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天と人を繋ぐモノは





 月からの提案に一番驚いたのは劉協本人である。

 帝への敬意を崩さないというのは、ある意味で当然と言えば当然で、きっと何を言っても聞かないのであろうと半ば諦めていた。

 華琳や月でさえ彼女と親しげに話すことは無い。崩して構わないと命じたとしても、彼女達もそれだけはと拒否したに違いない。

 それなのに、である。


「あなた、あだ名を付けるのは得意でしょう? それならこの子にも付けてあげなさい」

「そうは言うが……ゆえゆえとかえーりんは黒麒麟の時だったし、ひなりんだって季衣が呼んでたからだぞ」

「あなたが知ってる外の国の言葉でも構わないのよ? 似合った意味とかあるでしょうに。ほら、綺麗な髪から名付けたり蒼天から取ったり」

「あのなぁ、さすがに似合わんよ。白金でプラチナとか……うん、漢字じゃないとしっくりこねぇわな。お前さんだって嫌だろう?」

「ふむ……余の髪の色は“ぷらちな”、と言うのか。中々に愛らしい響きじゃの」

「私も可愛いと思いますが……りゅ……協ちゃんのあだ名にはちょっと」

「ええ、聞いてみてなんだけどなんか違うわ、やり直し。ねぇ、協は何がいいかしら?」

「そうじゃな……空で探してみるのがよいぞ」

「空っていってもなぁ……」


 お菓子を食べながら、お茶を飲みながら……緩やかに流れるこの一時で、劉協に向けられる言葉は年相応の少女を扱うモノばかりなのだ。

 月はまだ一寸慣れていないが、彼と華琳はもう全く気にしていない。

 一度崩してしまえば二人の順応は早く、本当に一人の少女と話をしているだけ。

 馴れ馴れしいはずなのにそれが新鮮で面白い。切り替わりが大きすぎたが、逆にこちらの方がしっくり来るのだから劉協は其処に一番驚いていた。


 彼女とて、自分が帝として相応しい姿を人々に見せなければならないことは理解している。

 だがこのような……自分一人だけで眠る寝台の上や、肉親たちと共に居た時間と同じモノが出来上がるとは思わなかった。

 綻ぶ頬は胸の内のある感情を表している。本当に隔離された幻の空間でだけは、一人の少女で居たかったのだ。

 許されることが有り難かった。誇りを穢すことなく、自分の役割を貶めることなく、帝と劉協という二つで一つの彼女そのモノを尊重してくれるこの空間に、彼女は歓喜していた。


「普通に協でいいんじゃねぇか? 此処だけなんだから」


 うんうんと唸っていた彼は、やはり空でも違うと否を示す。

 彼の知っている外来語ではこの世界の人に合いそうにない。そう判断して。しかし……


「ダメよ。時間が掛かってもいいから決めなさい。そして……しっかりと読み解きなさい。私と月のしたいことが何かを」


 華琳が切って捨てる。最後に付属でどんな意味が含まれているのかと問うた。

 わざわざ劉協のあだ名を決めるということは、彼女の正体がバレないようにするということ。

 この時のみだとさっき言っていたはず……が、華琳がそれだけを狙いにするはずなどない。

 ならばどういうことか……月も思い付けたというのなら……。


「……マジで?」

「あら、マジよ?」

「ふふっ、マジ、ですよ?」


 秋斗の言葉を真似て楽しげに笑う二人の王は、首を傾げる劉協に視線を向ける。


「謁見の話の続きになるけれど、協はまだまだ学ばないとダメなことが多いわ。人の想いは触れないと分からない。頂点に位置するというのなら、末端の生活を知っておくことも大切でしょう?」

「だから、私はりゅ……協ちゃんに侍女服を着せてみたんです。これなら簡単には分かりませんから。特にこの街では」

「……どういうことじゃ? お主らだけで話を進めるでないぞ」


 むっと少女らしい仕草で唇を尖らせた劉協。自分でも驚く。まさかそんな表情が自然に出るとは思ってもみなかった。

 まるであの時の、月が救いに来てくれた時のように、いや……姉がまだ生きていた時のようだった。


 秋斗に目くばせをして、華琳が答えを言ってみろと示した。


「勉強……ってか実地学習だな。区画警備隊も随分と安定の水準を保ってるし暗殺とかに対抗出来る将も手に入った。ゆえゆえが侍女姿で俺と回っていたから怪しまれることもなくて、何よりこの街には娘娘がある。侍女姿しててもあそこの給仕だと思われるのがほとんどだ……だから、協には街に出て人に触れて来て貰うってこった」

「え……ほ、本当か?」


 目を真ん丸にした少女は、年相応な驚きの声を漏らした。


「ええ、協には街に出て貰う、それは決めていたことよ。大陸に生きる一人の人間の目線で人々を見て、それを帝としての力にして貰いたい。その為に月と一緒に回ればいい」

「ほ、ホントにホントじゃな!? 余は……街に出て好きなことをしてもよいのじゃな!?」

「うん。でもあんまり危ないことはダメだよ? 私と一緒にお買いものをして、子供と遊んで、本屋へ行って服屋へ行って、イロイロなことをしてみよう?」

「うむ、うむっ! ……そうかぁ、イロイロしてよいのか。何をしようかのう」


 月の微笑みが決めてであった。

 勉強の一環であったとしても、ずっと宮中だけで過ごしていた自分が街に出る。それも一人の少女としてその時間は過ごしても良いのだ。まだ年端もいかない少女の心は、やはり自由を求めていた。


「護衛は当然明だよな?」

「当然。あの子だったら余程のことがあっても大丈夫でしょう。街には警備隊も居るし、民達への警笛の普及も行き届いているのだから余計にね」

「まあ、な。けど明だと少しばかり情操的な面で不安はあるが」

「明が挑発する時以外で調子に乗るのは桂花とあなたにだけよ? それにあの子だって頭は悪くない。そのくらいの分別はするわ」

「……あいつめ、からかって楽しんでやがるな」


 物思いに耽る劉協と、微笑ましく見ている月とは別に、彼は華琳に確認を一つ。

 万が一があってはいけない。それでいて最低限は自由が保障されなければならない。人選で言えば明が最適で、それ以外では柔軟さや力量に欠ける。

 明の異常な気配察知能力は呂布に並ぶ。子供の頃から暗殺に明け暮れてきた彼女からすれば、街の中で同じ穴のムジナを見つけることは普段の暮らしの一部ですらある。

 殊更に、袁家という有力な家に所属していたからには探りを入れてくるモノなど後を絶たない。なればこそ、彼女は帝を護衛するに足りる。

 不安だった点は発言のあれこれだが、どうやら彼と桂花以外には普通らしい。

 彼女なりの理由があるのだが……彼としてはソレを止めてほしい。しかしやめてなどくれないから悪態を突くしかなかった。


「それなら……戦に向かってる時は無しかね」

「さすがにそればかりはね。帝であれど憎まれもする。利用されもする。浅はかな連中の動きは読みにくいし、街に生きている人間は千差万別。私の街であっても把握しきることは出来ない。どんな確率への対処も予測すれば、私達が居ない時に実地学習をさせるのは避けるべきよ」

「……どうせならその時は職場体験とかありかなぁと思うんだが」

「職場たいけ……ああ、そういうこと? 無理よ秋斗。孫呉の地に建設中の娘娘三号店に店長が向かったら不安が残る」

「そうかぁ……いい案だと思ったんだが……」

「む……そなたら、何を相談しておる? また余を置いて違う話をしておるな?」


 二人だけで話を進めているのが気になったらしく、劉協の意識が二人に向いた。


「このお菓子を作った店で働くことを体験して貰うかどうか」

「なにっ!? よいぞ! 余は働いてみたい!」


 目をキラキラさせて笑顔の華を咲かせた劉協の興味は止まらない。自分に何か出来ることは無いかと思い悩んでいたのだからそれも当然。


「状況が整ったらってことで」

「次の戦が起きる前ならよかろ?」

「今すぐってのはちょっと……俺らの思惑で店長の脚をこれ以上引っ張るわけにもいかないんでな。協の勉強を一番先にはしてやれない」


 反して返される答えは否。

 秋斗としても、店長にはただでさえ迷惑をかけっぱなしである。持ちつ持たれつとは言っても。

 表情を曇らせながらも、劉協は反発はしなかった。


「……そうか、分かった。余はその時を待とう。だが、絶対じゃぞ?」

「ああ、約束しよう。状況が整い次第で店長に話を付けてみる」

「褒めて遣わす。しかし……よい、よいの。余が一番最優先では無いのか……ふふふ」


 普通なら一番に彼女の望みを聞くべきのはずだったから、ダメだと言われることに嬉しさが湧く。


「変なところで喜ぶのね、協?」

「いや……こう、叶わぬことがあるというのはもどかしいが……それもまたよい。待つ時間も愛おしい」

「そんなにいいもんかねぇ?」

「協ちゃんには新鮮でしょうから」


 彼や華琳、月には分かり得ない感覚。籠の中に居た彼女だけが、求めて与えられるだけの空しさを知っている。

 自分から求めたことはほぼ無かった。それでも彼女にとっては、我慢しろと言われることすら楽しかった。


 ふいと、劉協は聞きたかったことを思いだした。

 ずっと聞かずに我慢してきた事がある。華琳が何故、蒼天を救わずに覇道を行き、劉協に深く関わろうとしなかったのか。先ほどの謁見では秋斗もそのような態度を取っていた。

 ある一定の線引きを決して越えずに、何も与えず、何も求めない。


「のう……そろそろ教えよ曹孟徳。お主が余に関わろうとせんかったのは何故じゃ。徐公明も、余を戦の道具とせんのは何故じゃ。

 策の一環にも使わず、此処におる余こそが天……そう人の世に示さぬのは……何故じゃ?」


 質問は突然に。緩くなっていた空気が少しだけ冷たくなった気がした。

 ふむ……と華琳は顎に指を一つ当てる。

 片目だけ細めてからお茶を手に取り、ゆっくりとした動作でそれに口を付ける。

 瑞々しい唇を舐める舌が、何かを食べようとしているように見えた。


「……協としての問いかけならば答えてあげる。

 私の力で治めたいからよ。この……愛しく楽しい乱世を皆が願ってやまない平穏な治世に変える。天の力を借りて得る勝利に何の価値があるというの?」


 細めた目が……冷たい輝きを放っていた。

 気を抜いているとはいえ、劉協をして身が凍る程の覇気。叩きつけられる冷たさは、自分の敵に対して向けるモノに等しい。


「人であるモノ達の一番前で走り抜ける王として、私自身の力で乱世を治めるからこそ意味がある。これは私のわがままであり、誇りであり、意地。

 借りた力で勝利を得ても私の心は、私の想いは満たされない。そして……私と共に戦ってきたモノ達の想いも報われない。

 彼らは私を信じてくれて、私は私を信じている。なればこそ、この曹孟徳が十全の力を使い果たして勝ち取る平穏でこそ、命輝き誇りが生きる。皆が力強さを求めてなにくそと抗う力を持ち、そうして平穏な世をずっと繋いで行ける力が手に入る……と私は思ってるからあなたの力は借りなかったし、これからも借りるつもりはない」


 借りた力で勝利を得ても、平穏が訪れたとしても、華琳にとってはその世界は否。

 華琳が命を賭けて誇りを示せるはずの愛しい乱世が……惰性で、堕落で、中途で、半端で、慣れ合いで、くだらない……本当にくだらない茶番劇に成り下がる。

 此処には燃えて消える命がある。天の一声、天の一振り、天の一感心だけで全てが終わるなら……彼らは何故戦う必要があったのだ……と。


 チラと秋斗と目が合った。

 推し量る瞳は隠されたモノに気付いているかと問いかける。


――相変わらず……人を試すのが上手いな、お前さんは。

 分かってるよ……お前はさ、覇王と、場合によっては天をも殺せる民が欲しいんだろ?


 強い国を作る為には、強い王が必要だ。そして強い民が必要だ。

 天の一声、そして覇王の暴走にさえ抗えるような強い人々が……彼女は欲しい。間違いを正せる人間を多く作り上げることが彼女の望み。

 彼女の心の声が聴こえるようで、秋斗と……そして月は目を少し伏せた。


――天に縋ってどうするの? 天に求めてどうするの? 与えられるのをただ待つの? 皆はそうして生きている? 自分だけが特別扱いされる事はそれほど幸せ?

 苦痛の中で理不尽に弄ばれ死んだ子供は何故救われなかった?

 賊徒に堕ちてケモノとなるしかなかったモノの幸福はどうして崩された?

 飢えの果てに同胞を喰らってまで生き延びるモノ達には、どうして何も与えられない?


 覇王の瞳には、哀しみと怒りがあった。慈愛と覚悟があった。

 深淵に渦巻くアイスブルーを覗き込んだ劉協はゴクリと生唾を呑み込む。まだ子供とはいえ、劉協は聡い。故に華琳の言葉に隠された意味に気付く。


――人が人であるならば、自分の道は自分で切り拓け。誰かが手を差し伸べることを否定はしないけれど……自分から救いを求めてどうするというの。

 きっと誰かが優しければ救われる人もいることでしょう。けれども人は堕落し、弱きを虐げることもあるのだ。与えられれば調子に乗り、誇りを失えば誰かが理不尽を受ける。袁家や漢がそうして腐って行ったように。

 誰かに与えられる幸せなんかで私は満足出来ない。否、与えられる幸せを享受してしまったら……誰に対しても、“胸を張って生きている”なんて言えないもの。そんな人生はこっちから願い下げ、覇王でも曹孟徳でも、そして『華琳』ですらなくなってしまう。


 己が内にある情熱の業火は魂を燃やし続けている。

 救われない命にも、諦観してきた命達にも、彼女は存在理由を示さなければ納得できない。


 問おう。

 もはや手に入らなくなった幸福があるとして、誰かが甘い言葉で華琳にソレを与えようと誘ったならば……彼女がそれを是とするか。

 誇り持って命を使い果たし死んだ好敵手が死なず、そのモノとすら手を取り合える未来をやるからと言われて……彼女がソレを求めるか。


 否……否であろうに。

 自分が進んだ道に後悔を落として、過去を引き摺って生きるような彼女では無い。

 前を見て、先のモノの為にと想いを紡いで世界を導く覇王が……そんな下らない輩なわけが無い。


 誇りを失った覇王に価値は無い。矛盾した覇王に人は付いて来ない。大切に守っている矜持を曲げてまで得た幸せでは、彼女も納得出来はしない。

 それはもう、皆が着いて行こうと決めた覇王では無いのだ。彼女が在りたい自分では無いのだ。


 華琳は劉表とのまほろばを思い出していた。

 後悔なんざするかよ、と彼女は語った。命使い果たしても自分の思惑の為に生きた彼女は……きっと華琳と同じ想いだった。

 自分が進んできた道は此処にしかない。選んだ結果で諦観した命に唾するような行いだけは、あの悪龍でさえしなかった。


 先を見る彼女達だからこそ、過去の想いを穢すことだけは絶対にしない。人の想いを汲めなければ、人を導く王になどなれないのだから。


「……想いの華が咲き誇る世にするには、人が命を賭けた想いを繋がないような、そんな茶番劇では長い平穏など作れるわけがない。

 誰かが言うでしょう……『曹孟徳は帝をかどわかしたから勝てたのだ。見よ、アレは虎の威を借る狐だ』……なんて」


 話を変える。劉協も読み取れたならもういいだろう。現実的な話をすれば、聡明な帝は苦い吐息を吐き出した。


「しかし……民が苦しむ声は……もう聞きとうない。洛陽は燃えたぞ、曹孟徳。余があの時一声でも掛けておけばまだマシじゃったろうに。

 過ちを繰り返すは愚の骨頂。故に余は……余にも、何か出来るじゃろう?」


 天たるからこそもどかしい。

 帝の威光を使えば何かしら出来ることがあるはずなのだ。現時点で華琳と共に戦えば、思い描かれている馬の一族との激突は無くなるかもしれない。

 完全には出来なくとも、離反や裏切りの策に使える可能性も高い。


 彼女は、民の安寧の為に何かしら働きたかった。


「協? 平穏になるなら、救われるならどんな方法でもいいだろう、と考えることが出来るのは……あなたが“偏りを持った傍観者”だからよ」


 ぴしゃり、と華琳は切り捨てた。

 傍観者……その言葉に劉協の顔が悲壮に沈む。


「余が……偏りを持った傍観者……じゃと?」

「ええ、あなたは偏見に染まった傍観者。人の想いの強さを知らず、ただ目の前の民が平穏ならそれでいいと感情を向けてしまう未完成の天。天が介入してくれたら救われる……なら、敵はどうなる? 愛すべき民の一人一人であるのに、天がそのモノ達のことを見捨てているに等しくない? どの王であっても自身の描く世界の為に戦っているというのに」


 ハッと、劉協の顔色が驚愕に変わった。

 彼女が愛すべき民は生きるモノ全てだ。なのに彼女が何処かに付くということは……それ即ち敵を人として見ないことに等しい。


 敵対勢力の頂点が偽帝であるならばいい。正当性を以って戦える。偽りの天に誑かされた哀れな民を、偽物を打ち倒して解放するという理由で。


「人はそんなに簡単じゃない。誰しも意地があって想いがあって欲がある。あなたが私に不満を抱いていたように、あなたが月のことを大切に想っていたように、皆それぞれ譲れないモノや抵抗心や思いやりを持っている。

 あなたに見捨てられた人々は、これから先にあなたを慕ってくれるかしら? 黒麒麟のように欲しいモノがあって友を見捨て、敵を殺していく事とは訳が違う。あなたが行うべきは大陸を包み込むことであって、敵を倒すことでは無いのよ? だから、あなたは偏りを持った傍観者。肩入れしてしようと考えてしまう今はまだ、ね」


 秋斗と劉協では民の向ける意識の格が違いすぎる。

 その点を華琳は上手く突いた。下から這い上がってきたモノと常に上に立っていたモノとの差異を説かれて、劉協は唇を噛むしかなかった。


「そんな傍観者のままじゃダメなのよ。あなたは天として、人ならざるモノとして人々を裁定しなくてはならなくなるのだから、公平なる裁定者にならないと。

 自分以外の全てを下と見ながらも優越を挟むことは絶対にしてはならない。それでいて全てを心より慈しまなければならない。それこそが帝が人という種の上に立つ天足る理由。

 故にあなたは、私に肩入れしてはいけないわ」


 狭い天にすることなかれ。都会の空か、井戸の中から見上げる空か……切り取られた空は寂しく哀しいモノだ。

 夜天に多く包まれる場所は寒くもなろう。寒いと暖を取りたくもなる。暖かい場所を嫉妬し、奪おうとするモノも居るだろう。

 民は大抵が理不尽だ。弱い心には悪感情が忍び込む。


『どうして我らは救われない。どうして奴等は光を受ける。同じように漢人として生きているのに、何故に天は我らを見放すのだ……』


 縋るモノを失った人々は堕ちることもあろう。其処に別の大きな光を与えられてしまうと、民はそのモノに希望を見出し、元からあった光を消そうとする。

 そうして末端から壊死し、敵対の新芽を育てて行き、いつか彼女の治める大陸を腐らせる。

 いつまで経っても乱世は終わらない。仮初めの平穏を求めて、本当に遠くの平穏はじわりじわりと腐れて行く。


 皮肉なことだ。劉協という少女は人々に救いを与えたいのに……天であるが故に誰かに救いを与えてはならない。


「難しいわよ、私があなたにそうあれかしと願っている天は、ね」


 悔しさと無力さで震える小さな拳を見やりながらも、華琳は優しい言葉など掛けはしない。

 理解しているなら聡明であれ。もっともっと大きく、もっともっと広く深い蒼天に……。


 酷ではなかろうか。一寸そんなことを考えた彼だが首を振る。自分如きが掛けるべき言葉は持ち合わせていないから、と。

 ただ、この世界の異端である彼は彼なりに、劉協に話せることがあった。


「俺なら……人を越えた何かに左右される人生ってのは嫌だよ。誰かに天が味方してるなんて御免だ。運命なんてもんがあるってんなら、俺はそれをぶち壊してやりたくなっちまう」


 きっと何処かでこの時すら見ているのではなかろうか……この世界に送り出した腹黒幼女を思い出して、心底うんざりした気分になった。

 与えられた使命があるから戦っている。この世界を壊してしまうのが嫌だから戦っている。自分の為が他人の為。自分の幸せ程度よりも、命使い果たしても他の者が幸せになって欲しいから。

 ただ……きっとあの腹黒は天ではない。この世界を変えろという以上、世界に抗えというからには……自分は世界の敵なのだろう……そう、秋斗は思う。


 目の前に突き付けられた壊される世界を、自分の命を賭ければで救えるのなら安いモノだ。一度死んだ彼は、きっとこの世界に来た時から何処か壊れていた。


「そなたは……天を殺すと言うのか」


 当然の疑問。話の流れはそちらに傾いている。彼の内心など誰も知らなくていい。


――違うさ。“俺がぶち壊したい天”は……“なるかもしれない未来”と、“お前達の頭ん中にある曇り空”だ。


 表には決して出さず、劉協の頭にぽんと手を置く。

 さらさらと白金の髪を撫で梳かして、そのくりくりとした瞳をじっと見据え、くつくつと喉を鳴らした。


「人の想いを穢してしまうなら、な。でもお前さんは殺さない。殺すつもりなんか無いし、人の心を持って欲しい。

 背反し矛盾した人と天を同時に持ってしまえば、きっと身の凍るような辛い時間が続くことだろう。それでもお前さんは人の心が分かる天になるのがいい。

 何よりも……お前さんは他の皆と繋がる方法、もう持ってるんだぜ?」


 また何かおかしなことを言いだした、と小さくため息を零す華琳。月は興味があるようでじっと秋斗を見つめた。

 劉協は……首を少し傾げ、自分の掌をじっと見つめる。


「協、お前は蒼天だ。鬱陶しい雲なんざ俺達が払えばいい。

 世界を照らしたいと望む日輪にも雲は必要ない。夜の暗闇を照らす真月にも雲なんざいらねぇ。

 この空みたいな蒼空を世界に広げよう」


 見上げた空は快晴。何処までも果てしなく蒼が広がっていた。

 答えを言わない彼はいつも通り。

 考えることで人は成長するモノだから、と。


「……余が持っている皆と繋がる方法とは……なんじゃ?」

「クク、簡単には教えてやんない。自分で探し、自分で気付け」

「……それには同意だけれど……」


 今回は華琳も分からなかった。月も首を捻って眉を寄せる。

 天が人と繋がる方法など、きっと何処を探しても無いはずなのだ。


「乱世の果てで教えてやる。華琳にも、月にもな」


――俺が黒麒麟と溶け合うことが出来たなら、平穏な世が作られる時に叫んでやろう。


 口の中だけで呟いて、彼は誰にもソレを明かさない。


 人の身を外れて天を目指す王の二人と、元から天として生を受けた劉協に伝えたい言の葉があった。

 そして、この世界に生きる人々に向けて言いたい言の葉があった。


 心に留めた。

 異物な彼だから言えることを。


 緩やかな風に髪を撫でられて、夕暮れはまだ遠くにあると気付く。

 せめてもう少しだけ帝を少女でいさせてやろうと、彼は劉協の頭をぐしぐしと頭を撫でて話を変えた。


 むくれる少女と呆れる覇王、白銀の乙女は穏やかさに頬を緩めた。


 昼下がりの青空の下、其処には確かに人しか居なかった。










 †









 劉協との謁見から幾日。麗羽達を従えたことが良かったのか河北の反発もあまり見られず、予定していた動きを少しだけ崩してもいいこととなった。

 ちなみに幽州については麗羽への罰と白馬義従の掌握が効いているらしく、麗羽の生存についても反発されることは無かった。

 七乃の予定通り美羽は隠されたまま、袁家最後の生存者として麗羽が河北を牛耳っている現状。


 彼としてもあとひと月、ないしは二月程は街で過ごすつもりだったのだが……広い支配地域にも関わらず安定しているのなら行動しても問題無しと見た華琳は、三つの場所に文を送った。

 送った場所は西涼、揚州、益州である。内容は……挨拶の使者を向かわせる、と。

 返答など待たない。待つ必要も無い。それぞれに相応しい相手を選りすぐって送るのだから。






 一番遠い益州に向かう彼が最初に出ることとなった。

 出立の日、城の庭先での一服ももうすぐ終わる。詠は先に兵達の兵糧の準備へと動いていた。

 使者として赴くには兵など要らないとは言え、護衛の兵士を連れて行くことにも意味がある。


「さてと……」


 一言。弾む声を上げた彼は荷物を肩に引っ掛けて立ち上がった。

 見上げる視線は幾多もあった。

 それもそのはず、記憶がいつまで経っても戻らない彼が、前よりも大きな可能性を秘めた賭けをするのだ。もし、今の彼が消えてしまったら……そう考えるモノは曹操軍の中で多い。


「そろそろ行こうか……猪々子」

「んん! ひょ、ひょっほ待っへあにひ」

「おまえ……」


 かっこつけたつもりが後ろに居た猪々子の状況把握が出来ていない。応、とでも返事を返して貰えれば少しは決まったというのに、口にお菓子を詰め込んで喋られては締まらなかった。

 クスクスと笑い声が漏れる。呆れの吐息も漏れていた。


「秋兄って戦場以外だと締まらないね」

「まあそう言ってやるな」

「戦場でも無駄にキザったらしいことしよる時は余計にあんなんなるで。ええ時もあるんやけどへたれる時のが多いやろ」

「ふん、いつも通りで居ればいいモノをかっこつけようとするからだ」

「あー……こうさ、旅立つ男の大きさとか哀愁みたいなの出したかったのになぁ」


 明を加えて纏まっていた春蘭達の言葉に、彼はがっくりと肩を落とす。

 そうは言いながらも、並んで座る三人は彼に向かって掌を上げた。


「ほい、秋斗。今日からは明も入れてすんでー」

「んにゃ? 何さそれ?」

「意味は後で教えてやる。とりあえずお前も手を上げたらいい」

「……にひ、分かった♪」

「別に毎回しなくてもいいんだけど。今回は命の危険も無いし――」

「うるさい徐晃! はやくしろ!」

「……はいよ」


 掌が合わさり鳴る音は、約束の合図。

 四つの音は、並ぶ実力と在り方に信頼を込めて。いつも通り任せたぞと意味を込めてのバトンタッチ。

 猫っぽく笑う霞と、意味を理解して楽しげな明。秋蘭は彼の瞳を見据えて頷き……


「……徐晃」


 最後に春蘭とした後、彼女が普段よりも一層真剣な瞳で見つめてきた。


「……お前のことを信じている奴が此処には居る。だからもう……いや、仕事を遣り切ってこい」

「……? まあ任せとけ。そっちは頼むぞ」

「誰に言ってる? 私は魏武の大剣だぞ? ふん、言われずとも」

「へいへい」


 春蘭にしては言いよどんだ様子に一寸不振がった彼は、深く追及すると喧嘩になりそうだからと聞かなかった。

 信じてくれているのは知っているし、そんな当たり前のことをわざわざ言わなくても、と思う彼は気付かない。

 軍師達と座っていた雛里だけが、春蘭の言葉に驚き少し眉根を寄せる。


 語られなかった想いのカタチは、彼の内に居るはずの黒麒麟に向けて。


――劉備よりも、関羽よりも、諸葛亮よりも、張飛よりも、公孫賛よりも、趙雲よりも、お前を信じている華琳様と私達とバカ共が此処には居る。だからもう……絶望などするな。お前を信じてやれる奴が、此処には居るんだ。


 主や仲間からの信を得られなかったあの時の彼を、一番憂いていたのは春蘭だった。


 黒麒麟へと信を向けず絶望を手渡した居場所に彼が向かうのだ。普段はいがみ合っていても、心配しないはずがなかった。

 もやもやと春蘭の心には不安が広がっている。自分では気付いていないというのが問題なのだが、秋蘭や霞、そして華琳はソレを見抜きつつ……それでも何も言わない。


 少しだけ、雛里はあの時を思い出して心が軋む。

 ギシリ、ギシリと軋む想いは恐怖か、はたまた憎しみか。


「んじゃあ、行って来る」


 皆をぐるりと見渡して、雛里には目礼を一つ。彼女の大切を戻せるように、そう願って。


 見送るのも仕事だ。彼に縋ってはならない。


――彼を信じてるから……私は……


 軋む心が落ち着いて行く。

 信じることで彼は強くなる。だから、雛里は微笑んだ。


「いってらっしゃい」


 見送りの言葉はそれだけでいい。再びおかえりを言う為に。

 返される微笑みは昔の彼とダブって見える。照れくさそうに頭を掻いて、本当にあの時の黒麒麟のようで……寂しさが一筋だけ吹き抜けた。


「秋斗、“件の子”から言伝よ」


 わざわざ見送りに来ることも出来ないモノは、一人。まほろばでしか人になれないその少女から……天では無く彼女からの言葉。

 華琳の発言に彼は少しだけ目を細めた。


「外で働かないまま待ちくたびれるのは御免だ、ですって。ちゃんと帰って来いってことでしょう」

「……ん、りょーかい。そのうち手紙を送るよ。白紙のやつ」

「ええ、“蜜柑か何か”があればいいけどね」


 子供のわがままのような言伝に、彼は苦笑を一つ。

 華琳にだけ分かる情報を残してから、くるりと反転、まだお菓子を飲み込めていない猪々子に、ちょいちょいと手招きを一つ。


「ほら猪々子、置いてくぞ?」

「んく……ごめんって! にしし、んじゃああたいも行って来るー!」


 皆が口ぐちにいってらっしゃいを伝えて、秋斗と猪々子の背を見送った。

 戦に赴く時よりも大きな心配が其処にはあった。けれども誰も、それを表に出そうとはしなかった。







 二つの影が見えなくなってから、華琳がお茶を一口飲んだ後に口を開く。


「……月」

「はい、“華琳お姉様”」


 呼び方が変わっている事に皆は気付く。

 ずっと真名さえ呼ばなかった月が、漸く華琳の名前を呼んだのだ。

 今になって何故、と思いながらも其処に疑問を挟むことは誰もしない。


「あなたも秋斗から名前を貰いたかったのではないかしら?」

「いえ、曹家として生きる以上、華琳お姉様から頂いた名前で生きたいです」

「……そう」


 まだ誰にも明かされていないその名に、他の者達は興味深々と言った様子。


「西涼への使者には“ただの月”として向かいなさい。風の侍女扱いで構わないわ。ただ、あなたが出張っている間に“覇王の妹”の名は河北で広めておく。朔夜、出来るわね?」

「ご随意に」

「御意、です」


 慎ましやかに一礼。ふ……とそれを見た華琳は不敵に笑う。


――私の思惑通りというわけには……いかないでしょう。何かしらの不可測が必ずある。


 笑みには……この乱世が堪らなく愛おしい……そんな意味が込められていた。

 他勢力の近況を耳に入れて、彼女の胸は楽しみに踊っていた。


――……陳宮と呂布率いる荊州勢力によって、孫呉が追い詰められているというのだから。


「では……此れより我らは三点同時戦略の一端を開始する。油断無きよう、頼むわよ」






 月は微笑みながら、その心の深い部分に想いを押し留める。


――ねねちゃん、恋さん……あなた達は私が生きていると知ったら……どうしますか。


 人の心を掬い上げるには、ただなりふり構わずに思ったことを口にするだけではダメなこともある……そう知っているから、月は彼女達に“まだ”手を伸ばさない。


――私にはまだ救えない。あなた達を救う為には……もっと多くのイトが必要だから……。


 また、乱世が動き始めた。

 覇王の妹の産声は、名を口に上げることなく響き渡る。

 嘗ての大切なモノを優先せずに、彼女は大陸の平穏を選んだ。


 黒を喰らって、喰らって……大きく増した想いを持つ一人の王は、日輪の影でひっそりと輝いていた。























 †






 仄暗い夜の底。少女は一人、ただ其処にあるだけの温もりに触れる。

 人形となってしまった自身の主は、その暖かな陽だまりの日々さえ思い出すことは無く。自分の中にのみ切り取られているその宝物は、美しいだけの思い出と化した。

 一つの黒が原因だ。仮の主はその色が好きだと言っていたが、彼女はその色が嫌いだった。

 漆黒の闇は夜天を覆う。大切だった真月を覆い隠してしまうから、彼女はその色が嫌いだった。


――黒、黒、黒が染め上げた。ねねの愛しい人を、ねねの大切を、黒が壊した。


 腹の底から湧き出る感情の名を、少女は正しく理解している。ソレが無ければきっと生きてはいけない。ソレが無ければ、自分も愛しい主のように壊れてしまったことだろう。


 憎悪の感情はタールのように粘りつく。それが余計に、彼女の心を燃え上がらせ、頭を一段高く冷やしていく。

 ただ、彼女が向ける憎悪は一つにだけでは無いのだ。

 大切な宝物は、美しいだけの思い出と化した。

 其処に居た彼女は認めてやろう。過去の彼女だけは認めてやる。

 だが……あの時から今までの、その女だけは認めない。


 男勝りな女の声が今も耳に響いていた。

 言葉を紡いだ。心の赴くままに。


“忠義を。忠義を。銀月に従え。夜天を照らすモノはなんぞ。我らが主は蒼天を支え、暗くなりし夜天を照らしたモノぞ。

 天に人に大地に命に愛の詩を詠み、霞を喰らいて雄弁なる華を捧げ、恋音を鳴らした彼女なるぞ。

 刃を向けたるモノは全て敵なり。偽善者死すべし。真の善なるは蒼天に忠を尽くした夜天の王のみよ。”


 己が欲で戦った下らないガラクタ達は、彼女に勝てるはずも無い。貴様たちの望む世界になどしてたまるか。


 その少女、ねねは思う。

 欲望に塗れた諸侯達の作る世界は望まない。特に……あの裏切り者が付いた、日輪と呼ばれつつある覇王等には。


 銀月を望む少女は一人、愛しい主の、ただそこにあるだけの温もりに埋もれた。

 虚無を映す主の心は、きっと敵の頸を全て並べた時に戻るのだ。


――決めたのです。ねね達だけで機を待つよりも、劉備を利用するのです。使えるモノは敵でも使う。それが……今のねねの遣り方。甘えた志を叩き折って、絶望に歪む表情を彼女達に捧げますぞ。龍飛、見ていてくだされ。


 引き裂いた口から、舌を出した。赤い赤い舌だった。

 寝台の横にある果実を一つ手に取って、半分だけ、あーんと口を開いた後に齧った。


 残り半分は誰のモノか。


 押し付けることはしたくないから、彼女はそっと皿の上に置いた。

 いつか食べてくれるはず。彼女が戻った時に、昔のような愛しい笑顔で、きっと甘い果実を食べてくれるはず。

 願いを込めて、ねねは目を瞑った。


――月の平穏を壊したモノは全て賊でしかないのですよ。まずは孫呉、せいぜい龍飛とねねの掌の上で踊るがいいのです、周公瑾。


読んで頂きありがとうございます。


華琳様の考え方については原作での発言からの独自解釈ですのでご容赦を。

私は彼女が過去を求めたり、やすやすとナニカに縋るとは思えませんでした。


彼が気付いた天と人を繋ぐモノについては、予想して頂けたら嬉しいです。


次話からしばらく他勢力。

官渡の間に動いてた子達の話でも。


ではまた

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