バジヌ神
それはバジヌ神だった。エルタン歴物語にも度々登場する、特に守護する地を持たない神の一人であり、ウーリと同じく戦の神だが神格でいえばこちらのほうが上で、いくつもの逸話があった。三メートルほどの大柄な体躯に膨れあがった筋肉の持ち主で、顔は厳めしい。毛髪はない。白い衣で下半身を覆っていた。この魔法世界に彼がいるという情報を、一同は誰も持っていなかった。
「旅人か」バジヌ神はさして珍しくないとでもいうように、呟いた。そしてそのまま立ち去ろうとした。
「お待ちください」
ホワックが慌ててバジヌ神の前に立ったのだが、カルエには彼が正気だとは思えなかった。見たところ、ホワックとバジヌでは相手にならないほど体の大きさが違った。この中でも体格のいいホワックだがこの神にかかれば一蹴りで彼の体は砕けるかもしれない。
カルエは緊張していた。神を見るのは初めてだった。だが、神というのがこんなにも……恐ろしく、そして慈悲を持っていなさそうな存在だとは思わなかった。先ほど旅人かと呟いたとき、カルエが見たところ神の目は虫を見るようなものだった。そんな相手に交渉が通じるのだろうか。
「私はハプリアからきた者です。ご存じかも知れませんが、ハプリアの聖地ヤットコが隣国であるエダの奴らに侵攻されようとしています。どうかお願いです。あなた様の力を、ハプリアのために役立ててくださらないか? 報酬は勿論いたします。前報酬としてこのジャコウの短刀を受け取ってくださるまいか! 我が国では伝説級の宝です!」
ホワックは宝石がふんだんに使われた短刀をバジヌ神に差し出した。しかしバジヌ神はまるで興味がなさそうに見えた。
「そんな物はどうでもよいだろう」彼は呟くようにそういった。しかし彼は本当にホワックに対していっているのか、会話がまともに通じているのか。カルエはどうも、バジヌ神が心ここにあらずというか、ホワックの話をまともに聞く気もないのではないかと感じた。
「これはほんの些細な贈り物に過ぎません! 貴方が力を貸してくれれば! 国で最高の宝石を贈呈する用意ができています!」
ホワックは必死に、懇願していた。彼は地面に両手をついて、涙を流しながらも尽力を頼んでいた。それを見ていた者達はそんなホワックの必死さに同情を覚えた。アンリルもホワックに倣った。
「どうか、お願いです。バジヌ大神よ! 我らが救世主よ!」
「そんなものはただの犬のクソよ」
バジヌ神はまるでどこか別の場所で聞き取ったかすかな言葉に、ただ面白半分に言葉を放っているような様子だった。カルエはそう感じた。
「ウーリに訊いてみるといい。奴も宝石なんぞ欲しがらんかなぁ。しかし今日はどうも、膝の調子が悪いな。膝には……そう、あれを塗ればいいわけだ」
バジヌ神は半ば独り言を呟くようにそう言うと、そのままなにやら言葉を呟きながらその場を去っていった。
ホワックは再び膝をついた。今度はアンリルも膝をついた。彼らは絶望を露わにしていて、誰も声を掛けることはできなかった。
「歳老けた神なんてあんなものね」舞雪がぼそりと言った。カルエにはそれが聞こえた。
「若い神はまだ人間の言葉に耳を傾ける。人間という存在にまだ興味を持つ。だけど年数が経った神は人間にはまるで興味を持たない。人間の大人が蟻の群れに興味を失うようにね。別に、敵意があるわけじゃない。観察の意味を失うんだね」
カルエには舞雪のいっていることが全てわかるわけじゃないが、先ほどのバジヌ神の目つきと対応を見る限り、彼が友好的というわけでも人の戦に混じって活躍するようにも思えなかった。
カルエはヨマを見る。ヨマは恐ろしい顔をしていた。この中で唯一、絶望と諦観以外の、憎悪の顔をヨマは浮かべていた。




