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黎明の光が掃う空に

 明が捕えられてから三日目の夕刻。

 袁紹軍の兵士達は動揺を隠す事も出来ずに士気は下がる一方であった。

 袁家でも最強の将が捕えられた……例え数が多くとも、その事実は彼らの心を敗色に染め上げるには十分。ただ、重鎮達は彼女の事を信じている為に、士気が落ちるまではいかない。

 そんな中、夕は急な軍議を開くとの麗羽から言われて、大将の天幕内に来ていた。

 そわそわと身体を揺らす猪々子。不安が全面に出ている表情で悩ましげな斗詩。そして……王たるモノを示すかのように優雅な仕草で椅子に座っている麗羽が迎えてくれる。


「お疲れ様ですわ、夕さん」


 久しく口に出した真名は親しみを込めて。己が王佐と呼ぶに相応しい少女を愛おしげに見つめ、麗羽が柔和な微笑みを浮かべた。

 幽州に居る時に買った魔法瓶から、斗詩が夕の分のお茶を注いでいく。

 柔らかい香りが僅かに広がり、湯飲みを受け取った夕は黒瞳を麗羽に向けた。


「ん、麗羽もお疲れ。人払いまで済ませて……なにかあった?」


 一言の問いかけ。主に溢れるは歓喜の色。揺れる瞳も、震える唇も……何を思ってかは容易に読み取れる。

 反して、夕の心は落ちくぼんで行った。


――やっぱりそう来たか。あのクズめ。


 長い間戦ってきた敵である。

 何を狙っていて、どういった結果を求めて、どういった策を用いて……自分を殺しに来るかなど手に取るように分かった。


「夕さん。遂に……遂に連れてくる事が出来たのですわ!」

「……何の話?」


 誰を、とは聞かずとも分かるが、夕は話を促した。出来る限り、知らない振りをしながら。

 斗詩はその様子に僅かな疑問を感じるも、明くらいでなければ夕のことなど読み切れない。


「斗詩さんが内密に調べておりましたの。且授さんの命を救える程の医者……神医“華佗”を、南皮に連れてきた、と報告がありまして……」

「……っ」


 目を見開く、息を呑む、身体を震わせる……その全てが、夕の演技。

 知らなかったと思わせて、彼女達の心をこれ以上無く安堵させようと。

 さすがに杞憂だったかと、斗詩はほっと安堵の息を零した。

 一滴の涙を目尻に浮かばせた麗羽は、すっとたおやかな仕草でソレを払った。


「ひ、姫? マジで?」


 あんぐりと口を開けていた猪々子は徐々に頬を緩ませて歓喜に染まる。斗詩も、漸く彼女が報われたのだと、涙を浮かべた。


「ごめんね田ちゃん……黙ってて……」

「……いい。私達の為にナニカしてくれてるって、分かってた」


 浮かべる涙も嘘、震える声音も嘘。


――“南皮に連れてきた”。他の所で、誰にもバレないように連れて来てたなら、まだ救いがあった。


 ただ思いやりの心と、絶望に震える手だけは本物であった。


――お母さんがまた働けるようになるのは袁家にとっても大きな利益になる……優しい麗羽達はそう考える。


 巡る思考は何度も繰り返したモノ。大切なモノが助かる未来を追いかけ続けて、足掻いて足掻いて、抗ってきた。


――曹操を倒せば大陸でも一番有力になる袁家が、“自身に抗いそうな一人の才如き”に固執するわけが無いのに。


 救いを求めて戦ってきたから、敵の思考も思惑も、その全てが手に取るように把握出来た。


――生きているか死んでいるか分からない状況。護衛に残してきた兵士達に賭けるしか、私には手が無い。


 大切なモノが助かる可能性が僅かにでもあるのなら、夕は賭ける。母を失っては全てが台無しで、彼女自体も耐えられない。


――疑念だけで判断するのは早計。けど、あのクズと上層部なら、私を殺したいに違いない。


 優しいから、家を捨てきれないから、麗羽達は気付かない。自身の家の悪辣さを本当の意味では理解出来ない。


 一瞬の思考は誰にも読まれることが無い。

 彼女の頭は些か良すぎた。そして……母を切り捨てるには……少女の心は弱すぎた。

 一筋の光明のような希望に縋るしか、夕には残されていなかった。


「夕さん」


 目の前で浮かべられる麗しい微笑み。瞳を合わせるは自身の真名を捧げた主。輝かしい栄光の道を歩けたはずが人形にされてしまった王。

 可能性の話で彼女達の優しさを無碍に切る事も出来ず、夕は王の言を待つ。


「張コウさんに授けた策は必ず成功しますわ。あなたの大事なお友達ですもの、彼女はあなたを信じて遣り切るに違いありません。わたくし達は信じています。ですから……あなたは……その……」


 言い難そうに眉根を寄せる彼女は、漸く本当の自分としての道を歩き出そうと、意思を持った一人の人間。誰がその初めの一歩を挫けよう。


「ん……命じて、麗羽」


 一つ、涙の雫が零れた。

 麗羽達は歓喜の涙だと思ってやまない。

 夕にとっては、諦観と絶望に塗れた一滴であった。


 大きく深呼吸をした麗羽は、碧の宝石の如き瞳を輝かせ、ふるふると首を振ってから、優しい、優しい微笑みを向けた。


「いえ、主としてでは無く、お友達として言いたいのですわ。あなたの大切な母と、ゆっくり休んでくださいまし。わたくし達の勝利を信じて」


 肩を震わせて、もう嗚咽を抑えられずに、夕はしゃくりあげた。

 夕の胸には後悔が一つ。

 “もし”、この優しい王ともっと早く理解し合えていたのなら……


――私達には、救いがあったのかな……明。


 誰にも話す事の出来ない黒の少女の絶望が、夜の闇と共に迫っていた。





 †





「秋兄様っ」


 後ろから掛かる少女の声に、未だしゃくりあげている明を支えて歩いていた彼の脚が止まる。

 たたっ……と走り来て、朔夜は黒の外套をぎゅうと掴んだ。


「ダメ、です」


 抑え切れるわけがない感情の発露。初めて出来た大切で、絶対に失いたくないのは朔夜も同じ。明にとって夕が大事であるように、朔夜にとっての秋斗もそういう存在。

 ふい……と明が少女を見やった。絶望に支配された視線が交錯する。今にも泣き出しそうな少女と、泣いている少女。


「私の、大切な人を……っ……奪わないで」


 縋り付くような声が零されても、明は表情を変える事は無い。


――ああ、この子はあたしと同じだ。秋兄が一番大切で、他の命はどうでもいいんだ。


 こんな所にも自分の同類を見つけて、なんら光を宿さない昏い黄金が揺れていた。


――怖い、恐い……この人が死んでしまうのが怖い。居なくなるのが怖い。“戻ってしまうのが……怖い”。この人が居ない世界になんか、価値は無い……。だから……連れて行かないで。


 喪失は絶望だ。変化は恐怖するに足る。朔夜が頭を撫でて欲しいのは今の彼で、並び立ちたいのも今の黒。夜天に相応しく成長し得るのは黒麒麟では無く、記憶を失った彼だと、そう感じていた。

 この程度で揺らがないなら切り口を変えるべき。そう判断した朔夜は、希望を込めて口から真実を並べた。


「この人は……あなたの、知っている黒麒麟ではありません」

「……どういう事?」


 ずっと疑問に思っていた。昔の彼かと言えば違和感を覚える対応。真名さえ呼んでくれないなら当然。


――昔のこの人では無いと知れば、きっと彼女は怒るはず……。


 藍色の瞳が輝く。昏く、暗く。

 情緒不安定な人間に切片を投げやれば、信じる心を揺るがせる。そう信じて続けた。


「秋兄様は、劉備軍所属時の記憶を失っています。鳳雛の、事でさえ覚えていません。当然、あなたの事も」


 驚愕のまま、秋斗の横顔を見た明は、目を瞑り黙っている彼をじっと見やった。


――記憶を……無くした?


 だから真名を呼ばなかったのかと、納得が行く。

 自分と同類だと信じてやまないモノが異物だった。それは明にとっては大きな問題。


――じゃああなたは、なんの為に夕を助けたいの? ただ曹操軍の勝利の為に、あたしを利用しただけ? 曹操の為の将に……本物の狂信者になっちゃったわけ?


 冷たいくせに甘くて、優しいくせに残酷で、矛盾だらけでも芯を持つ、そんな男だから信じられるのに……そうして疑念の種が心に蒔かれる。

 す……と開かれた眼。黒瞳が黄金に向けられ……明は呆然と見つめた。


「で? それが田豊を助けに行く事と関係があるのか?」


 呆れたような笑み。目的を求めるだけのその言は、彼女達が連合時に示したモノと変わらない。

 互いに利用しあうだけの関係性。それ以上は求めないし、それ以下には絶対にならないという利の話。信頼はしなくていいから信用しろと、彼はそう言っているのだ。

 後に彼は膝を折って、朔夜の頭にぽんと大きな掌を置いた。


「引き止めてくれてありがとよ。でも、ごめん」

「あなたが、命を賭ける必要が……」


 ふるふると首を振る朔夜。外套を掴む小さな手を、そっと彼は包み込んだ。


「……俺は徐公明だからな」


 訳が分からない物言いに、答えを求めるのは当然で……しかし彼の言を読み解けるモノなどこの世界に居るはずも無い。

 ただ、ニッと笑ったその表情は自身の生存を疑っていない。


「負けも討ち死にも、まだまだしてやるわけにはいかんのさ。例え相手が誰であれ、敗北必定の戦であれ……」


 与えられた名前は不敗の将軍と呼ばれた史実では負け無しの男。

 なら……今の彼はそうあれかしと願い、乱世を駆けるだけであろう。

 捻じ曲がったこの世界で、より大きく、強く在る為に……待ち構える壁は壊すだけ。


「信じて待っててくれ、朔夜」


 力強い瞳の輝きは、曲がる事の無い意志を。

 優しい微笑みは、想ってくれるモノへの感謝を。


――それでも、いや、です。


 もはや何も言う事が出来ず、しかし心が拒絶を示す朔夜は手を離せなかった。

 ふいに、後ろから抱きしめられる。いきなりの事に手を緩めてしまい、それを見逃す秋斗でも無く、優しく手を解いて立ち上がった。


「……っ」

「任せた、妙才」

「ああ、遣りたい事を遣り切って来い」


 朔夜の小さな背に回された腕は力強く、引きはがす事など到底出来ない。

 ぽろぽろと涙を零す少女に心を痛めながらも、秋蘭が上げた片方の掌に自分の掌をパチンと一度だけ合わせてから、秋斗は明と共に歩いて行った。


「朔夜、背を見送るのも役目だ。お前はあいつと並び立ちたいのだろう? なら……お前も仕事を遣り切らなければな」


 諭すような声音。静かで張りのある声に、するりと手をすり抜けて掴めない事が悔しくて……きゅむきゅむと追いすがりたいと伸ばした掌を握る。

 自分の事を一番に思ってくれるなら残ってくれるのかと浅はかな欲望が沸き立つも、嫌悪感と無力感がないまぜになった心はどうしようも無く、朔夜は身体の震えを抑えられず……


「ぅぁ……っ……」


 大きな、大きな泣き声を張り上げた。









 月の輝きに照らされる、見る者に嘆息を付かせる程に美しい漆黒の毛並み。額に浮かび上がる三日月模様は夜天に浮かぶ王の如く。

 大きくしなやかな体躯は、誰であろうと何処へでも運んでくれると期待を浮かばせ、なるほど名馬だと頷く他ない。

 彼が相対するは嘗ての相棒にして、黒麒麟の名を冠した由来……月光。

 彼は知らない。始まりの戦場からの帰路で、彼を愛する少女がその名を付けた事を知らない。どれだけ血みどろの戦場を共に駆けてきたのかも知らない。


 部下に突撃を命じる度に、ギシリ、と握られる手綱。黒き毛並みの上で震える身体と脚。敵を殺して、楽しげに上げているはずなのに悲哀に渇いている声。

 その全てを、正しく聴いて来たのは月光だけ。

 故に、月光は今の彼を認めはしない。乗せてもいいと思えるのは、覇王や夜天の主と同等な想いを宿すモノのみだと。


 キィ……と開けられた柵に、月光は目をやった。

 主とは違うモノが其処に立っているのを見て、小さく嘶いて不足を示した。

 人払いが行われた厩で、遠くに明を待たせた状態で、彼はゆっくり、ゆっくりと近付いていく。首を上げて見やることすらせずに、月光は嘶きだけで帰れと示した。

 話を聞いた。優しい優しいその男は、この官渡で毎日のように話し掛けてきた。哀しい表情で、寂しそうな表情で、動物相手に無駄な事だと断ずることなく。

 前々もよく話をしてくれはしたが、今の彼の声を聞く度に月光の苛立ちは増すばかりだった。


 しかし今日は少し違った。

 前に立った黒は、しゃがんで月光の瞳に目を向ける。


「よぉ、月光。お前さんは死ぬ覚悟があるかよ?」


 吊り上った口角と、楽しげな声に寂しさを宿した彼が、嘗ての主とダブって見える。

 彼のそんな不敵な笑みを見る度に、月光は戦場を駆けてきたのだ。やはり戻ってはいないのだが、いつもとは違う空気に、瞳を彼の方に向けてやった。


「救いたい奴が居る。お前さんと俺しか救えない奴だ。覇王の命令は無い……ただの俺のわがままで助けに行くだけだ。行った先じゃあ俺もお前さんも死ぬ確率の高い戦いになるだろう」


 真っ直ぐにしたい事を話すのも彼と同じ。

 意味は分からずとも、固めた意思の強さが伺えて、話を聞いてみようと首だけ上げた。


「お前さんの主、黒麒麟のしたかった事を手伝えなんて言わねぇさ。ただ……俺も一緒に繋ぎたい想いがあるんだ」


 黒い黒い輝きが渦巻く瞳は透き通っていて、初めて出会った時の主に似ていた。

 この男ならば乗せてもいいと思えた始まりの戦は記憶に遠く。

 月光も、ずっとソレを耳に入れて来たから……この男は“彼”でなくとも“彼ら”と同じなのだと、気付く。


「命を賭けてでもやんなきゃならん。その為に……お前さんの力、貸してくれ」


 最後にぽつりと、彼の唇が震えた。


――乱世に、華を……咲かせよう。


 片方だけ紡がれた指標の言葉を耳に入れて、月光は身体を起こした。

 何度も聴いて来た大切な想いを口にするのなら、ただ一度だけ駆けてやる……そう言いたいかのように尊大に、大きな身体を震わせ、彼の胸を一度だけ頭突いた。

 頭を垂れる事無く、勝手に乗れと態度だけで表して……柵を外された厩から月光は自分だけ歩いて出る。


 飛び乗った彼の外套がバサリと揺れた。


 首筋を撫でてくれる手癖と、彼だけを乗せているその重みが懐かしくて、月光はほんの小さく、寂しい声で嘶いた。





 †





 ガタゴト、ガタゴトと馬車が街道を揺れる。袁紹軍の筆頭軍師を守るは大凡二百の精兵。

 古くから付き従ってきたその兵士達は、少女の願いがなんであるかを知っている。

 漸く報われるかもしれない、と聞かされた。自分達の従っていた軍師が助かるのだと、歓喜に震えてもいる。

 向かう先は延津よりもさらに西。先に幾人かの兵士に馬を持たせて船の確保に向かわせていた。

 馬車の中で、夕は二人の兵士に守られている。一番力があるそのモノ達は、明の言いつけを破らず、夕の命令にも絶対服従の最精鋭。

 夕刻から直ぐに出立した皆であったが、休む間もない行軍の中、歩きながら簡易な食糧を口にしていた。

 ただし、夕と最精鋭は口に入れない。疑い出すとキリが無いが、万が一、毒が入っている事も考えて。

 味方を疑うなと誰もが言う。麗羽や斗詩、猪々子を信じられないのかと責められれば口を噤むしかない……が、信じるに値しないモノが軍に一人いるだけで、警戒はしてしまうモノ。


「あなた達にだけ言っておく」


 近衛兵の二人は、突然の語りかけに驚く事無く、真剣な表情で夕を見つめた。


「母は殺されている可能性がある」


 絶望に揺れる黒瞳は己が内にだけ秘めていた真実を突き付け、茫然とした兵士達は信じられないというように目を見開いた。


「な、何故っ……何故且授様が殺されなければならないのですかっ! あれほど袁家に尽くしてきた方は居ないでしょうに!」

「母を私の牽制の為の人質にしていた上層部には、この戦で勝ったら私と明が復讐に走るかもしれない……そう考えるモノが多い。なら……どう来るか、分かる?」


 夕は他者に思考を詰ませて育ててきた。これまでもそうして、幾多の人間を押し上げてきた。

 言われて思考に潜る兵士二人は、首を傾げる。それほど教養が身についているわけでも、知恵知識があるわけでも無いモノ達には分からない。それでも夕は、問うてみたかった。いつも隣にいた愛する少女、明にするように。


「母を殺した上で、私と明を殺す。きっと帰ってからか、帰るまでに私には襲撃があると思う」

「なっ……」


 絶句。

 何故、これほどまで袁家に尽くしてきた二人が殺されなければならない……兵士達は夕の顔を信じられないモノを見るような目で見ていた。


「お金、権力、地位、名誉、栄光……甘い甘い蜜の味を知ってしまうと、人は他を蹴落としてでも手に入れたがる。

 今の居場所を私と明は……ううん、麗羽達も変えたいと思ってる。欲の為に泣く人が、殺される人が出ないように。でもそれを袁家は望んでいない。自分達が潤っていて幸せならそれでいい……だから、変化を恐れて継続を望む。例え誰を蹴落とそうと」


 諭すような声音は、私塾で生徒に教えるかのように。

 興味深く聞き入っている兵士達は、彼女の話に引き込まれていった。


「あなた達はこんな家が正しいと思う?」


 投げられる質問に首を振る。

 切り捨てられる側を自覚している彼らは、それを許容できるはずも無い。


「正直に話すと、私は周りが幸せならそれでいい。きっと袁家と同じだと思う。でも……やり方が気に食わないし、もっともっと暖かく出来る方法を知ってる」


 昏い光は其処には無く、世界を変えたいと望む智者の輝きが黒瞳に光っていた。


「誰だって死にたくないと思う。幸せになりたいと思う。あなた達だって死にたくなんかないって知ってる」


 それでも命を捨てろと、明にずっと教えられてきた兵士達。

 人を殺してメシを喰らうヒトデナシを仕事に選んだからには、死ぬことも仕事の内だと、ずっと彼らは教えられてきた。


「しかし……我らは……」


――あなた方二人をずっと見て来て、共に戦いたいと思っているのです。


 口を挟もうとした兵士の前で、人差し指を自身の口に当てて、夕は続きを噤ませた。


「うん。あなた達が自分で選んだ仕事。責任は自分にある」


 ただ言われるがままにナニカを行うでは無く、自分達の為に戦っているのだとずっと教えられてきた。

 張コウ隊の兵士達に言い聞かせるように、夕は言葉を紡いでいく。


「世界を変える意思は其処にある。あなた達は自分を知ってる。あなた達は自分がしたい事をしてる。だから、聞きたい」


 ふにゃりと笑い掛ける笑みは、明にだけ見せるような優しいモノで、兵士達は呆気に取られた。

 伝えてくるのは信頼と、慈愛の眼差し。決して他に心を開こうとしなかった彼女が、今になって何故……疑問が頭を埋めていく。


「私と一緒に、世界を変えたい? 例え命を失うとしても」


 選んで……と言う無言の眼差しに、二人は圧された。

 今、こんな話をするからには何かがある。聡く美しい少女は、意味の無い話など決してしないのだから。

 目を瞑り、兵士達は思考を巡らせつつ、自分の心を見つめなおしていく。

 絶望の淵にいるはずなのに、彼女はまだ諦めていない。

 否、否であろう。彼女は救いを求めている。正直に話した上で、自分達に助けてと……そう言っているのだ。

 弱気を見せぬその姿は、兵士を率いる軍師のモノ。

 ただ命令を下せばいいのにそれをしないのは……彼女が自分達を信頼している証であった。

 深く考えずともよい。自分達はこの仕事を選んで、既に命を賭けている。地獄のような戦場を幾多も越えて、“自分達の為に戦ってきた”。なら、これからも今まで通り彼女達と共に戦えばいい。

 何より……母を想い、友を想い、尽力してきた優しい少女を殺そうとしている輩を、男として許せるかと言われれば……断じて否だ。


「……くくっ」


 初めてだった。心の底から溢れてくる熱さがあるのは。冷たい戦場ばかりしてきた張コウ隊の自分達が、こんなに心高ぶるのは。

 故に漏れた笑み。嘲笑では無く、ただ不敵。どこぞの黒い部隊の如く、ただ傲慢に、楽しげに。


「いつも通りあなたの命に従いますよ、田豊様」

「例えこの命朽ちようと、助力をさせてください」


 頭のいい彼女が此処まで言うのだ。きっと決死の戦場があるのだろう。それであっても、彼らの心に恐怖は無かった。

 なんの事は無い。それがどうした。戦うなら、死ぬ可能性など腐るほどあるだろう。命欲しさに逃げ出すくらいなら、頭を垂れるくらいなら、無様な醜態を晒すくらいなら、張コウ隊で兵士など続けては居ない、と。

 一寸だけ、哀しい眼差しを向けた夕は……二人の頭を撫でた。まるで明に、そうするように。


「ん、ありがとう。あなた達二人は明の代役。だから真名を預けた上で命じよう。私を必ず守る事。私の真名は……夕。橙色の空を、この世界に」


――御意に……我らが軍師様


 誇らしげなその声は……歓喜に溢れていた。

 あの化け物と同等の扱い。決して辿り着けない場所に立つ自分達の将と同じ。そう認められる事が、どれだけ嬉しい事であろうか。

 真名は決して軽くはない。軽々しく預けるはずも無い。彼女は正しくその存在全てを、彼らに託したのだ。


 ガタゴト、ガタゴトと馬車が揺れる。


 宵の闇深く、日の光の当たらぬ、朧三日月の明かりだけが差し込む街道を夕暮れの少女が進む。


 月が哂うのは少女か、誰か。


 一縷の希望に縋りつく彼女の元には……幾多も黒い影が近づいて来ていた。


 幾分か進んだ所で鳴った敵襲を知らせる笛の音は、黒と赤の元にはまだ届かず、朝は遥か遠くであった。





 †




 地を駆ける大きな黒馬の背には、男と女が乗っていた。

 闇夜に溶け込み、風のように走る月光の速度は通常の馬のモノよりも尚速く、それでいて体力がある為に、休息を最低限に抑えているとしても倍近い距離を進めていた。

 白馬と延津を避けるとすれば向かう船着き場は限られてくる。曹操軍の情報と照らし合わせて、選んだ街道は一本だけ。郭図の動きも読み切っているなら夕が選ぶ道は戦闘を考慮したモノになる……それが明の予想。

 秋斗に背を預ける明は、必要な事以外話さずに此処まで来ていた。

 疑問は多々ある。記憶を失っていると聞いて、衝撃を受けなかったわけがない。ぐるぐると巡る思考の中、何を話していいか分からなかったのだ。


「ねぇ……」


 不意に上げられた声に動じることは無い。秋斗はただ、無言で続きを待った。


「なんで知らない他人なんかにここまでするの?」


 記憶を失ったなら、夕の事も明の事も、何も覚えていない。洛陽で助けて欲しいと言ったから助ける……それなら理解出来るが、それさえ知らない今の彼が自分達の為に効率を捨てる意味が分からなかった。

 そも、憎しみを宿した眼を向けてさえいたのだ。自分達袁家が彼の記憶を失う発端となったのだろうから当然かもしれないが、やはり自分達の為に危険な賭けに出る彼はわけが分からない。


「……俺がそうしたいから」

「だからなんで?」


 曖昧にぼかそうとする彼は記憶や情報にある者と一致する。聞き返せばまた沈黙が少々。明の心には苛立ちが湧き立つ。


「田豊がこれからの曹操軍には必要だからだ。袁家を動かせる程の才能を無くしちまうのは惜しいし――――」

「そういう答えを求めてるんじゃない!」


 犬歯をむき出しにして、明は顔を上に向けて彼を睨みつけた。

 合わせられる目が細まり、ふい……と彼は視線を逸らす。


「……お前達二人は前の俺を知ってるんだろ? なら、手に入れたら記憶が戻るかもしれないじゃねぇか」

「自分の為?」

「ああ、俺は黒麒麟に戻りたい……それだけだ」


 感情を挟まない声音に、違和感が一つ。人の心の機微に聡い明に彼の嘘を無抜けぬはずがない。

 真実半分……さらには全てを言ってない。だから嘘じゃないなんていうのは、彼の使いそうな手段だと明は思った。


「嘘だね」

「……」


 ぴしゃりと言い切ると、彼が視線を合わせた。

 細められる片目が不快感を露わにし、舌打ちからは苛立ちが伺えた。


「ホントのこと言いなよ。そんな人じゃないって知ってるし」

「は……何処まで知ってんだか」

「分かるもん。秋……晃兄はどんなになってもイカレてんだから」

「めんどくさいから秋斗でいいよ」

「……じゃああたしも明でいい。話逸らさないで」


 記憶を失っても軽々しく真名を許しているのは異端である彼らしい。死地になるかもしれない戦場に無茶を推して赴くのも彼らしい。バカげた行動をするのも、意味が分からないのも彼らしい。

 判断材料は幾らでもある。それでなくとも、記憶を失ったとしてもこの男は同類だと明の感覚が告げている。


「誰の為? 自分の為だけでなんか動けないでしょ? あー、待って」


 言いながら僅かに引っ掛かりを覚えた。彼が記憶を失ったのは徐州からこっちで間違いない。大きな衝撃があったなら……郭図に追い詰められた時以降。

 順番に並べ立てて行くと答えが見える。華琳はあの子の笑顔の為にと言っていた。なら……


「鳳統の為……記憶を失って鳳統を泣かしたから……とか?」


 他人の事など放っておけばいいのに出来ない性質で、過去の自分を知れば知るほど関係性を呼び起こされて……そうなれば、彼が誰の為に動くのかは読み切れる。

 下らない理由だと思うが、明にとってはそうでもない。そんな事の為に動けるからこそ黒麒麟になれると知っているから。

 呆れたように大きなため息が彼の口から洩れた。こんな簡単に、と。


「お前さんは頭がいいな」

「明でいいってば」

「記憶が戻ってないから真名は呼ばん」

「秋兄の気持ちなんか知んないし。今の秋兄でもいいから呼んで、なんかヤなの。気持ち悪いもん」


 明は自然に言葉が出る自分が不思議でならない。イカレている同類というだけで、何故か信じるに足りていた。

 同時に、逸る心を誤魔化せるこの一時が有り難い。思考を絶望に向けてしまうと、また泣いてしまいそうで嫌だった。


「はぁ……めんどくせぇ。分かったよ、明」


 またため息を一つ。月や詠とは違い、この女なら別にいいかと秋斗は割り切る。

 こちらに想いを向けているわけでも無い。利用し合うだけの関係性。似たモノ同士だとも分かっている。元より皆を平等になど、扱うつもりもない。

 真名に拘る程大切にしたい彼女達とは違い、彼にとって明はそれくらいの距離感が良かった。


「俺は泣かした彼女の為に戦おうとしてる。まんまその通りだ」

「ふーん……来る前にも女の子泣かしてたよね。記憶が消えても秋兄は女たらしの酷い男ってわけだ」


 軽い調子で話を続ける。戦う前に落ち込まないで済むのならと、秋斗もそれに合わせて行った。


「そうさな。俺は酷い男でいいよ。誰しもを幸せに出来るなんて思わないし思いたくも無い。それに……遣りたい事があるんでね」

「ひひっ、秋兄はそれでいんじゃない? でも、夕は幸せにして貰うけど」

「……は?」


 いきなりの発言に思考が止まる。

 夕は自分が暴露する事くらい気にするわけが無いと知っているから、明はそのまま言葉を続ける。


「秋兄に惚れてるかんね、あたしの大切なお姫様はさ。気持ち受け止めてあげなかったらぜーったい許さない♪」

「ちょ、おまっ……えぇー……どんだけ女たらしなんだよ前の俺ぇ……」

「へぇ……白髪の子って曹操軍からだよね? じゃあ劉備軍の時に鳳統だけじゃなくて他にもいたって事かー……あはっ、さいてー♪」


 悲痛な声を上げる秋斗に反して、明は楽しげであった。


――あー……そういえば関靖も惚れてたっけ? 夕には既成事実作らせた方がいいかもー。


 思い出すのは白馬の片腕。死に際に残した言葉も彼に向けて、瞳に浮かぶ淡い想いの色も確かにあった。

 夕の敵の多さに呆れながら、こんなくだらない話に面白さを感じている自分が居る。

 秋蘭と話した時、霞と話した時……その二つのような気持ち悪さや苛立ちは欠片も感じない。

 自分が変わっているんだろうか、それとも彼が変なだけだろうか……答えは出ないが、悪い気はしなかった。

 空を仰いでいる男を見つめる明の表情には、年相応の少女の笑み。


――うん、悪くない。秋兄なら……傷ついちゃう夕の心も癒せるかもしんない。


 大切なモノを諦めさせて絶望に堕ちた時、傍に居てくれる他の大切が多いなら救われる。

 自分には誰も居なくて快楽に堕ちた。夕に同調出来たから依存もした。そんな事態にはならないだろうと、なんとなく思えた。


 幾分、空に溶けた彼の吐息は、切り替えの証拠。

 緩い空気に浸っているのもいいが、彼は明に聞いておきたい事が山ほどある。


「まあ、色恋の話は置いておこう」

「ダーメ! 夕を大切にするって約束してからじゃないと」

「それについては無事に戻ってからちゃんと話そう。これだけは譲れん」

「むむ……お堅いじゃん。前は鈍感っぽいだけだったのに」

「ほっとけ、バカ。とりあえずだ……」


 戻そうとするのを無理やり区切る。不足気味な明ではあるがそれ以上は続けようとはしなかった。


「……明が知ってる俺の事を教えてくれ」


 こんな聞き方で記憶が戻るとは思えないが、秋斗は黒麒麟を演じる為に少しでも手がかりが欲しい。

 どんな人間だったのかは皆から聞いている。しかし人それぞれの価値観や見方があるのだから、情報を集めるなら多いに越した事は無い。

 トスッと明は彼に体重を預けた。そのまま見上げて、にひひと笑う。


「そだねー……ずっと必死で突っ走ってきた偽善者って感じじゃないかな。数回しか会話してないし、情報とかと統合しての話になるけど……いい?」

「ああ、頼む」


 絶望に堕ちた明を見てから、彼の脳髄に居座る別人の記憶は為りを顰め、意識せずとも抑えられる程。故に彼の瞳に憎しみは渦巻かず、自身の情報を真っ直ぐに耳に入れて行く。


 連合で初めて出会った時の印象から、些細な違和感に至るまで事細かく並べ立てられる黒麒麟の情報。

 徐晃隊の異常性、黒麒麟の異質さ、掲げるモノの綺麗さに反して残酷で冷酷な戦い方と判断、主を主とせずに平穏のみを目指す将とは違うナニカ。或いは劉備軍を本当の意味で率いていたのは黒麒麟ではないか、とまで明は言って退ける。

 殊更に彼の興味を引いたのは……約八千の兵士をたった一人で壊滅させたこと。


「……マジか……初めて聞いたぞ、それ。呂布に負けたのに、ホントにそんな事出来たのか?」

「あ、秋兄でも分かんないんだ。あたしも聞いただけだしねー。それくらいしないと抜けられなかったと思うから、有り得ないけど有り得る馬鹿げた話だと思うよー?」


 目を細め思考を巡らせ……思い至るのは“あの腹黒少女”の言葉。

 限定条件下で使えるたった一度の力。人外のモノとも言える武力こそが、きっとそれだったのだろうと秋斗は考える。


――そうか……あの子を守る為に俺はたった一回の力を使ったわけだ。


 詳細情報を聞けばどれだけ追い詰められていたか理解出来る。まさしくイカサマでも使わなければ逃げられない状況。

 黒麒麟一人なら離脱も可能であったのだろうが……前の自分は選ばなかった。なら、どういう事か。

 世界を変える事よりも、彼女の命の方が大切だった。昔の自分は彼女の事を想っていて、自身に与えられた使命を投げ出しても救いたかった。きっとそういう事。


「んー……秋兄ってさ、もしかして人じゃなかったりする?」


 ドクン、と鼓動が跳ねる。真実を探る問いかけは、彼にとって一番聞かれたくないモノであった。

 誤魔化せるかどうか……正直に話す気などさらさらない。誰かに秘密を打ち明けるというのは、支えて欲しいという弱さ。自分一人で立てるわけも無いが、秋斗は誰にも知らせたくない。


――天から世界への介入、それはどんな茶番だ? 好きなように世界を弄る人間、それはどれだけ悪人だ? 救えると知っている人を救わない、それはどれだけ……罪深い?


 似ている話をするのなら……例えばスポーツで、高校生の試合に身体能力抜群の留学生が混ざったとして、其処には広がるやるせなさがある。茶番だ、しょうがない、つまらない、くだらない……諦観や失望という毒が幾多の人々の心に広がるのだ。

 行っているのが命を賭けた戦争であれば特に、弱い人間は作られた平穏にさえ疑念を持つ。自分の周りがどれだけ理解してくれようと、世界に生きる人の中には嫌悪を覚えるモノもいる。正解など無いが、彼はそんな不和を残したくなんかないのだ。

 そして彼が一緒に居て楽しい華琳は、覇王は……そんなイカサマやズルに思えるモノが介入する乱世など望まない。天に与えられるだけの平穏など望まず、自身達の手で掴みとってこそ。只々皆が幸せであればいいなら、“元より桃香と手を繋ぐ事を拒絶などしないのだから”。

 華琳は大徳では無い。覇王なのだ。如何な善王でも自分が手に入れた純粋な力で躊躇いなく踏み潰し、踏み越えて自身の望む世界を作り出す。それが出来ないなら、華琳は覇王ではなくなる。

 尊敬している、と彼は彼女に言った。秋斗は華琳の生き様を理解しているから……自分の事に関してだけは、嘘を貫き通すと決めていた。大嘘つきは、自身が描く平穏の為に華琳を利用し騙しているのだ。

 大きな鼓動にはきっと気付かれた。その証拠に、彼女は訝しげに見つめてくる。


「分からん。普通に怪我するから多分死にもする。メシも食うし笑うし怒るし泣く。人と変わらないし、生まれも育ちも人間様のもんだよ。ただ、もし人じゃないとしても……人でありたいなぁ」


 バレる切片は事実として残っている。よって、他者に結論を預け、ぼかしたモノに本心を混ぜ込む。

 人では無いモノから言いつけられた使命、それを全うする為に落とされた異物。一度死んでいるくせに生きているわけのわからないモノ。弄られた身体能力は彼にとって化け物に等しく。他者の心が介入した脳髄は人では有り得ない。

 それでも、彼は人でありたかった。皆と同じ、一人の人として戦いたかった。

 哀しい声を耳に入れ、明はふーんと興味なさげに前を向く。


「じゃあ期待はしない。化け物みたいな力をまた使えるなら生存確率は上がるかもって思ったけど無理そうだね」

「……ありがと」

「べっつにー。秋兄が人じゃなくてもどうでもいいし」


 狂人だ、異端だと言われてきた明にとっては些末事。そんな気遣いを受けて、秋斗は素直に礼を一つ。

 にやりと頬を吊り上げた明はそのまま、目を細めてまた彼を見た。


「でもー……秘密にしてあげるし誤魔化すの手伝ってあげるから、夕の事よろしくね♪」


 脅しに近い押し付け。どうであれ彼女は夕と秋斗をくっつけたいらしい。

 空にため息を零した彼は……


「……考えとく」


 逃げの一手をいつも通りに打った。


「うわー、卑怯者の言い方じゃん。やっぱ秋兄ってさいてーだ♪」


 はしゃぐ明は心を誤魔化す。そうすれば、まだ絶望から離れてられるから。

 風を切る月光の上で、赤と黒の二人は穏やかさに包まれたまま他愛ない会話を繰り返し……幾刻。

 宵が深まる朧三日月の闇に、慣れた夜目から異常なモノを視界に入れた。


 一つ、二つと林街道の脇に倒れるナニカ。石が転がっているなどと間違うはずも無い。

 彼が手綱を引いて、月光を停止させる。直ぐに飛び降りた明は、


「……」


 無言でソレに近付いて確認していた。

 見慣れているいつもの肉袋。いつもならたかだか他人の死体などには心が動かない……が、焦燥と憎悪と苦悩が渦巻く。

 死後硬直の度合いを見ると、死んでからどれだけ立っているのか大凡の予測を立て。

 強張る表情と、握られる拳。びしゃ、と彼のブーツが雨が降っていないのに水分を弾いた。小さな血だまりに波紋が広がる。


「……張コウ隊か?」

「……うん」


 彼女は部隊のモノの顔を覚えている。暗殺や間者に対する警戒の為に最精鋭の二百は特に余すところなく。


「急ぐぞ」

「……うん」


 震える肩を叩いて、彼と彼女はまた月光に乗る。

 また泣きだしそうになった赤の少女を緩く抱き締めた秋斗は……黒麒麟の相棒に静かで昏い声を一つ掛けた。


「月光、最速で頼む」


 大きな嘶きと共に走り出した彼ら。

 震える少女は大鎌の柄をぎゅうと握りしめ。彼は心を冬の空の如く張りつめさせていく。


「明、張コウ隊は黒麒麟の道具を使ったりするか?」

「……竹笛は便利だから持たせてる」


 敵がどれだけ居ても、救えなければ意味が無い。居場所を知らなければ探せない。

 故に彼は、首からぶらさげた金属器を口に咥えた。


 自分達はここに居るから掛かって来い、と敵に伝える。

 聴こえたなら希望の光を、と助けたいモノに伝える。

 闇夜を切り裂くように黒麒麟の嘶きが張り上がった。


 逸る心を抑え付けたくて、明は秋斗の腕に縋りついた。震える掌の力はか弱く、折れてしまいそうな心を表すかのように。

 どうか、救いたい彼女の命が無事で在れ……ただ願う事しか出来ない自分を呪いながら、子供をあやすように彼は少女の頭を撫でつけた。





 †





 夜の戦闘、しかも逃げながらである為に夕達は圧倒的に不利であった。

 敵の数が分からない、というのが一番の問題。さらには、敵はこういった林道での戦いに慣れているようで、精兵である張コウ隊でも苦戦を強いられている。

 夕に武の心得は無く、体力も無い。部隊長に背負われて守られるだけである為、こと戦闘にいたってはただの足手まといにしかならない。

 馬車を捨て、円陣を組み街道を進んで行く内、その敵兵の多さと、矢での攻撃が主体であった為に遮蔽物のある林に逃げ込んだ。

 張コウ隊の兵士はもう既に五十人程倒れてしまい。全速力で駆けていても追い縋る敵からは逃れ得ない。

 間違いなく絶望の状況で、夕は兵士の背の上、それでも泣かなかった。


 希望はあるか、と誰に問うても無いと答える。

 自身の失態。予測出来なかった夕のせい。母を助けたいと願った夕の責。

 どれだけ逃げたか、戦ったか。

 敵は思いの外、反撃に手古摺っていると判断したのか、一旦攻勢に出るのを辞めたようだ。

 静かで暗い夜の林で息を潜める兵士達は、たった一人の守るべき少女を心配そうに見やった。


「お怪我はありませんか?」


 なるたけ声を抑えての問いかけに、木にもたれ掛かって休む夕はコクリと頷く。

 不思議そうに、夕は周りの兵士達を眺める。一人一人顔を確認して、瞳の感情を覗き込んで。


――どうして、あなた達は不満を持たないの?


 これだけ絶望的な状況であるのに、誰も彼女を責めていなかった。さもありなん、彼らは古くから彼女の母、且授と戦ってきた兵士達。誰が不満まど持てようか。

 ほっと息を付いた幾人かがふらつく。

 違和感があった。ふらついた兵士達には矢が刺さっている。ふらつかなかった兵士達には……一本も刺さっていない。


「……毒?」


 気付いて泣きそうになった夕が告げると、冷や汗を拭った兵士は優しく微笑んだ。


「あなたに嘘は付けないみたいで。ええ、毒矢も使ってると思われます」

「そう……」


 いつもいつもやり口が汚い……毒づきそうになるも、夕は抑え込む。相手が行っているのは殺しの為だけなのだから、弱者の弁舌に他ならない。

 徐州で彼を追い詰めたように、夕も郭図に追い詰められた。

 誰が聞いても逃げられないこの状況。戦術で引っくり返せるはずもない。武将が一人でもいれば違っただろう。されども此処には、非力な軍師と兵しかいない。


――どうして、私には力が無いんだろう。


 泣きそうだった。非力な自分を呪った。頭が良くても、どれだけ有力な策を捻りだせても、彼女自身には何も力が無い。


――どうして、私には絶望しかないんだろう。


 叫びそうだった。袋小路を呪った。自分はただ、母と共に幸せに暮らせたらそれでよかったのにと、与えられた運命にもう抗えなくて膝をつく。


――どうして、私は世界を変えられないんだろう。


 縋りたかった。誰でもいい、誰か自分達を救ってくれと、希った。一筋の光明さえ当たらぬ夜……そこから救い出して欲しいと。


「……ごめん、ね」


 ぽたりと……夕の膝に落ちた雫は一つ。

 ぽたりぽたりと……広がって行く波紋は衣服を染めた。

 震える声で、彼女は懺悔を零す。


「私のわがままで、巻き込んで」


 救われたい。そんな想いがあるのかもしれない。誰かから責められれば、罪深い自分は救われるのではなかろうか、と。

 兵士達は何も言わない。じ……と夕を見つめて言葉を話せなかった。

 初めてだった。いつも無表情な彼女の涙を見たのは。自分達には及び付かない智者が、ただの少女だと本当の意味で教えられたのは。

 理不尽を呪えばいいのに、弱音を吐き出せばいいのに……彼女は口にしない。

 隣に居るべき紅の将にだけ見せていた姿を、彼女は兵士である自分達にも見せるほど……絶望している。


 轟、と燃えるのは心か。

 握られる拳から滴る雫は憎悪からか。

 否……ただ、彼らは自分達の無力が不甲斐無くて、許せなくて、悔しかった。


 こんな時、どういった言葉を掛けてやればいい?

 きっと自分達の将なら抱きしめて、頭を撫でてやるのだろう。

 自分達がしていいはずも無いが、せめてと……彼らは、笑った。広がるのは紅揚羽のような不敵さであった。


「俺らがしたくてしてんです。謝らないでくださいや」

「田豊様を泣かせた奴等は皆殺し確定だなこりゃ」

「はっ……いんじゃね? 殺してやればすっきりすらぁな」

「ってか守れなかったら俺達……食事場行きだぜ?」

「マ……マジで嫌だ。虫刑とか皮剥ぎ刑とかネズミ刑とか……考えただけでゾッとする」

「そういえば、耳元で囁いてやるんだーって言ってたよな?」

「あなたの事食べていい? とか……あー、言われてぇー」

「死ぬほどの痛みと引き換えにしてでも言われてぇのかよお前……」

「……逆にそれがいいと思うんだが」

「きめぇ。いつも通り踏まれて蹴られるだけで我慢しとけよ」

「いや、お前も大概だからな?」


 元気づけてやれればいい、せめて笑い話でもしてやれば、彼女は泣かないでくれるのではないか。そんな想いから、彼らは小声で日常会話を喋り出した。

 茫然と、夕は彼らを見つめる。

 皆が明のような剽軽さで、自分を泣かせまいとしているのだ。傍に彼女は居ないが、彼女の話が出てくるだけで……涙が止まる。

 バカだ。バカがいる。絶望的な状況なのに、そんな事は露ほども感じさせない彼らの空気に、夕の頬が少しだけ上がった。


「ふふっ」


 小さな吐息と笑い声。聞いた皆も、頬が緩んだ。

 ああ、この笑顔が見れただけでも満足だ、と。


「絶対助けますぜ」

「死んでも守ってみせます」


 真名を預かった最精鋭の二人が声を上げると、皆も一様に頷いた。

 皆の心は一つ。この少女を必ず助けてみせよう……それが自分達のしたい事で、自分達の為だった。


「ん、ありがと。あなた達を信じる」


 頷いたのは同時。誰ともなく、一人の背に夕が乗り、一寸だけ目くばせをし合った彼らは……また絶望の戦いに向かっていった。

 草が揺れる音。地を駆ける音。後ろから、横から、前から……敵兵はどれだけいるのか、やはり分からない。


 一人、背中に矢が刺さり倒れ伏した。

 一人、木の合間から槍を差し出されて命を零した。

 一人、前から迫りくる敵兵と刺し違えて道を作った。


 詰将棋のような戦場には、打ち手など必要ない。たった一つの大将を“歩”である兵士達が一丸となって守り抜き、最期まで残せたら勝ち。

 誰も救援など来ない、歩のみの戦場。自分達だけで遣り切ってみせようと、そう心を高めてただ駆けていた。


 そう誰もが思っていた。


 遠く、遥か遠くから音が聴こえる。

 自分達が持っていない音で、本来なら絶望を感じるはずの音。


――ああ……


 徐々に近づいてくるその音は、彼女が慕うモノの証明。彼の扱う黒麒麟の嘶き。


――秋兄は……私の策を読んだんだ。


 此処に来たという事は、明が自分の逃げる道を判断した事に他ならない。


――私はまた秋兄に負けたんだ。明が私を信じる心を、助けたい心にすり替えたんだ。


 不思議と敗北感は無く、悔しさも屈辱も感じない。明が心を開いたのなら、それはそれで嬉しかった。


――ごめんね、麗羽。私……負けたみたい。


 袁家の敗色がほぼ確定したというのに。それでも彼が助けに来てくれた事も、嬉しかった。


 涙が出そうになる。声を上げて助けを呼びたかった。弱った心は、救いを与えてくれる黒をただ望む。

 一番大切なモノも救えるかもしれない。自分が嘆願すれば、麗羽達ですら救えるかもしれない。夕の心には光が溢れた。


「ふ、笛をっ……吹いてっ」


 急ぎで命じた夕は、自分が笑みを浮かべている事に気付かない。

 満たされる心は、洛陽で交わした約を守ってくれた彼に歓喜を向ける。

 街道から離れたこの場所では、まだ遠い。

 敵の攻撃が一寸止まっていた。矢も、人も、全てがそちらに意識を向けていた。しかし張コウ隊の笛の音で、より一層慌ただしく敵が動き始めた。


「円陣で防御。此処だけ……此処だけ頑張って。大丈夫……あの子も、来る、から……」


 兵士の背に守られながら、夕は耐えきれずに涙を流した。


――明、秋兄……助けてっ……。


 幾多の断末魔と、怯えからの悲鳴が遠くで上がる。先ほどまでとは全く違う空気が辺りを包み……二つ、獣のような雄叫びが聴こえた。


 愛しい彼女の声と、恋しい彼の声。


 夕はただ、願いを込めて兵士の背で揺られる。暗闇の戦場は淡く薄く、絶望の方が濃いのは当たり前で。

 彼と彼女が引きつけてくれているからか、敵の攻撃は幾分かマシにはなってきた。

 周りは敵だらけ、幾多の矢が飛び交う戦場……それでも彼女の希望は手が届く距離にあった。

 まだ遠く、声のする方に手を伸ばす。あと少し、あと少しだろう、と。


 瞬間、ぐらり、と彼女の身体が揺れた。投げ出された先で見やれば、背負っていた兵士には幾本もの矢が突き刺さっていた。

 それも直射ではない刺さり方。林の中で曲射など出来るわけも無い……ならば……


「あ……」

「……っ……夕様っ!」


 見上げた先には敵が数人。今にも矢を放とうとしている姿が見えたのと、最精鋭の兵士に声を上げて抱きすくめられたのは同時であった。


 木々の隙間から見えた空の黒が薄くなり始めて、もうすぐ朝が来ると教えてくれていた。




 †




 笛の音が応えたのは林の中。

 秋斗が月光を止めるや否や、明は飛び降りて音の方へと駆け出した。

 もはや抑える気も無い。全て、全てを殺してやる……殺意に燃える彼女は、一匹のケモノと化していた。


 一人、二人と殺してから雄叫びを張り上げた。気合を入れる為では無い。敵を殺す為だ。普段なら暗殺主体の戦い方をするが、寄り来る敵はさすがに多すぎて、時間を掛けたくもなかった。

 彼女が無事であればそれでいい。生きていてくれればいいのだ。


――邪魔だ、クソ袋共。


 動かない腕は無理やりにでも動かすと決めている。痛みなど気にもならない。

 感覚の鋭さを以ってして来る矢を鎖で全て弾き落とし、片手で振るう大鎌は頸を一つ二つと飛ばしていく。


 不意に、斜め後ろからも雄叫びが上がった。

 聴いていて胸が空くような叫びだった。男のモノで、彼の声。しかし後……ぞっとするような、笑い声が響き渡る。


「クク、あはっ、あははははははははっ!」


 からから、からからと笑う声は渇きが含まれ……。

 全身を這い回る悪寒は、明であっても抑えられず……敵に至っては、腰が引けたモノや、注意を逸らされたモノほぼ全てであった。

 明には彼に構っている暇は無い。

 敵を引き付けてくれるなら上々で、怯えさせてくれたのもありがたい。

 頭は冷静にと、どんな時でも訓練してきたから、彼女は彼を見やる事もせずに、自分の怪我を最低限に抑えて敵の壁を崩していく。


「……っ」


 腕を掠った矢傷に、僅かな違和感が一つ。急ぎで肉を削ぎ落した。


――毒があるのか。これはちょっとやばい。


 トン、トン、トン……と木々を交互に蹴って上って、枝に乗った明は夜目を凝らした。唐突な行動に敵兵は付いてこれず見失う。

 円陣を組んでいる場所が一つ、兵列の壁は重厚な横並び。夕を助けた後に抜けるなら……敵を減らしておくべきだ。

 判断を下し、明は口元を引き裂いた。残虐な笑みを浮かべてケタケタと嗤いを漏らす。楽しいのか、嬉しいのか……こういう時に笑ってしまうのは、彼女の癖でもあった。

 絶好の狩り場で、引きつけてくれる囮が居るのだ。自分はただ、一つでも多く敵の命を喰らってやればいい。


「ひひっ」


 舌を出すと同時に、ぶん、と分銅を投げつければ……鈍い音が一つと脳漿が飛び散った。

 鎖を牽けば、幾人かが絡みとられた。飛び降りて斜め一閃……弾ける血しぶきを浴びて、ゾクゾクと快感が背筋に来る。

 矢の気配はもう慣れた。白馬義従の射撃の方が強くて速くて精度が高かったのにと……鎖を揺らすだけで弾き飛ばし。

 トン、と地を蹴って最速の鎌撃。同時に……切り損ねた敵がつんのめり、真横を通り過ぎた。飛んできたのは敵で、飛ばしたのは彼だった。

 見る事もせずに合わせてみようかと、明は踊るようにステップを刻み、あっちの方が広いからと跳ねながら駆けた。

 一歩、鎌で脚を斬り。

 二歩、斬り上げで顔を割り。

 三歩、鎖を舞わせて行動を縛る。

 力量差は圧倒的で、俊足の自分に弓は追いつかない。矢が来ても鎖だけでなく……


「……おっと」


 ガッ、と肉片を蹴り上げてでも、死んだ人の身体を盾にしてでも防げばいいだけ。

 縦横無尽に動く暗殺者の戦場で、明は頸を刈り、命を喰らい、ただ救う為に戦って行く。

 悲鳴は数え切れない程に張り上がり、情けない泣き声と逃げ出す足音も多数。化け物だ、と誰かが叫んだ。彼に対してか、自分に対してか……どちらもでいいと、彼女は思う。

 赤い髪が返り血で紅に染まり、木々の隙間を舞う姿はさながら蝶のように。

 これは正しく、紅揚羽が舞う舞台。目に着いたモノは彼女の食す紅華となるだけで、捕まえる事も殺す事も、敵に出来るはずがなかった。


 幾分経った。

 敵の数も大分減り、そして……明も張コウ隊の場所に大分近付いた。声が聴こえる。聞きなれた張コウ隊の兵士達の声で、まだ戦う元気があるのだと教えてくれた。

 円陣のまま動けないのは毒矢を警戒してなのは直ぐ分かった。だから明が敵を殲滅しつつ徐々に、徐々に近づく事にしたのだ。


――あと、少し。もうちょっと。夕……助けに来たよ。


 彼女は暗殺の技術をずっと習ってきた為に、耳がいい。

 だから……その些細な声を聞き取ってしまった。


「……っ……夕様っ」


 兵士の声。一番最精鋭の声。真名を預けているのは、夕だからと考えがある事は明白で。

 けれども彼女にとっては少しだけ思考を回さなければならなくて。

 故に……一瞬の隙が出来てしまった。


「……っ」


 気付いた時には遅く、前から幾重、弦の弾かれる音が鳴った。そして後ろには……二人の敵兵が武器を振り降ろす音。

 仲間も無視したその行動に、咄嗟の判断で間に合わないと気付く。

 せめて毒矢だけでも避けなければと、明は矢を見極めて鎌で弾きつつ、前に飛んだ。


 背中を這わされた刃の冷たさが、少し懐かしく感じた。


 闇夜が漸く白みかけた頃であった。





読んで頂きありがとうございます。

そして、明けましておめでとうございます。


次話では久しぶりに主人公の一人称視点が入ります。


ではまた

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