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与えられた禊名


 しなだれかかる体躯は幼く、扇情的な空気が発されることは無いはず……でありながら、男の片膝の上に腰を下ろす少女の表情は女のモノに相応しい。

 今生の別れとなるやもしれなかった時を越えて、まず溢れ出したのは歓喜。後に止まらなくなったのは、嫉妬だった。

 一人の少女の隣で本当に幸せそうな笑顔を浮かべていた彼が居たから、朔夜は嫉妬に心を燃やした。

 誰に……とは聞くまでも無い。

 黒麒麟と並び立っていた唯一の軍師が妬ましかった。だから、この状況は予測出来たはずで、彼は避けるべきだったのだ。


「朔夜――――」

「や、です」


 何かを言う前に飛んでくる拒絶。

 放すまい、と衣服を強く握りしめていた。離れまい、と身体をこれでもかと擦り寄せた。

 それを見やってもう一人、彼にしなだれかかる人物も同じ行動を取った。


「“ひなりん”もそろそろ――――」

「だ、ダメでしゅか?」


 問いかける翡翠の瞳を向けられて言葉に詰まった。


 月と関係を進めていたであろう彼の隣に、自分の知らない女が居た。嫉妬に心を燃やしたのは朔夜だけではなく、雛里も同じように。

 月や詠なら別に構わなかった。だが、自分の居場所だというように彼に甘える朔夜を見て、思わずもう片方の膝の上に乗ってしまって出来上がったのがこの状況。

 彼は頭を抱えたくなりながらも助けを求める視線を……目の前でゆったりと椅子に腰かける王に向けた。


「この状況を兵士達の全てに見せてあげましょうか? 皆してあなたを蔑むと思うけれど」

「それだけはどうか勘弁願いたい」


 助けを求めることこそが間違いである。相手は彼の一番苦手とする覇王。

 ただでさえ月と詠を侍らせ続けていたのだ。もはや幼女趣味の噂を止める事が手遅れであるのは言うまでもないが、季衣と流琉に親のような感情を向けている親衛隊の目線が一番厳しくなるだろう。


「秋兄様が、困っています。降りて、ください“雛ねえさま”」


 雛里を姉と呼ぶ事に決めた朔夜がジト目で見やった。自分が困らせている事を分かった上でシレっと言って退けるあたり、彼女は譲る気がないらしい。


「朔夜ちゃんが降りないと降りません」


 少しだけ譲りつつも拒否を示す雛里は、見せつけるように彼の胸に擦り寄った。ギシリ、と歯を噛みしめた朔夜もすぐに真似る。


――どうしろってんだよ……


 二人共に負い目があるから、秋斗は何も言えなかった。見た目幼女の二人にいいようにされている彼に、華琳は冷たい視線を向けるだけ。


「いい加減降りなさい二人共!」

「あわっ」

「うあっ」


 秋斗と華琳が何も言わないのなら、怒りの叱責が他の誰かから飛ぶのは当然。

 このままではいつまでもグダグダと時間を費やすだけだ。

 怒ったのは彼の後ろに居た詠。もやもやと胸に浮かぶ嫉妬も含まれていた。

 飛び跳ねた二人は急いで降りる……しかし、華琳が意地の悪い笑みを浮かべた。


「雛里、膝が寂しいわ」

「しょ、しょれは……」


 懐かしい思い出だ。

 黄巾の乱時代のとある日の一幕。慣れていなかった軍議で緊張をほぐすため……とは名ばかりの戯れを行ったあの一時。

 朱里が華琳の毒牙に掛かって意識を失ったあの日を思い出して、雛里は顔を赤く茹で上げる。

 雛里と華琳以外は首を傾げるも、華琳が何を求めているのかを読み取って、雛里がどうするのかと三人共が見つめ始めた。

 きゅっと唇を引き結び、とてとてと近付いて、組んでいた脚を外した華琳の膝に、雛里はとすっと腰を下ろした。


「ふふっ、いい子ね」

「あわわ……」


 ぎゅう、と抱きしめられて声が漏れた。

 さすがにあの時の朱里のように楽しむ事はしなかったが、雛里を自分のモノに出来て華琳は満足気であった。


「何してんのよ?」

「見てわからない? 雛里を愛でているの。昔は邪魔が入ったけれど……今度は邪魔なんかさせないわ」


 問いかける詠のきつい視線にも動じず、帽子を優しく外して机の上に置き、ゆっくりと頭を撫でつけ始めた。

 ふふん、と鼻を鳴らして秋斗を見た。それで気付かぬ彼ではない。昔の自分がそういったやり取りをしていたのだと思い至る。


「あ、あにょ、あわ……あの時は緊張をほぐす為の意味合いだったはじゅで――――」

「ダメよ。また噛んでしまってるじゃない。緊張してるからそうなるのでしょう? それならこのままこうしていなければダメね」


 耳元で咎められれば、ゾクゾクと変な感覚が湧く。ぶるりと震えを一つ。もう何を言っても噛んでしまいそうで、それなら話すまいと、雛里は俯いて口を噤んだ。

 朔夜がその隙に、と秋斗の膝の上にまた乗ろうとするも、詠がしっかりと服を掴んでいて、思い通りに行かずにしゅんと落ち込んだ。

 やっと自由になった秋斗は苦笑をどうにか抑え込んで、机の上のお茶セットから人数分のお茶を入れて行く。


「……はいよ、ゆえゆえやえーりんみたいに美味くはないだろうけど」

「ご苦労。お茶請けがないのは寂しいけれど今回は許してあげる」

「あー……すまん。お菓子の材料は真桜の工作兵に約束してた報酬で使い切ったからもう無いや」

「別に今から作れとも言わないわよ」

「そうかい。助かる」


 クスリ……と、華琳は穏やかで小さな笑みを零した。雛里の頭を撫でながら。


“こんな笑い方をしただろうか”


 雛里も、詠も、朔夜もそう思う。

 もっと張りのある声で対応したはずで、前までの華琳ならば呆れのため息を零しているくらいだったはず。


「相変わらず変な所で気を使うのね」

「……? 気を使われたのは俺の方なんだが?」


 自分が悪いのだ、と思っている彼が答えると、華琳は大きなため息を吐き出した。


「……相変わらずそういう所は腹立つわね。春蘭のような愛らしさが感じられない」

「おい、遠回しにバカって言ってんのか」

「さあ? 許したのに真名を呼ばないような意地っ張りは確かにバカだと思うけれど。月と詠、雛里のことは別として」

「いや、なんつーか……ほら、な?」

「ほら、な、じゃない。誤魔化されてなんかあげないわよ、私は」

「う……」


 当然の咎めであるのに楽しげで、自分も呼んでいない事を棚に上げる様は子供のようで、三人は華琳の変化に驚きを隠せず言葉を失う。


「……一応さ、形式ってもんを貴ぶべきかなと」

「なら跪いて私の為の将になると誓ってくれるのかしら?」

「それは互いの為にならないって分かってるだろ、お前さんも」

「形式を貴ぶべきと言ったのはあなたでしょう?」

「ぐっ……ああもう……分かった、分かりましたよ華――――」

「ただ、軽く呼んだら頸を刎ねるわ。それと気持ち悪いから似合わない敬語を使うのも禁止」

「どうしろと!?」


 せっかく呼ぼうと決めたのに……自業自得ではあるが、華琳も苛めるのが楽しくなってきたようで意地の悪い笑みが深まっていた。


「自分で考えて好きにすればいいじゃない。大バカ者で意地っ張りの幼女趣味男」


 彼のこめかみに青筋が走った。一応、分かってはいるが最後の発言だけは認められない。


「被せて貶しやがって……そっちがその気ならしばらく意地っ張りの百合っ子覇王様って呼ぼうかね」


 ついさっきまで笑っていた華琳の目から笑みが消える。表情は笑っているだけに、彼女の苛立ちが殺気の如く突き刺さった。


「へぇ、分かった。それでいいわ。絶対よ? とりあえず春蘭と秋蘭の前で呼んでみなさいな」

「……怒られるの確定じゃねぇか」

「あの子達も既に怒ってるわよ、凄く。歓び勇んで飛んでくるんじゃないかしら」


 彼としても、春蘭は別にどうでもいい。いつも通りに追いかけっこを繰り広げたり喧嘩するだけなのだ。

 問題は秋蘭。普段怒らないだけに、どんな返しをされるか分かったものではなかった。


――妙才がキレるとこなんざ想像できないが……ああいう人間に限って怖いんだよなぁ。


 それでも呼ぼうと考えない当たりが彼の度し難い意地っ張りの所以ではあるが。


「……謝ったら――――」

「ふふっ、まず私が許してないのだけど? その点を鑑みて妥当な罰を覚悟しなさい」

「おおう……どうしようえーりん。マジでやばい」

「ボクに聞くなバカ秋斗!」

「いてっ」


 先程までの強気な彼など何処にもおらず、このへたれが、と華琳は内心で毒づいていた。

 いじめてやるのは楽しいが、少しだけ意地を張っているのも事実。先に呼ぶのが秋斗でなければ、何処か負けた気分がするのだ。


 詠に肩を叩かれてうんうんと唸り始めた秋斗。

 そんな彼を見てもやもやと嫉妬を浮かばせている朔夜とは対照的に、昔のような光景に胸がときめきつつも痛む雛里。

 華琳の抱きしめている腕が僅かに強くなって、分かってるわと示してくれるのが少し嬉しかった。


「……じゃあ、その……今回はお疲れ様。そんでありがと、“華琳”」


 悩んだ末に彼はそんな言葉を返した。頭を掻きながら目を合わせようとしない様は照れている子供のよう。

 急いでお茶を啜って誤魔化しながら目を泳がせる彼に、また大きなため息を一つ。


――この落差……どうしてこうまでコロコロと切り替わるのかしら。というかいきなり素直になるんじゃないわよっ


 大の大人が情けない。そんな呆れを感じつつ、唐突に真名を呼ぶ彼になんとも言えない苛立ちが増す。

 無自覚の奇襲は子供のそれと同じく、労いを向けられれば普通の対応を返さざるを得ない。

 何より驚くべきは、なんとなく許してもいいような気にさせられてしまったこと。

 まあいい、と割り切る。このまま緩いペースで話していても本題は終わらない。


「……どういたしまして。あなたの演目、そこそこ楽しませて貰ったわ、“秋斗”」


 なら自分も、と漸く真名を呼んでみた。

 一寸だけ固まった彼は、負けたなぁと零してから口を開く。


「黒麒麟っぽく見えたならいいんだが……」

「どちらにしろ内情を知っている者達以外には黒麒麟としか認識されないわよ。少なくとも私に対してあそこまでふてぶてしいのは黒麒麟以外に出来ないし、まあ、及第点ね」

「落第じゃないだけマシだわな」


 ずず、と互いにお茶を啜る。

 こうしてゆっくり会話をするのも久しぶりだった。官渡の戦が最優先であったのだから当然だが。

 椅子が足りない為に立ったままではあったが詠と朔夜もお茶を飲む。雛里は抱きしめられたままで零さないように慎重に飲んでいた。


「で? わざわざこんな直ぐに私の天幕まで尋ねて来た本題は何かしら?」


 現在は麗羽に対する処罰を終えての夜半過ぎ。朝には行軍を開始して官渡に到着後、しばしの休息を取って帰還するつもりであった。

 他の者は既に寝静まっている頃合いで、秋斗と雛里、朔夜に詠がこうして尋ねて来たわけだが……その意図を大まかにしか読み取れず。


――浮ついた事案では無いでしょう。私に直接、それもこんな戦の後の夜中に伝えに来るくらいなのだから……次の話で間違いない。

 丁度いい。私も確認したい事があったのだから。


 楽しみではあった。黒麒麟も洛陽戦後間もなくで次の手を打っていたのだ。きっと秋斗もそうなのだろう、と華琳は予測する。

 華琳が腕の中に雛里を抱えながらの異質な状況ではあるが、華琳も秋斗も気にしない。


「そうさな……寝る時間を削っちまうのも悪い。本題に入ろう」


 秋斗の目が細められる。見据える黒は知性の輝き。張りのある空気に居心地良さを感じる。

 先ほどまでの緩い秋斗は何処にも居ない。


「まず一つ目。えーりんの名前、どうするつもりだ?」


 一つ目から全くの予想外の質問に、華琳は少しだけ眉を寄せた。

 ただ、一番驚いていたのは秋斗が華琳に会いに行くからと言ったので付いて来ただけの詠本人だった。


「ボ、ボクの名前……?」

「ああ。先に決めておくべきかなって。官渡が終わり次第……ゆえゆえよりも先にえーりんを表舞台に引き上げるから。そうだろ? 華琳」


 当然、と問いかける彼の言葉に、


「ふふ、察しがいいのも変わらないのね。その通りよ」


 なるほどと言った表情に変わる。

 二人を見て、朔夜がまず口を開いた。


「功績による昇格と、袁家征伐による、しがらみからの解放……ではもう詠さんを動かす、おつもりですか?」

「それは華琳の判断如何による。えーりんは俺の部下じゃないからな。先にどうするつもりなのか聞いておきたいだけさ」


 含んだ言い方に引っ掛かりを覚えたのは皆同じく。


「街に帰ってから正式に、と考えていたのだけれど……何か案でもあるのかしら?」

「うん。ゆえゆえは華琳の姉妹になるって言ってる。だったらえーりんもいっそ誰かの姉妹になったらどうかなって」


 なんでもない事のように言って退ける彼。

 彼の発言に驚いたのは雛里であった。


「しょ、しょの、待ってくだしゃいっ。月ちゃんが華琳様の姉妹になるんでしゅかっ?」


 雛里はまだその件を知らなかったのだ。詠に教えられたのは帝の心情操作の為に帰還したことのみ。

 思わず尋ねかけると、華琳が優しく腕に力を込めて抱きしめる。


「私が求めて、あの子が望んで決めた事よ。それについては帰ってからあの子に聞いてみなさい」

「……は、はい」


 そう言われては何も言えない。また責任を背負う立場に立とうと決めた月の心を考えれば、これ以上何かを聞くのも無粋ではある。

 帰ってから話そうと雛里は決めて秋斗に視線を戻した。


「……元々の姓じゃダメ?」

「俺のはただの一提案に過ぎないからな? えーりんがどうしてもってんなら本来の家名を使うのもいいと思う」


 捨てた姓ではあるが、もう一度同じモノを名乗るのも可能。詠と月は確実に死んだと認識されている為に名前を変えるだけでも別人として成り立てる。詠としては元々の姓を名乗るつもりだった。

 家名を受け継がせていくのならそうすればいい。血筋に重きを置いて来た大陸の在り方としても正しい……が、秋斗はそれをしたくないと暗に示していた。


「そうね……私の手札を増やすのなら、詠には完全な新参ではなくあの子達の家に所属して貰うのが一番よ。ただ、私としても無理強いはしたくない」


 何故か、とわざわざ説明する愚を二人は犯さない。

 詠であれば当然辿り着く答えであるのだ。説いて聞かせないのは才への信頼から。


――ボクが誰かの家に入るってことは……あ、そっか。その家の後ろ盾を得るのが目的か。


 華琳の言葉がヒントになった。

 詠本来の家は遠いし、彼女は死んだ人間として扱われている。それならば信頼を置いて貰えるような家柄を得た方がずっと利用価値が高くなるのは間違いない。

 そも、この時代では養子を取る事は珍しくなかった。華琳の親にしても養子として曹家に所属したのだ。月の事も発想としては有り得たことで、詠が望むなら同じ事をしても構わない。


「誰の家に入っても最初は難しい立場になると思う。けど個人で成り上がるよりは何かしら利用した方が既存の文官を黙らせられるからな」


――確かにあり、だと思う。だって一番重要な事は、ボクが月をしっかりと支えられることだもん。


 華琳に仕えている軍師達の家に入れば、それ相応な目で見られることだろう。


――訝しんで来る人は実力で黙らせればいいだけで……うん、いいかもしれない。


 其処は負けん気の強い詠である。他の軍師達の誰にだって負けたくない。

 袁家との戦が終わった今となっては、実力主義が通っている華琳の支配下でも、月と共に行動を行う場所は本拠地以外に据えて置くのが最善であろう。

 下位の者達は命じれば言う事を聞くだろうが、人の心というのはそう簡単に受け入れてはくれない。

 誰とも知らぬ馬の骨が上司になるよりも、家名という後ろ盾があった方が安心感も出るというモノ。

 利害で考えれば秋斗と華琳の提案は詠個人にとってはいいことだらけである。


「例えばよ? ボクが誰かの家に入るとして……誰の家がいいと思う?」


 一応尋ねてみた。

 家の名を貶めた事は申し訳なく感じているが、何が大切かを考えれば受ける方に心が傾いている。

 真っ直ぐに華琳を見据えると、秋斗の横で朔夜が服の裾をちょいちょいと引いた。


「司馬家に、入りましょう」

「朔夜のとこ?」

「はい。私の所は、姉妹が多いので不自然にはならない、はずです」


 司馬家には八人の姉妹がいる。姉は桂花の部下として働いており、他の姉妹も将来文官として華琳の所に名を連ねる事が決まっている。


「司馬八達の名は、未だ私塾に通っている、姉妹達のおかげで売れています。親は気に、しませんし八が九になっても――――」

「却下よ、朔夜」

「ふぇ!?」


 いきなり華琳から却下されて朔夜が素っ頓狂な声を張り上げた。


「か、華琳様……どうして……?」

「他の司馬八達の芽をつぶしてしまうじゃない。順調に才を伸ばしているあなたの姉も、最近あなたと比べられ始めて意気消沈してるのよ?」

「姉様は――」

「姉妹が多いのだから外から迎え入れる必要も無いわ。司馬の家は元々子供達皆がしっかりと働いてくれたらいいと私に言っていたし、朔夜個人の利が多いだけね」


 自分が引き籠っていた事を引き合いにだされるとは思わず、朔夜は言葉に詰まった。


「ぅ……ぁ……で、でも月姉様をも補佐する家として確立されますし――――」

「あー、俺も賛成しかねるかな」

「し、秋兄様まで……」


 秋斗にまで被せられて、しゅん、と落ち込む。


「誘ってくれてありがと、朔夜」

「ふぇ……詠さん……」


 せめて、と詠が頭を撫でて落ち着かせ、抱きつかれる。詠も味方に付かない辺り、反対らしい。


「秋斗はどうするべきだと考えているのかしら?」

「俺が推したいのは……荀彧殿んとこかな」

「桂花さんの所、ですか」


 彼の発言を耳に入れ、即座に思考を回し出したのは雛里。

 華琳は、ふむ……と顎に指を当てながらも笑みを深めた。


――司馬家に見劣りしない家柄なら、私の支援をしてくれている荀家を選ぶということ。最善案ね。


 華琳も同じような結論に至っていた。

 桂花の実家は都との繋がり深く……何よりも桂花の士官を決められるほど旧袁家とのコネがあった。文官達に名が利く土台が出来上がっているのはそれだけで得であろう。


「ボクが桂花のとこに……本人が嫌がりそうだけど?」

「あの子にとってもいい刺激になるわよ。詠は王佐の才を持ってる、とでも私が発破を掛けてあげれば余計に」

「お、王佐って――」

「あら? 足り得ないの? じゃあ他の家にしましょう」

「違う! か、華琳が其処まで評価してくれるなんて思わなかっただけよ!」


 王佐の才とまで言われると思っていなかった詠は、照れているのか慌てて言い繕った。


「……心外だわ。前の軍を一人で回していたあなたを評価しない方がおかしいじゃない。そういえば、何処の誰とは言わないけれど……」


 チラ、と秋斗の方を見てまた意地の悪い笑みを華琳が浮かべ、


「あなたの事をもっと前から評価してた者が居るのよ。その者が言うには、私の桂花に勝るとも劣らない政治屋なんですって。国の中枢には欠かせない存在で正道にして揺るぎなく、大陸でも三本の指に入るくらいの逸材だ、とかも言ってたかしら?」


 そう言うと、詠の顔は真っ赤に染まる。

 ジト目で秋斗を見据えても、彼はさっと目を逸らして知らぬ存ぜぬ。いつものように叩こうとしても朔夜に抱きつかれていて動けない。

 少しだけ詠をチラ見した秋斗は、詠が恥ずかしがってる様子が珍しかった為に、小さく噴き出した。華琳も愛おしげに彼女を眺めて頬を緩める。


「な、ななな何よ!」

「ふふっ、普段のあなたも凛々しくて好きよ。でも照れてるあなたも可愛いわね、詠」

「う……あ……くぅぅ……」


 もはや何も言うまい。この場に居る誰も、華琳の悪戯には勝てない。

 今度は朔夜が詠の頭を撫でて落ち着かせていた。

 可笑しくて笑いそうになる所をどうにか堪え、大きく息を付いた秋斗が華琳を見据える。 


「まあ、えーりん本人は問題無さそうだな」

「桂花も私が言えば聞くから大丈夫でしょう」

「じゃあ……そうさな、えーりんが荀家に入る時の名とか考えてみたんだが――」

「ちょ、ちょっと待って! なんで秋斗がそんな事まで考えてるのよ!」


 遊ばれて震えていた詠も、さすがにいきなりそんな事を言われては喰い付かざるを得ず、驚愕から大きく声を張り上げた。


「いや……ごめん、えーりんとゆえゆえに何か返せるかなって思って」


 申し訳なさげに眉を寄せて謝り、いらぬおせっかいだったと謝罪する彼は華琳の時とは違い素直で、詠は言葉を返せなかった。


――なんでこういう時にそんな事いうかな……もう……


 恥ずかしかったのが八割。いつも通り自分だけで考えていた事に対する怒りが二割。そんな心の中身が、たったそれだけで嬉しさ一色に塗り込まれる。

 卑怯だ、とは言えない。惚れたもの負けだと知っているし、彼の無自覚さも知っている。

 名付けて貰うのは、嬉しいのだ。例えそれが今の秋斗であっても……雛里とは違って、変わらない彼に惹かれ始めていたから。


「……言ってみなさいよ」


 けれども素直にはなれない。また顔を真っ赤に染めて、詠は彼をジト目で見やった。

 そんな彼女の心も分かっていてか、申し訳ないと思っているからか、彼はいつも通りに苦笑を一つ。


「ありがと……“荀攸”ってのでどうだろう?」


 それぞれが耳に入れた名に思考を馳せる中、綴られた名がどんなモノかを知っているのは秋斗だけ。


――この世界には……“荀攸”が居ないからな。


 官渡の戦いでは居たはずの曹操軍の有能な軍師がおらず、重鎮となったはずの詠も名前を失っている。史実とこの世界の相違点についていつでも思考を積み上げている彼は、それなら居ない軍師の中で詠に相応しい名前を持って表舞台に出て貰いたかった。


 官渡の戦いよりも前、街に居た時点で自分に出来ることと言えば、このねじ曲がった世界でも知識を生かせるかどうかである。

 その中には人材の登用があったのはいうまでもなく、思い出せる限りの名前を探してみても収穫はほとんどなし。

 それとなく風に尋ねてみても、聞いたことが無いなんて返事が返ってくる。

 特に荀攸は、官渡直前に何がなんでも揃えておきたかった人材の一人。荀家の家系まで調べて居ないと分かった時の虚脱感は、秋斗以外の誰も知らないが物凄く大きい。


 本当に深い所まで三国志を知っているわけでない彼は、現状の流れと覚えている史実を秤に掛けて詠の名前を考えた。

 その点で言えば、荀家に所属するなら荀攸で決まりである。

 ただ、不安が一つ。


――早死にする名前ってのは……本当はよくないんだろう。


 史実の詠である賈クよりも先に死んでしまう人物の名だ。不安が出ないわけもなく。

 新しい名を考えるというのもありだが、典韋である流琉や公孫賛である白蓮、そして生き残った麗羽や斗詩や猪々子の事を考えれば何かしらの介入によってそのまま生かせる事が分かる。ある意味、運命を共に捻じ曲げたいという決意を込めた名でもあるのだ。


 嫌な未来を寄せ付けないようにするならば、本当は賈クが良かった……が、外部の問題でそれが出来ない。

 なにせ、まだ飛将軍が生きているのだ。三国志を最も掻き乱した単一暴力が、あろうことか怨嗟に染まった陳宮と共に敵討ちを狙っているという。

 彼女達をより深い怨嗟に落とさない為には、詠を一人で表舞台に上げる事は出来ないし、昔の名前を彼女だけ名乗らせるなど出来ようはずも無かった。


――だけど……どうしても『攸』の名を詠に持って貰いたい。


 ただ、それら以上に、彼はその名の意味にこそ重きを置いていた。


「洗い流され、禊ぎ悔い改めし存在……か」


 己が罪を認め、誰かに告げて悔い改め生きていく……図らずも『攸』の字はそんな意味を持っていたのだ。

 だから彼は、決められた道筋を打ち壊すと誓ってでも詠にこの名を送りたかった。


 ぴったりだと言わんばかりに華琳が紡ぎ、朔夜と雛里がコクコクと頷いた。


「詠さ――――ふぇ?」

「あわわ……」


 皆の視線が向くと、詠は朔夜をぎゅうと抱きしめて顔を見られないように隠した。

 震える肩から分かる。彼女は……泣いていた。


「……素直じゃないわね、詠」

「な、何が、よ……」

「朔夜、後ろを向きなさい。秋斗は……嫌とは言わせないわよ」

「……はいよ」

「っ! ば、ばかぁっ! やめっ」


 朔夜がくるりと身体を反転させれば秋斗の隣に詠の背中。優しく抱き上げて、秋斗は詠を膝に座らせた。

 ぽんぽんと頭に手を置いても、詠は逃げ出さずに唇を噛みしめた。そのまま幾瞬、秋斗の方に向き直り、ぎゅうと抱きつく。


「何よっ……なんでっ……そんな……うぅ~~~~」


 黒の衣服に顔を押し付けて、泣く声はくぐもって聴こえない。

 自責の想いは随分前に打ち消した。生きていく上で割り切った。

 それでも名前を変えるという事は、昔の自分を無かった事にしてしまうようなモノ。

 しかし名に刻まれるのは、過去に何かの罪を犯し、それでも前を向いて償おうという在り方。

 嘘つきになるが、自分は忘れない。失わせた命に、昔の自分を信じてくれた者達への決意を込められる名前。

 そんな新しい名前が嬉しくて、自分の事を考えて付けてくれたのが嬉しくて、彼女は小さく……


「あり、がと……秋斗」


 彼の温もりの中で、素直な心を口に出した。





読んで頂きありがとうございます。


日常と乱世の間のようなお話。

起こる事が分かっていた修羅場です。


詠ちゃんが一番責任を感じてたのでこんな名前は如何でしょう。

攸の意味から彼女にぴったりではないかなと。

新しい名前もいいですが、やはり三国志の英雄こそ彼女達にはふさわしいかと思います。


彼は月ちゃんを誰に仕立て上げようとするでしょうか。予測してくださると嬉しいです。


ではまた

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