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ただいまはまだ遠く

 此れから生きていく全ての者に真名を呼ばれるという事は、この世界の人間にとってはある意味で死よりも恐ろしいと言えた。

 大切なモノを汚される事は誰であれ嫌悪と憎悪の感情を浮かべるモノであろう。くだらない挑発でさえ怒りに燃えるモノが居るように、主を貶められて激発する忠臣がいるように、好きな人を悪く言われて昏い感情を心に宿す者達がいるように……大切であればあるほどにそこに抱く想いは増大する。


 勝手に真名を呼んだなら殺してもいい……裏を返せば、倫理や思想、人間として当然とも言える行いを無視しても許される程の罪の重さが、真名を許していないモノが勝手に呼ぶ行いに含まれているということ。

 麗羽はその重い罪を、一生だけでなく、死んでからも許し続けなければならないのだ。


 であるからこそ、麗羽がその選択をした事は人々の心に波紋を齎す。

 死よりも恐ろしい罰を受けて尚、麗羽は償いをしようと思っている。怨嗟に燃える白馬義従であろうと、そう認めざるを得なかった。

 だが、やはり怨嗟の声は止まらない。償いよりも、彼女には直接的な死を迎えて欲しいのだ。足掻いて這いずって縋って生きて欲しくなどないのだ。


 麗羽が泥濘で足掻くのが世の平穏の為である……そんな事は許されない、と。

 屈辱と絶望と後悔に塗れても平穏の為に足掻くのなら……愛する主と似たようなモノになってしまうから認められない、と。


 ずり……ずり……と少しずつ進んで行く麗羽は涙を流していた。

 その涙の意味を彼らは知らず。何の為に其処までして生きるのか、向かう先には死しか待っていないというのに。

 呪いの声を受けても、眉を顰めて歯を噛みしめ、麗羽は進む。

 手は縛られて使えない。足首の腱が斬られて立つ事すら出来ない。それでも彼女は進んでいた。


 血と臓物が染み込んだ大地で、自分が殺させ、死なせたモノ達の残骸に塗れながらも彼女は確かに進んでいた。


 死ねよ……と誰かが零した。

 生きている価値なんざ無い……と誰かが吐き捨てた。

 ケモノ以下のゴミだ……と誰かが貶した。


 兵士達の皆が涙を流す鬱屈としたその場を、彼女は諦めずに進む。


 どうすればこいつの心を折れる?

 どれだけ怨嗟の声を上げようともこの女を殺せない。

 この女を愛する主と同じになんかしたくなくて、悪のまま殺したくて仕方ないから彼らは考えた。


 別に自分の命を失ってもこいつを殺せたらそれでいい……そう考えるモノが出てもおかしくはない。だが、驚くことに一人も出なかった。

 真名を穢す行為を恐れているこの大陸の者達は、それが為された上でさらに彼女を貶める事は本能的に出来なかったのだ。

 故に、彼が禁ずるまでも無く、彼らは直接行動には出られない、出る事が出来なかった。


 次第に怨嗟の声が収束していく中で思いついたのは……一人。


“誰かの涙が零れて光る 今また誰かが泣いてしまった”


 紡がれる言の葉は人が紡ぐ旋律に乗せられて、麗羽が這う音だけが聴こえる場に小さく響いた。

 一小節だけの儚い想いの欠片、白の兵士達を駆けさせてしまった狂気の証が。


“あなたは一人 みんなの為と 夜の涙を掬いに駆ける”


 他の誰かが応えるように紡いだ。その声は少しだけ大きく、場に小さな波紋を広げて行った。

 愛しい主の笑顔を思い出して、目の前の女が壊した平穏を思い返して。


“どれだけ背中を見たでしょう 守られていると気付かずに”


 主に向ける想いの歌が、麗羽の動きを僅かに鈍らせる。

 震え慄き、悲壮に顔を歪ませて、彼らの歌声に恐怖を覚えた。


 自分の臆病で奪った罪を、自分の臆病で広げた戦火を、自分の臆病で無くしてしまった命を……思い出す。

 あるのはただ敵意のみ、誰も従わない異端の大地。白蓮だけの為に狂気に堕ちてしまった優しくて哀しい大地。

 狂気に溢れたその歌は、優しい詞であるはずなのに、彼女の心を引き裂く何よりの刃となった。


 有り得ない罰を受けて極限状態にある麗羽の精神は、後悔と自責の念だけで縋り付いて持っていると言えよう。

 せめてと思っていたのは二つ。

 後悔と懺悔に塗れた彼女は、人々に身を捧げようと思った。

 そして自分を想ってくれる誰かの為に生きようと思った。臆病の罪過を贖い、虚栄心からでなく心の底から大切なモノ達の平穏を望んだ。

 進む道が外道であろうと、存在そのモノが穢されてしまおうと、自分が生きている事で笑ってくれる二人と、自分の為に死んだ彼女の為と、自分に夢を馳せてくれた人々の為に。

 未来永劫許されることは無い、とその歌を聞けば感じて、怨嗟の声よりも心を引き裂いた。


 一人戦端にて指揮を取り、一人思考を回して策を練り、一人全ての責を受け止めていた白馬の王は、麗羽とは真逆の王である。

 玉座の上でただ指揮を取っていた麗羽とは全く違う。

 軍関係の知恵者なら、麗羽の在り方は当然と笑って語るだろう。だが一端の兵士達からしてみれば咎めたくて仕方ない存在であるのは間違いない。

 白蓮の友である桃香は、麗羽とほとんど似ていると言えよう。自分は戦で簡易的な指揮を取るだけで何もしない。一番の仕事は命令と言動の責を一身に受ける事である。

 しかし責めれらないのは何故か……彼女は兵士の前に出るから、民の前に出るから、身近な王として存在するから責められない。弱者の為の王は、戦えないからこそ民の代弁者であり、人身御供なのだ。

 汚い世界で甘い綺麗ごとを言っても誰も聞かないのは普通だが、自分が生きられたらと思う民はその綺麗ごとに乗っかりたい。直接的に自分達の声を聞いてくれる桃香は責められず、民の味方として認識され、生贄の巫女に等しい王となった。


 その点、麗羽には何も無い。

 兵士達の心を汲む事も、甘い綺麗ごとを口から出す事も無かった。権力と金の装飾が剥がれてしまえば、彼女には何も残らない。

 忌み嫌われる乱世の悪を為し、理不尽に平穏を奪った大罪人。特に白蓮こそ王だと思っている白馬義従達からすれば、自分から何もせずに欲に走った王など許せるはずもない。


 歌を耳に入れる度、自責の鎖が身を引き絞る。麗羽の速度がまた遅くなった。

 怖い、恐いのだ。誰かの大切を奪ったという事実が怖い。自分の醜悪さを兵士という民から見せつけられて、白蓮と比べられているのが怖い。自分が辿り着けない所に凡人であれど辿り着いた白蓮に復讐されるのが怖い。


 優しく甘い友人であった彼女の事を、麗羽は嫌いではなかった。

 真名を交換した彼女に、彼らと同じような怨嗟を向けられるのが恐ろしい。

 もし、白蓮が甘さを捨て、憎しみに走ったら……ただでさえ真名を世界に捧げる事で自分の存在そのモノを奴隷以下に落とすというのに、その存在さえ否定されるのではないかという恐怖に陥る。


 吐き出す息は荒く、その歌が聴こえるから表情が恐怖に滲んだ。


“自分には何も出来ないけれど、せめて言葉で伝えたい”


 白蓮の為に何も出来なかった彼らが、詞に乗せて彼女への想いを綴る。

 麗羽を言の葉で殺す事で、彼女の手を汚させないようにしているのではないか。


“何か一つでも力になれたなら、それはどれだけ幸せでしょう”


 後悔を力に変えて前を向き、彼らは今この時を生きている。まだ生きている彼女の為に。

 戦った事実が白蓮の力になれるなら、きっと彼らにとってはそれで幸せなのだ。


“愛してくれた感謝を込めて、あなたの幸せを祈っていいですか”


 ずっとずっと守ってくれた彼女の為に、彼女が笑って過ごせる世界を望む。

 その幸せの為には……祈りを呪いに変えて、彼らは歌を歌い続ける。


 這いずっている麗羽を物見台の上から見下ろしている秋斗は少しも動かなかった。

 助けるつもりもなく、救いを与えるつもりもない。

 もはや賽は投げられた。後は麗羽が死ぬか生きるかだけ。


――俺と曹操の望みを叶える為の手は全て打った。袁紹だけは綺麗事をほざいて生かすなんざ絶対に出来ない。内密に逃がすとか、ゆえゆえ達のように隠して生かすとか……そんな事は袁紹の為にもならん。それに勝者は敗者の処遇を絶対に誤っちゃあダメだ。


 思惑は幾重にも張り巡らされ、未来への手札を揃えて行く。

 此処で麗羽が生きても死んでも、彼にとっては予定の一つ。

 しかし個人の思惑と感情で言うならば、彼は麗羽自身に、麗羽として生きようとして欲しかった。だからこそ生きられるようにイトを張り巡らせた。


――位を奪った所で国家反逆の罰には釣り合わない。真名を捧げさせた上で何処かの勢力に逃がすなんざ悪手中の悪手だし、民に落として人並の幸せなんて……そんなモノはまやかしの幻想だ。あいつが袁紹として生きた事実は、消える事が無いんだから。


 月と詠を見てきたからこそ、人の為に生きようとするなら、麗羽には力を振るえる立場で生き残って欲しいと思った。

 二人共ほぼ同じではあるが、董卓である月は特にその想いが顕著に出ていた。後悔と自責を今も心に持っている。行き場の無い感情を無力に受け止めて、人の為に走り回っている。心を砕き、人の為になりたいと希っていた。


 麗羽がバカであれば良かった。ただのバカであれば、きっと傲岸不遜に強かに、何の罪の意識も感じずに生きていけたであろう。ただ、その場合は生かすつもりなど彼にも華琳にもないだろう。

 しかし仮面を被っていただけの麗羽は、生きるとしても月達のようにしても気が狂うのではないかと秋斗は考える。

 目立つ容姿や存在が、彼女を内密に生かす事を封じている。彼女の命を救うためには、反逆の罰を与えた上で生かさなければならない。 

 その場合、支える者が居たとしても……歴史上類を見ない厳罰の重さに耐えきれずにいつしか自害するか感情を失った人形になるか、もしくは自暴自棄を起こすかもしれない。そうして甘い汁を吸おうとするモノに……操られるのだ。


――だからこそ、自分の力で生を掴みとらせよう。自責の鎖を身に着けてでも、自分の意思で生きる事を選んで強くなって貰う。そうすれば平穏を作らんと願う英雄の一人に再び成れる。そして何より……


 震えながら進む麗羽の姿を冷たくも暖かく見据えて、彼は目を細めた。


――“ゆえゆえの下で傀儡として力を振るって貰うのが俺の目的の為には最善だ。”


 兵士達は絶対に知る由もない事だが、麗羽に降りかかる自責の鎖は、白蓮にだけでは足りない。

 彼女が生きるというのなら、月の存在も知る事になる。

 欺瞞正義の果てに殺した少女が生きていた……復讐に走って相違ない一番の存在が麗羽の側に居る……それはどれだけ恐ろしい事か。

 月は生きて世界を変えたいと望んでいる。麗羽よりも先に正当性を以って戦って、麗羽によって全てを奪われた彼女は未だに世界の改変を諦めず、生き抜く事に縋っている。

 だから麗羽は逃げられない。だから麗羽は裏切れない。だから麗羽は……月に従うしかなくなる。


――自分よりも先に絶望から再び立ち上がろうと決めた真月に、袁麗羽では届き得ない。


 自責の鎖で雁字搦めにした上で、彼女の心を叩き折って絶対の服従をさせること。

 それが彼の選んだ黒麒麟の策略の一つであった。


 華琳は呑み込む王。

 月は受け入れる王。

 桃香は心繋ぐ王。

 そして黒麒麟は……背負う王だった。


 己の道を行く王は他者に在り方を求める。言い換えれば、自身の在り方を他人に求めているとも取れる。

 故に、華琳は呑み込んで見せろと誰もに示し、月は受け入れましょうと態度で表し、桃香は心を繋ごうと手を伸ばす事を欲し、黒麒麟は背負えと縛り付ける。


 遠くに見える彼を見つめて、朔夜は震えていた。


――秋兄様と華琳様が見ている場所は一つだけ。常に乱世の終末の為の手を進めている。だから……袁紹は生き残らせなければならない、です。


 朔夜達のような軍師が、華琳や秋斗、月の欲しいモノに気付けなかったのは、現状置かれている状況を判断した上で先に繋がる最善の選択を取ったが故のこと。

 軍師達と違い、三人が積み上げていた思考は真逆の論理。数学の証明と同じく、先に結果を定めた上で逆算し、其処に繋がらせられる糸を選んで抜き取ったその一点。

 王の思考は遥か遠くを見据えた上で行われる。

 今失われる命に拘らず、されどもそれを呑み込み受け入れ背負い、真っ直ぐに立って高みを目指してこそ覇の道を行ける王なのだ。

 だから華琳と秋斗と月はこの官渡で同じモノを求めた。現在よりも未来の大陸を見据え、判断した上で麗羽を生かして自分達の欲しいモノを手に入れようとしている。


 這いつくばって進む麗羽を見る朔夜の視線は冷たい。憐みも挟まぬその視線は、彼女個人に対しては興味を持ってすらいなかった。興味があるのは、使えるだけの価値があるかだけ。


――袁麗羽……実の所あなたは生きても死んでも構わないんです。あなたが死んだら一手遅れてしまいますが、道筋はほとんど変わらない。ただ、生き残るなら、悪評を対価に得られるあなたの利用価値は計り知れない。


 彼の考えが分かった以上、次に取る戦略は何かと考えれば、麗羽を傀儡とするのが朔夜の組み立てた乱世の絵図では必要なこと。

 既に次の準備を彼女は着々と頭の中で積み上げている。彼が表に王として立とうとしないならば……彼を主としていても、朔夜の掲げる王はただ一人、月のみ。


――月姉さまの片腕は詠さんで決まり、です。袁麗羽も頭は悪くない、それに加えて張勲と私を据えられるので……秋兄様は劉備軍に居た時と同じく、いえ、より強固に、もう一つの曹操軍を作り上げられる。


 多角的に物事を見極められる頭脳を持った組織である曹操軍をもう一つ、彼は作り上げようとしている……それが朔夜の結論。


――文醜を副官にした秋兄様は客将のまま、顔良を副官にする明さんは裏の将として月姉さま寄りに位置付ける。霞さんは中庸の立場としてどちらにも忠を誓い、二人の君主の抑えとして意見を述べ、繋ぎ役として機能する。表裏合わせて曹操軍の五大将軍を完成、軍事の安定も測れますし、万が一両軍の齟齬が発生しても月姉さまの元で自活出来る予防線が出来上がった……そこまで、あなたは考えていたんですね、秋兄様。


 物見台の上で動かない彼を見て、甘い視線を浮かべる朔夜から熱い息が漏れた。

 誰かに従う器ではないのは分かっていたが、覇王に認めさせた上で内部の反抗勢力を作り上げるというバカげた策を練る彼に羨望すら感じていた。


 彼が作るのは同盟などでは無い。利害関係が明確化された別個体同士の関係性ではなく、現代社会で言う親会社と子会社のような、家でいうなら本家と分家のような、そんな組織を組み上げるつもりなのだ。

 統一でありながら統一でない国の在り方は朔夜にとって新鮮で、それでいて現実的な理で成り立つ未来の世界を色鮮やかに見せてしまう。

 しかし……やはり、と思って朔夜は華琳を見上げた。


――それを許容できる存在……否、そうなって欲しいと求める事の出来た覇王こそ、異端です。あなたは正しく、全てを呑み込む化け物です、華琳様。


 恐ろしさに、ぶるりと震えあがった。

 ふるふると首を振って、朔夜はまた、異常な処刑場の隅で彼の為の思考を開始していく。



 涼しい顔で麗羽を見つめる華琳の表情は変わらない。

 生きても死んでもどちらでもいいと思っているのではなく、麗羽が必ず辿り着くと確信している……そんな表情。

 篝火が照らし出す道では、麗羽が速度を遅めながらも這っている。

 耳に届く歌は想いの歌。主に捧げる心の歌。心地よい響きに耳を澄ませて、華琳は動かずに彼女の到着をただ待っていた。


――人が足掻く姿は美しい。麗しさは無くとも、結果がどうであろうと、泥濘でのたうち何かを手に入れようとする人間の生き様は評価に値する。後悔に身を染めて、それでも前を向くあなたは……美しいわよ、麗羽。例え足掻くそこが、他人の思惑だらけで準備された昏い場所であろうと……。


 自分の掌で踊るだけの道化だとは、華琳も思っていない。それは彼女に対する侮辱に等しい。結果がどうであれ、彼女が足掻いているという事実がただ嬉しい。

 麗羽は失ったことへの後悔で過去に縛られているというより、それを背負い受け入れた上で未来に描くモノを己が手で掴もうとしている。


――あなたもやはり王足り得る。未来の為に形振り構わず縋り付くあなたは、嫌いではないわ。


 辿り着いてみせろと願い、華琳は彼女を見続けた。しかし……予想に反して、麗羽の動きは止まった。


 歌が耳に響いていた。

 恐れた歌は心の中にある自分の罪を苛んで仕方なかった。

 自分の兵士達が見ている。目に入った兵士達の表情は、畏れと悔しさが外に出ているだけ。

 誰も声を掛けてくれない。誰も自分を助けてくれない。麗羽は今、一人ぼっちで進むしかなかった。

 脚が痛い。身体も痛い。心も痛い。まだ半分程度しか進んでいない。

 歩けないという事がどれだけ不便か、手が使えないというのがどれだけもどかしいか、麗羽はひしひしと感じていた。

 自分が一体何のために進んでいるのか、自分は何故、こんなに無様な姿で這いつくばっているのか……諦観の影が心に忍び込む。

 そんな彼女を嘲笑う、心の機微に聡い、死神のような女が立ち止まりため息を一つ。


「……死んでもいいよ? そうすればあんたの存在は穢されない。親を殺さなくていいから人も外れない。袁紹は乱世で戦った一人の王として人の記憶に残るだけで済むんじゃないかな。悪名だけど」


 甘い、甘い誘惑だった。

 もう何も罪を重ねなくていい。誰にも自分本来の存在を怨まれなくてもいい。“袁紹”は否定されようとも“麗羽”が否定される事はなく、一人の人間として生を終えられる。


「わたくし、は……」


 何かを成し遂げようとしてもいつも上手く行かなかった。だからほら、諦めればいいのだ……弱い自分が脳髄で囁く。


「自分を生んだ存在の排除は自己の否定と同じだよ。その手を親の血で染めた時、あんたは自分を保ってられるかな?」


 その通りだ、と納得している自分が居た。この手を汚すことなく過ごしてきた麗羽は、命じることはあろうとも自らの手で誰かを殺したことはない。

 何より、同じ事をして人を外れた彼女が言うから、その言は真に迫っていた。


「自分を保てたとしても、あんたが寿命で死ぬまで生き続けられるなんてのも、甘いかもしんない」


 白蓮が自分を生かしてくれる保証など何処にもない。黒麒麟が心変わりをする事もあるかもしれない。華琳が自分を利用した上でボロ雑巾のように切り捨てるかもしれない。

 生き残れる可能性さえ奇跡に等しい。敗北した時点で刈り取られる命のはず。誇りも失った自分に、誰が従ってくれるというのだ……諦観の想いが強くなった。


「親に与えられた命と真名を世界に捧げて、その上で親をも殺しちゃう。きっとあんたの親は殺される時にこう言うよ?」


 赤い舌を出した彼女は膝を曲げて、首を上げたままで停止している麗羽の耳元に唇を近づけた。にやけた口元は自嘲と同じで、過去の自分に対する侮蔑に塗れていた。

 聞いてはダメだ、耳を塞げ、心を閉じろ……願っても願っても、今の彼女にソレは無理だった。


「“お前なんか生まれて来なければ良かったんだ”……って」


 瞬間、真っ白になる頭は、彼女の言葉を正確に取り込んで澱んで行った。


「い……いや……」


 首を振った。涙が溢れた。足の指先から髪の毛の毛先に至るまで凍りついた気がした。


 誰かに否定される事が恐ろしい。

 誰にも肯定されない事が怖ろしい。

 拠って立つはずの自分自身でさえ穢れてしまうから、何も自分には残されていないのだ。

 誰かの為の想いがあるのは誰でも一緒で。

 自分が生きているだけでその想いを悲哀や怨嗟に沈めてしまう。

 支えてくれるであろう近しい者達も憎まれ蔑まれ、自分が生きている限り悪感情の対象に含まれてしまう。


 他人に存在を捧げるというのに、他人の為にならない自分しか居ない。


 矛盾のイトに絡め取られた麗羽の心は、自己否定の渦に呑まれて堕ちていく。


 自分が生まれた意味は、自分の生きてきた価値は……何処にある、と。


「いやっ……いやぁあああああぁぁぁぁぁっ!」


 歌が聴こえた。


 耳を塞ごうにも手を縛られて塞げない。


 歌が聴こえた。


 愛されている白蓮と、どうして自分はこうまで違う?


 歌が聴こえた。


 自分の幸せを願ってくれてる人よりも、彼らの願いの方が大切に感じた。


 あの歌が、あの歌が、あの歌が、あの歌が、あの歌が頭から離れない。


 優しい願いのはずのあの歌に、矛盾の理を突き付けられて、麗羽の心はひび割れて行った。

 絶叫を上げて吐き出さなければならない程に。


 幾瞬、ピタリ、と歌が止んだ。

 彼女の絶叫を場に響かせようとしているかのように、一切の声が無くなった。

 その隙にと、異質な気配が幾つか動いた。感じ取った紅揚羽が口を引き裂く。


「ひひっ、バーカ♪」


 嬉しくて仕方ない、そんな笑みを浮かべて彼女は大鎌を振りかぶった。

 後ろに向いた黄金の瞳に映るのは、薄緑色の髪を揺らした真っ直ぐな少女と、黒髪を揺らし涙に濡れて駆けてくる優しい少女であった。


「姫ぇぇぇ――――っ!」


 斬撃は鋭く速く、駆けてくると言っても手を縛られている彼女達では為す術も無い。


 一寸の間の出来事に誰も動く事が出来なかった。

 噴き出した赤い血を見上げて、笑みを深めたのはやはり華琳と秋斗の二人だけであった。






 †





 一騎打ちの終端、猪々子は彼の言葉を聞いて服従する事を決めた。

 猪々子はこの茶番劇の最中でずっと黙って何も言わなかったのは……彼の言葉を信じたからであった。


――クソ野郎……他に方法は無かったのかよ。


 内心毒づくも、猪々子とて軍に関わってきたのだ。麗羽を生かす方法などほぼ無い事を理解していた。

 思い出すのは彼の言葉。


『なぁ、文醜。お前が袁紹を助けろ。袁紹を生き残らせる為の場を整えるから此処で命を捨てるんじゃねぇよ。どうせ逃げても袁家の上層部に狙われるだろ? それを回避する為に、お前らが袁家を滅ぼせるようにしてやる。相応の対価を袁紹は支払う事になるが……お前と顔良が生きてたら袁紹も少しは救われるはずだ。明もそれを望んでる。

 俺を信じられないなら明を信じろ。それも出来ないなら袁紹の為に死んだ夕を信じろ。夕の望んだ世界には、お前達の幸せも入ってんだ。だから俺にもその想いを繋がせて欲しい……ってことだから此処からは新しい賭けをしよう。お前はどっちを選ぶ? 救いたいモノの為に縋り付いてでも生きるか、意地を貫き通して死ぬか』


 騙された相手だ。しかし夕の真名を呼んだ彼の事を、猪々子は信じる事にしたのだ。

 あの時の涙には悔しさもあった。だが、明と夕が自分達の幸せを願ってくれたと聞いて、自分達三人を許してくれるように思えたから嬉しくて、涙を流した。


 麗羽の命を救う対価は自分の命を秋斗に捧げる事。元より彼女の為に捨てていた命だ、惜しくは無かった。


――救えるなら、生きれるなら、命を繋げるなら、きっと誰だって幸せになれる。姫は一人じゃダメかもしんない……でも、あたいと斗詩が支えるから、絶対に幸せにしてみせる。


 結局彼女は全てが黒に染まった徐晃隊のようにはなれなかった。

 完全には狂えない半端モノ。薄暗がりの空に憧れるだけで、昼の明るい空を望んでしまう。

 そんな彼女だからこそ、秋斗は賭けた。

 ルーレットでベットする色は赤と黒だけでは無く、一つだけ緑がある。彼が駆けたのは大穴に等しい。されども幾重にも張り巡らせたイトを以って、確実に成功させるイカサマ有りの賭けとして成り立っていた。


 心が折れて、這う事を辞めて絶叫する麗羽。

 その姿を目に居れた途端に彼女と斗詩はもう我慢出来ずに駆けだした。

 手を貸すなと言われても、彼女達二人がそんな事を出来るはずも無く、抑え切れない感情を溢れさせて麗羽の元に向かった。


――姫の心が折れたらあたいが連れて行けばいいってことかよ、徐公明。


 猪々子はこの時に彼の思惑に思い至る。止めようともしないのがいい証拠だった。動揺に動けない白馬義従は彼女達二人を止めず、秋斗も止めろとは命じていないのだ。

 だが、彼の言葉を理解したが故に、明が鎌を振り上げた事は完全に予想外。自分達に向ける視線はいつも通り妖しく艶やかで、出された舌は扇情的に過ぎた。


 もしかしたら、明は麗羽を殺したかったのかもしれない。


 そんな予測が頭を埋めて、


「姫ぇぇぇ――――っ!」


 反射的に出た叫びは喉の奥を張り裂く程に大きく。手が動かなくとも、その凶器を身で受けてやろうと猪々子と斗詩が麗羽に覆いかぶさった。

 残ったのは風切り音と、人の肉が千切れる音。


 ただ、何時まで経っても身体に痛みは来なかった。

 誰かが声を上げる前に華琳が手を上げた事によって、そして秋斗が剣を掲げた事によって、兵士達が武器を大地に突き立てる音が響いた。


「あ……れ?」

「なんで……私達、生きてる……」


 静寂の中、そんな言葉を発した彼女達の目に移ったのは……大鎌を振り切った後の明の背中。その先には……鎌が突き刺さって息絶えている一人の兵士が居た。

 コロリ、とその兵士の手から落ちるのは吹き矢の残骸。


「腐れた気配なんかあたしにはすぐ分かるんだよバーカ。あたしに気付かれずに本初を殺したいなら、孫呉の褐色猫狂いでも連れて来いってーの」


 困惑が場に広がるも、華琳と秋斗が打ち込んだ静寂の楔によって兵士達は動けなかった。


「猪々子、斗詩……本初を助けたいんだったらあんた達が助けな。でも逃げたらダメ。反抗してもダメ。あんた達はさ……袁家の二枚看板で、両腕なんでしょ? だったら何したらいいか分かってんじゃない?」


 向ける笑みには昏さは無く、憎しみも見当たらなかった。

 茫然と見つめるも直ぐに取り込み、猪々子は警戒を露わにして周りに意識を尖らせていく。斗詩は……嬉し涙を流しながら、麗羽に声をかけ始めた。


 ひょこひょこと三人から離れて行く明は、殺した兵士の目の前で立ち止まり、ひょいと吹き矢を手に取った。

 ぐるりと兵士達を見回してから、あらんばかりの殺気を放ってその暗殺道具を皆に見せつけるように掲げ上げ。声を紡いだ。


「次になんかする奴が居たら……あたしとお前らの中に潜ませてる張コウ隊で皆殺しにしてやるからね。あたしと張コウ隊は別にお前ら全員と戦っても構わないんだよ。首だけになっても殺し尽くしてあげる。

 それが嫌なら変な動きしようとする奴を殺しな。王の選択を見守るだけなんて……お前らは何の為に戦った兵士だ? クズ共」


 それだけ言ってくるりと背を向け、彼女は麗羽の元に歩いていく。


――やっぱり上層部のネズミが混ざってたかー。


 敗北した王が死んで当然だというわけでは無く、勝者の差配によっては生き残る可能性も確かにある。

 そして今回の戦のような場合、麗羽に全ての責を負わせてしまいたいモノが居る。


“反逆は当主個人の暴走によって行われた”


 そう結論付けて血筋の安定を図りたい……それは歴史上では良くあるトカゲのしっぽ切りのような思考。

 現代で言えば、会社の上司が一人の部下に全ての責任を押し付けた上で解雇するようなモノである。

 血筋を存続させる事を最優先とするならば、袁家は麗羽に生きていて貰っては困るのだ。


 今回の事とは別、通常の戦争であっても同じではある。

 当主の身柄を捕虜とされた場合、服従と共に大きな何かを対価としてその身柄を取り戻さなければ家の名が傷つく。当主を見捨てる家の信用は失墜し、繁栄など全く望めないのだから。

 それなら内密に殺してしまった方が得、という考え方もある。

 孫呉に息づいている“血筋の一人でも生き残っていれば勝ち”の思考と同質ではあるが……誇りと人命を度外視した非情にシビアな駆け引きの一つ。

 今回の袁家が孫呉であったなら、雪蓮であれば自分の命を散らすだろう。袁家と孫呉の違いはその点。王が家の為に死ねるか否か、である。


 当主の命は重い。家の存続を考える上では取引材料として重過ぎる。

 故に、袁家の此れは有り得た一手。麗羽が生きるかもしれないとなった時点で、暗殺される可能性は予測可能。

 明や夕の監視に使わされていた影のモノは間違いなく兵士達の中に居るのだ。動きの制限された麗羽が目の前を通り過ぎるなら、国家反逆の大罪を一人に着せてしまえる絶好の好機で、袁家はその一手を躊躇いなく行える。

 何より、郭図含む袁家の上層部は、初めから敗北した場合の尻尾の振り方すら考えていたのだから、暗殺という手段は事前に命令されていて当然だったのだ。

 捕えてある郭図に聞いても答える事は無いだろうが、長い期間脚を引っ張り合ってきた明は郭図の思考も上層部の思考も読めていた。

 だから、袁家の昏い部分を誰よりも知る明は麗羽を守った。

 麗羽の心を叩き折って、猪々子と斗詩が動く事を利用して隙が出来た振りをして、袁家のネズミを炙りだしたのだ。


 ちら、と明は秋斗の方を見やる。

 小さく頷いたのが見えて、彼女は微笑んだ。


――うん、これで夕の望んだ通りに……夕が真名を交換した子を生き残らせる事が出来るかんね。


 彼女はただ、死んだ夕の望みを叶えたい。

 残された想いを繋ぐなら、彼女の命を喰らったなら、彼女の作りたかった世界を……それが今の生きる理由。

 秋斗がやろうとしている事を知った時点で、彼女は袁家の内部事情を洗いざらい吐いている。

 彼女は夕の為に、麗羽を生かす為の手札の一枚となっていた。


――まさか味方に殺されそうになるなんて……さすがに兵士達じゃ考えられないかー。


 白馬義従も、袁紹軍も、曹操軍も誰も言葉を発さないその場は異質な空気に包まれている。

 三人の元に着くと、斗詩が必死に麗羽に話し掛けていた。

 涙ながらに話し掛けても麗羽は反応を返さない。ただぶるぶると震えるだけで、彼女は恐怖に打ち震えていた。

 猪々子の視線が明に突き刺さる。強い眼差しは守ってくれた事への感謝と信頼。

 舌を出した明はいつもの笑みだけを返して舌を出した。


「別にあんた達の為じゃないし。あたしは夕の為にしか動かないもん」

「それでも……ありがと」

「ひひっ、いいよ♪ せっかく与えられた機会なんだからあんた達は掴み取りな。裏切り者のあたしに出来るのはこれくらいしかないけどさ」

「気にすんな。あたいが斗詩と姫を大好きなように、お前だって夕の事大好きだったんだから」

「……あんがと、猪々子。

 あはっ♪ じゃあそろそろバカなとこ見せてよ」


 自分は救えなかったが、せめて、と笑った。また明は隣に並ぶ。


――言われなくてもっ。


 其処から何をすればいいかは、猪々子は分かっていた。


「斗詩、どけ」


 短く放つ言葉は力強く、麗羽に縋るように身体を寄せていた斗詩の耳を穿った。


「な、なんで?」

「こういう時は言葉なんかに頼らない。あたいはバカだから、それくらいしか知んない」


 ニッと歯を見せて笑う表情は子供のように。

 猪々子は麗羽の耳元で、優しい声で囁いた。


「姫……あたいは姫に生きて欲しい。誰かから悪く言われたっていいじゃんか。少なくともあたいと斗詩はさ、姫のいいところいーっぱい知ってるし、大好きなんだから」


 少しだけ、麗羽の震えが止まった。それでも彼女は動かなかった。


「思い出せよ。あたいと斗詩は“姫の両腕”だ。だからあたい達二人は姫の事を支えてもいいんだ。側に居てもいいんだ。好きに使ってくれていいんだ。でもあたい達は姫のこと大好きな腕だから、わがままでバカな片腕のあたいと、可愛くて優しい片腕の斗詩が……姫を生かしてくれる所まで連れて行ってやる」


 何を……と斗詩が言う前に、猪々子は麗羽の服に噛みついた。

 縛られた腕では安定しないが立ち上がり、麗羽の身体を無理やり引き起こした。

 片腕が王を運んでいく。ゆっくり、ゆっくり……一歩一歩大地を踏みしめて覇王の元へと歩みを進めて行く。

 目を見開いた斗詩も、同じように麗羽の服に噛みついた。

 忠臣にして親友である二人に両側を支えられる袁家の王は……二人に運ばれている事に気付いて震えが止まっていた。


 白馬義従の空気が変わった。怒りが圧倒的に大きかったが、戸惑いが少し混ざっていた。

 物見台の上、その空気を感じ取った秋斗が……大きく息を吸い込む。


「お前ら、その二人は“袁麗羽の両腕”だろ? 王の為に働かない腕が何処に居る。白馬長史の為なら、白馬の片腕は同じ事するだろうが。

 白馬の片腕を止めなかったお前らに、あいつと一緒に戦ってたお前らに……そいつらを咎める権利なんざ、無ぇよ」


 感情を排除された冷たい声によって、怒りの気が一気に収束していった。

 大地に突き刺さった斧を見るモノが幾人も居た。

 牡丹は白蓮の為に戦ったのだ。彼女の為の片腕であったのだ。

 もし、白蓮が同じ状況であったなら、牡丹は白蓮を引き摺ってでも生かそうとするだろう。そんな事は、誰もが理解していた。


 もう誰も、一言も言葉を零せなくなった。

 ただ無言で彼女達が進んで行くのを見るしかなかった。


「……猪々子さん、斗詩さん」


 引き摺られながら着いた階段の前、麗羽が弱々しい声をぽつりと零す。


「此処で降ろしてくださいまし……後は自分で、行きますわ」


 階段の前、麗羽は脚を組んで椅子に座る華琳を見上げて涙を一つ。


――まだ、わたくしの両腕で居てくれますのね、あなた方は。


 与えてくれる温もりが、彼女の心を生きたい意思に染め上げた。

 これから先でも、きっと何度も折れそうになることだろう。挫けそうになることだろう。

 しかし彼女達二人が共に生きてくれるなら、それだけで少しは救いがあった。

 麗羽として生きていく。この二人の前でだけは、昔からずっと変わらない自分のままで居られる、と。


 優しく降ろされて膝立ちになった。腱の斬られた片足の膝を上げ、一段、また一段と彼女の居る高みへと登って行く。

 血と臓物で汚れた姿はみすぼらしいはずなのに、幻想的にさえ見えていた。

 豪著に巻かれていた金髪は乱れ、破れた衣服を纏って彼女は登る。

 目を逸らす事は無く、翡翠色の瞳が華琳のアイスブルーを真っ直ぐに射抜いていた。

 階段の下では、明によって縄を解かれた斗詩と猪々子が拳を包んで膝を折る。皆の目には王を送り出す臣下のモノにしか見えない。

 漸く辿り着いた最上段にて、彼女も二人と同じように縄を解かれる。

 一陣の風が吹き抜け、螺旋の金髪が揺れ動く。


 遠く、秋斗は笑みを零した。

 己が願いは成就せりと、ただ不敵に。

 近く、華琳は笑みを深めた。

 己が思惑は為せりと、ただ不敵に。


 優雅な仕草で、麗羽が拳を包み込んだ。昏さの無い眼差しに決意と覚悟を浮かべ、王たるモノの覇気を携えて。


「我が真名……“麗羽”を、この世界に捧げる事を此処に誓いましょう。

 これより後、我が身は大陸に暮らす人々の為にのみあり。我が魂は安寧を願った人々の為にのみあり。我が心は乱世の果てに作られる平穏の為にのみあり。

 生きる全ての者の想いを受け入れ、背負いましょう。

 死せる全ての者の想いを掬い上げ、叶えましょう」


 声は麗しさを失わず、されども人の欲を排した美しい旋律。

 歌うように自身に科せられた対価を謳いあげれば、皆の耳に届き得た。


 すっくと立ち上がった華琳は、拳を包む麗羽の横を通り過ぎ様、言葉を一つ。


「本当に遅過ぎるわよ。バカ麗羽」


 呆然と、華琳の零した言葉を取り込めずに麗羽は目を見開いた。

 その声がいつもとは違う響きを持っていたから、長い付き合いである彼女は気付く。

 認めていない相手の真名を華琳が交換などするはずも無く、だからこそ、麗羽の真名を捧げさせる事には痛みを伴った。

 後悔はせずとも心は痛む。文句の一つを零したのは、有り得ない厳罰を与えた事に対する弱さの発露。

 信頼を置こうとしていた友としての、“華琳”から“麗羽”への言葉なのだ、と。


 きっと今の華琳の背中は少し小さく見えるのだろう、と麗羽は思う。

 しかし振り返る事こそ侮辱だから……何も言わずにそのままの姿勢を保った。


 凛然とした空気を纏い、物見台の淵に立つ彼女は既に切り替わっていた。

 叩きつける大きな覇気は兵士達の膝を付かせる程に大きく、一人、また一人と膝を折って行く。

 全員が頭を垂れた所で、大きな声を流した。


「此れで“袁紹”はこの世界から消えた! 此処に居るのは全てを世界に捧げた“袁麗羽”のみ! ただし、黒麒麟の提案通り、生殺与奪の権利は公孫賛と私が貰うこととする!」


 兵士達に構わず、じ……と秋斗を見据える。


――白馬義従には俺から伝えろってか。


 小さく頷かれて、秋斗は苦笑を零してから剣を引き抜いた。


「……白馬義従」


 優しい声で語りかけるのは耐えている彼らに対して。

 彼らの想いはまだ達成されていない。その上、怨嗟の矛先を向けるはずの対象に主と同じような姿を見せられて、蓄積された悪感情が行き場を失っていた。


――すっきりするなんて出来ないさ。お前らが本当にしたい事は、公孫賛と一緒に幽州を守ることなんだから。ごめんな、もう、乱世が終わってからしかその時は来ないんだ。


 予測を話すことは無い。面と向かって謝ることなど出来やしない。

 自分達が白馬の王と敵対する事は確定で、せめて彼らを彼女と戦わせたくなくて、彼は曖昧にぼかして伝えていくしか出来ない。


「友達想いの白馬長史は、もしかしたら帰って来ないかもしれない。そんな王が好きだから、憧れたから……守るのを辞めてまで戦いに来たんだろ?

 だからそん時は、お前らの愛した主が帰ってくるまでもう幽州の大地を守る為以外で命を散らすな。ただ待ってるのは辛いだろうけどさ……お前らが死んだら、誰があの土地を守るんだよ」


 諭す声音は戦えない辛さを知っているから苦しみに染まる。


「大事な主を呼び戻す為に戦いに来た。主の屈辱を晴らす為に戦った。その心は否定されるもんじゃない……けど、これ以上は本来の義に従って欲しい」


 雛里からもたくさん聞いた。

 幽州でどう過ごしていたか。自分が白蓮とどんな関係で、ほんの数か月の短い間にどんな日々を過ごしていたか。

 彼女の愛した家がどんな場所か。彼女がどれほど幽州の大地を想っていたか。


 自分の過去の平穏な時間を聞いた彼は……伝えたい事があった。


 きっと俺なら、こう言いたい。

 きっとその人達なら、こう返してくれる。


 雛里が彼の代わりに一人で綴った言葉を。本当は返してくれるはずの言葉を。


「なぁ、お前ら」


 少しだけ声が揺れてしまった。

 震えているのは内側から出て来ない本当の自分の心か、それとも溶け込んでいる一人の少女の心か。

 分からなかったが、胸が苦しかった。


「……“おかえり”って、迎えてくれる人がいねぇのは……哀しいよ」


 ズキリ、と彼の頭が痛んだ。


 優しくて甘い声が聴こえた気がした。

 飄々と悪戯好きな声が聴こえた気がした。


 拗ねながら、天邪鬼なおかえりを返す少女の声が聴こえた気がした。


 不意に、はらり……と零れる涙。彼の頬と、白馬義従達の頬に涙が流れていた。


「“ただいま”って……一人でも多くに言わせてやって……くれないか?」


 止まらない涙が流れていた。

 胸が苦しい。そんな他愛ないやり取りを……普通で、甘くて、優しいそのやり取りを、彼も彼らも求めていたから。


 ただいま、と彼は言えない。

 おかえり、と彼は言えない。

 今の秋斗はそれが苦しくて、悲しかった。


 ただいま、と言いたかった。

 おかえり、と言いたかった。

 大切な平穏の時間に生きていたかった“誰か”が、白蓮に懺悔を向けたがっていた。


 彼の言葉は、白馬義従の心に真っ直ぐ届いた。

 嗚咽が漏れていた。怨嗟の心を、悲哀が凌駕していた。


 ズキリ、と頭が痛んだ。

 頭の中が真っ白になった。思考を正常に紡ごうとも紡げない。


 脳内にフラッシュバックして思い出される光景が一つ。

 聞き取れない早口で喋り倒す少女が、蕩けた表情で白蓮を見つめていたはずで。


――“あの早口はもう聴こえない……俺のせいで”――


 白馬義従の絶望の泣き声が耳に響いていた。


 白い世界が頭を過ぎる。

 茶髪の髪が揺れていた。

 赤毛を揺らす白馬の王が……“自分の腕の中で泣いていた”。

 声が聴こえた。会いたいと叫ぶ声が。

 声が聴こえた。こんな苦しい世界は嫌だと泣き縋る声が。


――“あいつはおかえりっていつも言ってくれたのに……壊したのは俺だ”――


 急な自己乖離に立っていられなくて、膝から崩れ落ちた彼は剣に縋る。

 荒い呼吸を繰り返し、

 止まる事の無い涙を必死に拭った。


――救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい救いたい――


 呑み込めたはずの感情の渦よりも、より大きな救済欲求が彼の心を包み込む。

 嗚呼、と吐息が漏れた。吐きそうになった。


 無駄な徒労を繰り返した黒麒麟。本当に無駄になった命達。自分が救いたくて、救えたはずの命、大切な友達も全て。

 帰りたかった家と、下らなくても楽しい平穏の時間。

 本当はそれが全てで良かった。死んでいる自分には過ぎた幸せで、それでも心から笑顔になれた暖かな刻。


 思い出が溢れ、心を蝕んで行く。矛盾していた自分の罪過、自責の想いが溢れかえって潰されそうになった。

 自分の感情では無いと思うのに、自分のせいだと責める声が止まらない。


 偽善者、と誰かが言った。

 ヒトゴロシ、と誰かが言った。

 どうして助けてくれない、と誰かが言った。

 こんな世界に生きて居たくない、と誰かが言った。

 結局誰も救ってくれなかった、と誰かが言った。


 青髪の少女に会いたくなった。しかし会いたくないと矛盾する。


 その口から紡がれる優しい声を聞きたかった。

 その口から綴られる弾劾の声を聞きたくなかった。


 無意識の内にぎゅうと握りしめた掌は刃の上。

 赤い赤い血が目に入って、“この刃で殺した少女”を思い出す。

 黒髪の少女の想いを繋ぐのは黒麒麟では無く自分だけ。その事実が、彼の頭を冷やしていく。

 僅かに出来た思考の隙間で、どうにか認識した少女は一人。

 赤い髪を風に揺らす少女は、秋斗に黄金の瞳を向けていた。


 約束したのに、と責めるように。


 責められれば、幾分だけ思考が上手く廻り出した。

 視界を回して、魔女帽子を見つけて、彼の心は徐々に静かになっていく。

 ただ彼女の為だけに、彼は黒を演じなければ。彼女の大切な存在を壊してはならない。


――壊れた黒麒麟じゃあ、意味ないもんな。


 心配そうに見つめる彼女の翡翠の視線が、何よりも秋斗の心を癒してくれた。

 深呼吸を繰り返して立ち上がる。もう、頭の痛みは消えていた。

 記憶の混濁は無く、やはり自分の記憶しかない。

 戻るチャンスを棒に振ったとは思わなかった。今この時では、溢れる感情が大き過ぎて壊れてしまう寸前だった。

 大きすぎる自責の念に潰されるのは間違いない。他人である自身でさえこれなのだ。黒麒麟が嘘をついた、平穏を奪われた白馬義従の前で戻れば……間違いなく壊れる。


 ため息を一つ。いつも通り苦笑を一つ。切り替えるにはそれだけで良かった。


「白馬義従、お前達の望みはなんだ?」


 始まりは王の望みを聞いた。次は彼らの望みを聞こう。

 涙を流しながら白馬義従は彼を見る。

 彼の震えていた声を聞き届けた彼らが、鼻を啜って声を上げた。


「俺らは……公孫賛様が治める幽州で暮らしてぇ」

「大好きだ、って言ってくれたんだ」

「俺らだって、あの人が大好きなんだ」


 辛い戦いを思い出せば、また涙を零すモノが溢れかえる。

 それでも、と。彼らの代表として立つ、白馬義従の部隊長が大きな声を上げた。


「……我ら白馬義従っ……義に従い王の留守を守らんっ! だから、徐晃様……」


 次第に消えそうになる声が、彼の耳によく響いた。


「俺らの王のこと、あんたに任せる」

「ああ」


 短い返事をして、剣を両手で持ち……子供っぽく笑った。


「戻らないとか言いやがったらちょっと喧嘩して連れ戻して来るよ。友達だから」


――“黒麒麟の友達”だから。


 嘘をついて、彼の心がビシリと痛む。

 ざ……と白馬義従達が膝を付いた。願いを託す彼に向けて拳を包む。忠義とは違う、約束の為の礼を。


 幾分、ゆっくりと剣を掲げて、彼はまだ頭を垂れている麗羽を指し示した。


「袁家の兵士達に問おう。汝らは何ぞや。袁麗羽の臣か、それとも旧き袁家の臣か」


 先程までとは打って変わった重い声が、兵士達に問いかける。

 静寂は一寸で消失した。白馬義従が彼に礼を向けるのに対して、袁の兵士達は華琳と麗羽に向けて一斉に膝を折った。

 真名を世界に捧げた彼女の誇りに、忠誠を誓う事を決めていた。


「これが答えらしい、曹孟徳殿」

「そのようね、徐公明」


 笑みを深めて兵士達を見る華琳は感嘆の吐息を一つ落とし……覇気溢れさせ、鎌を振り上げた。

 語りかけるのは、後ろで頭を垂れている彼女に向けて。


「袁麗羽! 汝は陛下の臣にして私の臣になった!」

「是、也」


 麗しい声は服従を表し、優雅に華琳の方に向き直った麗羽がまた、拳を包んだ。


「故にそなたの臣下一兵率に至るまで私は愛そう! そして命じよう! 悠久の平穏をこの手に掴む為に! 

 袁麗羽とその臣下に命じる! 旧き袁家を滅ぼせ!」

『御意』


 乱れなき返答が唸りを上げ、華琳の心を淡く擽った。熱量は十分、彼らは袁の支配から逃れた本物の兵士となった。


「白馬義従! 共に戦った同志に感謝を! 幽州の平穏は主が帰還するまで、否、それ以降もずっと共に守る事を誓う!」


 向き直った彼らも、他の兵士と同じように拳を包んで華琳を見据えた。

 平穏を願う心は同じ。彼女も幽州を守ってくれる王であるが故に、信頼を込めて。


 大きく、華琳は息を吸い込んだ。

 短いようで長かった官渡の戦い。その全てを思い返して、僅かに満たされた心を感じて、笑う。


「此処に、此度の戦の終結を宣言する! 勝鬨を上げよ曹操軍! 誇りを叫べ新しき袁よ! 想いを謳え白馬義従!」


 轟音、天を衝き、空を震わせた。


 それぞれの想いを胸に抱き、誇りを心に立て、一人ひとりが心を奮わせていた。


 華琳は打ち壊し始めた世界を想って胸を高鳴らせ、不敵に笑った。

 秋斗は捻じ曲げはじめた世界を想って拳を握り、不敵に笑った。



 官渡の戦いは史実通りに曹操軍の勝利に終わるも、本来語られるはずの歴史とは異なった。

 袁紹は存在を消し、袁麗羽が世界に生まれ出でた。


 早回しのように進むこの世界で、黒の道化師と覇王はさらに針を加速させていく。


 もはや止まる事のない乱世で、張ったイトは幾重にも渡り……全ては世の平穏の為に。















 勝鬨を耳に入れて高揚感に身を任せている彼は一人、物見台の上、


「おっと」


 ぐらり、と僅かにふらついた。

 疲労からか、精神的な負担からか、それとも戻りかけたからか……全身の力が少しだけ抜けそうになった。


「……休んでる暇なんざねぇんだがな」


 ぽりぽりと頭を掻いて苦笑を一つ。

 夜天を見上げてから、彼は脚を進め始めた。階段を降りて行く足取りは問題なく、疲労感は確かにあるがぐらつく程でも無かった。


――次の戦は……西涼だ。その前にする事が一つある。


 空気に当てられたのだろうと結論付けて、いつものように、先へ先へと思考を回していく。

 変わらない彼は、戦が終わっても休むはずはなく、ただ乱世の為に生きていた。誰にも理解されない乱世の未来絵図の為だけに、積み上げていた。


「孫呉への挨拶は誰かに任せるとして、俺は劉備の所に向かおう。噂通りなら記憶を失った事も一手に出来るし……不安要素の多い“赤壁”なんざで戦を起こさないように動かないと、な」















 †





 白の世界でいつものようにモニターを見ている少女は笑みを深めていた。


「ふふ……いい傾向です」


 無限に近しい確率を見てきた彼女は、今まで見た事のない流れを感じて満足気であった。


復元力カウンターである袁家を袁紹に滅ぼさせる。これでまた、ゼロ外史に近づけました。第一適性者である田豊が変えてしまった歪みが修正され、本来の袁家に帰順し、“袁紹が官渡以降、曹操に従った場合の乱世”と同じモノが描かれます」


 くるくると髪の毛を弄びながら、また彼女は笑った。


「そして何より……内部の安定を迅速に行える事によって劉備に対しての警戒が強くなり、“起こるはずの戦”が二つほど消滅しました」


 カタリ……とキーボードを鳴らす。

 映し出されたのは二つ。


 多くの劉備軍に寡兵で籠城を行う曹操軍。

 山岳地帯で追い詰められている秋蘭。

 その二つ。


「田豊の時でもそうですが、曹操軍に適性者が所属する時は必ず、実数外史と同じこの二つ戦が起こってました。特に“定軍山”……史実では赤壁後に起こるはずのこの戦は魏を主軸にすると繰り上げられる事が多い。でも、今回その心配はありません。袁紹を取り込む事で時計の針を早めやがりましたし、戦力図的に傾きがひどくなったので世界の流れが大きく狂いましたから」


 またカタリとキーを叩き、モニターを切り替える。

 映しだされた彼の姿に、少女は憂いの目を向けた。


「ただ……やはり記憶は戻りませんか。世界側の介入でまだ戻らないようになっている可能性がありますね、これは」


 はあ、と大きなため息が宙の解ける。


「私が手を加えると世界も干渉できます。等価で成り立っているとすれば……対価は黒麒麟がぶっ壊れるような場合にのみ記憶の復元をさせる、といった所ですか。その上で、断片的に記憶を修正して御使いとして動かし世界に取り込む……ジョカシステムが演算して出した答えはそれ……あと、多分もう一つ……」


 面倒な、と小さく舌打ちを放った。


「まあ……黒麒麟のイカレた精神性を鑑みて手は打ちました……あとは戻る時機だけ。其処が私の予想通りなら辿り着けます」


 世界の此れからを想って、観測者たる彼女は口を引き裂いた。


「見えてきましたよ……“確率事象の向こう側”が」


――願わくば、この外史が壊れずにいられる事を。



 世界の改変は徐々にではあるが、確かに進んでいた。




読んで頂きありがとうございます。



官渡の戦いが終わりました。

麗羽さんに対する華琳様の貴重なデレシーン。さすがに真名を取り扱った後では弱くもなるかと。


麗羽さんと袁家の臣下達を組み込む事で原作魏√とは違い戦が二つ消えるらしいです。袁家の領地運営が楽になると他にも波状効果が広がって良い感じに。


次回は、他勢力の話に移る前に一話入れます。

華琳様と彼がこの戦で求めたモノのお話と、ちょっとした修羅場を。

郭図くんや上層部、七乃さんの話も後々です。



さすがに官渡の戦いを長く書きすぎたかもしれません。申し訳ないです。


ではまた

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