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赤の少女が求めしモノは

 暖かい陽ざしが延びる城壁の上、思考に耽るモノが、一人。

 凛……と場を凍らせる程の覇気を纏い、見張りの兵が遠くに居るだけのその場所で、華琳は空を眺めていた。


 桂花の到着は今日を予定されている。明は軟禁してあるが部屋から出る素振りもない。

 情報では暗殺技術にも特化しているとのことで、一応の警戒はしていた……が、明は手洗い以外で一切外に出ようとしなかった。

 捕えてからもう三日経つ。しかし華琳はまだ会いにいっていない。ただ、機を待っていた。

 起きて直ぐに何がしか話をするのが通常ではある。華琳の眼前に連れて来て、こちらに降れと言えばいい。

 大切なたった一人の少女を救い出したいが為に袁家に所属する明に対しては、夕をこのまま殺す事も辞さないと脅しを掛けるだけでも効果があるだろう。

 されども、華琳はしない。そんな単純明快な手を打つ事は無い。これから攻める方法を鑑みれば、不測の事態は少しでも排除しておくべきと考えて。

 軍師達との軍議はもはや終わった。次に取るべき行動も決まっている。その中で一番の問題は……明の心をどれだけ屈服させられるか。どうなっても負けるつもりは無いが、優劣の大きなところが其処に掛かっている。

 明が嘘を付く可能性は十分にある。否、それこそが夕の仕掛けてきた策であると理解を置いている。

 袁家の陣地、陣容、配置場所、数……あらゆる情報を持っている彼女が嘘を付けば、策に嵌められてこちらが敗北を喫するだろう。


――覇王として立つ以上は、敵の策を呑み込んだ上で勝つ……そういった圧倒的な力強さを世に示そう。


 華琳はそう考えていた。

 袁家という大敵を倒せば、大陸で最も大きな力を持つのは曹孟徳であると広く認められる。書物に描かれる英雄たちのように語り継がれ、この戦の事も語られる。

 長きに渡る平穏を望むのならば、覇王がどのようにして戦い、どんな勝利を収めて来たのかを世に示すのも乱世に於いての仕事の一つであるのだ。

 さらには、敵を受け入れるとは、器の広さを知らしめるには最適であり、これから乱世を続けるに連れて降伏を嘆願して来るモノが増えるは必至。

 後々に行われる選別の差配は難しい所となるが、実力主義の華琳の元では篩に掛けられ、努力無き無能は排除されていくだろう。犬に成り下がるモノなど、この大陸には溢れかえっている。

 たかだか臆病者と言わせたくないからというだけで敵の策に乗る華琳では無いのだ。

 それは旧き王道とは別の道。覇道ではあるが覇道でない。覇王曹孟徳の歩く、彼女だけの覇道の一歩が出来上がる……この戦に勝利すれば、であるが。


――張コウの心を叩き折って、田豊にも勝利した上でこの戦を終わらせ、欲しいモノを全て私が手に入れる。その為に必要なモノは……やはり桂花。


 故に待っている。愛しい王佐が己の元に帰還する時を。


――想定外は張コウが黒麒麟と真名を交換していた事か。それがどういう風に転ぶか分からない以上、今の徐晃と会わせるわけには行かない。


 まだ秋斗と明は一言も話していない。記憶が戻るなら賭けてみたいが、華琳としてはそれよりも戦が最優先。秋斗の方もよく分かっている為か何も言って来なかった。


 頭を悩ませている問題、その原因に目を向けて、華琳は大きくため息を吐いた。

 下では黒い衣服の男が兵と楽しそうに歓談していた。通常であれば違和感を感じるモノは少ない――


「張コウ隊と仲良くなって来る、とか言い出したけれど……仲良くなって何がしたいの? あなたは」


 男の相手が鎧を脱いで武器を置いた敵の部隊でなければ。


 相変わらずわけの分からない行動をする、と内心で呆れても、華琳はその光景を微笑みながらのんびりと眺め続けた。

 どっと笑いが起こる。からからと笑う声が聴こえた。

 殺し合っていたモノ達とは思えぬ程、彼らは平穏に包まれていた。




 †




 官渡の要塞には城がある。

 元より放棄された廃城に手を加えたモノなので当然ではあるのだが、連合が終わって直ぐに真桜の工作兵達を投入したからかその様相は簡素であっても整えられていた。

 昼下がり、小奇麗に仕上げられている城内の廊下を、覇王の武の両腕が並んで歩んでいた。


「華琳様は何故あいつを牢屋に入れんのだ。アレは暗殺が本業だというのに」

「まあ、そう言うな姉者。見張りの兵に黒麒麟の嘶き……二つがあればあいつが容易に暗殺に動くことは出来んよ」


 官渡での戦闘が終わり捕虜の数は総勢で四千に上る。その内の一人、紅揚羽と謳われる武人を、華琳は牢に入れもせずに一部屋に軟禁しただけ。

 不満を漏らす春蘭は顔を歪め、不快を抑えることもない。

 元々の気質が一本気な所があり……さらには、華琳が前々から暗殺を跳ね除け続けている事からも、そういった輩を嫌っているのも一つ。


「そうは言うがな……」

「其処まで警戒するのはあいつの武力が徐晃並に高いからか?」


 明の武の腕は春蘭も認めている。

 そこらの一介の将程度では届き得ぬ逸脱した力だ。春蘭を始め、秋蘭、霞、秋斗の四人は魏の将の中でも飛び抜けているのだが、明の武力はその四人とほぼ同等と言っても良かった。


「それもある……が、アレのことは信用も信頼も出来ん」


 敵として戦った以上、即座に用いるなどまず有り得ない。初めて会った時にすぐ胸襟を開くモノなど居ないだろう。しかし春蘭のはそういった常識的な感覚でモノを言っているのではないらしい。


――ふむ……状況が揃っているから下手な動きはしない、と言ってもダメなのだろう。


 春蘭の内心を聡く読み取った秋蘭は、ため息を一つ落とした。

 明が何かコトを起こすとは思っていない。効率、という面を鑑みれば此処でリスクを伴う動きをする意味が無く、大切なモノすら失わせるのだから。


「……姉者は刃を交えてみて何か感じたのか?」


 相手が歴戦の武人で自身の在り方に誇りを持っているモノであったなら、春蘭も此処まで不機嫌にはならない。

 不機嫌になるのは何かを読み取ったが故にだろう、と秋蘭は思う。

 剣には想いが乗る。力の強さは筋力だけで測れない。相手の表情から読み取れる内面も……緊迫した場で透けたりもする。

 秋蘭は弓であるが故にそういった直感的で感覚的な読み取り方は出来ない為に尋ねてみたのだ。

 むすっと尖らせた唇を、春蘭はさらに尖らせて眉間の皺を深めた。


「……張コウは徐晃と同じで剣が“軽い”」


 重量や筋力の意味では無く、とは言わずとも伝わる。剣を振る理由の問題であろう、と。

 秋蘭は黙って続きを待った。


「徐晃は黄巾の時よりも動きはいいが……あの時より“重さ”が足りん。だから私や霞に一度も勝てんのだ。まあ、記憶を失っているから仕方ないかもしれんが」

「だが張コウには戦うに足る理由があるぞ?」


 剣を振る理由が一人の為だ。必然、春蘭の言う“重さ”が出ても不思議では無いと秋蘭は思ったが、春蘭は小さく首を振って否定を示す。


「あいつを武人では無いと言っていたな? 確かに武人では無い。アレは……本来空っぽなんだ」

「空っぽ?」


 言葉足らずな表現に首を捻るも答えが出ない。厳しい目つきで、じ……と春蘭が目を合わせてきた。


「胸に抱く想いは確かに妄執の類だろう。芯が無い、自分が居ない、あいつ自身がただの剣と変わらん。しかし……ブレが出ている、負ける瞬間に余計ブレた。そんなモノを、どうして自由にしておける?」


 ああそうか、と秋蘭は納得がいった。春蘭が警戒しているのは、心が乱れていて何をしでかすか分からないと訝しんでいるからであった。


――徐州での戦後に霞が何も言わなかったあたり、今回の戦の前後で何かが変わっているのか。そういえば……挑発には乗らない奴なのに私の言葉で苛立っていたな。


 思い出してみれば、違和感はあった。

 いくら挑発しても飄々としていそうな彼女が、自分との一騎打ちでブレた瞬間があった。


――あの時私は、何を言ってやったのだったか……


 歩きながら思考を廻すと、言い放った言葉を思い出せた。


『世界は変わらんさ。自分が変わろうとしない限り。お前の大切なモノも、変わってくれと願っているのではないか?』


 確かに秋蘭はそう言った。

 他愛ない一言。挑発でもなんでもない会話で明は心を乱されていたと思い出す。


「姉者……あやつはあのまま、大切なモノの為だけに生きていたいのだろうよ。その大切なモノに変わってほしいと願われて自分が出てきたに違いない。だから……杞憂だ。曖昧な状態なら余計に大切なモノに縋るから、田豊の生存を揺るがすような行動はしないと思うぞ?」


 生きている限り変化は必然だというのに……と心の中で一人ごちる。

 他人の言うままに生きる人形のような人生。他人の救いの為に生きる己の無い生き様。


――自分が輪の中に入っていないのなら、誰かの為に、とは呪いと同じだ。


 似たような生き方をしている秋斗を見ていればよく分かる。


――舞台で蠢く道化師のように踊って、廻って、笑って……誰かの笑顔が見たいから生き、戦い続ける。其処に自分の願いはあるのか否か。あいつらはそれでいいと言うだろうが……お前達を想うモノ達はどうなる……。


 他人の幸せが自分の幸せ……そんな生き方をしていて楽しいか。秋蘭は自分との違いをはっきりと認識した。出来る限り華琳と共に生きていたい自分は、やはり二人のようにはなれないのだと。

 二人の生き方を否定はしないが肯定も出来ない。秋蘭は想いを向ける側。彼らのような輩に、救われて欲しいと願う側だから。


「むぅ……それでも、だ。ブレたままで戦場に立たせるわけには行かん」


 そんな秋蘭の思考は知らぬまま、春蘭は単純に、曹操軍のこれからを話した。その為に明の軟禁されている部屋に向かっているのだと言わんばかり。

 春蘭は明が仲間になるのは確定としていたのだと気付いて、秋蘭はくつくつと喉を鳴らす。

 部屋までは後少し。華琳は秋斗が会う事を禁じただけで、秋蘭と春蘭には何も言っていない。

 二人が話す事もしていいだろう……が、


「霞に任せてもいいと思うぞ?」


 目を細めて、優しく諭す。

 自分達が動いているならば、神速は既に動いているだろう。そう、予想して。


「霞に?」

「うむ。桂花の到着は今日の予定なのだから、本格的にコトを起こす前に霞も何かしら動くはずだ。ほら、シ水関での事があるだろう?」

「華雄の事、か。あいつの澱みは晴れているはずだが?」

「澱みはもう無いだろう。しかし……聞いておきたい事や、言っておきたい事もあるだろうさ」


 そういうモノか、と春蘭は難しい顔で腕を組む。

 春蘭も華琳の為にイロイロと話しておきたい……そんな心が透けて見えて、秋蘭はさらに優しい笑みを深めた。


「今回は引いてやってはどうだ? というか、姉者は張コウと会って何を話すつもりだったんだ?」


 キョトン、と目をまぁるくした春蘭は、しばし沈黙して瞼をぱちくり。


――ああ、姉者は可愛いなぁ……。


 その愛らしい仕草に、秋蘭は内心で蕩け始める。

 幾分、慌てたように言葉を紡ぐ。口を開いたのはもちろん……春蘭。


「そ、それは……ほら、私が華琳様の素晴らしさを説いて行けば自然と奴も――」

「……よく分かった。桂花が着くまで部屋で待とうな」


 つまりは無計画。会って話せばどうにかなるだろうというごり押し。春蘭らしいと言えばらしいが、相手がそんな単純なわけが無く。

 ぽんぽんと二回肩を叩いてから、片手で無理やり春蘭の身体を回転させた。


「わ、私だってなぁ、戦うだけじゃないんだぞ!?」

「ああ、そうだな」


 姉に向けるのは生暖かい眼差し。まるで子供を見るようなモノ。

 ショックを受けた春蘭は為されるがまま、怪我をしている秋蘭を無理やり振りほどく事も出来ず。


「う……そんな目で見るなぁーっ!」


 押されても逆らう事はせずに廊下を引き返して行く。

 戦場では絶対に上げない可愛らしくも情けない叫びを上げて。





 †





 目が覚めて三日になる。

 あたしの行動は縛られる事無く、捕虜としては有り得ない厚待遇で軟禁されていた。

 不満があるとすれば秋兄に会いたかったけど会わせてくれないことくらい。

 ただ、昨日から目を光らせるモノが……一人。

 神速との呼び声高き張文遠。武器を傍らに、日中はあたしの部屋で居座っている。

 陽動を込めた巡回から昨日帰ってきて、あたしが捕まったと聞いたから此処に来た、のだろう。

 喋る事は無く、挨拶する事も無く、ただただ無言で其処に居るだけ。

 あたしから張遼に話す事なんか無かったから、ずっと無言で居てやった。軽い調子で話し掛けて何か勘ぐられるのも嫌だから。

 部屋の入り口、張遼は椅子を傾けて船を漕いでばかり。手洗いに立つと部屋の外に出て、着いては来ない。戻ってくるとまた部屋に入るだけ。兵士がそこら中で見張ってるから下手な行動は出来るわけも無いけど、さすがに何がしたいのか分からない。

 窓の外を眺める時間にも正直飽きてきた。何も言わないなら……探りを入れてみるか。


「……ねぇ」

「お、やっと話しよったか」


 首を向けて言うと、彼女は椅子を落ち着け、膝に両肘をついて前掲姿勢でこっちを見た。

 どうやらあたしから口を開くのを待ってたらしい。


「……待ってたわけ?」

「いやぁ……ウチ入ってもなぁんも言わへんだから、それならウチもって思うてな。ずるずる引き摺って二日目や」


 にしし、と口に手を当てた彼女は、猫みたいな笑顔だった。たかだか話すだけに悪戯をしていたわけだ。

 それより、声にも瞳にも、憎しみが全く無い。シ水関での挑発の事、堪えて無いんだろうか。秋兄は変な人だから打ち解けるのも分かるけど……さすがに袁家のあたし相手にソレは無くない?


「華雄のこと……」


 自分から口に出してみると、ピクリと彼女の身体が僅かに跳ねた。

 少しだけ細められた目にあるのは、殺意では無く敵意。でもやっぱり憎しみは無かった。


「ああ、せやな。シ水関でのことよう覚えてんで。忘れたくても忘れられへんわ」

「へぇ……華雄みたいに忠義に殉じれなかった奴がよく言うねー」


 煽ってみても、にやりと不敵な笑みが帰ってくるだけ。澱みが晴れているってのは想定外だ。徐州ではまだ憎しみが先行してたっていうのにさ。こちとらやりようは幾らでもあるけど。


「はっ、ウチは華雄とちゃうからな。好きなように戦って、好きなように生き抜いて、好きなように死ぬ。結果としてやけど、戦場で神速のままバカ共と死んでも楽しいし、乱世が終わったらどっか旅にでも出てのたれ死んでも楽しい。ウチがウチとして楽しんで生き抜く事が一番の忠義や」


 掴み処の無い発言。雇われの客将みたいな奴だ。これが曹操軍で上手くやっているのは不思議で仕方ない。

 いや、それより変な点がある。


「死ぬの前提なんだ?」

「ん? 人はいつか死ぬやろ。たった一回こっきりの人生、楽しめへんだら損やっちゅうねん」

「じゃあ曹操のとこで戦ってるのは楽しいっての?」

「そりゃなぁ。強い敵と戦えるってのはウチにとって何より楽しい事やで。全力で、この身この心この命、主の為も自分の為もぜんっぶ賭けて戦ってる時ってなぁ……めっちゃ気持ちええもん」


 恍惚とした表情は、きっと夏候惇との一騎打ちを思い出してだろう。

 なるほど。武人らしい答えだ。さっぱりとしていて分かり易い。

 自分の力を最大限に出せる瞬間は命のやり取りの場で間違いない。兵士達が命を最も輝かせて生きている事を実感するのと同じ。生死を賭けた戦いは心が躍るモノなのだろう。

 誰かを守る為、その想いすら付加分の力となる。たまにいるのだ、こういう部類の人間は。

 楽しい事を求めるのは人として正しいから否定はしない。

 真っ直ぐにそう言えるからこそ彼女は武人で、その輝きを喰らいたい側のあたしは武人では無い。

 戦場だけでなく、今生きているこの時をも大切にして、人の生き死ににも拘り過ぎない。誰かの為に戦う事も出来るし、自分の欲の為に戦う事も出来る……そんな張遼はあたしや秋兄とは全く違うイキモノだ。


「ふーん、あたしが人殺すのを気持ちよく感じるのと似てるのかな」


 似ているとすればこれか。

 未だ赤い血を浴びると興奮するし、湯気の上がる臓物なんか堪らなくなる。絶望の表情も断末魔の雄叫びも、あたしにとってはやっぱり心地いいモノなのだから。

 けど、最近は少しだけ気持ちよさが薄くなった。秋兄のせいだ、まったくもう。


「うへ、趣味わる……。ちゃうちゃう。あれやで、こう……真っ白になって、他の事なんもかんもどうでもよくなって、ああ、ウチ生きてんねんなぁって実感できるんや」

「んー……じゃあ夕といちゃいちゃしてる時の方が近いのかな。キモチイイし、真っ白になるし、どうでもよくなるし」

「あんたそういやぁ……桂花の友達やったっけか……」


 すーっと椅子を引きつつ、いやいやと首を振りながら張遼は身体を竦めた。そんな警戒しなくていいじゃん。ってか桂花は此処でどんな生活してんのさ。


――あ、そういう振りか。冗談を此処でかませる人なんだ。


 見れば引きつつも口元が緩んでいる。やっぱりあたしに対して憎しみは持っていないらしい。


「そだよー。百合っ子な桂花の友達。張遼はあたしを食べてみたい? それとも食べられたい?」


 舌を出してにやけてみると、彼女の頬が引き攣った。こういう返しには慣れていないようだ。


「……ま、ええわ」

「あれ? 逃げちゃうんだ」

「話の筋変えてしもたし逃げるに限る。別に組み敷いてもかまへんけど?」

「やん♪ 優しくしてね?」


 すとん、と寝台に腰を下ろして誘ってみる。

 お遊びだ。暇だったんだからこれくらい許して貰おう。

 ぐいぐい来られるのは苦手な様子……というよりかは、お気に入りの子にしかがっつり行かない部類と見た。


「凪やったら良かったのに……柔らかそうな太腿しよるけど……うん、あかん……」


 遠い目をして何か言ってる。きっと聞こえてないと思ってる。あたしの耳にはばっちり聴こえてるよ、張遼。

 後に、ふるふると首を振った彼女が、真剣な眼差しで見据えて来た。お遊びはおしまい、きっとそういうこと。


「……なぁ、張コウ」

「なぁにー?」

「あんたぁはクソアマやけど、譲れへんもんがあるんやろ?」


 酷い呼び方。まあ、嫌いだと真っ直ぐ伝えてくるあたり、この人も根は素直で優しいに違いない。

 問いかけの意味は……最後の線引きってわけだ。


「譲れないモノ……ね。華雄の事を割り切る最後の線として、あたしの事確認したいってこと?」

「……せや」

「感情とか心ってのは理性とは別だもんねー。憎しみは無くなったけどしこりがあるって感じじゃない?」


 不快気に寄せられる眉。思考や心の中を読まれるというのは、気心が知れた仲でなければ気持ち悪く感じるモノ。

 仲間でもなんでもないのだから、この程度のいじわるはさせて貰う。多分……逆鱗はコレ。


「後悔してんの? 自分がしっかりと止めてたらーって」

「っ! してへんわ! あの時自分がこうしてたら……んなもんクソ喰らえや!」

「だよねー。それで華雄が戻ってくるわけじゃなし。戦った意味も想いも嘘にしちゃうわけだし」

「……分かっとって聞いたんかい」

「そそ、これがあたしのやり口」


 ほら怒った。

 後悔しない彼女は正しい。考えてしまう事はあるだろうけど、今を大切にする人だ。生きている実感を戦いに求める彼女は、事実を受け止めて前を向ける出来た人間。苦しんでもがいて悩んで……でも絶望に折れなかった人。


――いいなぁ……


 あたしはやっぱりこいつらが羨ましい。

 大きく息を付いて冷静になろうとする張遼は、またあたしの瞳を覗き込んで言葉を紡いでいく。


「華雄はな、意地張って自分のやりたい事遣り切った。結果がどうであれ、あいつは戦い切った。譲れへんもんの為に……な」

「だからあたしにも譲れないモノがあるかどうか聞きたいわけ? 自己満足だね」

「それでええねん。ウチが聞いておきたいだけやから」

「挑発なんて戦の常套手段じゃん? あんたらは引っかかってバカを見た、あたしは引っ掛けて得をした。それでよくない?」

「……っ……そりゃ、そうやけど……」


 言い淀む彼女は眉根を寄せ、ぐ……と拳を握った。

 突ける所はいくらでもあるけど……。


――いらいらする。羨ましい。ちょっとだけ……八つ当たりしてやろうか。


 目を細めて頬を吊り上げる。並べる言葉は、彼女の苛立ちを煽るモノ。


「あはっ……どんな言葉が欲しい?」

「……」

「あたしは一人の為に戦ってる。華雄も一人の為に戦った。違いは無いから許せる、それで満足?」

「……っ」

「あんたらは誇り誇りってうるさいけど、死んだらただの肉袋。守りたいモノ守れなかったら……ひひっ、なんなんだろうね?」

「……お前、は……」


 震える拳、ギラリと光る眼差し。ひしひしと怒りの気が伝わってくる。憎しみを再燃させるのは容易い。人に嫌われるのは簡単だ。

 十分だ。少しだけすっきりした。

 でも……と思う。大きな不和を齎すのはよろしくない。何より、案外聡いこの女には、本心を言った方が此れからの為にいい。


――いや違う。自分に嘘をつくのはなんかヤダ。あたしが言ってやりたいだけ。秋兄のせいだ、まったく。


「無駄死になんて言わないよ」

「……へ?」

「あんたみたいな人が友達に居たってだけで華雄も幸せでしょ。好きなように生きて、好きなように死ぬ。華雄もそれしただけじゃん。命投げ捨てて結構、最高、ひゃっはーだよ。自分を持ってるあんた達はそうして楽しんで生き抜けばいい」


 面喰っている張遼の瞳を見据えて、べーっと舌を出した。

 猪々子とか夏候惇みたいな華雄なら、こいつにそうして欲しいと願うだろうから、伝えてみたいだけ。

 自分とは違うから、伝えてみたいだけ。


「あたしはね、華雄の想いを否定してない」

「……わけ分からんのやけど」

「想いの為にって考えは好きってこと。華雄は誰かを想って、許せなくて、自分を貫き通したわけじゃん。そんで死ぬ事で想いを託した。死んであんたの胸に想いを残した。

 だからまだ戦ってるんでしょ? 董卓が作りたかった世界を見る為に。それもあんたがありのまま駆ける事で……それならきっと、無駄死にじゃない」


 じ……とこちらを見やる視線は鋭い。あたしを読み解こうとしている。そのまま言ってるんだから気にしなくていいのに。

 ああ、またいらいらしてきた。ホント、なんであたしは……


「命賭けて想いを繋ぐ、そうして誰かの中で生き続ける。あたしがしてる事とおんなじだ……って、つまんない事言った」


 此処まで言わなくてもいいのに、何を感情的になっているのか。


「ええ、聞かせや。正直、ちぃとばかしあんたの事を知ってみたなった」


 自分語りをするのは好きじゃない。


――あたしが聞いて欲しいだけ? なんかヤダ。此処は、この場所は、こいつらの側は……あたしには眩しすぎる。


 苛立ちが胸を裂いてくる。すっきりしたい。そのまんま言えば、ちょっとはすっきり出来るかな?

 どうせこの後勝てば一緒に戦っていく人材だ。もういいや、めんどくさいから難しく考えるのはやめよう。


「……もしあたしが死ぬのなら、あたしの代わりに桂花か秋兄が夕を救ってくれればそれでいい。例えあたしが死んであの子が泣くとしても、誰かが夕を笑わせてくれたらそれでいい」


 いつも考えてる。あたしが死んだらどうなるか。

 夕の幸せを手に入れて、あたしが死んでしまっても……彼女が笑顔で居れる事を願ってる。桂花と秋兄が優しい人で良かった。


「まるで今死んでもええみたいな言い方やな」

「冗談! 夕を泣かせるような事は出来る限りしないってば。でも、こんな乱世で、親しいモノが誰も死なずに生き残れるのが確定なんてバカげてるじゃん。そんな都合のいい世界なんか嘘っぱちだ。茶番劇だ。みぃんな何かの為に命賭けて戦ってるのにさ。戦ってるなら、自分が死ぬ可能性すら少しでも考えておくべきってねー」


 夕が死ぬなんて事態にだけは絶対にさせないけど、とは言わない。董卓を守れなかったこいつには言うべきじゃない。


「……その通り、か」


 ちくりと何かが痛んだような表情。董卓軍の多くを失った張遼には、少し痛い言い方だったようだ。


「なーんか煮え切らないみたいだけど……求めてるのはお綺麗な試し合いなの? 命が安全圏に確約されたモノで渇望が満たされるなら――」

「あほ言え。んなわけあらへん。殺し合いと試合はちゃう。なんもかんも賭けられるんは命乗せてこそや。戦争しとるのに、安全圏で慣れ合うだけの……茶番みたいな戦争ごっこなんざしてたまるかいっ」


 睨む視線は殺気を込めて。その怒りは、将として当然のモノ。

 張遼はこうでなければ、神速には成り得ない。

 等しく命を賭けるから兵が守りたくて着いて来る。強さに焦がれ、追い求めるから兵も並びたくて追い駆ける。

 生きたい願いが力になる……兵はそれでいい。だが彼女達のようなモノは違う、違うのだ。高い武力を持っているモノ達の力が最大限に出るのは……“死に物狂いでナニカを守る時”。

 守る何かは、自分の矜持か、夢か、愛する他者か……様々ある。彼女の指標は、戦い続ける事に歓びを……きっとそうなんだろう。

 正々堂々……汚く醜い戦場でそれを貫くから指標になって、人々が憧れる。彼女達は綺麗じゃなくちゃならない。汚れた道になど、憧れるモノは居ないのだから。


――あたしはそんなモノより結果と効率が欲しいけど。


「あーもう、めんどなってきたっ」


 聞き出そうとしていたのに逆に掻き乱されたからか、ガシガシと頭を掻いた張遼は、頬を両手で一叩き。後に、すっきりとした眼差しで見てきた。


「つまりや、やり方が汚くて線引きも簡単に越えよるけど、今のあんたぁはウチらとなんも変わらんっちゅうこっちゃな」

「はぁ? 何処をどう取ればそうなるわけ?」


 全く意味が分からない。結論が破綻しすぎだ。

 いじわるく笑みを深めた張遼は、偃月刀を拾って立ち上がった。


「まだ教えてやらへん。ただな、此れだけは言うたろ」


 てくてくと扉に向かって歩く姿は楽しげで、振り向いた表情は……思い遣るような優しいモノ。


「あんた、自分で思うとるよりも案外甘い人間になりよるで」


 あたしが? あんた達を崩壊させる為に来たこのあたしが甘い?

 お喋りが過ぎただけだ。いらいらする。胸がむかむかする。

 睨みつけると……にへら、と笑い返された。


「今日の夜には桂花も着くで。大切なもん助けたいんやったら……嘘つきなや」

「……言われなくても」


 気持ちを落ち着けて、舌を出して送り出した。ひらひらと手を振ってから扉を閉める彼女は、もう心を読みやすい人では無く、一介の将。

 どうやら此方のしたい事はバレているらしい。その上であたし達の策に乗る、という意思表示だろう。


 あたしが嘘をつけば、袁家は勝てる。

 あたしが裏切れば、袁家を滅ぼせる。

 どちらでも夕が助かる道。優しい優しい曹操軍は、桂花の為に夕を助けてくれるだろうから。けど、夕が望んでるのは……たった一つ。

 選ぶのはあたし? 違う、夕だ。あたしは夕の為だけに生きてるんだから。空っぽでいいよ。ずっとこのままがいい。


――あの人とならどんな会話になっただろ。


「あーあ、秋兄に……会いたいなぁ……」


 せめて先に彼に向けて、助けたいって話したかった。

 自分と同類なあの人と話せたら、こんなにイライラしないで済んだのかな?





 †





「――――そんなわけでだ、俺はいつもえーりんに頭が上がらん。殴られるからな」

「あんたがバカな事ばっかり思いつくからでしょ!」

「いてっ!」


 べし……と肩を思いっ切り叩かれた秋斗。ソレを見ていた張コウ隊の兵士達は呆れを含みつつ、笑う。


「ぎゃはははっ! バカだろあんた!」

「くくっ、バカ過ぎ。こりゃ尻に敷かれる部類だな」

「言ってる側からまた殴られてやんの!」


 捕まっている時間を持て余していた張コウ隊は、今日の朝にふらりと訪れた秋斗とこうして他愛ない話を繰り返していた。

 初めは警戒していた。恐れても居た。

 友の地を奪われた黒麒麟がわざわざ出向いたのだ。袁家が行った侵略は彼らも分かっている。何かしら苛立ちをぶつけられるのでは、と思うのは必然であろう。

 しかし彼は普通にバカ話をするだけで、なんら幽州の事には触れなかった。

 余りに異質。捕虜に対して、それも一介の兵士達に対して気さくに話し掛けるモノなど、誰が考えられようか。

 通り過ぎる曹操軍の兵士達は訝しげな視線を向けるも、別段何も言わずに去って行くだけ。

 敵とは憎むモノである。秋斗に不信感を抱くモノも少なからずいるだろう。だというのにこうして話す彼の狙いは、探しに来た詠でも読む事は出来ない。

 じとり……と目を向ける詠。バカ話に巻き込まれたわけだが、そろそろ行くぞと伝えている。

 彼は目を泳がせつつため息を一つ。


「そろそろ行かないとダメみたいだ……が、最後にお前さんらに一つ言っておきたい」


 瞬間、兵士達の顔に緊張が走る。

 真剣な表情は何を言いたいのか。ただで話をしに来るわけがないか、と落胆の視線もちらほらと。


「張コウだけど……拷問とかしてないから安心しとけ。そんなもんするつもりも無い」


 よっと、と声を出して柵から降りた秋斗は詠の隣に並ぶ。

 茫然と、歩き始めた彼の背中を見つめる張コウ隊。ひらひらと振られる掌が一つ。


「あいつの望み、叶えてやろうぜ」


 何を言っているんだろうというような幾多の視線を背に受けながら、ゆっくり、ゆっくりとその場を離れて行った。

 歩きながら彼の方を向き……詠は眉を顰めて睨みつける。


「あんた……何考えてんの?」

「……一番起こる可能性が高い事」


 答えになってない返答に、もやもやと苛立ちが募る。

 自分達の考えている戦絵図はある。張コウをどのようにして裏切らせるかも、予想は立っている。それでも彼がわざわざ手を打つというのは、詠達軍師の予定にはないモノ。

 巡る思考は曖昧にぼかされて繋がらない。彼の考えが読めないのが、ただ悔しい。


「張コウと張コウ隊がこっちの予定に反して裏切った場合……ってこと?」


 あるとすれば、裏切ったとみせかけた明が張コウ隊を引き連れて再び袁家側に着く事。華琳が明の心を叩き折れなかった場合はそうなる。

 予防線を張ったのではないか、と詠は判断した。小石程度の安全策。少しでも迷ってくれれば僥倖で、誰かしら一人でも多くがが助かるように。


「んなことは起こらん。紅揚羽は蜘蛛の巣に絡みとられちまった。もう寸分たりとも逃げられねーさ」


 しかし秋斗の返答は否であった。


「じゃあ何よ?」

「今日の夜に分かる」

「教えてくれたっていいじゃな――――」

「あ! 兄ちゃーん!」


 むっとした詠が詰め寄ろうとしても、悪い時機で元気な声が掛かってしまい途切れた。

 駆けてくる桃色の髪に小さな身体。満面の笑顔での突進突撃に身構えること無く……寸前の所、ききーっと急ブレーキを掛けて季衣は止まった。


「どうだった?」

「言われた通りに親衛隊の皆に伝えてきたよ! 了解、だってさ!」

「うし、よくやった。ありがとな」


 自然な動作で、さもそうするのが当然であるかのように彼はグシグシと彼女の頭を撫でやった。


「子ども扱いしないでってば!」

「おお、すまん。くせだ、許せ」

「ふーんだ。ボクは大人だから許してあげる。そんなに頭撫でたいなら、ちょっとくらい続けてもいいよ?」


 腰に手を当てて胸を張る仕草は愛らしく、何処が大人だと突っ込みたくなるも、さすがに言わない。

 そんな二人を見ながら、詠が訝しげに秋斗を見上げる。


「……またなんか企んでるの?」


 自分の与り知らない事がどんどんと進んでいる。彼が齎す不可測は、やはり読み取れなかった。

 撫でられるのが心地いいのか、目を細める季衣をそのまま、詠の視線を彼は横目で受け止める。


「ああ、親衛隊の証をしっかり心に刻んどけって伝えて貰っただけだ」

「……」


 やはり彼は教えてくれず、詠はむすっと頬を膨らませて顔を俯けた。


「兄ちゃんダメだよ? えーりんを悲しませちゃあさ」

「んー……でもなぁ」

「べ、別にいいわよっ!」


 若干、少しだけだが声が震えていた。気恥ずかしさからか、悲哀からか、詠には分からなかった。

 ちら、と季衣を見やって、秋斗はため息を吐いた。


「許緒。荀彧殿は到着したか?」

「ふえ? まだだけど……」

「なら到着するまでに真桜のとこ行って最後の確認して来たらいい。次の戦いはお前達の働きに掛かってるから、念入りにな」


 季衣に聞かれたくない話なのだと直ぐ分かる。

 わざわざ隠すという事は……親衛隊関連で何かを企んでいるのだ。その程度詠も読める。繋がる先は何処か。この後の戦を思い描いて……詠は答えのカタチが見え始める。


「もう五回も確認したのに?」

「経路確認と地図の見直しは大事だ。結構めんどくさい作りにしちまったから」

「間違っても流琉が居てくれるから大丈夫だって」

「先導して貰う側と先導する側、どっちの方がかっこいい?」

「う……なんか流琉も春蘭様と一緒に戦って変わってたしなぁ……」


 このままでは置いて行かれてしまうのではないか、と悩む季衣の頭に、秋斗はポンと手を置きなおして微笑んだ。


「間違えずにいればいつも通りお前さんが背中を見せる側で居れるぜ? 戦うだけじゃないってとこ、見せてやれ」

「もう! 撫でるのは許したけどそれはダメ!」

「おっと」

「べーっだ! 兄ちゃんのバカ! じゃあえーりん、また後でね!」

「うん、また夜に」


 秋斗には舌を出して、詠には元気よく声を上げてひまわりのような笑顔を詠に向けた季衣が駆けて行く。ひらひらと手を振って、二人はその背を見送った。

 見えなくなってから、秋斗は大きく息を付いた。


「……えーりん」

「えーりん言うな、バカ」


 声音は真剣そのモノで、落ち込んでいる時の彼のモノ。もう、秋斗の心の動きはある程度分かる。だから詠は少しだけ冗談交じりに声を返した。

 小さな苦笑が一つ。気遣いに礼も言わない。言わなくても分かってくれると、彼も知っている。


「許緒と典韋には内緒だが、万全を期す為に親衛隊には一つの指示を与えてある」

「官渡での防衛の話ね?」

「ああ。最後まで残るのは許緒と典韋だからな。あの二人が死なないように。そして確実に袁紹軍を潰せるように」


――史実の典韋が死ぬのは官渡が起こる前のはず……ズレちまったもんがあって、もし何処かしらで危機に瀕する事があるんなら……他の命を対価に守るだけだ。


 未来知識の事柄など、誰にも話さずにいるべき。秋斗が張る予防線など、誰にも分かるはずが無い。

 ふい、と顔を上げて秋斗の瞳を覗いた詠は……凍りつく。渦巻く黒が、見た事のあるモノであったから。

 揺れているのは誰かを切り捨てる時に浮かべていた闇色。非情な命令を下す時の、黒麒麟の輝き。


「あんた……戻ったの!?」 


 震える声が紡がれた。胸が締め付けられる。まさか、と思った。彼が戻ったのではないかと、淡い期待が胸を埋める。

 脈打つ鼓動は抑え付けれるはずもない。がしっと彼の腕を掴んで、詠は縋り付いた。

 されども、彼はふるふると首を振る。


「いんや。ただ、黒麒麟もこんな気分だったんだろうなぁ」


 落ち込む心、歪む眉、視線を合わせる事も出来ない。


「そう……よ、ね……」


 当然だ。彼が戻ったなら、詠の事をちゃんと真名で呼ぶはずなのだから。

 戦場を見ても戻らない。人を切り捨てる方策を立てても戻らない。ならもう、彼が戻るには人を殺すしかないのだろう。詠はそう考える。

 勘違いさせてしまった為に、彼の胸に一筋の痛みが走る。皆が待っているのに、何故戻れないのか……哀しくてしかたなかった。

 今は落ち込んでいる時では無いのだ。心を切り替えて、彼は話をずらしに掛かった。


「官渡の防衛策はギリギリだ。真桜と工作兵が掘った穴と、お遊びで準備した秘密基地が役に立つ。

 ただし……親衛隊の幾人かは捨石。時間稼ぎの為のな」


 盤上の遊戯の如く、彼と朔夜は小さな動きから大きな動きまで予測している。

 当然、詠も予測をしている軍師達の内の一人だが……秋斗のやり方は人の命を“選んで”躊躇いなく使うという点に於いてだけ、彼女の上を行く。

 少し説明されただけで詠にはその全容が分かった。驚愕は無い。ただ、哀しかった。


「……季衣にも流琉にも内緒なのはなんで?」

「一人でも多くを助けようとするだろ? あの子達は優しい。力を持っているからこそ、目の前で死ぬ奴等を放っておけない性質だ」

「心に傷が残るわ」

「それでも必要だよ。成長の為にはさ。許緒と典韋にはもう一つ大きくなって貰わなけりゃならん。それに……」


 先を待ったが、彼は口を噤んで空を見上げた。傾き始めの日輪はまだ高く、昼過ぎだと教えてくれる。


「それに?」


 堪らず、詠は続きを聞いた。少しでも教えて欲しい。支えたい。彼の思考を読み解きたい。そう願いを込めて。


「……これからの乱世を思うと、大事な事なんだよ」


 ああ、全てを言ってない。詠は瞬間的に理解が来る。誤魔化し、曖昧、ぼかしは彼の常套手段だ。記憶を失っても変わらず、本当に言いたくない事は絶対に話さずに隠す。

 これ以上は秋斗の引いている線を越える。全てを話して欲しいというのはわがままだ。相手の気持ちを考えない、傍若無人な押し付け。例え家族や恋人であろうとも、何もかもを話すのは違う……それが秋斗の在り方で、他者に求めるモノ。


――ボクだってずかずかと入り込まれるのは嫌な部分もあるから分かるけど……やっぱり哀しいわよ、バカ。


 ゆらゆらと着かず離れずの距離感は不安が大きい。居心地がいい時もあるが、切ない時も多々ある。

 少しだけ欲が出た。

 詠は、一歩だけ彼に近付く。そして……先程は無意識で掴んだが、今度は自分の意思で、ぎゅっと手を握った。


「えーりん?」

「全部を話せなんて言わない。言ってやんない。けど、信じてあげる。あんたはバカだけど、いっつも誰かの為ばかり考えてるって知ってる。これだけは覚えてて。ボクは絶対あんたの味方よ?」


 嘗ての彼にも、こうして話してあげたら絶望も薄れたのだろうか……そんな後悔も少し。

 妄信はしない。狂信もしない。でも、信頼と信用に足りる。秋斗の性格も見ている世界も、詠は今此処にいる誰よりも知っているのだから。

 視線が絡み、黒に吸い込まれそうになった。鼓動が跳ねる。切ない痛みが心を襲った。


「も、もちろん月も」


 慌てて俯いた詠は、恥ずかしさで耳まで赤くしながら……まるで自分だけが思っているような言い方にもひっかかり、言い直す。

 そんな彼女の優しさが心に染み入る。想いを寄せてくれていると知っているから胸が痛む。きゅっと緩く力を入れて、秋斗は小さな掌を握り返した。


「クク、やっぱ敵わねぇな。お前さん達には」


 優しい笑顔。儚くて、寂しい笑顔。ふっと消えてしまいそうな存在だと、詠は思う。

 またきゅうと詠の胸が締め付けられた。不安だった。何が不安なのか明確に分からないのがもどかしい。


「じゃあお礼として張コウ隊にしてた事のヒント……あー、切片をやる。夜までに答えを出してみな」


 直ぐに切り替わる彼の表情には、悪戯好きないつもの不敵さが広がった。なら、彼女も彼女なりの支え方をするべきだ、と心を落ち着けていく。

 ふふん、と鼻を鳴らして下から見下し、手を離して腕を組んだ。


「言ってみなさい」

「……袁家のやり口。紅揚羽の大切なモノ。曹操軍の行動予定。そんで……今の俺の立ち位置」


 出されたモノは四つ。

 するすると並べ立て、戦の予定に当て嵌める。歩きながら顎に手を当てて思考に潜る。

 秋斗の歩幅は大きい。着いて行くのは普段でもやっとであるのに、この時の彼は意図して早めているようであった。思考に潜る暇も与えない、というように。気付けばもう曲がり角付近で、彼はにやりと笑っていた。


「あ! ちょっと待ちなさいっ」

「元譲と妙才、霞とか三羽烏にも詳細を確認しておかなきゃならん。風と稟、朔夜によろしく」


 逃げるが勝ち、と彼は大股で歩み去って行く。


「なによ、もう!」


 黒の背中を見やりながら、先程投げられた切片を繋ぐ。僅かに、小さな違和感があった。

 彼の性格上、話したくない事はぼかしつくす。なら、どういう事か。


――袁家のやり口……人質のこと。田豊の母親は南皮に居る。


 繋がる思考に糸。一本を引けばまた一つ。


――紅揚羽の大切なモノ……田豊のこと。陽武で本隊の指示を出す。分けた部隊に優秀な頭は欲しいんだから。


 当然と斬って捨てるモノまで読み取るべき。もう一つも繋いでみた。


――曹操軍の行動予定……烏巣への夜行軍襲撃。官渡に少ない兵数を置く事で囮にして、それぞれが頭を付けて独自で動く各部隊が袁家を喰らい尽くす。


 最後の一つを繋げるには、何かが足りない。否、三つを繋げれば……読み取れた。彼の言葉に違和感があった為に。


――今の……秋斗? 記憶を失った事が関係を……あ……うそ……


 みるみる内に詠の顔が青ざめて行く。

 自分達が良かれと思って調べていた事が、敵を最悪の状態に追い詰めているやもしれない……それに漸く気付いた。

 神医とまで呼ばれる医者の所在を広く調べて……特に詠と月の記憶にある場所の情報を重点的に調べさせて、敵に知れ渡らないはずがあろうか。袁紹軍も助けたいモノがいるというのに。

 手が震える。彼は予想の内であったのか。何故、自分達軍師にも話さなかったのか……繋がる思考は、答えを弾き出してしまった。


――あいつの、今の立ち位置……客将の、こと……先行して官渡に向かった褒賞は……わがままの対価として、使える。だってあいつは所詮雇われの身で、正式に所属していない客将だから、“秋斗個人だけは好きに動くことが出来る”。


 話さないのは、必ず誰かが反対するからだ。紅揚羽が絶望に堕ちた後、軍の勝利とは別の思惑の為に、彼が動かないわけがない。

 それが出来るのは彼だけで、華琳が許可し得るのも彼しかいない。


「あんの……バカっ! なんでいつもあんたは……」


 ぎゅっと握った拳は震え、噛みしめた唇の隙間からは吐息が漏れる。


「……勝手に一人で決めちゃうのよっ!」


 じわりと目尻に浮かんだ涙を散らして、詠は一人、誰も居ない廊下の奥に向けて、悲哀と怒りの声を突き刺した。

 もう何を言っても、彼が誰かの為に動くのは止められないと知っているから、追い駆ける事など出来なかった。






 †






 燭台に燃える灯りは怪しく蠢き、場に居る面々を照らし出していた。

 曹操軍の重鎮ばかりで占められている謁見の間。夜の謁見にも関わらず、眠気を訴えるモノは誰も居ない。

 一人、秋斗の知らない顔が居る。

 猫耳フードを被った翡翠色の瞳の女の子。苛立たしげに睨みつけてくる辺り、彼の事が相当嫌いなようだった。


――あれが荀彧か。軍師が幼女優勢とは……ホント、この世界はわけが分からん。


 一応、風や稟から彼女の情報は聞いている。

 百合っ子で、被虐趣味で、口が悪いらしい。まだ一度も言葉を掛けてくれないが……挨拶すら返してくれないのでどんな感じかは秋斗にとっては謎に包まれている。


 今回の謁見は官渡の戦いに於いて最重要である為か、誰も口を開くモノが居なかった。いつもなら少しは雑談が飛びそうなモノであるというのに……。

 詠は彼が与えた切片からやろうとしてる事に辿り着いたので睨んでいたが……風達に変化が無いあたり、二人には話さずに呑み込んでいるようだ。

 ただ、朔夜には話したようで、泣きそうな顔で朔夜が秋斗の事を見ていた。


――世話になる。これは俺のわがままだ。許してくれな。


 目礼を一つ、頷きを一つ。

 口の動きだけで、バカ、なんて言ってくれる詠は……やはり優しい。朔夜はまだそういった気遣いは出来ず、俯いて震え始める。

 そんな二人をこれ以上見ているわけにも行かず、秋斗は視線を他に移した。

 痛い静寂のど真ん中に居座る覇王は不敵に笑い、ゆったりと脚を組んで椅子に座っていた。


――余裕があるのは良い事だが……最悪の方の予想が当たったらどうすんだ?


 彼と朔夜の予想、ではあるが。別段、秋斗は華琳と深く煮詰めたりはしていない。事前に話して却下されるなんて事態も想定して。拘束されたら堪ったものではないし、何も出来ずに待つだけなど……戦いを眺めているだけなど、もはや彼に不可能だった。


 幾分、扉が開く。ゆっくり、ゆっくりと入ってきたのは赤い髪。

 秋斗の頭がまた軋む。殺したいと喚いて軋む。斧が欲しかった。首を叩き斬ってやるのは斧でないとダメなのだ。

 目を瞑って、身体に立てかけてある剣を持って抑え込むと、気持ち悪くて吐きそうになった。自分の中に他人が居座ってるのが……自分が自分でない感覚が気持ち悪い。

 冷静になった頭と心で秋斗が明を見やると、目が合った。

 じ……と見据えてくる黄金の瞳。にやけた口元。甘い視線。べーっと出された舌。

 子供っぽい仕草は愛らしいのに、大人びた妖艶さが際立っている。


――なんで俺にそんな目を向ける? どんな関係だったんだ?

 聞きたい事は山ほどある。昔の自分を知るには、お前も必要なんだ。そんで……戻らないままで戦う為には……お前が一番必要なんだよ。


 口から突いて出そうになる言葉を全て呑み込んで、にやりと笑い掛ける。そうすれば、彼女もにやりと笑い返してくる。

 瞬間、ズキリ……と頭が痛んだ。早鐘を打ち始める心臓、もやもやと野暮ったいモノが心に掛かる。


――前もこんなこと……無かったっけか……


 彼女と自分はこんな風に笑い合ったのではなかったか……そんな気がした。

 偽善者、と耳に聞こえる声が、二つ。一人は目の前の女で間違いない。もう一人は……


 引っ掛かりを覚えた所で舌打ちが一つ。その方を見れば、猫耳フードが揺れていた。憎しみか、怒りか……どちらも含んでいるような目で、桂花が秋斗と明を交互に睨みつけていた。


「ようこそ、紅揚羽。歓迎しましょう……盛大に、ね」


 幾瞬、凛……と鈴の音のような声が響き、ビシリ、と場の空気が凍りつく。

 覇王の不敵な笑みが、獰猛な肉食獣のように見えた。

 一寸だけ秋斗を見たが、直ぐに視線を明に戻してまた笑う。秋斗は気にせず、これからこの場で行われる事を思い、深海の底のように静かに冷たく、脳髄を冷やして行った。


――札をきるのは……お前だ、荀彧。どうか正解を並べてくれ。そうすれば、俺は赤に賭けよう。一つ一つと繋いで来た現状。この時の為に、俺は待っていたんだから。


「では桂花……好きになさい」


 覇王の言葉を皮切りに目を細め、小さく息を付いたと同時に……猫耳フードの少女から、戦の終末への札が切って出された。







「……明」


 ギリ……と噛みしめた歯の隙間から漏らされた声は小さく、瞳は怒りと悲哀と絶望に揺れている。


――どうしてそんな目してんの? なんで怒ってんの? なんで、そんなに絶望してんのさ。


 せっかくの再会だ。感動的なモノにはならないと分かっていたが、こんなモノは完全な想定外。


――でもまずは……曹操に話を通さないと……。


 思い立てば速く、桂花から視線を外した明はそのまま……


「華琳様に話を通そう……って、思ってるんでしょ?」


 こちらが口を開こうとした矢先、じとっと睨む桂花にぴたりと思惑を言い当てられる。

 空白。

 頭の中が真っ白になった。翡翠は変わらず、明を責めるように睨みつけ続けるだけ。


――あたしのやろうとしてる事を読んでるなんて……やるじゃん。


 心の内で褒めて、口元が緩んだ。そういえば、一度も碁でも将棋でも勝てなかったんだったと思い出す。

 人心掌握に甘さがあったはずの彼女も成長している。此処にいるのは覇王の王佐。友では無く敵なのだと、認識を強固に高めた。


「そだね。桂花が分かってるって事は、曹操殿も分かってるんだろうね」

「当たり前じゃない。華琳様は私が敬愛する覇王なのよ? あんたの思惑なんか読み切っていらっしゃるわ」

「へー……あ、言葉遣い崩していいですかー?」


 なるべく流れを握られないように軽く言う。

 ナニカがおかしい。この場は、流されたらすぐ負ける気がする……僅かな空気の気持ち悪さを感じ取り、明は自分のペースを握れるように軽く話を振った。


「構わないわ。公式の謁見としたい所だけれど……あなたの流儀に合わせてあげましょう」


 自信満々なその笑みにも不快感が一つ。反発してやりたくなるも、さすがに出来ない。普段ならつらつらと皮肉や挑発を織り交ぜる明であれど、今回ばかりは空気を読んだ。

 その場で苛立ったのは春蘭。眉根を寄せ、嫌悪感を丸出しにして明を睨む。

 軍師達の瞳は探るモノ。この女を読み切ってやろう、この場を操ってやろうという……知性の輝きが幾多も光る。

 他の者達は訝しげに見つめるが、何も言わずに流れに任せた。主と軍師達への信頼、と言えるだろう。

 ただ、秋斗だけは面白そうに口の端を歪めて笑みを浮かべる。まるで自分を見ているようだと、そう思ったから。


「じゃあそうさせて貰う」


 目を細め、黄金の瞳を昏く濁らせて……明は哂った。

 皆が気持ち悪さを感じる中で、揺るがないのは三人。華琳と、桂花と、秋斗だけ。


「泣いて頼んだりとかー、そんなつまんない事あたしはしない」


 其処に駆け引きは無く、これはただの宣戦布告。大徳相手ならば明は、一手目で泣き真似の一つでもする。

 しかし覇王に対しての一手目は、これでいい。


「袁紹軍の情報を対価に夕を助けて欲しい」


 ほう、と息を吐いたのは華琳。たったそれだけとは……なんとも面白い、と。

 誘いだ。挑発と同じく、明は相手が出てから合わせるつもりであった。

 ギリ、と歯を噛みしめて、桂花が口を開く。


「あんたが伝える情報を信じろって? バッカじゃないの?」


 当然、誰も信じる事など出来ない。つい先日までコロシアイをしていたモノを、どうして信じる事が出来ようか。


「このまま戦っても長い時間を掛ければ袁家が勝てる。糧食の強奪、街への放火、略奪と虐殺、こっちはなんでも出来るし、なんでもする。風聞なんか気にならないし、外部はあたしらの戦に構ってるどころじゃないかんね。それはあんた達曹操軍の軍師も分かってるでしょ? 袁家があんた達の街に何も手を打ってないなんて、思ってないよね? 洛陽が燃えたって言うのに、さ」


 しん、と静まり返る場は耳に痛い。

 思い出して、不快気に眉を寄せて目を伏せたのは洛陽を知っている者達。泣き叫ぶ民の声、燃やされ犯される街、後に残った戦の爪痕は、自分達が守れなかったモノを思い出させる。

 華琳だけは呆れたように息を吐いて、それでも沈黙を貫いていた。


――外道策に縋り、勝ちだけを得る事は出来るでしょう。しかしそれをしたくないのはお互い様。今後の動きまで見据えると……これは脅しにはならないわね。


 試しに来ている、と華琳は聡く読んだ。民の被害を気にするモノかどうか、わざわざ確かめに来たのだ。

 変わらず怯まず恐れずブレず……そんな華琳の様子を見て、明の眼が僅かに細まる。


――甘くは無いか。劉備あたりなら少しは焦ってくれそうだったんだけど……


 めんどくさい、と心の内でため息を一つ。

 民の被害を気にするなら有利になる、とは行かない相手だ。必要とあれば華琳は民でさえ生贄に捧げる。隙など、一つも無いのだ。


――まあ、そんなあんただから、あたし達の策に余計乗らざるを得ない。


 表情に表すこと無く、明はほくそ笑む。


「……だけどあたし達には時間が無い。夕の母……且授様の病を治す為には戦に割いてる人員を医者探しの為の情報収集にも当てたい。この戦を早期に終わらせないと――」

「やっぱり……バカよ」


 明の語りは途中で区切られる。怒りと悲哀が渦巻く翡翠の眼差しによって。

 昏く、暗く、渦巻いていく明の瞳は……敵意を映し出していった。


「……なにが?」

「見えてない……全く見えてないの」


 曇る表情に、苦悶が刻まれる。友を想って、桂花の心が揺れ動いていた。


――交渉の余地も与えない……それが桂花が選んだやり方、か。徐晃ならどうやって切り崩したのかしら。


 自分とは違うやり方に口を挟む事無く、つい……と目を横に向けた華琳。秋斗を確認して、僅かに目を見開く。彼が……楽しげな笑みを向けてきた為に。

 誰も気付かぬ一寸の視線交錯。のんびりと明を見つめ始める秋斗からは笑みが消える。

 何かがおかしいと感じても流れに任せてみようと、己が思考を巡らせながら華琳は視線を戻した。


 張り詰める空気の中、次いで桂花の口から綴られるのは……


「且授が、助かるわけないじゃないっ」


 友には絶望しかないという、現実。

 目を見開いた明を睨みつけて、尚も続けて行った。


「上層部に訝しがられてるあんた達二人の首輪を生き残らせておくわけないでしょう? 牽制と脅し合いの泥沼になった上層部が、あんたと夕を怖がってないわけがない。居ない内に殺してしまおう、そうすれば誰がやったかも分からない、政治的な影響力が強すぎて私達は袁家上層部を皆殺しには出来ないから自然と守られるなんてことを……袁家ならそう考えるって、どうして分かんないのよっ」


 一気に言い切った桂花は、泣きそうな顔で明を見つめる。

 ただの予想だ。結果が分からないモノで、事実無根。ただし、内部を知っているモノにとっては、起こっているであろう事に最も近い。

 ああ、と明は嘆息を零した。

 表情が歪む。眉が寄り、唇が震え、悲しみが存分に映し出され……顔を伏せた。


 そうして、心の中でだけ舌を出す。


――且授様には護衛を付けて実力行使が出来ないような状況にしてあるし。桂花がこう言うのだって夕の読み筋。あたしを知っているからこそ、使える策があるんだよ。


 演技だ。最初に言葉を崩したのも、且授の話を出したのも、全ては桂花が読み取っているモノを確認する為。

 明は夕を信じて疑わない。夕が大丈夫と言えば、それが正しい。人形のような彼女は、そのまま震える声を紡いでいった。


「そ、そんなわけ、ないし……」

「そんなわけあるの」

「だ、大丈夫だもん」

「じゃあなんの為に夕が本陣に残ってるのよっ」

「……っ」


 此処で黙ればいい、相手が必死に、どうして、何故、と言った時に黙れば、それらしく見えるのだから。

 人の心の動きをよく知る明が仕掛けるのは、暗殺の手段。

 幾人も人を騙してきた。時には色を使い、時には友好を使い、するりと認識の隙間に忍び込む。暗殺の技術は、力だけでは無い。

 絶望に打ちひしがれる人もよく見てきた。なら今回は、自分もそうなって見せればいい。

 嘘泣きは出来る。感情の乗った震える声も出せる。こういう時、どんな顔をすればいいのか……


「……じゃあ、どうすれば……あの子は助かるの……?」


 長い沈黙を以ってして、明は笑った。涙を零しながら、彼女は己を嘲笑うかのように笑った。完成されたその演技は、見ているモノの悲哀を誘う。

 唇を噛んだのは沙和と稟。目を瞑ったのは凪と春蘭と秋蘭と風。目を逸らしたのは霞と真桜。泣きそうになったのは季衣と流琉。

 華琳は黙って成り行きを見つめるだけ。己が王佐に、全てを任せている。


「あんたはあんたらしく、夕だけを助ける為に動けばいいの。どうせ烏巣の襲撃が策なんでしょ? 話しなさいよ、その全て。あんたが夕を助ける為の動きも、それを聞いた後に説明してあげるから」


 じとり、と睨む目の端には涙の雫が一粒。

 促された明は、俯いて誰とも目を合わせずに、つらつらと説明を零して行った。大切なモノを助けたいが為に裏切る姿を、演じて行った。


「……烏巣に作られた陣は、四つ……東北、東南、北西、南西に位置してる。そして……その内の三つが……罠。分けてるように、見せかけて、二つに糧食はなくて、一つには毒入りの糧食がある」


 野戦か、それとも伏兵、と考えていたモノ達は驚愕に支配された。

 その策は聞き覚えがあった。思い出せるのは幽州と徐州での戦……白馬の王を追い遣った外道策に、四倍の敵兵を壊滅させた黒麒麟と鳳凰の計略……それらを複雑に絡み合わせて昇華させたモノ。

 敵の士気を挫くのは戦の常道。曹操軍としては糧食を燃やすか奪う事を第一としていたのだが、それを読まれていた事にまず驚いた。

 燃やさなくてよい糧食を手に入れるのも常道。一応毒見をするが……話す以上は必ず成功出来るように仕掛けているだろう。


「正しい場所は?」


 厳しい声で尋ねる桂花は有効な手段だと頭では分かっているが、やり方が気に入らない。そこで待ち受ける敵が誰かと考えれば余計に。

 夕と明を苦しめているその男への殺意からか、ぎゅう、と掌を握りしめた。

 声に含まれた怒りが、明に伝える。このまま行けば引っ掛かる、桂花は騙された、と。


――そして覇王は……策を聞いた上で罠に掛からないような手も打つだろう……全てが夕の予定通りだ。


「……北西の……」


 悲哀の声が綴られる。

 誰かを騙す事に心は全く痛まない。彼女の為になるならば、愛しい人の望みが叶えられるならば。


――演技と分かっていようがいまいが、曹操軍はこれで動くしかない。ある程度の制限をされた軍行動は、あたし達の格好の餌食。


「はっ……」


 小さな……本当に小さな笑いが、否、嘲笑が漏れた。居並ぶ将達の中から少し離れた席の、黒の男から。皆、視線をその方に向ける。

 華琳だけは、口を楽しげに引き裂いて秋斗を見つめて始めた。

 睨みつける桂花は無言で、邪魔をするなと視線に乗せる。詠と朔夜は悲壮に顔を歪ませる。


「荀彧殿はどうやって田豊を救うつもりなんだ?」


 軽い声音であった。重苦しい雰囲気をまるで無視した気軽なモノ。哀しい物語にも感情移入をしていない、この場にいる誰の話も信じていない、そんな声。

 まず風が、ああそうか、と納得したような表情になった。次いで稟の瞳に知性が灯る。

 己が軍師達の有能さを感じ取れて、そして秋斗の狙いを読み切って、華琳は頬を少しだけ緩めた。


「私が明と話してるんだから汚らわしい口を挟むんじゃないわよ、腹黒幼女趣味男。口と鼻を閉じて岩のように誰にも迷惑掛けずに死ね」

「俺がお前さんの命令を聞いてやる義理は無いし、これ以上は時間が勿体ない。お前が口を閉ざすかにゃーにゃー鳴いてろ、腹黒猫耳女」

「華琳様は私に任せてくださったの。だからあんたが口を開くのは命令違反。出てけ、空気が穢れる」

「好きにしろって言っただけだろ? 耳が四つもついてるのに聞こえなかったのか、荀彧殿は」

「これは服の一部。見て分からないの? 頭が悪いだけじゃなくて目も悪いのね。それとも幼女の事しか見れない穢れた眼なのかしら?」

「いや、良く見えるな。特に洗濯板の胸が。色気の欠片も無い」

「なっ……変態っ! 気持ち悪い! 死ね!」


 呆然としたのはその場の全員。

 真剣な空気も、哀しい話も、全てを台無しにしてしまった。切片を投げたのは秋斗で、壊してしまったのは桂花。

 自然な掛け合いのようにも見える貶めあいは……秋斗には狙い通りで、桂花にとっては無意識。

 胸に女性特有の実りを持たない幾人かが秋斗に殺気を向ける……振りをした。彼がいつも作るような緩い空気が広がり……軍師達は合わせつつ内心で緊張を高めたのだ。


――へぇ……あなた達はこの男に合わせられるようになったのか。


 華琳に至っては、面白い関係が出来上がったモノだ、と自分の軍の状態に満足して、秋斗のおかしなやり方も楽しくて、笑みを隠そうともしなかった。後でイジメてやる議題が一つ出来たのもあるが。


 この時点で聡く、明は読み切られてしまった。

 自分の嘘を、偽りの自分を、曹操軍の軍師達が読み切れないはずがあろうか。

 他愛ない喧嘩をし始めた二人に割って入るカタチで、必死を装った激発でもしておけばまだ繋げたであろうが、茶番に成り下がったこの場では、もう何をやっても滑稽にしか映らない。


――あー……やっちった。曹操軍は出るだろうけど……あたしが逃げるの難しくなった。


 状況的には烏巣を攻めざるを得ないから出撃は確定。

 砕かれた雰囲気で伝えられるのは、どれだけ演技をしようともお前を信じる事は無いという……不信。

 ただ、彼女は己が友の力量を読み誤っていた。


 くだらない掛け合いもそこそこに、桂花は秋斗に犬歯を出して睨んだ後……立ち上がって明の元に近付いていく。

 つかつかと目の前まで来て幾瞬、ぐい……と胸倉を掴みあげた。非力な彼女では持ち上げられないが、それでも目を合わさせた。

 揺れる翡翠にあるのは……絶望の澱みだけ。


「……クソバカ明。あんたのせいで夕が死ぬ。頭を廻しなさいよ……もう一度言ってあげる」


 声を荒げる事は無い。荒げてなんかやらないと無理やり抑えつけていた。


「なんで、夕は、本陣に、残ったの?」


 しかし震えて仕方ない。緩い空気など既に払拭されていた。

 どれだけの絶望を感じているのか、溢れそうになる涙だけが語っている。

 思考を廻す明は、答えを掴み取れない。彼女は人形だ。大切なモノの言を信じているから、桂花の描いている答えには、辿り着けない。


「……外部戦略の関係上、袁家の上層部は勝っても負けてもあんた達を殺そうとする」


 真っ直ぐに絡み合う視線の中で、悲哀の色が大きく揺れた。


「あんた達を殺そうとするなら、人質なんかもう必要無いんだって……且授が殺されてるかもしてないって……夕なら予測してて当たり前でしょう?」


 明の頭に思い出されるのは、普段よりも落ち込み気味な夕の笑顔。何処か、いつもからは感じ取れない些細な違和感が無かったか……。


「袁紹、顔良、文醜が居て、張コウ隊の古参を残して来たから夕は守られる……んなわけっ、ないのよ!」


 遂に零れた涙は、明の頬にポタリと落ちた。受け止めた雫は熱くて、冷たかった。


「主君が本隊から離れるのは論外、二枚看板は戦力上外せない、策は授けてあるんだから……成功するなら夕はこの戦には必要ない……じゃあ……っ……どうすると、思う!?」


 愛しい誰かが死にそうなら、殺されそうなら……助けに行く。例え死んでいようとも、希望を捨てずに会いに行く。自分に置き換えても当然の行動で、夕なら、それを選択してもおかしくない。


「……嘘、だ」


 漏れ出る言葉はもう演技では無い。ただ純粋に、信じられなくて口から出た。


「あの子がどれだけ母親を大事にしてたか見てきたのはあんたでしょ!」

「でも夕ならっ」

「本拠地に戻らずに戦い切る可能性なんてほとんどない! 南皮に戻ったら捕えられるのは当然……あんたはどうなのよバカ明っ! 此処で夕を見捨てられるの!?」


 鼻先がくっつきそうな距離で、合わされた黄金の瞳が昏く染まる。

 自分なら、絶対に出来ない。見捨てるなんて出来るわけが無い。何が大事だ? 一番大切なモノを救う為なら……自分達は命だって秤に乗せられる。


――違う、違うよ……夕は、変わったんだもん。秋兄みたいになりたくて……袁家を変えるって、決めてるんだもん。


 ぐちゃぐちゃに乱れた心で、ぐるぐると掻き乱された頭で、明は何を信じるべきかを思考する。


「バカ明! あんたが……あんたのせいで……夕は……」


 あくまで可能性の話でしかない状況証拠が揃っている桂花の言か……それとも、自分の大切な人か。


――あたしは何も迷わずに、夕だけを信じればいい。


 根幹にあるモノを確認すれば、ブレる事は無い。けれども痛む胸は、心に沸き立つ焦燥は、抑えられそうになかった。


――ねぇ秋兄。秋兄なら、そうするよね?


 ふいと、一寸だけ秋斗を見やるも、そのまま固まる。

 彼は明の事を見ずに、推し量るように片目を細め、華琳を見ていた。


「……張コウ、あなたに絶望をあげましょう」


 凛……と鈴が鳴るような音で、たおやかな声が紡がれる。

 自信に溢れるその声を耳に入れて、桂花はするりと明の胸倉から手を離した。幾多も涙を流しながら、そのままペタリと床に膝を付いた……覇王が切り捨てようとしているモノを、理解して。


「田豊の命。私としてもそれは欲しい所なのだけれど……本陣から離れるとなれば袁家の本隊の対応に残りの全兵力を注ぎこむ為に救出は向かわせられない。戦の勝利が先決なのだから、そんな無茶をする義理も無い」

「じゃああたしが……」

「ふふ、バカなことを……袁家を裏切ると言うのなら私の部下になるという事。当然、あなたには烏巣の襲撃に向かって貰う。そして嘘をついていたのなら……その場で殺してあげる」


 引き裂いた口。見下しの視線。叩きつけられる覇気は、誰もに生唾を呑み込ませる程に強大。

 覇王は敵には容赦しない。例え才多くとも、覇道を邪魔するのなら切り捨てるのみ。

 夕が離れているのなら、助けに向かう気などかけらも無い。曹操軍の置かれている状況は厳しいモノがある為に、華琳は桂花の望みでさえ切り捨てた……そう明は思う。


――あたしは夕を信じてるもん。あの子の策をやり通した上で、夕も無事に生き残れるって信じてみせるし……


 抜け殻のような体を装いながら、明は口を開こうとした。尚も演技を続けようとした。

 しかし……黒が、笑みを深めた。


「なぁ、張コウ。そろそろ茶番は止めようか」


 真名を呼ばず、親しげであるのに前よりも遠く感じる言い方。やはり違和感があった。

 向けられる瞳は濁り無く、明が直視するには綺麗過ぎた。まるで別人と話しているような、そんな感覚。


「曹操殿は状況を見せた。荀彧殿は田豊個人を見せた。俺は……お前さんの中にある真実を見せよう」


 曖昧な発言は相手に思考を詰ませる彼の常套手段。理解は出来ない。これから何を話すのかも、分からない。

 華琳だけが、秋斗が自分の予想通りに合わせた事が嬉しくて、内心で笑みを深めた。


「俺が袁家の立場なら、田豊と張コウは曹操軍に勝った上で殺す。張コウの裏切りが成功した時点で、烏巣に来た張コウを暗殺しようと手を打つだろう。だが、問題は田豊」


 彼を優しいと誰もが言う。こと戦に於いては、誰よりも残酷になれるというのに。

 特殊兵器での効率を優先する彼が、袁家の手段程度を……悪意を読み切れないわけがない。

 歴史をある程度知っていれば、人を苦しめる方法も、利を得る為の判断も、異質な視点から見極める事が出来るのだ。


「田豊が本隊と共にそのまま戦うと殺しにくい。袁家の改変を望むなら仲間が多数いるだろうからな。何より勝利に響くようなやり方をしてちゃあ問題外だ。ならどうするか……簡単だ。策が成功するんなら、味方の士気を上げるような偽りの情報でも使って田豊を誘き出せばいいだろ。例えば……且授の救命の方策が見つかった故に、戦の勝利を見たのなら本城に帰還してもいい……そうして本拠地に戻るまでに殺しちまえばいいんだ」


 小石程度の波紋が思考に広がる。

 “もしも”、本陣に残って戦う事も、本拠地まで帰る事も出来ないような状況であったなら……夕の生存確率は格段に低くなるだろう。


「わざわざ此処に集まってる部隊を割かない。なんせ、殺すだけだ。黒山賊の残党なり、そこらにいる賊徒なり、金をちらつかせれば少なくても千くらいは集まるだろ。田豊が買ってる恨みもあるだろうから余計にな」


 一つ、一つと思考の逃げ場を潰されていく。

 焦りからか、明の呼吸が荒くなった。


「さて……此処で一つ尋ねてみたい。且授が助かる方法ってのはお前らだけが調べてたのか? 仲間になった奴等が居るんなら、誰かしら手助けしようと思う奴が居てもおかしくないけど」


 唐突な話題変換は思考を一つに捻じ曲げる誘導術。

 明は自分の記憶を漁り……不可解な行動を起こしていた仲間を一人、思い出す。


「荀彧殿の話、俺の信頼する軍師の話……情報を聞けば聞くほど、泥沼みたいな家だわな。なら、お前さんの仲間が独自で行動を起こして他にバレない……なんて保障は何処にある?」


 また一つ、逃げ場が無くなった。

 斗詩がなんの為に動いていたのか……夕は悪くないモノだと言った。それなら、自分達の為に且授を助けようとしていたのだと気付く。

 郭図が大人しくなかったか? あれほど疑念猜疑心の深い男が、なんら動きを見せずに淡々と戦を行っていた。それは……明の記憶を掘り起こしても異常に過ぎた。

 繋がるイトが一つ、二つと。

 震える身体を自分で抱きしめた。逃げ出したくなるような気分の中、黒の声は止まるはずも無い。


「あくまで可能性の話だ。一番起こる確率が高くて、一番誰も救われない未来の話。それでいて、曹操軍は兵力を田豊の救出に向ける余裕なんざぁ無い。お前も助けに行けない、張コウ隊も助けに行けない、文を送って確認しようともこちらの返し手だと信じて貰えない。田豊が死ぬ、お前も死ぬ、曹操軍も壊滅する、お前の仲間も大いに傷つく……クク、そうなれば誰が一番得をするんだ?」


 予想だらけの暴論でも、明が知っているモノを並べ立てれば真実に近くなってしまう。

 救いなんて一つも無くて、自分が彼女を助けに行く事も出来ない。得をするのは大嫌いな男と、憎くて仕方ない上の人間たち。

 そんな最悪の可能性が一番高い……正しく、彼女にとって絶望だった。頭の中に、蛇のようなあの男の悪辣な高笑いが響き始めた。


「ち……違う……もん……」


 震える声に反して、明の身体から殺気がにじみ出る。

 俯いた明を見て、ゆっくりと春蘭と霞が動く。

 桂花は秋蘭に抱き起されて離れて行った。二人が廊下に出てから、扉越しに悲壮溢れる大きな泣き声が上がった。


「何が違う?」


――夕は、成功するって言ったもん。そんな事態には、なるはずない


 ただ一人への絶対の信は呪いと同じだ。現実を受け止める事を拒み、思考の幅を狭めてしまう。

 自分を持たせて育てた徐晃隊とは違い、明は夕の存在に溺れている。故に、彼女を信じて疑わない。

 しかし答えを返せば策だとバラす事になる。どう反論しようとも、彼女の逃げ道は無かった。


「現実を受け止めろ。思考を廻せ。お前の大切なもんは……このままじゃ守れない。失うかもしれないまま確かめないで、お前はそれでいいのか?」


 胸に込み上げる吐き気と、目に込み上げる熱。


――ヤダ、ヤダ、ヤダよ……


 考えれば考える程に怖かった。彼女を失う、愛しい彼女が居なくなってしまう。


――あたしはどうすればいいの? 夕を信じてるよ? これでいいはずなのに、どうしてこんなに否定しちゃうの?


 優しい声も聞けない、暖かい体温も得られない、心安らげてくれる笑顔も……二度と見れなくなってしまう。

 死への疑念の芽は、夕への信仰から芽生える事は無かった。しかしこの追い詰められた状況で初めて芽生えてしまった。


「一人の為に縋り付けよ。自分の手で掴みやがれ。掴んだらぎゅっと握って離すな。運命に抗い世界を捻じ曲げろ。俺だけは……お前の望みを聞いてやる」


 言い方に反して優しい声音は、大切な誰かの為に自分の存在を賭ける彼のモノ。夕と明の同類で、理解者たる黒の声。夕の次に信じていい声。


――イヤだ……あたしはあの子を……失いたくない


 震える膝に、ポタリ、と零れる涙があった。嘘泣きとは違う熱を持った本当の涙で……ヒトの証明。

 嗚咽が響く。一つ二つと涙が零れる。其処には大切なモノを救いたい少女しかいなかった。


「……烏巣の……糧食補完の本陣は、四つの中に無く……白馬により近く、見つけにくい場所に本物の五つ目がある……居るのは郭図で、他の陣は、黒麒麟の嘶きによる火計と、伏兵と、毒矢の雨が、待ってる。烏巣から袁家本隊へ、向かう街道の二つ共には、落石罠と、伏兵が多数」


 しゃくりあげながら、明は袁紹軍の本当の情報を話していく。

 頭の悪くない明は、曹操軍の状況で誰だけが動けるのか分かってしまった。

 これは黒との取り引き。袁家を殺して、彼女を救う為のモノ。黒に賭けるしか、手段は残されていなかった。

 袁家が勝とうが負けようが、夕が生きていない世界は、彼女にとって意味が無い。


 自分が信じる彼女はどう動く。


 自分の知っている優しい彼女を信じるなら、自分は彼女を救うために動くべき。


 心か、命か、どちらか選べ。自身に突き付ける自問自答に、もう嘘は付かなかった。“例え彼女に憎まれようと、彼女が生きていればそれでいい”。

 顔を上げて、涙を零して、笑みを浮かべる事無く……明は子供のような泣き顔を秋斗に向けた。


「……秋兄……助けて……っ……」


 憐憫と同情が渦巻く黒瞳に憎悪は無く、ゆっくりと歩み寄った彼は、


「言ったろ? 例え俺しか賛同しなくても、大切なもんを助ける為に力を貸すってな」


 赤の少女に、微笑みを向けてグシグシと頭を撫でた。

 縋り付いた明はそのまま泣き崩れ……秋斗は覇王と視線を合わせた。


「……俺は客将だが正式な曹操軍じゃない」

「それで?」


 鋭い視線は威圧をあらんばかり突き付け、冷たい光は彼を責め立てる。命を散らすほどの覚悟があらんや、と。

 彼がこれから行うのは、雛里の事も、詠の気持ちも、月の想いも……全てを無視した自分勝手なわがまま。

 ただの予想程度に命を賭ける。愚かしく、度し難い。


――俺が戻れる可能性に賭ける。そして作りたい世界の為に必要なモノを手に入れる。


 だが、彼が一番しなければならない事で、彼自身も一番したい事。


「俺が勝手にやることだ。袁家を騙す為に烏巣に向かわせるなら張コウ隊に旗を持たせるだけでも十分だろ。こいつは道案内に連れてく。月光に二人で乗るのが一番早くて確実だろうし……止める気なら、誰かを殺してでも推し通らせて貰おうか」


 にやりと笑いながらの脅しに等しい言い分を受けて、華琳は薄く笑った。

 朔夜も詠も、悲痛に顔を落ち込ませて涙を零す。止めても聞かない男だと知っているから。

 利を考えての行動では無く、それでも命を賭けるに足る戦いだと信じて身を投じるモノを、誰が止められよう。

 重苦しい空気が場を支配する中、二人の視線が絡み合い、どちらとも無く目を伏した。


「そう……じゃあこう言ってあげましょう。生きて帰って来い、徐公明。“あの子の笑顔を手に入れる為に”。そして……“世に平穏を”、ね」


 微笑んだのは同時。互いがする事も分かっている。何が欲しいかも、何を作り上げたいかも。


「……ありがと。じゃあ行ってくる。そっちは任せた、覇王殿」

「私を誰だと思っているの? あと、月光に命じる事はしてあげない。自分の力でやりたい事を遣り遂げてきなさい」


 これ以上の言葉は要らないとばかりに踵を返した秋斗は、明を支えながら春蘭と霞の横を通り過ぎ様、


「帰ったら酒だな」

「不味い酒は勘弁やで」

「ふん……バカモノめ」


 重ねて上げられた二つの掌に、パチン、と己が掌を当て。

 ゆっくりと扉までたどり着く。


「徐晃」


 背中に掛かるのは親しげなモノ。日常で話すような華琳の声。

 振り向かずに、彼は脚を止め、


「無事に帰って来たら私を真名で呼ぶ事を許してあげる」

「……ん、りょーかい。俺の事も気軽に秋斗って呼んでくれ」


 言葉を受けてから、ひらひらと手を振って部屋を後にした。

 しん、と静まり返る部屋で……覇王が大きく吐息を吐いた。寂寥か、悲哀か、期待か……中身は誰にも分からない。


「誰かを泣かせてでもわがままを取るか……本当にバカね、あなたは」


――そして私も……


 自分が桂花に対して示した事と同じだと理解しているから、華琳は小さく、ほんの小さく、自嘲の笑いを口から零した。


 白髪に藍を混ぜ込んだ少女が一人、部屋を駆け出て行く。

 どうか止めよう……大切なモノが無茶をするのに、止めたいモノが居てもおかしくは無い。

 小さな背を止めるモノはおらず、それぞれが今からの軍行動の指示が放たれるを待つ中で、詠は一人、唇を噛んで耐える。


――ボクはあのバカ達と一緒で、あんたの事信じるわ。ちゃんとこっちは遣り切るから、あんたも遣り切ってきなさい、秋斗。


 宵闇が深まり、幾多の想いが交錯する夜。明けの空はまだ遠く……それでも明けない夜は無いからと、皆の心に安息の光が来る事を、誰もが願っていた。















 回顧録 ~ヨイヤミニシズミココロヲトカシタ~




 頸を刎ねられる最後の一時。


 彼女からの冷たい視線を受けながら


 心の中の絶望を見つめながら


 自分は諦観のみに浸っていた。


「どうして、笑ってるんですか?」


 問いかけで初めて気付いた。


 自分は笑っているらしい。


 耳に聞こえる笑い声は自分のモノだったらしい。


 恐怖か、侮蔑か……敵の表情は人外を見るモノ。


 それでいい、それでいい。


 自分はこの世界の人間ではない。


 正しく異物で、いるべきではない存在。


 大切な彼女が、敵に対して声を掛けた。


 敵の真名を呼んでいた。


 気になったので聞いてみた。敵の名は、朔夜。


 朔夜、朔の夜、日輪を打ち消し、真月さえ上がらぬ真黒の闇。


 ああ、正しくこいつは自分の敵だった。


 世界は何処までも、自分を殺したいらしい。


 頸を刎ねられる前に、叫びを上げた。


“この世界を呪おう。このちっぽけな命を以って、救えないモノを救い続けよう。例えこの世界が壊れても、自分が狂って壊れてしまっても、別の場所、別の時、別の世界であったとしても、たった一人を救う為に、抗い続けて捻じ曲げるだろう”


 誰にも分からない叫びで、世界への宣戦布告。


 あなたが生きてくれるならそれでいい。


 死の運命から逃れ得ぬあなたが生き残って幸せになれるなら。


 振り下ろされる刃が首に当たる直前、彼女の顔がよく見えた。


 過去の彼女が重なって、優しい視線が見えた気がした。


 許してくれたように見えたから



 自分は充足感に満たされて



 この世界を、壊れていない自分が変える事を諦めた。



 誰でもいいから、彼女を助けて欲しい。



 自分ではもう、助けられない。



 黒一色に染まる視界と思考。


 そうして――――




読んで頂きありがとうございます。


遅れてしまい申し訳ありません。

予定よりもマシマシになってしまいました。続きは年明けで。

よいお年を。


ではまた

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