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変わらない黒

 馬の群れがまるで一つの生き物のように蠢いていた。

 彼らの跨る一頭一頭は手塩を掛けて育てられた白き証明。ただ彼女と共に敵を退ける為に、どれだけ長い時を馬の上で過ごしてきたのか……もはや彼らでさえ覚えていない。

 異民族に蹂躙される民を見てきた。理不尽に踏み荒らされる大地を見てきた。その度に駆けつけて追い返し……しかして守っても守っても、イナゴのように敵はいつでも愛しき大地に寄ってくる。

 年々刻々、研鑽されてきた外敵への対策はあったものの、彼女が彼らの主として立った時は比べるまでも無く段違い。それほど、彼女の守りの信念は気高く強く、彼らに戦い続ける勇気と希望を与え続けた。

 彼女が失われた時の絶望は彼らにしか測り得ない。守れと言われて居残ったのは、只々彼女の想いに報いる為。

 あの歌が頭から離れない。どれだけ歌っても守っても彼女は帰って来ない。


 今はもう、彼らはその約束を違えてしまった。


 欲しい。求めて止まない。心の底から、彼らは主の帰還を願っている。

 誇り高く民を守り抜き、自分達の暮らす家を守り続けた白馬長史が……彼らには必要だった。

 奪ったのは誰だ? 荒らしたのは誰だ? 泣かせたのは……誰だ?

 もはや留まる事を知らない怨嗟の渦を彼らは抑えもせずに身を任せる。

 敵の怯えは見て取れる。腰が引けて対応さえままならない。逃げ出す背中が幾多も見えた。


――だが……それがどうした。


 憎悪の感情は溢れて止まらない。敵を蹂躙する度に、昏い感情が湧いて出て渇いて仕方なかった。

 一人の兵士は、逃げる背中を追い掛けて槍で貫いた。今まで感じた事の無い下卑た高揚感と、心の中を風が吹き抜けたような虚脱感。

 二つが鬩ぎ合い、混ざり合う感情は頭を冷やしていくも……“自分達のこの姿を主が見たらどう思うか”などとは考えられなかった。

 銅鑼が鳴る度に突撃を繰り返す。敵が対応しようと陣形を組めば離れて矢で射崩す。そうして、彼らは先端を蹂躙していった。


 そんな中、彼らの他にもう一つ馬を駆っている部隊が居た。

 誰かが謳うその部隊の名は……神速。嗚呼、と彼らにはまた悲哀が込み上げる。

 あのシ水関の戦いで、彼ら白馬義従は神速と戦った、それも完全なカタチで。

 自身の主と白馬の片腕が居る最高の状態であったのに拮抗していたその部隊の精強さは知っている。


――何故に彼らは御旗が居るのに……我らには率いる彼女が居ない? あの方が居るだけで、我らは神速に勝るとも劣らない姿と成れる。お前らが我らの主を、我らの戦う意味を奪ったのだ。


 共に戦うからこそ、轟々と燃える怨嗟の心がより一層深く燃え上がる。

 勇敢にして美しい他の騎馬隊の突撃が目に入る度に、自分達との差異が心を掻き乱す。

 哀しい、虚しい、苦しい、もどかしい……じくじくと苛む悪感情が、彼らの脳髄を焦がしていく。


 その兵士達の最中で、小さな少女が黒い羽扇を振るっていた。

 冷たい眼差しは何を映すか。どれだけ戦を読み解けるか。自分達だけでは足りない力を補ってくれる少女のおかげで、感情を曝け出しつつも彼らはまだ一己の部隊として戦える。


 一つ振っては誰かの為に。

 一つ薙いでは平穏の為に。

 一つ煽いでは白の為に。

 舞の如くひらひらと揺れる黒い羽だけが、今の彼らが従うモノであった。


 曹操軍が用いているのは、多数の部隊が独自攻勢に転じている難しい策ではあるが、どれもが研ぎ澄まされた部隊故に連携は問題なく。

 時間を置いて、戦場はまた一つ醜悪な色を濃くした。


 憎しみに燃えるのは白馬義従だけでは無い。

 金色の鎧、紅の張旗、腕に巻かれた黒の布……そして手に持ちし槍には、その全てに殺された袁家の兵士達の生首を突き刺していた。


 お前らはこうなるのだと、その部隊の兵士達は口を引き裂いて嗤っていた。人間の醜悪さがまざまざと表される行いに、敵は慄いて震えあがる。


 残虐で、容赦なく、非情で残忍なその部隊の名は張コウ隊。感情の線引きも理性の鎖も外された烏合の衆にして、泥沼の戦場に於いてただ多く殺す事に特化した元袁家の主戦力。

 何故裏切ったと怒る声にも、仲間だったじゃないかと訴えかける声にも、張コウ隊は聞く耳を持たない。

 歯向かえば、立ちふさがれば、逃げようとも……殺すだけ。恐慌状態に陥った先陣は収拾がつかず、彼らが最も得意とする血みどろの戦に早変わりしていく。


 時間を置いて、袁家を絶望に落とす部隊がまた一つ、戦場に姿を現した。大多数の袁家の兵士は彼らの姿を見て恐怖に突き落とされることとなった。





 †





 この時をどれほど待っていたか……空を引き裂く程の雄叫びと共に、私の指示を以って兵士達がまた駆けて行く。

 最終局面で決戦となった場合、組み上げる戦絵図は決められていた。

 十面埋伏によって行う多彩な兵種と部隊での多段攻撃。それが曹操軍の軍師が出した結論。

 皮肉にも、あの時に彼と私を追い詰めた策を改良して袁家を潰す事になったのだ。

 白馬の復興は今は投げていいと伝令があった。再び燃やされるとしても全ての憎しみを袁家に集めるからと……華琳様は民の安全よりも戦を優先した。

 それが正しい。劉備さんには出来ない遣り方。まるで乱世の縮図に思える遣り方。どちらもに手を回すよりも、より早く戦の終結を……この乱世と同じように。


 ズキリ……と胸が痛んだ。


 彼なら、きっと同じようにしただろう。彼と華琳様の思考は同じだ。

 効率を求めて最大限の利を得ようとする。救う命の基準は数と質を天秤に掛けて量られる。二人共そこにある想いを大切にしながら、わがままに自分の信じる道のみを突き進む。


 華琳様は突き抜けたその才能で見極めて、

 彼は類を見ない知識と異端な思考展開で読み取って、

 そうして世界を変えていく。


 ズキリ、と頭が痛んだ。


 白馬の兵達が作る戦場は綺麗な動きながらも容赦が無い。ただ一人の兵も逃がさないと、逃げる兵士であろうと殺しに向かう。背中を斬る必要性は無いのに、それほど憎しみが高まってしまっている。

 私に抑えられるか……否だ。止める気も無い。止めなくていい。戦で最低限の理性を保っているのなら、効率的な戦場を作れるのなら。

 彼らは黒にはなれない。あの人の作った大切な部隊には絶対になれない。だからこそ、私が補佐して灰色にしてしまえばいい。

 怨嗟は持って当然の感情。全てが正しい人間などいやしない。優しい彼に向けて、憎しみを覚えている者も沢山いるのだから。戦をしている以上は、誰もが他人から憎まれてしかるべきなのだ。

 何よりも負の感情は扱いやすい。

 一つ向ける先を示すだけで同調し、従ってくれる。共に戦った経験と、黒麒麟が白蓮さんの為に戦っているという思考誘導によって曹操軍は敵では無いと心の深い部分に刷り込まれる。白馬義従はこれで……白蓮さんをより深く求めるようになるだろう。

 そうして……幽州の大地は華琳様の為に戦った黒に信頼を置いて灰色に染まるだろう。


――この戦いが終わった時に、私があの人を嘘つきにする事によって。


 もう、彼は黒麒麟にはならなくていい。

 自分の為に、自分が描く世界の為だけに戦ってくれたらいい。

 華琳様に重荷を預けて、私に嘘つきの自責を預けて、そうすればあの人は救われる。これでもう、あの人は傷つかなくていいんだ。


 それなのに……どうしてこんなに不安なんだろう。この戦の、今この時に違和感しか感じない。

 きっとこの戦場があの人の作るモノとは全く違うからだ。それがこんなにも……寂しい。


――今のあの人も、戦ってるんだろうか。


 ふと思った。総力戦での戦というからには、彼はこの戦場に居る事になる。

 華琳様の隣で戦を見ているのか、春蘭さんや秋蘭さんの隣で戦っているのか、風ちゃんや稟さんの指示を受けて戦っているのか、季衣ちゃんや典韋ちゃんを守ろうと動いているのか……。

 考えた途端に、私の心臓がドクンと跳ねる。

 抑え付けられそうにない。胸の内から溢れる想いが大きすぎて、無意識の内に辺りを見渡してしまった。彼を探そうと目で追ってしまう。


――遠くから眺めているだけで、いいから。


 違うとしても、今の彼だとしても、一目だけでもその姿を見たくなった。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。

 胸を圧迫する感情の奔流が、会いたいと喚き散らして泣き叫ぶ。

 戦の最中、鳳凰で居ないとダメなのに……彼の事を考えるだけで、こんなにも私は弱くなる。ただの雛里に戻ってしまう。


 もう私は嘘つきだから、あなたに想いを伝えることなんか出来ない。

 私があなたを嘘つきにする。どうか……憎んでください、嫌ってください。あなたが一番嫌っていた大嘘つきは、私が背負いますから。でも……


――あなたが幸せに、平穏に生きてくれる事を願っています。


 苦笑を一つ。割り切る為に。私を知らない彼が誰かの隣で、心からの笑顔で居てくれる事を願って。

 そうして、黒羽扇で指示を出す。


 手足のように動いてくれる彼らは、少しでも怨嗟の心を晴らす為に殺し続けていた。

 もう、敵には特殊な兵器で自分達の士気を上げる事も出来ないようだった。

 バラバラと配置された“ばりすた”の攻略は白馬義従が買って出る。野戦で騎馬が優位なのは言うまでも無く、袁紹軍には神速と白馬義従に対抗出来る騎馬隊は居ない。

 唯一容易な拮抗が出来そうなのは、虎の子とされている強弩部隊のみ。であっても、霞さんと詠さんが綺麗に翻弄しているから狙い定めるのは至難だろう。

 開けた戦場の多段攻撃は敵の指揮系統を攪乱し、兵が入り乱れてしまう場所がそこかしこに出来上がる。

 それに……曹操軍の士気は十分で、如何に数が多かろうと……敵兵達はあの人達のような武将と呼ばれる特殊な存在に恐怖を感じずにはいられない。


 凪さんが氣弾を放てば蜘蛛の子を散らすように兵列が乱れる。

 沙和さんをか弱いと誤解した兵達は双剣によって容易く切り裂かれる。

 真桜さんが振るう螺旋槍の音に怯えず迎える敵などそうそう居ない。

 霞さんの人馬一体の突撃には立ち竦む兵など草原に揺蕩う草の如く。

 秋蘭さんは怪我をしていても弩の腕も一級、指揮しようとしている将が容易く打ち抜かれて崩される。

 そして……覇王の大剣、春蘭さんに対して、袁家で敵う単一の武将はもう居ない。


 違う。違うのだ。特に春蘭さん達のような天に愛された戦乙女達と、彼女達に追随する兵士達を止めるには……正しく血みどろの鍛錬と、決してブレない絆で繋がれた連携が無いと兵だけでは太刀打ちできない。

 否、あるとすれば……絶対の忠誠から来る白馬義従のような死兵か、効率のみを追い求めて個を消し去った紅揚羽の扱う擬似死兵くらい。

 この戦の為に集められただけの兵士では、たった一つの戦場では成り得ない。

 袁家はもう、忠義と狂気の二つを奪われた。

 負け戦の空気は迷いと臆病な方の生への渇望を生む。見れば逃げ出す兵や、投降する者が多かった。戦では当たり前のこと。誰だって死にたくないし、無駄死になどしたくないのだから。

 鬼気迫る白馬義従の怨嗟は敵を恐怖させるに足りていた。そしてまた……憎しみを持つ部隊が一つ。


 金色の鎧に巻かれた黒の布。袁家に於いて最強の部隊であり、彼らが一番頼りにしていたはずの兵士達。

 紅揚羽が育てた張コウ隊は飢えていた。烏巣の戦で兵数を下げながらもこの戦いに出てくる程に。より大きな恐怖を与える為に残虐な行為を平然と行って。

 張コウ隊が戦った陣の兵は全て殺したというのに、それでも尚喰い足りないと槍を振るう。

 断末魔を聞いて引き裂かれる笑みは残忍にして渇いていた。白馬義従も、似たような顔で人を殺している。

 これが戦。本当の戦。私がまだ経験していなかった、怨嗟の戦。これから進んで行く上で必ず向けられる、醜悪な戦。

 彼が作る残酷で冷たい地獄とはかけ離れた、感情の熱に溢れて止まらない地獄。


 未だに戦況を持たせられている場所は、二つ。

 文醜、顔良の二枚看板が指揮する所のみ。それもこちらの軍の対応の為に分断されているから、どちらかを打ち崩せばあとは時間と共に戦は収束するだろう。

 私の目的の為には白馬義従を敵大将の所に向かわせてはならない。勢いのまま、感情のまま殺してしまっては全てが台無しだ。


――袁本初は……相応の殺され方をしなければならないのだから。


 チラ、と後ろの兵が持っている斧を見やる。

 鈍い光を放つその武器は、彼と仲が良かった少女のモノ。白馬義従にとって大切な指標にして、怨嗟と悲哀の象徴と言える。

 これを使う時はまだ。彼に……使って貰わないと。


 幾分幾刻。

 戦場で聞きなれた愛しい音が鳴った。袁家にとっての絶望の合図で、私の心を安らげてくれる優しい音。

 彼らが来たのだ。彼の為に戦い続ける彼らが。

 もう袁紹軍は逃げ出したくて仕方ないだろう。絶望を知らせる黒麒麟の嘶きは、袁家にとって最悪の戦場が出来上がる合図なのだから。

 信頼から、私は彼らの姿を見なかった。白馬義従に指示を出し続け、敵を少しでも減らしていくのみに意識を集中する。


 雄叫びも、鼓舞する声も、何も上げずに突撃する彼らが視界の端に映った。

 一度目は不振に眉を顰めるだけで済んだ。

 二度目にちらついて……思わずそちらを凝視する。そこで、私の思考が全て……真っ白になった。


――ああ……


 心が震える。遠くに見える彼らの中に、たった一つ異なるなモノを見つけたから。

 大きな黒馬に跨りて、先頭を駆けて兵の群れを切り拓く……見慣れた、懐かしい姿。


――どうして……


 無意識の内に涙が零れる。白く輝く剣閃が、日輪の光を反射しながら紅の華を咲かせていく。

 追随する兵士の一人ひとりの連携は、そのモノを少しでも楽にする為に身につけた、その者に身体とまで言わしめた最上の攻撃手段。


――どうして、あなたが……


 幾多の涙は、まるで心の内から零れた感情を表すかのよう。

 会いたい、会いたいと心が喚き散らす。もう抑えられない程に育った想いが、私の心をかき乱す。

 その姿は、私が見たくて仕方なかったモノ。彼らと共に戦う……乱世を住処とする黒の……

 僅かに回る頭で弾きだされた答えは、私が望んでいた結果とは全くの別モノだった。


「どうして……っ……あなたが其処にいるんですか……っ!」


 誰かの為に戦って欲しくなんか、なかったのに。彼はいつでも私の想像を超えて行く。


 彼らと合流したという事は、たった一人で、紅揚羽の願いを叶える為に彼は戦いに向かったのだ。

 命を投げ捨てるように、誰かの為に無茶な戦場に向かったのだ。


 どうしてあなたはいつもいつも、そんな戦いしか出来ないんですか……。

 どうしてあなたは、自分の事を大切にしてくれないんですか……。


――どうしてあなたは……優しくて哀しいあなたのままで……居るんですか……。


 私の願いはあなたの平穏。それなのにあなたは、いつでも乱世に生きる事しか望んでいない。


 そんな簡単に自分の命を使い捨てないで。

 人を救いたいのなら、もっと自分を大切にして。

 心の底から……自分が幸せになりたいと……願って。


 命を賭けるのは正しい。でも、命を投げ捨てるのは違います。世に平穏を作りたいのなら、縋り付いてでも生きようとしないとダメなのに……。

 あなたはまた、そうやって繰り返して、たった一人になっても進もうとするんですか。


 胸の奥にしまっていた大切な想い出が溢れ出す。幾多も、幾多も溢れる彼との宝物が、私の思考をかき乱す。


 始まりの時、暖かく包み込んでくれた彼はもういない。

 雛里には敵わないな……と、優しく笑ってくれた彼はもういない。

 ただいま……と、笑い掛けてくれた彼はもう、いない。


――それとも……もしかしたら……壊れないままで……私の大好きな彼が……


 首を振った。そんなはず、無い。

 深く繋ぎ過ぎた絆から。長く付き続けた大嘘から。ずっと貫いてきた矛盾から。彼が壊れないなんて、有り得ない。

 彼は優しすぎる。強くなんてない。世界の為に戦う英雄になんて、本当はなりたくなんかない弱い人。

 削って、削って、心を擦り減らして、そうして戦ってきた。だから、きっと彼は戻っていない。


 否定する頭に反して、心が希望を感じてしまう。


――会いたい。会いたい、です。声を聞かせて。抱きしめて。頭を撫でて。また……いつものように笑って――


 封じ込めた想いはこんな簡単に殻を破って溢れ出る。


「……っ……」


――ああ、ダメだ。私はやっぱり……彼の事が……


 涙が止まらない。胸が苦しい。すぐに彼の元に駆けて行きたい衝動が湧いてくる。

 でも……


「鳳統さ……ま……?」


 不思議そうな声で尋ねかける白馬義従の一言に、私の思考は少しだけ晴れ渡った。

 きっと“彼ら”が居たら怒られる。あの絶望の戦場でも怒られた。


『今はその姿はいらねぇ』


 彼と私の幸せを願ってくれた“彼ら”の声が耳に響いた気がした。

 そうだ。私は戦の中では……鳳凰で居なければ。グイ、と袖で目を拭った。笑みなど浮かべなくていい。

 私はただ、地獄を作るために指示を出し続けるだけなのだから。

 より冷たく、より残酷に。


「……大丈夫です。では此れより他部隊の援護に移ります。この場は張コウ隊と“黒麒麟”に任せて構いません。順繰りに戦場を巡回しつつ騎射で数を減らす事に重点を置いてください。隙が出来たら、また突撃します」


 御意、と目を伏せての一言。

 この場を離れる前に、一度だけ黒の部隊の方を眺めてみる。

 もう視界には、彼の姿は映らなかった。

 締め付けられる胸の痛みが大きくて、また泣きそうになったけどどうにか堪えられた。


――あなたは……どうしてそこまでして戦うんですか……。


 この戦が終わったら、聞いてみよう。戦場を駆けずとも、求められる姿があるはずなのだから。

 一回だけ、今の彼と話してみよう。

 私の気持ちは伝えなくていい。


 胸の内に秘めたまま……ただあなたの幸せだけを、願っています。





 †





 曹操軍の主力部隊は大きく分けて四つ。

 春蘭と秋蘭、霞の率いる三つの部隊。そして華琳を常に守る親衛隊。兵達はこの四つに厳しい訓練の果てに割り振られるのだが、それらに属さない者達は基本的に未熟な兵士であると認識が持たれている。

 凪、沙和の率いるモノ達は、確かに兵になってから日が浅いモノ達が多く、且つ練度もそれほど高くない。行く行くは街の警備兵にでもなれればいい、そう考えている輩もいるだろう。

 余談ではあるが、真桜の受け持つ部隊は特殊な工作兵なので元から主戦力として数えられることは無かったりする。

 そんな兵士達の認識であるが、今回の戦は少し違う。

 醜い感情を丸出しにして、自分が生き残る為の戦場を経験し、今回は敵が生き残ろうと必死になる勝ち戦を経験している。

 決戦に置いて、凪は一つ決めている事があった。

 延津での雪辱を晴らすと言えば聞こえはよくない。敵が自分から兵士達を追い詰めたにも関わらず、凪達の力量不足で取り逃がしてしまった一人の将、その女ともう一度相対しようと考えている。


 戦功の取り合いは戦の華だ。

 自分から求めるモノでは無いとお綺麗な思考の持ち主たちは言うが、戦人としては当たり前の欲。手柄を立てるというのは求めてこそ意味や価値を持つ。

 別に凪は出世したいわけでは無い。名誉が欲しいわけでも無い。名を広めたいわけでも無い。

 二人掛かりでも捕えられなかったというのは屈辱に値するが、あの異常な戦場では詮無きと割り切ってもいる。


 ただ純粋に、武人としてではなく戦人としての自分の価値が知りたい。


 皆違って皆いい……そういう綺麗な言葉で誤魔化してはならない。曹操軍の掲げる実力主義とは、個性を持っていても有用な価値としての証明が無くては話にならないのだ。

 誰かから評価されるというのは、自分の力が分かり易く理解出来るということ。

 例えば沙和は……ふわふわしているように見えて周りとの協調性が高く、民の評判はかなりいい。

 自信なく過ごしていた彼女だが、秋斗が他人に話す誰かからの沙和に対する評価を耳に挟んでから自信が出てきたらしく、華琳や軍師達の間でも期待の目を向けられている。

 では、凪はどうか、と聞かれると答え辛い。

 真面目で愚直。それは素晴らしいことだが評価しにくいしされ難い。

 承認欲求は人が持つ欲でも大きい。寡黙な凪としては、誰に話すこともできずにもやもやと過ごしているのだ。

 そんな彼女が、この十面埋伏の策で自分の価値を知れる絶好の機会を得た。

 単純な個人武力の差、邪魔の入らない一騎打ちに限って言えば凪に軍配が上がり、部隊の指揮能力で言えば……長く戦を経験してきた斗詩の方が上。

 純粋に部隊同士の力では敵に分がある。どちらかと言えば戦うべきでは無い。


――しかしやはり、此処は自分が……


 そうして一騎打ちになど突入することなく、膠着している戦場が二刻ほど続いていた。

 他の部隊が戦っているし、別段急ぐこともない。落ち着いて、練兵を思い出しながら部隊の指揮をし、自分も戦い、ほぼ互角の有様。

 斗詩はというと……必死で兵に指示を与えているが焦燥を欠片も見せぬモノ。ではあっても、小隊、中隊、大隊それぞれの指揮官の絶対数が少ない袁紹軍では自分が戦いに参加することもままならない。

 主だった敵は既に戦意が低く、未だ敗走しないのが不思議なほどなのに、斗詩が率いるだけで勇気を取り戻して戦いに戻って行く。


――自分の部隊とは……何処が違う? 自分とは……何が違う?


 此れが官渡の戦いに於ける最終戦ということも相まってか、昔から彼女と共に過ごしてきた斗詩の部隊は特に士気が高い。それに呼応して弱気な兵が力を取り戻す。なりふり構わぬ必死な戦いなれど上手く連携も出来る不思議な動き。正直、凪にはわけが分からなかった。

 凪の部隊と違いがあるとするならば……将に対する信頼や絆の深さなのだが、凪では気付けない。

 此れは曹操軍の遣り方の穴。

 新兵を凪達に任せるということは、凪達の為だけの兵は出来上がらないということ。春蘭や秋蘭の部隊の強化はつつがなく出来上がるも、後続が追いつかない、育たない。

 この戦が終わってから、と華琳は考えているだけ。しかし凪にとっては、自分の力が足りないようにしか感じない。

 それに伴って自信が落ちる。悔しさ燃える心はあっても、弱気という魔物は誰にでも巣食う。


 越えられない壁として立ちふさがる幾人もの将達。憧れの背中。凪は……真っ直ぐ故に彼女達に並び立とうと追い掛ける。

 季衣や流琉とは違う憧れの想いは、彼女の心をもどかしさに悶えさせていた。

 逸る心が、ギシリと拳を握り込ませた。


――自分の価値が知りたい。


 何が出来るか……勝ち戦でさえ知る事が出来ないのなら、何処で手に入れられる?

 規律を守れと、誰かなら言うだろう。時には自分の判断で動かしていいと、軍師達は言っていた。稟からの指示は現状維持だが、攻勢に出るのもありではないか?

 幾重に盛り込まれる思考の端、彼女の耳に音が響く。


 綺麗な綺麗な、笛の音だった。

 斗詩の表情が絶望に染まるのが遠くに見えた。

 アレは、あの音は……一度だけ聞いた事のある鳴らし方と音色。

 自分では完成出来ない遥か高みに上り詰めた、この大陸で唯一の例外と……その部隊。

 舞の如き連携連撃は瞬く間に袁紹軍の弱卒を蹂躙していく。先頭を切り拓く長剣は紙屑を散らすように場を蹴散らした。

 無言のまま、声も上げずにこの戦場を死地として戦い続ける化け物部隊。黒麒麟の身体が……凪の膠着させていた部隊を容易に食い荒らしていく。

 横っ面からの突然の参列突撃奇襲と、先頭で笑みさえ浮かべて戦う黒き武将。

 昔は、ただ憧れた。人の命を数として使い捨てる残酷な用兵方法ながら、結果を見てみれば軍全体の被害は驚くほど抑えられるその戦いに。

 実力主義の一つの完成系は、彼が記憶を失っていようがいまいが関係無い。一度繋いだ絆と心の奥底まで浸透した狂信は揺らがず、最効率の戦場を作り上げ、蹂躙するのみ。

 部隊だけの判断では何処に向かうかは決められない。なら、彼が指示したのだ。凪が膠着させている此処を地獄にしろ、と。理解出来ぬ凪では無い。


 ギシリ……と歯を噛み鳴らした。

 悔しさゆえ。不甲斐無さゆえ。彼女の価値を無に帰すほどの、絶対的な壁を見てしまったが故に。


――あなたは、戦場では昔のままですか。


 何処か安穏と構えていたのだ。

 戦では、記憶を失ってしまった彼よりも自分の方が戦えるなどと……勘違いも甚だしい。

 見ろ、黒は変わらず、部隊への絶対の信を貫いている。繋いだ絆を信じきって背中を預ける事を躊躇わず、自分の判断だけで兵を操り敵を効率的に壊滅させている。

 軍師の存在を根底から否定しかねない独自行動と不可測だらけの戦い方。終わってみれば最善かもしれないと思わせる異質なやり方。春蘭の嗅覚や秋蘭、霞の経験と等しく、華琳が多くの兵を犠牲にしてまで手に入れたかった才。

 遠く、彼と目が合う。昏い暗い黒の瞳は濁ったまま、呆れたように苦笑を一つ。

 口の動きが良く見えた。一寸引き裂いた後に彼が……来い、と。手招きと共に。

 ゆっくりと咥えた笛が、また高らかに綺麗な音を鳴らす。二度、三度と繰り返される音色は、まるで誰かを呼んでいるかのよう。


――自分は……何が出来る? あの人の隣で戦えば分かるだろうか。


 将と軍師に任せきられた自由な戦場。乱戦と同じく、此処で判別し戦を捻じ曲げるのは十面埋伏では正しい。情報伝達を待って悠長に構える方が勿体ない。

 だから凪はせめて少しでも学ぼうと、副隊長に指示を一つ。


「部隊の指揮を全て任せていいか?」

「お、俺にですか!?」


 いきなりの提案に素っ頓狂な声を上げた男は、目を真ん丸にして凪を見つめた。

 鋭い眼光に射抜かれて、グッと生唾を呑み込む。


「いや、言い方が悪かった。

 ……代わりにやってくれ。わたしが一騎打ちしている時と同じでいい」


 有無を言わさぬ厳しい言葉。まだ日が浅い副隊長ではあっても、相応の責任というモノは持っていたからか、コクリと頷く。


「防衛主体で構わない。部隊の被害を減らすように戦い、付かず離れずの距離を保って戦線を維持。于禁に伝令を送ってもいい、郭嘉様に指示を仰いでもいい……が、出来る限り自分達だけでやってみろ」

「……御意に」


 これでいい。大まかな指示さえ与えておけば、きっとこいつらは遣り切るだろうときっぱりと言いきれる。

 自分が一から育てた兵士だ。彼らの癖も戦い方も誰よりも熟知している。普段から規律に厳しい凪であれど、自分のしたい事を優先した事もあって、申し訳なさげに目礼を一つ。


「すまない。徐晃殿と戦ってくる。強くなりたいんだ、もっと……もっと強く」


――多くの人を、守れるように。


 矛盾した事柄なれどもう既に飲み込んでいる。

 戦をした以上は、誰かの為に戦っている以上は、人を殺すし不幸をばらまく。

 それでも……自分が強くなる事で手の届く範囲が救えるなら……それが凪の選んだ人生の道。後は屍を踏み越えて進んで行くだけである。


「……いつも自分に厳しいあなたにしては珍しい。けど……いいっすね。強くなりたいってのは俺達も同じですから」


 珍しく、副隊長は砕けた口調で話し始めた。

 呆気に取られること幾瞬。ニッと笑った男は、拳を包んで礼を返した。


「じゃあ俺は副隊長としてこう言いましょうか。雑事は俺に任せてください。いってらっしゃませ、俺らの将、楽進様」


 じわり、と彼女の心にナニカが湧き出した。

 燃えるような熱さと、震える切なさ。自分達の将……そう言われた事が彼女の心を歓喜に導く。

 彼らも強くなりたい。自分も強くなりたい。

 嗚呼、こいつらは同じだ。自分と同じなんだと気付いて、自然に口元が綻んだ。

 心底羨ましく感じる程に暖かい絆で結ばれた徐晃隊や張遼隊、夏候惇隊に親衛隊。延津に於いて夏侯淵隊の絆も見せつけられた。官渡では、真桜の工作部隊ですら似たようなモノになっていた。

 もう少しこいつらと話しておけばよかったかもしれない。いや、今気付けただけでも大きい。


「ありがとう。行って来る」


 そう言って戦場を駆けて行く彼女を見送りながら、副隊長はやれやれと首を振る。


「なんだかなぁ……徐晃様が来てから、随分と上の方々も変わったもんだ」


 厳しさはそのまま。けれども何処か優しさも増えたと思う。


――そして俺らみたいな兵士も……


 黒の部隊の方を一寸みやって、男は笑った。


「はっ……徐晃隊、か。あのバケモン部隊はホント怖ぇ。常に死んでもいいような戦いなんざ俺らには出来ねぇけど……俺も副隊長だし、皆にかっけぇって言われるようになりてぇなぁ」


 噂で聞いた誰かの話。

 一人の男が居た。

 命を賭けて次元の違う化け物に追いつこうとした凡人。

 血反吐を吐いて積み上げた武と、憧れの武将から絶対の信頼を与えられていた兵士達の標。曹操軍の兵士は皆知っている。

 兵士であれど、名を上げたいし良い暮らしだってしたい。それらとは別に、本当は諦めていた姿をその一人の男は示していた。


 男に生まれたなら、意地がある。

 守れないならせめて背中を任せろ。その程度出来ずして、何を以って誇りを語るのか。

 華琳が作り上げた、曹操軍に根付いている誇り持てという精神は……変化することなく、意地という子供のような感情で乗算され、軍の全てが引き上げられていた。





 †




 その時の斗詩の絶望は計り知れない。猪々子と付かず離れずの距離を維持するはずが、兵達の士気低下が想像以上であったことと、曹操軍の計略の対応の為に広く構えるしかなくなっていたのが一つ。

 加えて、一番出会いたくない人物は来なかったものの、袁家を恐怖に落とし続けてきたあの部隊が何処からか現れたのだ、気が動転しないわけがない。

 シ水関で見せた参列突撃は的確にして迅速。使われる側としては、これほどまでに行動制限が強いられるのかと驚愕に支配される。

 僅か短時間で死んでいく兵士が多すぎる。出来る限り内へ内へと強い小隊を回していたが、それも此処まで。

 アレを抑えられるとは思ってはならない。


――黒麒麟は……例え自分の部隊の兵士全てが死に絶えようと、結果を得るまでは攻撃を辞めない。


 誰かに任せるを良しとせずに自分達で戦うクセがある……と、斗詩は聡く気付いていた。


 普通の人物なら、精強な兵士の被害を出来る限り減らすように戦う。攻勢に出ていても、勝ち戦でも、通常はそれが正しいのだ。けれども、黒麒麟はその真逆を突く。

 精強だからこそ、より多くを救う為に使い捨てる。それが徐晃隊の異常性の大きな部分。

 敵は徐晃隊のその異常性に恐怖して、徐晃隊すら満足に減らせなくなる。

 なるほど似ている、と斗詩は思う。紅揚羽の張コウ隊とやり方がほぼ同じなのだ。

 心理を操り人を惑わす。厄介なのは、張コウ隊のような悪辣さでは無く、段違いの練度から変幻自在に動きつつカタチを保てる部隊指揮。


――決戦をするとは言ったけど、これじゃもうただの烏合の衆。どうすればいいんだろう。


 戦の経験を積んできたから分かる。此れは既に負け戦だ。裏切りが行われた時点で逃げ帰る事に全力を注ぐべきだったのだ。

 しかし……袁家には帰れない。帰りたくなど、無かった。

 麗羽が殺される。家に殺される。

 子は親を生めない。親は子を産める。子の命は親のモノで、どう扱われようが文句は言えない……その対象が、袁家当主であったとしても。

 上流階級では当たり前の出来事。親が子を売り払うなど、そこらの貧しい民でもしている事ではあるが。

 家とはそれほどに重いモノだ。大陸でまかり通ってきたモノで、世界中にありふれている常識でもある。

 だから、斗詩は麗羽と共に家に帰るよりも戦う事を是とした。

 勝つ事だけが唯一、麗羽に残された生きる道だった。


――糧食もほとんどない。兵士達の士気はどん底。また誰が裏切るかも分からない。こんなの……もう……


 戦い続ける意味など無いと、弱気な自分がまた浮き上がる。僅かにでも勝機があると考えていた事こそ甘い認識ではないか、と。

 絶望の戦場で一人泣くわけにもいかない。心が折れそうでも彼女は将。兵士達に不安を見せない為に胸を張り続けなければならない。


 指揮の負担から、そして見る間に減って行く兵数から……彼女は甚大な汗を流していた。頭脳をフル回転させて戦場を持たせているのだ、疲労は相当に高まっている。

 ちらちらと映る影が気になった。黒の衣服に煌く剣閃が、今この場では何より恐ろしい。


「……あ」


 声を漏らしたのは驚愕からであった。

 思わず見てしまったその方向で、黒の男が口を引き裂く。隣では見た事のある灰色の将が何かを話していた。

 彼が緩く腕を上げた。何をするのかと身構える。親指、人差し指、中指……三つ立てた指がゆっくりと折られていく。

 分からないモノは恐ろしい。彼の引き裂いた笑みが、紅揚羽と被って見えてさらに恐ろしかった。


 ゾワリ……と本能的な恐怖から身の毛がよだった。このまま此処に居てはまずい、と。

 彼の握った拳が突き出され、彼女は自分の勘が正しかったと判断する間も無く、馬の上から形振り構わず転がり落ちた。


 大きな馬の嘶きが聴こえ、次に兵士達の断末魔が聴こえ、胸の前に掲げていた大槌が金属音を幾重も立てた。

 見れば、自分達に来たのは槍の群れ。正確な投槍は徐晃隊の十八番。彼は後続の部隊の装備を斗詩に向けて投げさせたのだ。

 敵指揮官の足止めと指揮封じ。捨て奸に使う攻撃を平然と使うのもまた彼のやり口。使えると判断したなら即断で行動を起こすのも、黒麒麟と変わらない。


 直ぐに起き上がった斗詩は……やはりダメだと思い至る。

 怖かった。恐ろしかった。そして何より……死ななくてよかった。

 そんな想いが胸を支配する。震える脚も手も、もう抑え付けられない。


――死にたくない。まだ皆と笑い合ってたい。もっと……もっと生きていたい。


 兵士により近しい心を持つ彼女は希う。生物として一番の本能。生存欲求が心を満たし、戦事と並列思考を積み上げながらどうすればいいかを組み立て始めた。


――生き抜くには、麗羽様と文ちゃんと生き残るには……どうすればいい……考えろ、考えろ……。でも、勝てなかったら……あ……。


 そこで思い至る。

 ただ生きる為ならば、別に勝たなくても良いのだと。

 それは一番やってはいけない事だ。戦ってきた兵士達の想いを全て無駄にする事だ。そして赤の少女を最も怒らせる行いで、誇りを優先する曹操軍に捕えられれば生き残れないと断言出来る方法。分かっているが、彼女は友達と一緒に生きたかった。


――……生きる為なら……逃げればいい。


 赤と黒の少女が出来なかった選択肢。人生を賭けての逃亡生活になる。名さえも捨てなければならないだろう。

 心を繋がずに、誇りなど投げ捨てて、生にしがみ付けばいい。

 生きてさえいれば、わずかながらも幸せになれる……そう信じてもいい。


 ただ……そうして彼女が思考を積んでいる間に……近づく影が一つ。

 金色の鎧、居並ぶ兵士よりも小柄な体躯。赤い髪が、兜の隙間で揺れていた。


 斗詩の元には前線で戦っていた兵士が多く集まり再編成を繰り返していた。

 それが力となって此処まで持っていたのだから称賛されてしかるべき……が、彼女は裏切りがあった場合、敵がどういった行動を起こせるかを考えていなかった。


「な、なんであんたがっ……ぐぁっ」

「え……?」


 少し遠くで兵士の悲鳴が聴こえた。後背は自分達の味方だけのはずで、そんな悲鳴が聞こえるはずはないのに。

 血霧が舞う。肉が弾け飛ぶ。徐々に近づいてくるその音が、彼女の心を再び深く昏い絶望に落として行った。

 前には黒麒麟、後ろには……


「ひひっ、あははっ! あの人にばっかり気ぃ取られてちゃダメじゃん?」


 紅揚羽が、其処にいた。

 誰かが叫んだ。裏切り者、と。すぐさまにへらと笑った彼女に切り裂かれて命を散らす。


「そのとーりっ♪ 裏切りモノの張コウでーっす! 憎い? 憎いよね? だったらさ、殺したいなら……掛かって来いよ。全員殺してあげるから」


 遊んでいるような声はいつも通り。人の命を喰らっている時の、ヒトゴロシを楽しんでいる時の彼女の声だった。

 たかだか百以下の兵数が明と共に戦っていた。夕と一緒に居たはずの張コウ隊の精兵で、彼らは自分の命を度外視して此処にいるのだと、直ぐに分かる。

 もう立て直すことは誰が見ても困難だ。外だけでもいっぱいいっぱいなのに、中で掻き乱されてはどうしようも無い。


「ねぇー、斗詩ぃ? ちょーっとあたしとお話しよっかぁ♪」


 斬り結びながら嗤う彼女に、斗詩は震えた。

 ぺたり……と地面に膝をつく。逃げられない。例えどれだけ兵士が守ってくれようとも。

 戦意無きその姿に、兵士達は衝撃を受ける。どれだけ絶望的でも、弱気ながら立っていた彼女が遂に折れてしまった。

 我らの将を守らなければと思うから、守ろうとするから、列が乱れた隙に……彼らは無理矢理に突出する張コウ隊の数十名に突き殺されていった。

 ひらり、と舞うような足取りで近づいてきた明が鉤爪を振るってさらに道が開ける。


 赤い舌がペロリと唇を舐めた。此れから何を食べようとしているのか、斗詩には分からない。

 もう立ち向かう勇気さえ、折れてしまった。親友に心の中で助けてと願うことも出来なかった。明が敵として前に居るだけで、斗詩の心は諦観に支配されていた。

 一歩、二歩……兵士の攻撃をひらひらと躱しつつ殺しながら近づいてくる明を見続ける。吹き出た鮮血が彼女の紅い髪を真っ赤に染め上げ、妖艶さを際立たせていた。

 漸く肉薄した明は、斗詩の後ろに回って鉤爪を首に押し当てた。


「今のあたしは曹操軍♪ どういうことか、分かるよね?」

「……ごめん……ごめん、ちょこちゃん。私の、せいで」


 慄き震える唇からやっと出た言の葉は彼女への懺悔。直ぐに話していたら、もっとうまく出来ただろうに。彼女も、きっと裏切らなかっただろうに、と。

 興味なさげに薄く笑みを浮かべた口から、ゆっくりと優しい囁きが紡がれる。


「……言いたい事はそんだけ? 気にしないでいいよ。夕の為にしてくれたんだから、さ。その代わりにー……後でたーっくさんお礼してあげる♪」


――文ちゃん、ごめん。私は……もう助からないみたい。だから……麗羽様を連れて、逃げて……


 涙が一筋、頬を伝う。抵抗せず、彼女は猪々子の身を最後に案じた。


――私のせいだ。私のせいで……台無しになった。


 後悔と自責の刃が心を引き裂いて行く中、斗詩の意識は暗闇に堕ちて行った。



読んで頂きありがとうございます。


申し訳ありません。

斗詩と猪々子をそれぞれ書きたかったので分けました。

凪ちゃんお悩み中。

彼は効率重視の平常運転。次話で少しだけ凪ちゃんとの話を書きますね。


ではまた

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