に発展し、大きく、大きく膨らんでいた。






 雪蓮が洛陽に赴いている以上、孫呉全てを取りまとめるのは次女である蓮華の役目。

 希望の向く先は未熟を理由に回避できるモノでは無い。

 地方から飛び交う襲撃の情報を纏めて軍を派遣、兵糧の確保さえギリギリまで抑え、建業の防衛など二の次三の次。

 一万の精強な兵を雪蓮と冥琳が連れて行ったことも痛い。あの徐州での戦でギリギリまで曹操軍と争わされたことも痛手であった。まだ掌握しきれていない土地から荊州勢力に寝返って行く始末で、袁家の毒が浄化しきれていないことをまざまざと見せつけられていた。


 故に、彼女の疲労は限界まで達している。

 寝る間も無いとはまさにこの事。日に日に増していく書簡の山は平常業務よりも優先されるモノばかり。端の者達については下手に出れば舐められ、上から押さえつければ反発される。

 精神的にも肉体的にも、彼女はもう限界だった。

 目の下には色濃く隈が浮かびあがり、誰が見ても顔色が悪すぎた。


「れ、蓮華様……どうか、どうか少し休んでください」


 執務室で同じように机の上で仕事をしている亞莎の声にも、蓮華は振り向くことはない。

 筆を走らせ、目を通し、真面目一辺倒に集中したままで黙々と仕事に取り掛かっていた。

 聞こえているが聞こえない振り。休めという言葉の類は、彼女は拒否していた。その頑固さも生真面目さも、普段ならば可愛らしく思える。しかしこうした時はさすがに……部下としても友としても、止めなければならないはず。

 だが……ことの重大さを理解している亞莎は、強く出られなかった。

 その両肩に乗せられている重責が、ギリギリの線で蓮華を繋ぎ止めている。民への想いが強くなり過ぎて止められない。王として成長してしまった故に、蓮華は人々を救わずに居られなかった。


 これが雪蓮であればもう少し違ったかもしれない。休む時は休む為に、部下に丸投げして息抜きの一つでもしただろう。

 蓮華には、それが出来なかった。


 悲壮に顔を沈めた亞莎は、下唇を噛みしめてまた書簡に取り掛かる。

 筆を動かすことでしか現状は打破出来ない……いや、彼女には現状を打破する方法が思い浮かばなかった。


 もう一人の軍師である陸遜――穏は祭と共に別個として動いている。

 広く分布している揚州襲撃の兵士集団の中でも、主要都市の慰撫と指揮系統の充実を図る為には重鎮達を分けるしかなかったのだ。

 連絡はそこまで直ぐにとれる状況では無い。家の絆すら効かない事態、孫呉崩壊の危機とも言える最悪の状況。

 並べ立てられる問題点は多々ある。


 一つ、孫呉の次世代の王を精神的にも社会的にも追い詰められたこと。

 一つ、揚州内部の土地それぞれへの毒を日々徒然植え付けられていること。

 一つ、孫呉の希望への見解を一局化をさせられていること。

 一つ、これから徴兵するに当たって必要な人員……つまり民を大きく減らされていること。

 一つ、村を荒らされることで糧食も金銭も蓄えられなくなるということ。



 他にもいくつも、いくつも波状効果で広がる毒の数々。人の命の尊厳も全てを無視した、本当に恐ろしい策だった。


――これが……悪龍の本気。袁家なんてコレに比べれば可愛らしい。こんなの、揚州内部で……黄巾の乱が起こっている時よりもはるかにひどくなってる。


 筆を動かしながらも、並行させた思考で亞莎は考える。

 一つのイトを引いて全てを操るのが軍師。正しく、賢き悪龍はそれを為した。国で最も有能な軍師を縛り付け、民の希望の星すら誘き出し、次世代の若い芽を叩き潰しに来た。

 経験が違う。違いすぎる。悪龍は有象無象の輩ではなく、悪鬼羅刹の如き泥沼の政略戦争を勝ち抜いた知恵の龍だ。民の心の動きも、人の心の動きも、人の成長の向く先ですら、彼女は手に取るように分かるのだ。


 孫呉は悪龍の逆鱗に触れた。

 彼女を地に伏せさせていた鎖……劉家という家柄が死によって解き放たれれば、お綺麗な戦争などしなくても良いのだ。

 殺せばいい。奪えばいい。犯せばいい。狂えばいい。虐げればいい。略奪し、強奪し、簒奪し尽せばよいだけなのだ。


 連合に参加すらせず着々と固めていた地盤と民心意識の安定は、劉の死によって暴発する。

 何度も攻めて来るモノを誰が認められよう、信じられよう。やられる前にやり返せ。殴られる前に殴れ。もう自分達は殴られたくなどない、と。

 王が守ってくれていたのだから、盾を失った人々は矛を取るしかない、あるではないか矛が――――大陸で最強の飛将軍が、此処にいるのだから……そういう風に、思考誘導を仕掛けたのだ。


 死んでから発動する策など聞いたことも無い。

 悪龍がどれだけ恐ろしい相手か、亞莎の心に刻まれる。そして、その意思を受け継いだ陳宮も……間違いなく警戒するべき相手となった。


「……亞莎」

「は、はいっ」


 突然の問いかけに、亞莎はビクリと身体を跳ねさせる。

 じっとりと額に滲んだ汗を拭って、彼女はズレた眼鏡を整えて蓮華の方を向いた。


「陳宮と呂布が姿を現す機会が増えたから居場所の特定が容易になった。其処を潰せばこの戦いは終わる?」


 気付く。蓮華もこの状況の打開策を考えていたのだと。仕事をしながらもどうにか終わらせようと、彼女が考えないはずなどなかった。

 疲れ過ぎている蓮華の瞳は、未だ力強い輝きを失っていない。

 ゴクリと生唾を呑み込んで、亞莎は……ふるふると首を振った。


「いえ……無理です。敵が広く分散しすぎて敵同士ですら情報統括など出来ていないでしょう。此れは黄巾の乱と変わりません……が、敵の暴走を止められるはずの“主の失墜”から始まった戦ですからそれよりも酷い。あの時とは状況が違いすぎて、頭を潰せば終わる戦なんかではないんです」


 答えは否。

 頭を殺した程度で終わるようなら、どれだけ良かったことか。

 コレは民が反乱しているだけでは無く、訓練を積んだ兵士達が暴れている。民が一斉蜂起したあの黄巾の乱程度と変わらないなど思うことなかれ。それでいて先導者が既に死んでいるのだから、迅速に終わる事が無いからこそ最悪の策なのだ。

 各個撃破するしか手が無く、したとしても物足りなさを向けられる。一手遅れた時点で終わっていた。


「……飛将軍への警戒が行き過ぎていた……そういうことね」

「はい。飛将軍率いる軍が侵攻してくるという情報が入った時には既に、揚州内部のそこかしこに人員をばらまいていたんだと思います。私達の目を飛将軍に縛り付け、街への警戒をわざとさせて、侵攻してくる経路まで予想させておいて……実は狙いは“ただの村”だった。

 戦に関係ないはずの小さな村から潰して行くなんて、そんなこと……考え付ける方がおかしいです」


 事前に防げる方法はあったか、と聞かれても彼女は否と答える。

 普通の兵法を学んでいても思いつかない悪の思考は、幾重にも張り巡らされた思考誘導の数々によって上手く隠されている。だから気付かないし気付けない。

 村を潰すのに一軍など必要ない。賊徒程度に悩まされる村など、兵士が百人も居れば皆殺しに出来る。劉表は……いや、悪龍を喰らったねねが思い付いた。


 相手が嫌がることは全て策になる。悪の思考を持てるようになったねねは、幼いからこそ吸収が早く発想の幅も広がって行く。

 敵の成長速度が余りにも計り知れず、亞莎は悔しさにギシリと歯を噛みしめた。


「……憎しみのカタチ。怨嗟のカタチ。人の持つ抑えがたい衝動。本当に……哀しくて度し難い」

「れ、蓮華様……?」


 憂いを帯びた瞳で、蓮華はふうとため息を吐いた。

 一息つくことなどここ最近無かった彼女が、ふっと気を抜いた瞬間であった。

 じっと亞莎と視線を合わせ、その瞳に浮かぶ色は憔悴と悲哀。同情と落胆。しかれども、諦観だけは無かった。


「最近の小蓮はどう?」


 戦のことではなく家族のことを口に出す。

 何故、今なのか。考えずとも分かる。蓮華は小蓮の憎しみを受け、今も蟠りは解け切っていない。

 荊州の兵士達が攻めて来る感情の一つには、恨みや憎しみといった負の感情が含まれている。あの時の紀霊や小蓮のように。

 だから、きっと小蓮のことも重ねている……亞莎はそう思う。

 自分の身を案じればいいのに人の心配ばかり。そんな蓮華の性格に、亞莎は仕えようと思ったことを思い出す。


「小蓮様はかなり協力してくれてます。張勲と紀霊の教育は充実していたようで、執務関係の仕事はどれも上位の文官と比べても遜色がありません。

 あと、武の鍛錬も積まされていたと最近言ってくれたので戦ってみたのですが……正直、雪蓮様を思わせるくらいの才が見て取れます。あれは間違いなく……“幼虎”に育っています」


 人質として引き取られてから、小蓮は七乃の思惑によって力を高められたのだ。いつか来る孫呉の崩壊の毒を育てようと、着々と準備を進めていたに違いない。

 文武両道の人材にと。蝶よ花よと育てていた美羽とは全くの真逆。きっと、小蓮に美羽を守らせようとしていたのだろうことなど容易に分かった。

 足りないのは器の広さ。小蓮の器はまだ小さい。憎しみの処理方法を覚えれば、きっと広がることだろう。


「そう……官渡での戦がもうすぐ終わると情報が入ったわ。袁術は……どうなるでしょうね?」


 また、小蓮の友達が殺される。袁家は帝に弓を引いた大罪の家だ。主だった上層部は死罪は免れぬだろう。蓮華達の予想ではそうだった。

 どんな反応をするのだろうかと、二人は小さな虎を思って心を沈める。

 憎かった敵も、追い詰められると憐れにしか思えない。彼女達とて分かっている。これは勝者の優越というモノだ。あまり持つべきでは無いと、自己嫌悪にまた心が沈む。


「……行方不明とのことですが、多分、張勲が隠しているのでしょう。袁術の命さえ助かればなんでもするような人、と聞いてますし」

「ええ、あの女は袁術以外はどうでもいいのよ。世界の全てを敵に回しても袁術が救われればそれでいい……線引きを越えた人間は……今戦っている相手と同じで侮れない」

「でも、袁術に救いはないのでは? 張勲がどれだけ生き抜くことに長けていても」

「……どうして?」


 亞莎が少し言い辛そうに口を開き、蓮華は不思議そうに目を丸めた。

 苦く、唇を噛みしめる亞莎が言いたいことに、蓮華は少し遅れて気が付いた。


「敵が……黒麒麟だから?」

「……はい」


 あの戦闘を思い出せば今でも寒気が走る。

 地獄を作られたあの戦場。熱量がむせかえる程に高かったあの戦。実力の違いを見せつけられた一番の戦い。

 あの男ならどうするんだろうか……蓮華は考える。亞莎の答えでは袁術と張勲の処分。しかし蓮華は少し、違和感を覚えた。


――あの女狐の手腕はよく知ってる。ニコニコと笑っている裏でとんでも無い実力を隠し持った異端。そんな者を……あの黒麒麟が殺すか否か。


 無い、とも言えるし有るとも言える。

 敵に対しては確かに冷酷で、イカレているような戦い方は誰の心にも恐怖を落とす。

 ただ、蓮華を殺そうと思えば殺せたはずの黒麒麟は、先のことを考えて敵を殺すだけを避けた。

 それなら、利用価値を見つけた場合はまず殺さないだろう。揚州を影で操れる程の才を持つ七乃を従えるには、美羽の命は絶対に必要なのだ。


――帝への反逆者を生かせるか? 普通なら無理。そんな者を生かしては民に示しがつかない。曹操にしてもそのあたりのけじめは必ず付けるだろう。

 でも、ナニカがおかしい。この違和感はなんだ? いや……アレは、黒麒麟は……どんなことをしてでも自分の思惑をやり遂げようとするし、曹操にしても才ある者を使わない選択をするような薄い輩か……?


 “私ならどうする?”


 “私が曹操の立場ならどうやって孫呉を攻める?”


 “私達がやられて一番嫌なことは……なんだ?”


 無意識で積み上げはじめた思考の高さと、華琳が七乃を殺さないことを当然と考えている自分の異端さに蓮華は気付かない。

 成長した彼女は、華琳の器の広さを見誤らず。それでいて一段高い考え方を出来るようになっていた。


――このまま孫呉を攻められることが一番に危うい。でも曹操はまだ攻めてこない、と思う。強者を求める覇王は、悪龍が掻き乱した後の場所を奪い取っても満足しない。苦境を乗り越えた強い王を打倒して従えたがるから、曹操軍は攻めてこない。

 なら……次善の手は……


 其処まで考えて恐ろしいことに気付いた。

 自分達の戦いはまだ全然終わっていない。むしろ最悪の方向に向かっている、と。


「亞莎――――」


 焦りを表情に浮かべて声を出そうとした所で、扉が静かに開かれる。

 二人共が警戒を全面に浮かべながら見やれば……其処には昏い顔の明命が立っていた。


「ただいま……戻りました……」


 此処まで酷い状況になるとは予想しておらず、有能な戦力であるのに曹操軍を調べ上げろと命じていたはずの彼女が此処に来た。ならばどういうことか、分からぬ二人では無い。


「終わったのね?」

「はい。官渡での戦は曹操軍の勝利に終わりました」


 やはりか、と蓮華は天を仰ぐ。袁家に勝って欲しいなどとは思うわけがないが、もう少し色の良い報告も欲しい所であった。

 ただ、いつもなら詳細を報告するはずが、明命はまだ何も言わない。不審に思ってその目を見つめると……明命の瞳は暗く落ち込み、手がフルフルと震えていた。


「み、明命……? どうしたの?」

「……そ、曹操軍は……確かに袁家に完全勝利しました。それも……あれだけ大きな戦をしていたはずなのに、より強大な兵力を手に入れて」


 絶句。

 戦をすれば兵力が減るのは当然。だというのに、戦が終わってすぐに兵力が増えたと言われれば、混乱に支配されるしかなかった。


「ど、どうして、よ? そんなこと出来るわけないじゃないっ」

「明命、それって本当、なの?」


 受け入れられない答え。そんな方法があるのなら誰でもやっているはずだ。十万を超える軍との衝突なのだ。曹操軍の兵力が増えるなんてことは間違っても有り得ない。

 袁家の悪辣さは知っている。軍をまるごと従えることなど到底不可能のはずで、何かしら鎮圧する為にも兵力は裂かなければならない。

 今は河北の内部浄化に向かっているに違いない。自分達もソレを乗り越えようとしていた所なのだから、敵も当然ソレをしている……としか、彼女達には考えられなかった。


 苦悶に歪む唇を震わせる明命を見て、それが本当に起きていることなのだと、蓮華は理解する。

 それなら、割り切るしかない。起こったことは起こったことだ。呑み込んで今何をするべきか考えなければならない。王である彼女だけは、先を見据えなければならないのだ。

 蓮華の纏う空気が変わった。

 先を歩き続ける姉がおらずとも、隣に立つ誰かが居なくとも、彼女は王としての階段を上り続けていく。


「教えて明命。曹操はどうやってそんな力を手に入れた?」


――方法があるのなら、敵のモノであろうと使ってやろう。


 現状を打破する力が欲しい。蓮華が求めるのは、自分達の大切を守り続ける力だ。それが例え敵が使っていたナニカであろうと、自分達のモノとして取り込み、強くなってみせよう、と。

 出来なくともいい。知るだけでいい。いつかは使えるかもしれない。そうして積み上げて積み上げて、自分の力と為せばいい。


 だがしかし、望んでも意味は無かった。慄く唇から零れた情報は……蓮華が呑み込める範疇を超えているのだから。


「曹操だけじゃないです。黒麒麟と曹操が二人で……袁紹を殺さずに名と字を奪い、こ、この世に生きる全ての者達に袁紹の真名を開示しました。民の為に生き、民の為に全てを捧げ、民を救う為にのみ動く……え、えん……っ……え、“袁麗羽”という王を、奴等は作り出し……袁家の軍をそっくりそのまま取り込んで、え、“袁麗羽”に袁の血筋の虐殺を命じ、河北制圧に乗り出しました!」


 蓮華と亞莎の二人は有り得ない方法に言葉を失い、全ての思考を止めるしかなかった。

 既存常識が壊される。

 覇王と黒き大徳の行いは、彼女達にとってそれほど大きな衝撃だった。








 †







 隣の部屋で聞き耳を立てていることは誰も知らない。

 執務室はもう一つ。少女は一人、姉達が久しぶりに話す声を聞いていた。

 何か情報は無いか、何か新しい報せは無いか、自分の友は生きているのか死んでいるのか、外では何が起きているのか。


 揚州の人間が万を超えて死んでいる現在、彼女――――小蓮とてその身を粉にして働いていた。

 七乃や紀霊に教わった執務能力は、猫の手さえ借りたい孫呉の者達にとっては間違いなく有益で、それを使って貰うことに躊躇いも迷いも無い。

 ただ、どれだけ働いても姉達は情報を与えてはくれなかった。


 分かっている。それは優しさ。大切に想ってくれているからこそ、姉達は小蓮を傷つけたくなくて情報を教えない。

 きっと姉達も働き詰めで思考が鈍っていたのだ。いつもならこんな些細な不手際……小蓮に聴こえるような声で外部の動きを話すわけがないのだから。


 もう遅い。彼女は聞いてしまった。心の奥底に打ち込まれた楔が機能するほどの情報を。

 いつかは小蓮も知ったであろう。しかしながら、今日は些か時機が悪かった。

 今日は建設中のとある店のお菓子が事前に届く日で、八つ時にそれを食べたばかり。甘い甘いそのお菓子には、楓蜜という頬が蕩けるくらい美味しいシロップが掛かっていた。

 前に食べた味だった。街に出て手に入れたモノを少しだけ分けてくれた、二人で食べた思い出の味。


 故に、彼女は明確に判別する。

 姉達とそのモノの違いを。


――曹操と黒麒麟は姉さま達と違う。どれだけ大きな大罪を犯した敵でも、命を奪わないこともある。なら……美羽は……?


 一寸の期待が、希望が、胸に芽吹いた。

 姉達は必ず殺すと言っていた。なのに殺さない方法もあった。それが世界に存在を捧げさせるという、人の範疇を超えた罰を与えることであっても。


 小蓮は少しばかり長く袁家に居過ぎた。

 それでいて孫呉の考え方を根本に持っていた。

 故に、この変化は当然。幼い小蓮が、人々の誰もが恐怖を覚える……覇王と黒き大徳の策に、恐怖を覚えず感嘆の念を込み上げさせてしまうのも、である。


――命さえあれば、きっと幸せになれるから。


 生きている限りは幸せを探せるから、と。

 奇しくもその思考は七乃が持つ狂愛の雛型で、孫呉が掲げてきたモノの根幹。

 立場が違えばこれほどまでに違う。


 胸の中にある気持ちを吐き出した。

 この安堵は確信から。七乃の有能さを知っている為に、七乃を従えたい敵が美羽を殺すわけもない、と。

 ほろりと涙が一筋。

 まだ確実な情報として手に入れてなくても……それで間違いないと“勘”が告げていた。


 一番上の姉がよく言っていた。これがそうなのかもしれない。なんとなく分かるこの勘を、彼女は信じることにした。


「ふふ……そっか、生きてるんだ」


 なぁんだ、と彼女は零した。

 少女にしては大人びた笑みだった。


「じゃあさ……」


 これでいい、これでいい。

 自分の中の澱みは大きく浄化された。あとは、自分のしたいようにするだけだった。


「守ってあげられるくらいに、シャオが伸し上がっちゃえばいいんだ。そうすればどっちも救えるしどっちも幸せになれるよね?」


 袁術としては暮らせなくとも、ただの友達としてでも傍に居てくれたらそれでいい。美羽は美羽であり、袁術でなくともよいのだから、と。


 それがどれだけ異質な思考か彼女は分からない。

 しようと決めたことが何処かの壊れた男の在り方に似ているとも、彼女は知らない。


 毒は知らぬ間に成長していく。周りの為にもなるのだから気付くこともなく。

 七乃が残した袁家の毒は、本人さえ考えの及ばぬ大きさになろうとしていた。


――……曹操と黒麒麟ってどんな人なんだろ。確かに真名を捧げさせるのは怖いことだけど、“大罪人の袁紹の命さえ助けた”って事を皆はどうして見てあげないのかな……。


 美羽の命が救われたことで他とは違う視点が出来上がった小蓮は、敵であるモノ達の気付かない二人の姿を見抜いていた。

 興味が芽生える。孫家では出来ない命の救い方をする者達に。

 ただ単に命を救うだけでなく、そのモノを生まれ変わらせるような新しい風を吹かせるモノ達に。

 このままでいいのかな、と彼女は内心で呟いた。自分の家の在り方と、その者達の在り方の差異にズレを挟まれて。


 不意に、そのまま思考に潜りそうになった小蓮の耳に、他の足音が入ってきた。

 気付かれぬよう、悟られぬように音を忍ばせて壁に近付くこと一歩。


 きっと内部の情報だろう。こんなに焦った足音を鳴らしているのだ。好転したか、はたまた……何か悪いことでも重なったか……。


 中から聞こえてきた情報は、彼女の……否、その情報を聞いたモノ全ての頭を疑問で埋めることとなった。


「ほ、報告致します! 旗すら掲げぬ軍が南方に急遽出現! その数、約五千! 騎馬で構成されたその軍は白い馬に跨る将を先頭に……行く先々の村や街で、“劉表軍を”悉く喰らって、こちらの城へと向かっている模様!」


















 †





 白い羽扇がひらりひらり。

 宙に漂わせる所作はまるで舞いのように緩やかに。命のはかなさを憂うように。

 愛らしい体躯に金色の髪。灼眼はつい最近まで生きていた悪龍のように燃えていた。

 微笑んでいるはずなのに絶対零度の如き冷たさを纏い……その少女――――朱里は崩壊した村々を見やっていた。


「ふふ……」


 漏れた笑み。大きな感情が其処にはあった。ケダモノに堕ちたモノ共が喰らった残骸を見据えて、胸に溢れるのは怒りと哀しみ。

 こんな理不尽を無くしたいから、彼女は今の主の元へと駆けたのだ。

 目の前で殺される人々が、目の前で作り上げられる地獄が……只々許せなかった。

 笑いは自嘲の声だった。

 この状況は読み筋の一つ。彼女が生まれ育った荊州の在り方も、智者を追い求めた末に水鏡塾の塾長と袂を分かった劉表の見ていた先も……朱里が一番よく分かっていた。

 だから、“此処まで行動を遅れさせなければならなかった自分”を……内に飼う黒い獣が出した策を是とした偽善者な自分を……嘲笑った。


「ごめんなさい……今はまだ、救えないんです」


 冷徹に、冷酷に、彼女は己が主の為にと策を出す。それが例え主が飲み干しきれない程の策であろうと、汚れた部分は自分が背負えばいいのだ……そう考えて。

 もう間違えない。あの時、半身のような親友と想い人を失った。二度と間違いなど繰り返す気は無かった。


 朱里は軍師として此処に立つ。親友に向けるのは懺悔と決意。想い人に向けるのは後悔と

 大陸で一番の軍師になる為に、此処に立っていた。


 ひらり、と白羽扇が空を裂いた。

 機を得たり。彼女はこの時を待っていた。探し人は見つかった。悪龍が残した策の全てを、彼女は今、受け取った。


 一人の少女が目の前に居た。暗い昏い怨嗟を宿した、自分を殺す権利のある者が立っていた。

 その少女の後ろに並ぶのは薄緑色の鎧を着た男達。まるで空を飛ぶ龍のような色だなと思った。

 朱里は微笑みを崩さずに、睨みつけて来る少女をじっと見据えた。

 朱里の瞳の奥から暖かな光が消える。敵を追い詰める冷たい軍師になれるよう……もうそろそろ、身体を上げて空を飛ぼうと。


「……初めまして。私は諸葛孔明と申します。内密の会合を受けて頂きありがとうございます……陳宮さん」


 ふん、と鼻を鳴らした小さな少女は、犬歯をむき出しにして朱里に唸った。


「文は見たのです。一時的に受ける、と返事はしてやります。ですが、先にこれだけは言ってやりますぞ……お前は……最悪の軍師なのです、諸葛亮っ」


 狂気すら感じる憎しみの感情を叩きつけられても、朱里の心は揺るがない。

 全てはこの乱世を終わらせる為に。桃香の望むモノを為す為に。

 その為には……悪であろうと善であろうと利用しなければ……生き残れない。


 震える心臓が胸を打つ。甘い甘い感情が心を溶かす。黒い獣が求めていた。人を外れた策を出したあの男を、そしてあの男を越えることを、朱里は求めていた。

 アレを越えなければ。アレを……いつでも朱里の先を歩いていたアレを……黒麒麟を敗北させなければ朱里の望みは叶わない。


 彼が最後に向けた絶望の黒瞳に比べれば、怨嗟の瞳は些細な恐怖しか起こさない。

 故に朱里は……幼い身体に似合わぬ妖艶さで、笑った。


「……それでは、“同盟”は成立ということで……」


 まるで天に昇った悪龍と相対しているかのようで、ねねの心は僅かに圧された。

 彼女の想いは膨れ上がる一方だった。

 欲しい、欲しいと喚いて仕方ない。主の為が一番でありながら、黒い獣はもう一つ欲しいと喚き続けていた。


――……あの人をもう一度手に入れる為に。


 狂おしく懺悔する夜を幾重も越えても、彼女の想いは変わらない。

 伏したる竜は翼を広げ、飛龍の策を喰らいて天へと上る。其処に鳳凰が立ちはだかることを知っていながら。


「……“曹操軍打倒の第一歩”を……始めましょうか」



読んで頂きありがとうございます。

時系列は官渡終わってすぐあたりです。


ねねちゃんの本気。

内部で育つ毒の華。

暗躍する竜。


の三本立てな感じです。

救援に来たのはいったい何蓮さんなんだっ


次も他勢力のお話

ではまた

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