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喰らい乱して昇り行く

 夜もまだ浅い宵闇の部屋の中、クイ……と指の先で眼鏡を持ち上げる動作が一つ。それは一分の乱れも見せない完成された美しさを持っていた。

 いつからだったか……そうした知性溢れる彼女の仕草が、刃のように鋭いと感じ始めてしまったのは。

 出会った頃から眼鏡を掛けてはいた。されども、何処か薄ら寒くなるような空気を発する事など、子供のころは無かったはずなのに。

 きっと先代の虎を失った時からだろう。


 私が隣で泣いたから、彼女は心を冷たくするしか無くなった。

 自由な私が好きだと言っていたから、彼女は私の代わりに涙を止めた。

 私が思うが儘に走り出したから、彼女は抑える役目を担うしかなくなった。


 己は模倣された虎であるか……と誰かに問われれば、笑顔で切り捨ててくれよう。

 母と私は違う。想いのカタチが、まず違うのだ。母が今の自分と同じく鎖無き虎であろうと、心が違う。

 受け継いだ想いは確かにあるが、牙を抑えていい時もある。

 江東の虎は覇の牙が鋭かった。鋭すぎた。

 しかし私は……大事な大事な宝を守る為にこそ、牙が疼く。


 私の断金となった彼女――――冥琳の抱く想いは母と相似である。双頭の虎と言っていいほど、深く繋がっているからこそ分かる。

 母の想いを濃く受け継ぎ、大きな大きな夢を見てしまった。彼女は母の牙を継承した。武では無く、智という研ぎ石で鋭くしてしまった。

 愚かしい、とは思わない。彼女自身の想いはあくまで、私だけに向いているのだから。

 彼女は王佐の才を持つ、この私――――孫策だけの王佐。だから……私に母を越えてくれと願って、押し上げようとしている。

 時代が味方したのだろう。母の死が余りに衝撃的だったのだろう。雌伏に追いやられた屈辱が、鈍い光を与えてしまったのだろう。

 これほどまで、冷たさを感じるのに美しいと思うのは……そんな彼女の心が理解出来るから……きっとそういう事。

 自分の為か、彼女の為か、家族の為か。

 私は決して見失わない。冥琳と共に目指しているモノを叶えれば、手に入るモノが大きい事を理解している。私自身もソレが欲しい。

 妹達では……まだ不足なのだ。この乱世の先に生き残る事は出来ようとも、母や私達の夢を叶えるにはまだ足りない。

 冥琳には私が必要で、私には彼女が必要。寄り掛かり合っているかと言われればそうでもない。支え合っているかと言われても何処か違う。

 二人で一つ。私と冥琳はもう、切り離せない。


 隣で報告の書簡に目を通す愛しい人は、眉間に皺を寄せてただ黙っていた。

 家族達の事が大切なのは彼女も同じ。

 元に今、目を通しているのは、働き過ぎだから置いて行けと言っても聞かなかった書類の内の一つ。

 彼女は最近、立ち止まる事をしない。洛陽までに少しでも休んで欲しかったというのに、到着するまでも書簡とにらめっこをしていた。

 明日が劉表と曹操、そして帝との謁見の日になる。否、これは謁見とは名ばかりの詮議。己が無実を証明する為の場。虫の息の旧き龍が、最期に仕掛けてきた悪辣な政略。


「ねぇ冥琳」


 呼びかけても返事は無し。よほど熱中しているのか、はたまた聞いていない振りか……


「冥琳ってば!」


 手に持っていた書簡を取り上げると、彼女は私と視線を結んできた。口を尖らせて不足を示しても、冷たい眼差ししか帰って来ない。

 一寸、目を閉じた彼女は、いつもの如くやれやれと額に手を当てて首を振る。


「……どうした?」

「どうしたもこうしたも無いわよ。明日が劉表との“戦”だって言うのに、あの子達に任せた仕事で頭悩ませなくてもいいでしょう?」


 見れば書簡の題は揚州の治安回復について。

 大徳の風評があろうと、袁家が敷いた重税のせいで民の疲弊が激し過ぎ、私達は建業すら内政の地盤を固められていない。

 治世の仕事は結果が出るのが遅い。献策し、試行し、改善する。そうやって積み上げなければ上手く行かない。問題点は必ず出てくるし、戦の後なら尚更である。すぐさま結果が出るなら、この世はもっと楽に暮らせることだろう。最短経路で最善を手に入れるなど夢のまた夢。

 蓮華は確かに成長していた。王の器が完成されたと言っていい。

 あれは守る王。絆を繋いで治世を照らすモノ。心に渦巻いた雲さえ払えたら、私よりも素晴らしい王になる。

 それでも……民の生活が改善されるのは、牛の歩みの如く緩やかにしか出来ない。如何に素晴らしい楼閣を作り出せるとしても、建てるにはまず大地を固め、しっかりとした足場に据えて行くしかないのだ。砂上の楼閣だけは建ててはならない。


「……別に悩んでいたわけではないぞ?」

「嘘ね」

「ふむ……何を以って嘘と言うのか、聞いてみたいモノだな」


 こういう時の流し目はズルい。大人の女性ならではの妖艶さが際立ち、自分の欲が疼いてしまう。

 不敵な笑みに口づけを落としてしまいたいが抑え付けるしかない。


「いつもより深く眉間に皺を寄せてたじゃない。こーんな感じで」


 言いながら眉を顰めてみせる。きっと誰にも見せられないような顔になってるだろうけど、二人きりだから気にしない。


「あなたにこんな顔は似合わないわ。可愛らしい笑顔の方が似合ってるもん」


 ふん、と小さく鼻を鳴らすと、彼女は堪らず吹き出した。


「くっ……くっくっ、ダメだな。私はやはりお前には勝てん」


 喉を鳴らしてそんな事を言う。雰囲気が幾分か落ち着いたようで何より。こうでもしないと、彼女は何処までも張りつめ過ぎてしまう。


「あら、今更? そんなの前から分かってた事でしょうに」

「いや、再確認出来ただけで十分だ。ありがとう、雪蓮」


 こうして素直に謝ってくるあたり、彼女はやはりズルいと思う。

 大きく息を付いた。自分も、彼女も。二人共が気持ちを切り替える為に。


「……来る前にな、蓮華様と話をした」


 ぽつりと零された。私が聞いてない話だろう。憑りつかれた様に仕事ばかりしていたはずだが、蓮華も何か思う所があったのかもしれない。

 すっと取り上げられた書簡が目の前に掲げられる。


「コレについて、お前はどう思う?」

「……コレって……えっ……区画警備隊? 徐州に放った細作からの報告じゃない!」

「少し違う。劉備軍が作り上げた区画警備隊の詳細情報……それを建業で行い易いように蓮華様と亞莎が煮詰めたモノだ」

「ふーん……うわ、すっごい。あの子こんな事考えてたの?」


 机に噛り付いて何をしていたかと思えば、劉備達の事案の昇華だとは思わなかった。


「……笛を作り出した時点で取り入れるつもりだったんだろう、と問われたよ。ふふ、やはりあの方も亞莎も、前の戦で化けたらしい。

 袁家の重税で疲弊している民を安定させ地盤を固めるには、何より国の血肉である民の身の安全が優先だ、とまで言われたぞ?」


 成長しているようで何より。まさか冥琳の思考まで読むとは思わなかったが。

 国は王のモノ。だが民と国は一心同体。蓮華はやはり、私より国をより良くするに向いている器の大きな王だったらしい。

 乱世を駆けるよりも、治世に於いて才を振るえる彼女は……生き残らせなければならない大切な宝だ。


「確かに私も区画警備隊を用いる気でいた。扱いやすい道具の技術を盗んで手に入れたのはその為が一つだ。他の奴等が生み出したモノとは言え、有用であるなら使わないはずがないさ。戦でにしろ、街中でにしろ、な。

 戦後処理の問題も山積みだったし、もう少しお前の負担が減ってからコレを敷き始めるつもりだったんだが……試させて欲しいと懇願されたよ。お前が居ない間の権限は私にあったから、許可させて貰った。報告が遅れてすまない」

「いいわよ、あなたに任せたんだから。

 でも……私が外交で忙しかったからしなかったってだけ?」

「劉表の動向が問題だったのよ。次の戦が迫っているかもしれないとなれば、警備隊発足にまで回している労力も金銭も無くてな」


 トントン、と指で差された所には、資金不足の文字が一つ。赤字の分は軍の兵を使って補う、とある。他の場所にその分の兵を回せなくなるけど、仕方ない、か。

 警備隊を作るには人を雇わなければならない。袁家の戦が終わって直ぐで、劉表と戦になるかもしれないとなっては雇う予算が無かったわけだ。

 勝ったとは言っても反抗的な豪族達も多々居座っている。懐柔するにはまだ足りない。中立やこちら側のモノに支援されるかどうかすら……劉表が生きている限り時機を見なければならなかったのだろう。冥琳の考えはそんな所。

 それでも押し通したいと願った蓮華。あの子は……このままじゃ潰れるかもしれない。がむしゃらに走るのもいいけど、周りに目を向けられなければ不和が起こる。亞莎達だけでなく、他の文官達にも目を向けてくれるだろうか。


「荊州で怪しい動きもある。豪族達も尻尾を振り直すかもしれん。孫呉はまだまだ危うい橋を渡っているのだ。私達が此処に居る間に起こる次の戦で勝てなければ、全てが水の泡になるだろうな」

「え!? もう戦が起こるなんて聞いてないわよ!?」


 驚愕。

 蓮華への思考を無理やり切り替えさせられた。

 私が居ない隙に何かが起こるとは思ってもみなかった。忙しすぎて情報が入っていない……いや、そんな重要な情報なら、冥琳がわざと止めていたはず。

 冥琳はどうして行ってくれなかったのか、責める視線で見つめると、哀しげにため息を吐いた。


「……だから今まで話さなかったんだ。お前は必ず残ると言ったろう?」

「当たり前でしょう!?」


 劉表の命は放っておいても終わる。一矢報いれないのは悔しくとも、孫呉という家族の命の方が大事だ。この危うい時期では豪族達の内部反乱も在り得るし、せっかく取り戻した家が崩れかねない。漢を終わらせるなら帝の心象よりもそちらの方が大事だ。それが分からない冥琳でもなかろうに。

 じとっと見据える視線は冷たい。知性の輝きは……昏いモノだった。


「雪蓮……孫呉は負けないわ。あなたか、蓮華様か、小蓮様が居る限り――――」

「それでもっ……っ」


 言葉を呑み込む。

 じ……と見やる目が細められた。寒気のするような冷気が漂う。彼女はきっと、心底怒っている。誰に対してか……私も含む全てに、だ。


「劉表の策は見事と言っていい。二者択一のどちらを選んでも我らは甚大な被害を受ける。だがな、より大きな被害は……お前が残って大陸全てに対する敵対を示す事だ」

「そんなのこの乱世じゃ……」


――もう関係ないでしょう。


 言えなかった。気付いてしまった。残ればどうなるか、自分の家族を守りに行けば、自分が何になってしまうか。


「そうだ。劉表の一手は虎を殺す為、幾重にも糸を絡ませた強力なモノ。劉表や曹操のように上洛しない時点で……戦を優先した袁家と同類に成り下がる。大徳の風評など消え失せ、せっかくこちら寄りになった豪族達は必ず掌を翻し、揚州内部に猛毒が出来上がるだろう。

 何より、建業に居る時にお前が残りたい意思を少しでも表せば……小蓮様が耐えられなくなり、蓮華様に芽生えた想いすらお前と私が喰い散らかしてしまう事になる」


 あの子達の為にも、これからの家の為にも、私は王たる孫策を示すべき。そういうこと。

 袁術、いや、張勲の政策を見てきた小蓮は、何処をどう改善すべきかをよく理解している。どうにか最近になって手伝ってくれるようになったのは嬉しい事だが、亞莎と仕事をするだけで、蓮華との蟠りは深まるばかり。

 蓮華の想いは理解している。その上で、私は二人共に冷たくならなければならない。

 この先に打つ、たった一つの非情な一手の為に。


「……劉表が死んだ後の話も含んでる……って事ね」

「その通り。袁家が勝とうと、曹操が勝とうと、劉表が死んでから劉備と盟を結ぶためには必要な事……なのよ」


 苦しげに寄せられた眉が厳しく深まる。絶望に堕ち込む瞳の色はただ昏い。


「……そこまで考えてくれたなんて、さすがね、冥琳」


 軽く言うと、目を伏せて彼女は喉を鳴らした。


「勘だけには任せられんからな」


 得意じゃないくせに緩い空気に無理やり持って行こうとしている。冥琳はやはり……精神が摩耗している。私達家族をたった一人で支えているのは、彼女なのかもしれない。

 甘えだ、これは。

 私はいつも助けられている。こうして見えない所に気付いてくれるから、そのままでいられる。

 まだ彼女には、何も返せない。返すにはまだ時機が足りなさすぎる。


「いつもありがと」

「どういたしまして。しかし珍しいな。お前の勘が働かんなんて」

「うーん……私も不思議なんだけど、最近調子悪いのよ。でも、その分を補おうなんて考えないでね?」

「……ああ、肝に銘じておこう」


 誤魔化しただけだろうに。そう言いながらも彼女は頭を使って私を補うのは分かってる。

 背中に周り、ゆっくりと抱きしめて顎を頭に乗せてみる。ため息が零れたが、振り払ったりはしてこなかった。


「話を戻すけど、蓮華に任せて大丈夫かしら?」

「……区画警備隊の案件は大丈夫だろう。むしろ此処まで煮詰められているからこそ信頼できる。

 軍行動を起こす事になってもこうして街を守ってくれれば、城を無理やり取られる事も無く、洛陽のような大火には沈まない。まあ、今回は守る側の方が地理的にも有利だから、残してきた皆でも大丈夫よ」

「ふふっ、冥琳のお墨付きなら問題ないね♪」

「ああ……そうだな」


 褒めて見ても返ってくるのは疲れたような声音。何を思ってか、私にはまるで分からない。

 最近の彼女の心は何処か遠くを向いている。私の為に……は分かるのだが、他にも誰かに捉われている気がしてならない。

 劉表だろう、と先程までは思っていたが、今の話しぶりからすると違う気がする。目の前に迫る敵に、彼女は余り憎しみを向けていないのだ。

 母の死よりも、私との乱世を優先している。もっと息を抜くべきなのに、蓮華と同じく潰されないよう必死になっているのが私まで伝わってくる。まるで……ナニカから逃げるように。


「冥琳……何がそんなに怖いの?」


 ピク……と身体が跳ねた。正解だったらしい。彼女は何かを恐れている。

 緩い吐息は熱かった。それが何故か……私には恐ろしく感じた。


「ふふ、全く……勘が鈍くなったとはよく言う。やっぱりあなたには隠し事が出来ないじゃない」


 自嘲気味な苦笑を一つ。呆れたようにも思える。でも、やはりおかしい。


「そうだな、私は恐れている。怖くて堪らない。乱世の先に思考を回せば回す程に、憎しみが霧散して行くんだ。孫堅様が死んだとき、あれほどの憎しみがあったというのに、だ」


 孫呉で最高の頭脳である冥琳が何を恐れているのか分かってやれない。その方が私にとって恐怖だった。


「鳳雛が徐州での戦の最中、私に告げたんだ。黄巾から既に大陸を割ろうと考えていたモノが居た、と」


 一瞬、思考が止まる。

 誰がそんな事を思い付くのか……黒い影が頭を掠めた。


「分かるか? 蓮華様が練り上げたのは……そいつが大本を出した事案。そして建業に建設中のあの店も……そいつ所縁の店。袁家による幽州侵攻を読んでいたのも、蓮華様と一騎打ちをしたというのにこちらと盟を結ぶために敢えて逃がしたのも……そいつなんだ」


 大陸で噂される名店が建業に立つのは袁術が居た時から決まっていた。その店は曹操の所に一つ、幽州に一つ。大陸全てに支店を置こうと野心を燃やすその店は、何故、都では無く、黄巾が終わって直ぐに曹操の所に支店を展開したのか。

 反董卓連合という大戦の直ぐ後で、勝利の余韻に浸ることも無く、誰よりも早く幽州侵攻の注意喚起を行うなど……通常の思考では有り得ない。

 そして蓮華を殺されていたら、劉備を滅ぼしてから曹操と共に袁家打倒を……と考えただろう。

 じわじわと、足元に忍び寄る黒が感じ取れた。


「掌で踊らされている感覚は劉表の策に感じる。だが……そいつにはそれ以上に、全てを見透かされているような気がしてならない。だから……怖いんだ。大陸で唯一の例外が、矛盾の塊のあの男が、黒麒麟徐晃が……ただ恐ろしい」


 ああ、と思わず息が漏れた。

 これは楔だ。抜こうとしても尚食い込む類の、軍師の心に根深く刺さってしまう楔。鳳雛は冥琳の心に最悪なモノを打ち込んだ。

 頭が良ければ良い程に、その存在を殺したくなるだろう。同時に……


「あなた……知りたいんでしょう?」


 知りたくて仕方なくなる。

 分からないモノは恐ろしい。理解出来ないモノは自分の物差しで測りたくなる。そうしなければと、彼女達は溺れてしまう。それほど彼女達のような生き物の欲は抑えがたく度し難い。


「……好奇心は猫を殺す。いや、虎をも殺すのかもしれないな」


 自分を虎に例えてまで……否定はしない、という事か。私の前だから、直接は言わないだけ。


「安心しろ。私にはお前が全てだ。如何に早く隠居したいとお前が喚こうとも、な」


 苦笑しながらの言葉でブレる事は無いと伝えているけれど、智者としてどうしようも無く惹きつけられている気持ちへの裏返し。


――そうか、私の半身が奪われそうに感じたから、私は恐ろしく感じたのか。


 もやもやと野暮ったいモノが胸に湧く。どうしようもない黒い炎。嫉妬……だろう。

 手に入れたいと自分も思ったが、愛しい人の心を奪われそうになるなんて思わなかった。

 彼女の恐怖心を和らげてあげよう。そうすれば、奪われる心配も無いのだ。


「あいつが全てを予測してたなら曹操軍には行ってない。だからその恐れは杞憂よ、冥琳」


 自分で言って笑いそうになった。

 冥琳の話を聞いてしまうと、それさえ狙ってやっているのではないかと思えてしまう。曹操軍を内側から染め上げて壊そうとしているのではないか、そんな事まで考えてしまう。

 何をしているのか、何をして来るのかも分からない。矛盾の塊とは、言い得て妙か。

 アレは影……否、黒だ。

 あいつは黒。どうしようも無く人を引き摺り込む黒。染め上げてしまう黒一色。あの曹操でさえ、自分の予定を変えてまで欲する程なのだ。

 頭を振った。

 疑念猜疑心に捉われては何も進まない。こんな下らないモノで脚が止まっては、私じゃない。

 そっと彼女の手を包む。少しばかり冷たかった。それが逆に、私の高い体温を覚ましてくれて心地いい。


「今は龍の事を考えましょう。遠くの敵を見ていたら近くの敵の剣を見逃してしまうでしょう?」

「……すまない」


 ゆっくりと撫でさすると彼女は穏やかな声で明日の謁見での内容を口から出していく。

 座りなおして、虎の敵だけを頭に思い浮かべて、黒がちらつく思考を掻き消して行った。


 死にかけだとしても目前に迫る敵は嘗て敗北した巨龍。

 敗北しても、虎視眈々と狙い定め、機を見て家を取り戻し、天下を狙う私達は……誇り無いだろうか。未だに夢を追い掛ける私達を誰かは嗤うだろうか。


 誰に言われても曲げないし、最後までやり通そうと心に決めている。

 例え妹を使おうと、家族を生贄に捧げようと、自分達が望んだ平穏を手に入れようと決めている。私が行く覇の道は冷たく厳しいモノだ。

 彼女と二人で先頭を歩いて行こう。

 まるで呪縛のようなこの関係は、いつしか断金と言われるようになっている。


――あなたと一緒ならなんでも越えて行ける気がするって言ったら……可愛らしく笑ってくれる?


 この“戦”が終わってから、必ずそう言ってみよう。






 †






 ケホ……と喉に絡みつく咳が一つ。

 死人のように青白い顔、目の下の隈はより濃く深く。皆の目には無理をしているのがまざまざと分かる。それでも、彼女の身体を気遣うモノは居ない。

 詮議の場だ。文官の意見を汲み取るべきだ。だというのに……この場に残されたのはたった四人。

 命じたのは、大陸の絶対者――――劉協。

 華琳一人で事足りる、と他を下がらせたその真意は……劉表の倒れる姿を同格の者達以外誰にも見せたくなかったのが一つ。孫呉への不信感が場に広がり過ぎるのを抑えたかったのも一つ。

 その二点を見れば、劉協はやはり聡明な皇帝なのだ、と言えるだろう。

 帝の言に不満が直接出るわけも無いのは当然ではあるが、真っ白な純白の礼服を着た、まるで死装束を纏っているかのような龍を見れば、皆は目を伏せて下がる他無かった。


 何が其処まで彼女にさせるのだ。


 文官達は思った。

 思うだけで誰にも分からない。命を賭ける程、散り際の最期まで自分の信じた道に殉じようとする彼女の心など、分かるはずも無い。

 ある者はその姿に畏怖を感じて、ある者は誇り高さを感じて、ある者は憧憬を感じて、下がっていくだけであった。


 四人だけの部屋の中、雪蓮も、冥琳も、昨日の夜に話していた事が頭から飛びそうになる程の衝撃を受けていた。


――なん……なの? なんでこんな状態で此処に来たのよ。


 一度だけこちらを見た龍は悪辣な笑みを浮かべていた。死にかけにしか見えないのに、灼眼は活力の輝きが溢れていた。

 悪寒が這いずりまわる気持ち悪い笑みは、死にかけで呪いを掛けた紀霊よりも不気味であるのに、悪戯好きな子供のように晴れやかにも見えた。

 ああ、そうか、と雪蓮は気付く。


――こいつは楽しんでいる。心底から、この“戦”を楽しんでいるんだ。


 寝台で緩やかな死を待つか、戦って死ぬか。

 劉表は弁舌で戦う戦場に身を置く者なれば、此処に来た意味はそういう事だ。

 雪蓮なら、病に侵されていようと戦場で皆に王たらんと示し、最期まで剣を振るを選ぶだろう。それと同じく、劉表もそれを示している。


「キヒ……娘はあのクソだりぃ虎よりまだマシか。あいつみたく自分ばっかり見てたら良かったのに」


 どうにか聞こえるくらいの声で零されたのは称賛。母よりも認めていると取れるが、貶す事も忘れないあたり見下しているのは変わりないらしい。

 同じく聞こえていたのか、華琳が劉表を睨みつけた。死者を貶めるなと、殺気が突き刺さる。

 怖い怖い、と肩を竦めるだけで表し、たおやかに劉表は顔を伏せた。


「陛下、此度の“詮議”、開始致します」


 凛……と声が響き、小さく頷かれただけで冷たい空気が場に行き渡る。

 詮議と言い切った。華琳はあくまで第三者の立場を貫くと言っている。雪蓮の手助けはなんらしてやらないから……己が力だけで切り拓け、と。

 華琳がお辞儀を一つ行い、たっぷりと時間を待ってから、声を上げた。


「では孫策、汝が袁術に反旗を翻したるに至った経緯を述べよ」


 白々しい……と思いつつも顔には出さず、雪蓮はつらつらと説明を述べて行く。

 当たり障りのない、何処にでもある“正義”のカタチ。

 自分達が伸し上がるという欲望を表に出さず、漢の終わりを示唆もせず、耳に聞こえの良い理由を並べ立て、自身は忠臣であるのだと示すだけ。

 袁家の重税に喘ぐ民の声、どれだけの不満が出ていたか、どれだけ民に縋られたか。

 話しながら、隣で小さな笑いが漏れる。雪蓮と冥琳の耳に入る程度の小さな嘲り。つまらないな、とでも言いたげな、心底から見下した嘲笑。

 怒りがあった。封じ込めたはずだが、それでも燃え広がりそうになる炎があった。

 されどもそれは母の残した欲望の最果て。虎はこの龍に負けたのだ。どれだけ綺麗に繕おうとも、母は大陸の悪でしかない。覇を進めた後の敗者とは例外なく……悪。

 揚州の太守であった先代の虎、孫堅。自分と同じく戦場を駆けぬけた虎は、その勇猛さ故に、政治戦略に嵌り、龍と争って命を落とした。

 勝てば官軍、負ければ賊軍とはよく言ったモノだ。雪蓮達は敗者として全てを失い、泥濘の中を足掻く事になったのだから。


 こちらを見つめる華琳の瞳は雪蓮の器を量っているかに思えた。だが、何処か違う。公平に物事を見るモノなれど……何処か物足りなさを感じ取らせる視線。


――なに……? 連合時はあれだけ期待の色を浮かべていたというのに……


 理由は分からず、それでも雪蓮は説明を終える。

 静寂が耳に痛い。汗が少しばかり背中に伝う。気持ち悪くて身を捩りたくなった。

 雪蓮と劉表よりも高い位置に立つ華琳の艶やかな桜色の唇が、小さく、ほんの小さく吊り上る。笑みが見えて、雪蓮は真っ直ぐに視線を合わせた。

 乗り越えてみせろ、というような不敵な笑みは……前ならば楽しいモノであったはずなのに、不快でしかなかった。


「陛下への叛意は無い、と。ならば劉州牧の治める地を侵す前に、私か劉備を頼れば良かったのではないか?」

「……っ」


――この女っ! そちらから言い出した事でしょう!?


 毒づくも、口には出さない、いや、出せない。出してはならない。

 華琳は部下を切り捨てているのだ。交渉の席に送った稟を、独断でやったと切り捨てる事になんら躊躇いが無い。汚職に塗れた官僚のやり口でしかないのに……それを自身が一番嫌うはずなのに……華琳はそれを是としている……そう考えてしまう。


――誇り無い……堕ちたかっ! 曹孟徳!


 ギリ、と歯を噛みしめた。何が覇王。お前はその道を歩んで満足なのか、と。


(違うぞ、雪蓮)


 小さな呟きが聴こえた。劉表に聞こえるのも気にせずに、後ろから掛けられた声は断金のモノ。

 冷たい雫が脳髄に落ちて思考が巡る。覇王がその程度のモノであろうか、と。


――求めたのは黒麒麟であり、郭嘉を天秤に掛けた……違う。そうじゃない。私が袁術に従うしかなかった理由を帝に示せ、と言っている。あくまで曹操は公平に、誰かが生き残る場を作っている。


 経験と能力から解に至る。

 劉表に協力の手を求めれば良かったではないか、と入れなかったのがその証拠。先代の虎は親族、それが関係しているのだから言わずとも伝わる。

 道ずれにしたければすればいい。切り返す手も持っているし、誰も切り捨てるつもりは無い……華琳はそういう言い方をしたのだ。詮議の司会の役割を為しつつ、雪蓮にこう問いかけた。


『好きに動いてくれていい。邪魔をするつもりは無い。自分が生き残る為にはどうすべきか考えて、乱世を生き抜ける王であると私に証明してみせよ』


 一筋の切り傷を与えて身を滅ぼすか、それとも傷だらけになりながらも切り抜けるかの選択肢を与えながら、雪蓮の器を試しに掛かっていた。

 注意喚起をしてくれる最愛の友に感謝を述べつつ、雪蓮は劉協の目を射抜く。

 吹き抜ける蒼天の色は何も映さない。興味を持っていない。一欠片も、これっぽっちも雪蓮に期待していなかった。


「それにつきましては、袁家と我らの関係をご説明せねばならぬ次第に」


 グッと胸に力を込めて、雪蓮は見つめ続けた。結ばれる蒼の双眸が二つ、どちらも揺れる事は無かった。


「申して見よ」


 劉協は口を開かず、代わりとばかりに華琳が声を投げた。

 雪蓮の頭には、救い出した妹の泣き顔が浮かんでいた。

 今から話すのは嘘。自分にも、相手にも、誰彼かまわず嘘をつく。そうしなければ、生き残れない。

 偽るのは不快でしかない。それでも……家族で叶えたい夢がある。


「……先代の虎が劉州牧と争ったのは大陸に於いて周知の事実。その間に袁術が揚州太守に任ぜられ、一族郎党討ち滅ぼされても詮無き状況ながら、先帝陛下の御慈愛を賜って命を繋がせて頂きました」


 敗走後、雪蓮や蓮華達は反逆者として断じられても仕方ない状況に居た。それでも生き残れたのは劉表がそれを放っておいて、先帝が何も命じず、且つ、袁家が客将として首輪を付けた為だ。

 恐ろしい、と雪蓮が改めて思うのは七乃と劉表に対して。


 七乃は……夕や明と繋がりが濃いと情報から分かっている。だから、袁家に思い入れなど無い事が容易に分かる。

 孫呉の手柄は全て美羽に行く。獅子身中の虫と為しながらも、有能な人材を扱う事によって“美羽の為だけのもう一つの袁家”を作り出そうとしていたのだ。

 前の戦で一騎打ちの時に明が語った事から予測は立っていた。もし、夕や明が袁家を内側から壊していたなら、受け皿にもなれただろう。異端者たちが思い描く乱世の絵図は、幾重も在ったのだ。


 劉表は……袁家、否、七乃の狙い――美羽が袁家筆頭になる事を予測して、揚州を掻き混ぜる為に雪蓮達を放っておいた。二つに分かたれた名家の内、隣に出来た一つを潰そうとしていたのだ。虎の子の能力を見極めて、袁家崩壊を……自分で動く事無く、戦う事無くやってのけた。それが答え。

 そのように、皆が敗北者の孫呉を駒として扱い、乱世を描いていた。


 先帝の、親の話をされては劉協は何も言えない。彼女が携わったモノでないのだから、責める事も出来ない。

 大きく深く、雪蓮は一息ついた。自分達が駒でしかなかったと気付いても、もう違うから……と苛立ちが募る心を落ち着かせようと。


「袁術に客分として身を寄せた我ら孫呉の者達は、それからというモノ大陸の平穏の為にと微力ながらお力添えをさせて頂きました……が、客分として身を寄せている間に、袁術は一つ、対価を求めました」


 くくっと息を漏らしたのは劉表。何を対価に、というのを彼女は知っていた。泥沼の政略戦争を生き抜いてきた龍は、袁家のやり口を誰よりも知っている。


「我が妹の身を差し出せ、と。そう言われたのでございます」


 すっと目が細められた。重圧で息がし辛くなった。帝が目を細めただけで空気が凍る。

 悲劇の物語、傍目にはそう聞こえるモノだ。劉協に姉が居た事も相まって、心情を擽るに足りる。

 されども、政略で誰かの身柄を引き渡すのは世の常。その程度看過出来ずして、王には成り得ない。


「黄巾、連合はまだ義がありました……しかし先の劉州牧の領地に袁術に指示されるまま攻め入った所以は其処にあります。我が妹の身可愛さに、“私が反旗を翻す時機を遅らせました”」


 当主としてではなく姉として、個人の感情の為に戦を行ったと、雪蓮は示した。そうする事で、孫呉全てから自分を切り離し、責を受けるのは自分自身だけだと皆に表した。


――家の繁栄の為に我が身を切る、か。孫策はやはり王の理を理解している。


 心の内だけで、華琳は褒めた。自身にはそういった相手はいないが、後継者が必ず願いを繋ぐならそうすべきだと彼女も分かっている。

 それは確かに上手い一手だ。孫呉の未来は守られる、極上の一手であろう。華琳が指先一つに罰の有無と大きさを断じてしまえば事が終わり、広い対応が開けるモノである。

 さらに言えば、これだけで雪蓮が終わるはずも無い。

 雪蓮と冥琳は、劉表が華琳の元に謝罪に行った事を知っている。華琳が敢えて情報を流したから、その手札を大いに使える。


 責任者の身一つで贖えぬ責であるのか否か、お前はそれを先に決めてしまった。そうであろう、曹孟徳……そう、言っている。

 もう一つある。雪蓮は……華琳の首元に刃を突き付けたのだ。断じた瞬間、この大切な時に、孫呉全てが形振り構わず牙を剥くぞ、と。

 一瞬だけ、華琳に鋭い眼光が向けられた。獰猛な虎を思わせる視線に、歓喜が込み上げる。


――さすがは孫策。抜け目ない。


 同時に……政治政略で“彼女”に勝てない事が分かってしまった。


――でもあなたは見誤った。私はこの場では第三者。こちらは袁を、そちらは劉をと……雛里に伝えさせたでしょうに。あなたが戦うべきなのは……悪龍ただ一人。


 雪蓮が孫策であるが故に、それを貫いてしまえば他が動く。

 劉表がまた、息を漏らした。ケホ、と喉に絡む堰が粘りつく。


「差し込む発言、失礼してもよろしいでしょうか?」


 唐突に割って入った彼女に、雪蓮も、冥琳も唖然とする。こんな所で何を……と。

 華琳だけは楽しげだった。表情は変わらずとも、呆れたように、悪戯をする子供を見るように劉表を見やる。


「構わない。申して見よ」

「ありがたく……では言わせて貰おう。孫策、貴様の部下には無能しか居ないのか?」


 舌で一つ唇を舐めてからの言は、鋭利な鉤爪で引き裂くかの如く。

 曹操が許そうとも、自分は責を個人だけには終わらせてやらない。そう、言っているのだ。


「特にお前だ。後ろの……断金とか、美周嬢、とか言われてる奴だったか? 我欲に走った主を止められない臣下に価値なんざあるのか? 頭に乗ってるのが出来の悪い帽子置きじゃあ、智者なんて言えねーんだが……どうなんだよ」


 投げ捨てられた言葉遣いは見下しから。引き裂かれた笑みを向けられ、冥琳と雪蓮から激情の気が燃ゆる。

 されども真理。“漢が作った大陸の平穏”は、虫の息でも確かに存在する。妹の命をそれより優先させるのは、儒教社会に於いて美徳であろうと、家族よりも守るべきモノと定められている帝を貶めている事に他ならない。

 臣下であれば、大陸の全ての為政者が優先するモノを説くのは当たり前の事であろう。

 相手が悪い。弓を引き、刃を向けた相手は龍の血脈なのだから。劉表だけは、孫呉を責めていい。


「袁術の悪政を止められなかったバカ共と同じで、お前らもそうなってくって分からねーのか? 結局お前らは袁家となんら変わんねーじゃねーか」

「劉州牧。陛下の御前である。己が地を穢された怒りはあろうと言葉を慎め」

「……失礼致しました」


 華琳に止められ、キヒ……と俯けた顔から笑いが漏れた。雪蓮と冥琳にだけ聞こえるように。

 真っ青になったのは、冥琳。雪蓮のやり方からの繋ぎも用意していたが、よもや自分がそういった対価を払ったにも関わらずに、劉表が其処を攻めるとは思わなかった。

 劉表の狙いが、予想した程度では読み切れなかったのだ。

 責の所在が何処にあるか、あの時の華琳は劉表に問いかけてもいた。よって、劉表の言を広げる。

 ただ、どちらに味方するか、ではなく、どちらにも味方をしない……それがこの場で華琳のあるべき立ち位置でもある。


「……主を諌めるは臣下の務めでもある。では周公瑾、汝は……否、孫策の臣下達は何故その時止めなかったのか答えよ」


――責を負うモノを広げた……いや、違う。蓮華様も劉備の地を攻めてしまった故に、言い逃れは出来ない。


 冥琳は気付く。劉表が何を狙って発言したのかを。


――こいつは……“孫呉の未来”を潰しに来た。


 没落した名家の成り上がり劇は人を惹きつけるかもしれない。

 ただ、あくまでそれは当事者たちにとっての物語。外から見ればどうか、と考えれば至極真っ当な言い分もあるのだ。落ちた名家の血筋の家族には、なんら価値などありはしない。袁家が求める方が異質であり、首輪を付けたという意味では当たり前の出来事。元より其処にどれだけの悲劇があろうとも、大陸の絶対者と比べて見れば石ころ程度にしか思われない。

 睨みつけてもどこ吹く風。劉表は目すら合わせようとしない。

 冥琳だからこそ、狙いが分かった。劉表は此処で孫呉を潰すつもりがない。より乱世をかき乱す為にしか動いていないと読み取った。

 要は遊ばれているのだ。自分がどうとでも出来るお前らのような存在は、決して自分には勝つ事が出来ない、と。

 華琳の質問にどう答えるか、考える暇さえ与えられていなかった。即時対応して守れるモノは……少しだけ。


「断金、と呼ばれる程の仲。我が友孫策が滅びるならば一蓮托生。部下は我ら二人の命に従うべくして従った故に、なんら関係はありません。そして孫家が次女、孫権様は我らの命に反して内政に従事していた所を、袁術より直接の命を受けて呼び出され、無理やり黒麒麟と相対した次第に」


 強制的に従わせたと、王と軍師では無く、雪蓮と冥琳として近しいモノの救出を願い貫き通したと、そう言った。最後に、蓮華は自分達に反抗的だったと言い含ませて。

 此処からは水掛け論になる。やはり証拠がない。袁家を崩壊に導く為に裏で糸を引いていたとしても、冥琳がその足跡を残すはずもない。


「孫権は家族でなく臣下として止めようとしたが反発し、せめてもの抗いとして内部に居残った、そう言うのか」

「はい。劉州牧は一番精強な時分の孫呉でも敗北を喫した相手にございます。飛将軍を身の内に迎えてより精強になった軍に、袁術に命じられたとは言え、我らが寡兵で挑み、機を見ていたのはそういった経緯があります」


 此処で切る札を間違えてはいけない。呂布の話を出すのなら、この時しかなかった。

 そうして……劉表の思惑に合わせるしかなくなる。もはや道は、一つしかない。


「勝てないと分かっていて戦を進めた……? 曹操じゃなくてオレと盟を結べばよかったじゃねーか。そうすれば袁家なんざオレと一緒に潰せたんだから。言ってこなかったのはなんでだ?」


 昏い暗い声が響いた。金髪が揺れ、灼眼が燃えていた。

 雪蓮達が出来るはずもなかった“もしも”の提案。分かっているはずだろうに、と毒づきながらも二人は呑み込む。


「ケホ……貴様ら……この大陸をなんだと思ってやがる?」

「抑えよ、劉州牧」

「いいや、もう余命も少ねぇから抑えてやれねーな。貴様らの親はオレに喧嘩を打った。オレはわざわざ買ってやって……勝った。全てを殺さなかったのは陛下の温情だ。それでいて尚、袁に踊らされて二度目の牙を剥いた。他の家に迷惑を掛けて謝りにも来やがらないんだぜ? それだけでも笑えねーのに、妹の為に、だとよ」


 殺意が揺れる眼には、見下しと蔑みが存分に含まれていた。

 演技だろうと、華琳は思う。しかしてその様相は、余りに見事に完成されていた。劉表は、この場に居る誰よりも長く、王の務めを果たして来た為に。

 これから言うであろう言葉を、華琳は分かっていて止めない。止めても言い切る。

 人の口を無理矢理塞ぐには、実力行使しか成り得ない。帝の前でだけは、武力を翳してはならない。


「口先ではなんとでも言える。叛意があるかは疑い出したらきりがねー。オレんとこでも部下が裏切りやがったからな。だけどせめて……」


 少しだけ、劉表は斜めに身体をずらし、劉協に見えないようにだけ、舌を出す。これから食べるモノを楽しもうと。

 笑みは浮かべず目を細め、冷たく昏い瞳で……龍は虎を見下ろす。


「跪け。陛下に、劉の名に跪け、孫家。この場で頭を垂れ、永久の忠を誓え、飼い猫」


 激発の声ではない。絶対零度の冷たさを持つ、冷たい怒りの声であった。

 雪蓮の瞳に屈辱が燃える。冥琳の目は凍土のように冷たく凍った。 

 少し前に、劉表は華琳と帝に胸中を示して頭を下げた。華琳も帝に頭を垂れた。それが帝の前で出来ないとは……言えるはずもない。

 華琳は帝に目を向けた。此処で裁くのは華琳の仕事。罪を断じるが、重さを間違ってはいけない。

 帝はさもつまらないモノを見るように、彼女達のやり取りを見ていた。止める気はないと、その態度だけで分かる。


――趣味が悪い言い方ではあるけれど……これを“劉表が”言わなければ私達が描く絵図には辿り着けない。


 華琳は孫呉の二人を思いやる事は無く。ただ純粋に、結果のみを求めた。貸し借りはある。対価も既に決めてあった。

 二人の身体が曲がる……前に、凛と鈴の音のような声が響いた。


「陛下の御前にて耳に聞き苦しい言葉の数々。私の制止も聞かないとは、もはや正常な判断すら出来ぬであろう……劉州牧、この場よりの退場を命ずる」


 殺気立った目線がそのまま華琳に向けられた。二つの双眸を呑み込んで、覇気溢れる瞳を返した。

 劉表はギリギリと歯を噛みしめるそぶりをしながら、ゆったりと、されども優雅に頭を下げた。


「……申し訳ありません、陛下」

「……そなたの忠義は理解しておる」


 それだけの言葉を発して劉協は口を閉ざすも、蒼天の瞳は揺れていた。

 劉表は漢に仕えている。腹に刃を持っていようとも、どれほど外部を悪辣に掻き乱そうとも、漢の終焉が見えていようとも、結局は帝の味方。其処だけは変わらない事実である。

 劉表は誰も見ようとせず、颯爽と身を翻して部屋を出て行く。最後に一寸だけ、華琳に向けてほんの少し舌を見せた。悪戯好きな笑みにも思えるその顔は、満たされたようにも見えていた。

 しん、と静まり返る場内にて、小さく鼻を鳴らした華琳の冷たい声が響き渡る。


「陛下、劉州牧が下がり、未だ孫家の叛意も確かめられず――」

「……洛陽は燃えたぞ」


 ぽつりと、劉協が言を零した。華琳がこのまま続けるか否かを問いかける間もなく、憂いを帯びた声が響いた。


「孫策……そなたは洛陽が燃えた時、黒麒麟と同様、民の救援に勤しみ大徳と呼ばれるようになったと聞く」


 声を発する事も出来ぬ程に、その場は痛々しい空気に包まれていた。

 故に、雪蓮が口を開く前に、劉協が少し、眉を寄せた。


「じゃがな、洛陽は燃えた。確かに燃えたのじゃ。戦は……恐ろしいの」


 それだけ話して、静寂が訪れる。

 まだ十にも満たぬ童ではあっても、直ぐに帝の衣を纏い直した劉協は、感情を欠片も表に出さず、空っぽのような蒼天の瞳で宙を見ていた。


「少し、疲れた……。曹孟徳、そなたに次の日取り決めは任せる」


 しゃなり、と立ち上がった劉協は、一歩、また一歩と歩みを進めて離れて行く。

 誰も何も言えず、その小さな身体を見送るしかなかった。

 粘りつく空気は無い。しかし……釈然としない空気だけが、皆の心に気持ち悪さを残していた。





 †





 暗がりの中に蝋燭が一つ。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。

 きっと明朝にでも何かしらの指示が届くだろう、と劉表は考え、ふっと息をついて瓶に目を落とす。

 其処には紅い実が一つだけ残されていた。てらてらと密に濡れた輝きは美しく、思わず吐息を吐き出すほど。


「ケホ……最後、か」


 震える指で摘まんで、手に取った。あーん、といつものように口を開け、小さな舌を出して受け入れようとするも


「あ……」


 ぽろり……と机に落ちてしまった。

 コロコロと転がって少し前で止まる。じ……と見つめた劉表は頬を緩めた。


「キヒ、キヒヒッ……喰えねーなんて縁起わりぃ」


 今度は落とさないように拾う。大切な宝であるかのように、そっと掌で包み込んだ。


「さて……お前ら、よくオレに仕えてくれた。家族には十分な恩賞を与えておいた。キヒ、知らなかっただろ?」


 話しかける先には、二人の近衛兵。名は覚えているが呼んでやらない。

 彼らは驚愕に目を見開き、顔をくしゃりと悲壮に歪めた。

 劉表の護衛に付いていた彼らは、ねねと名店に入った時も侍っていた二人である。顔に伺える皺の深さは、彼らが重ねた年数を見せつけていた。


「こっからは口を閉ざせ。聞くだけでいい。誰にも最後の言葉を聞いて貰えないなんて……寂しいからさ」


 言って間もなく、劉表は赤い舌を出して果物を口に含んだ。

 ゆっくり、ゆっくりと噛みしめた後に、ゴクリと喉を鳴らして流し込む。吐き出された息は甘いモノ。


「娘には、幸多からんことを願おう。あいつは王の器じゃねー。せめて乱世の果てに生き残ってくれたらそれでいい」


 子の幸せを願わない者は母ではない。だからこれは、彼女が龍から人に戻る最後の一時なのだと、兵士達は心に刻む。


「もう一人の娘には、呪いばかりの道から解き放たれることを祈ろう。あいつはオレと違って優しすぎる」


 数か月前に知り合った彼女にも、幸せであれと想いを向けた。小さな身体で城を走り回る姿を、彼らは忘れる事は無い。


「死んじまったバカ野郎は、政略で結婚しただけだったが……キヒ、恥ずかしいから言ってやんねー」


 少女のような笑いには、立場故に出来上がった関係であれど、確かに幸せがあったのだと、二人は読み取る。


「後悔はしてねーって言ったけど……“もしも”……」


 続けるか、続けないか悩んだ後に、劉表は言葉を呑み込んだ。


――御使いがオレの元に来てたなら、もっと楽しい乱世になったのかなぁ。


 揺れる蝋燭を見つめて、そんな可能性を考えてみた。

 直ぐに下らないと断じて、彼女はまた、喉を鳴らす。


「キヒ……うん、満足だ。最期に虎と喧嘩出来てホントよかった。死んだ後にまた会ったら叩き潰してやろ……っと」


 立ち上がると同時にぐらついた。すかさず抱えた兵士は言葉を発さず。ただ、その目からは涙が溢れていた。

 大の男が無く姿に、劉表は微笑みを向ける。


「泣くなよ、泣くんじゃねーよ。口を閉じろ。声を出すな。何も言うんじゃねー」


 意地っ張りで強がりな彼女と知っているから、兵士達は言われた通りにするだけであった。


「ずぅっと昔っからお前らはオレに仕えてくれた。婿を取る時も、ガキが出来た時も、オレがどれだけ悪い事しようと護衛してくれた。まあ、オレが顔馴染しか側に起きたくなかったからだけど……ありがとよ」


 ゆっくり、ゆっくりと彼女は支えられながら部屋を出た。兵士達に支えられて、庭に出た。

 暗い闇夜には、雲も、星も、月も出ていた。これこそが夜空だと、彼女は感嘆の吐息を一つ。


「最期だからお前らに預けよう。オレの真名は……龍飛。龍が飛ぶから龍飛だ。口には出すな、才の無い奴に預けるのはお前らが最初で最後だ。誇れ」


 何度も頷く兵士達は、声を出す事は無く。

 年月を重ねても美しい彼女に見惚れながら、震える吐息を吐いていた。

 くるり、と背を向けた劉表の顔は、いつも通りの悪辣な笑みを浮かべていた。


「キヒ……さあ、悪いこと、しようぜ♪」


 手を広げて、大空を見上げた彼女の言葉は宙に消える。

 胸に熱さが灯った。

 初めてこんなに熱いと思った。

 これが皆の感じてきたモノなのだと思えば、不思議と愛おしく感じた。

 口の端から血が流れ落ちる。

 せっかく甘いモノを食べたと言うのに、鉄の味に変わってしまった。それだけが唯一、彼女が不快に感じたモノだった。


「けふっ……世界は、変わる……オレはいらねー……きっとこの、甘い世界には、生まれちゃいけなかった……でも……」


 彼女の胸に、白刃が突き出ていた。

 後ろでは……涙を零しながら兵士が彼女に短剣を突き立てていた。

 死装束の如き白では無く、彼女が纏っているのは黒のドレス。悪には黒こそ似合うだろうと、気に入っていた色だった

 吐き出した赤は、彼女の瞳の色と同じモノ。

 崩れ落ちる膝。徐々に消えていく熱いナニカ。突き立った短剣が邪魔で、真っ直ぐに空を見る事は叶わなかった。


「……キヒっ……あー……楽しかった」


 暗闇の中で一人、彼女は地に落ちる。星々がよく見えた。晴れやかな表情からは……何も読み取る事が出来ない。

 一人の兵士は首筋を切り裂かれて倒れ、もう一人は心臓に短剣を突き刺して倒れ、誰も動く者は居なくなった。

 そうして悪の龍は、掻き乱した世を想いながら……孤独に、静かに息を引き取った。











 都である洛陽にて、一つの報せが駆け巡る。


 劉表が何者かに暗殺された。


 その報せを聞いて、まず疑われるのは孫呉の二人。

 華琳は劉表を亡き者にした者が誰かを調べる事に時を奪われ、孫呉の二人は疑いが晴れるまでの間、軟禁されることとなった。

 掻き乱すだけ掻き乱して居なくなった悪龍が何を思っていたのかは、彼女達も知らない。ただ、これからの乱世にて、彼女の残した幾多の策があるとは知っている。

 受け継いだのは一人。龍が残した不可測。

 利用出来るモノは一人。地にて機を見る竜。

 旧き龍は……若き龍を無理やりに乱世へと引き摺り込み、漢を勝利に導く手札を用意したのだった。



 華琳は一人、憂いに心を沈めながらも思考を積み上げて行き……一つだけ、指示を出した。遠く、遠く、彼の想いが始まった大地へ。五百の麒麟を都に集めろ……ただそれだけの指示を。

 そうこうしている内に、“彼ら”が到着する間も無く、大きな情報が入る。それは雪蓮も、冥琳も予想していた最悪の情報。


『孫呉の地に呂布率いる劉表軍が攻め入った』


 乱世の大陸に誰もが糸を引き合う中、華琳は一人……笑みを深めていた。













 蛇足 ~龍に敬意を~




 その報を受けて頭に浮かんだのは……不思議な事に納得だった。

 よくよく考えれば有り得た手だ。初めから自分の命を対価として差し出した戦。最後に幕を引くのは彼女自身でなければならない。

 孫呉からすれば、掻き乱すだけ掻き乱しておいて勝ち逃げされたカタチとなる。あの女らしい悪辣な終わらせ方だ。

 一応、暗殺の可能性がある限り、私が調べなければならないのは当然で……孫策と周瑜は都に留まらざるを得ない。


 劉表の亡骸は荊州へと送られる。彼女が連れていた一万の兵全てをそれに当てた。この場に留まらせれば、何が起こってもおかしくないが故に。

 名だたる将とは行かずとも、古くから仕えていたという千人将達は、不満も漏らさずに従ってくれた。


 見送りの日。

 彼女の顔をもう一度だけ見せて貰った。

 晴れやかな笑みは、口を引き裂いていた彼女とは違うモノ。

 きっと満足して死んだのだろう。それが少し……羨ましく感じた。

 城壁の外まで見送った、棺の乗せられた馬車が見えなくなるまで。私がそうしたかったのだ。


「短くとも楽しい時間をありがとう。あなたの生き様に敬意を。そして……」


 見えなくなってから、光の差し込む空を見上げて、ゆっくりと言葉を溶かした。


「残した策を全て打ち崩す事で……私の勝ちを示しましょう」


 彼女の笑い声が聞こえた気がした。あの時みたいに、私の負けだと言うのだろう。


 幾分、目を閉じる。

 黙祷を捧げ、平穏な世を作ると誓いを立てる。

 彼女の望んだ平穏を作るつもりは無く、私が望む平穏を見せつけよう。

 だから、いつもとは少し違う。

 乱世を私が治めることこそが、彼女に対する最大の敬意の表し方。


「その時は……あなたの知らない“私の妹”と一緒に、甘いお菓子をたくさん供物として捧げてあげる」


 くるりと背を向けて、今も戦っているであろう愛しいモノ達が居る方角を見据えた。

 一陣、強い風が吹いた。遠くまで何でも運んでくれそうな向かい風。


「ふふっ……いいわね。あなたも気になっていたようだし……あの大嘘つきが作ったカタチだけれど、手向けとして一つ、風に乗せてこの言葉を送りましょう」


 不敵な笑みに獰猛さを宿して、いつもの調子で声を紡ぐ。


 戦っている愛しい臣下達を想いながら、これから乗り越えて行く乱世を想いながら。そして……もう二度と戦えなくなった愛しい敵を想いながら


 唇を震わせて、そっと流した。





――乱世に、華を




読んで頂きありがとうございます。


この物語の孫呉は、原作と歴史を混ぜているので難しい立場になってます。

孫堅が揚州を治めていた恋姫で、史実通り劉表配下の黄祖に打ち取られた場合どうなったかを妄想で補填した結果になります。

その為、孫呉ファンの方々、ご気分を害されたましたら申し訳ありません。


蛇足として一つ。

劉表√なら、龍飛さんと「悪い事しようぜ」な物語になってました。腹黒ちゃんが言ってたように悪逆過ぎて目も当てられない手段を多数用います。


次は試され過ぎた大地の話、です。

やっと彼女を出せます……



ではまた

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