第九章 天上の世界
天界は、勇者の思っていたような場所ではなかった。
光り輝く空間の亀裂の、その先に待っていたのは、翼を持つ一人の天使だった。
「ん。ようやく来たか」
天使は古い書物で見たままの、人と全く同じ姿に、純白の翼を持ち、淡く光った白いローブを着ていた。
天使の向こう側には、雲ひとつない大空が、無限と思われるほどに広がっていて、地面はどこまでも続く緑の平原が広がっていた。
天使は優しげなほほえみを称えるでもなく、どこかふざけた様子で、左頬を釣り上げてニヤニヤと笑っている。
「いやさ、こういうのはちゃんとルールを守るもんだけど、俺はいいと思うよ。だけどさあ、よりによって俺の担当の日じゃなくてもいいんじゃない?」
勇者は自分の耳を疑った。何を言われているのかわからなかった。天使とはこのような言葉づかいをするものなのだろうか。
声の質も、普通の男と変わらない。少年の声色を残した、耳に障るような、少し甲高い声だった。
発するべき言葉を失った勇者は、黙ったまま天使からの言葉を待った。
「……あれ? 緊張しちゃってる? まあいいや。神様に合うために来たんだろ? 俺についてきてよ」
そう言って歩き出す天使の後に続く勇者は、実験の失敗を思った。何らかの事故で装置が壊れ、別の場所にたどり着いたか、もしくは、ここはすでに死後の世界。そうでなくても、死にかけた勇者が死ぬ前に見ている幻なのではないだろうか。
前を行く天使は、勇者に構わず喋り続ける。
「んでもよ。俺あ思ってたんだよね。いつかそういう奴が現れるんじゃないかってさ。なんかこう、反逆的な思想っつーかさ。あ、別に悪いって意味じゃなくてな。お前さんはよくやってるよ。しっかり自分のやるべきことをこなして、それでここまでやって来たんだから。若くて力持ってりゃ、そりゃそうなるわなあ。大体、今までの勇者っつーのが真面目すぎたんだよ」
勇者はべらべらと喋り続ける天使の言葉を聞き流しながら、一旦思考を中断し、周りを見回した。
見渡すかぎり広がる平原。そこに、いくつか神殿のような建物がまばらに立っていた。そのひとつひとつが、やわらかな陽の光によって、優しく輝き、元いた世界には存在しない物質を感じさせ、勇者の興味を引いた。また、その柔らかな曲線によって構成された建造物の美しさは、勇者の心は揺り動かした。
それはほんとうに美しい世界だった。
緑が生い茂る平原には、翼のある天使たちが、至るところで談笑し、翼をたたんで寝そべっているものも居た。天使の他には、伝説にもあるように、妖精たちが飛び回り、角の生えた馬「ユニコーン」の姿も見えた。
しかし、そんな、絵に描いたような光景も、勇者には違和感を与えるに過ぎなかった。
天界とはこんなものだったのか?
疑惑はますます大きくなっていく。これでは、地上に言い伝えられている童話そのままではないか。天界は、自分たち人間をはるか超えた神々が集う場所でなくてはならない。少なくとも勇者はそう考えていた。
人間の生きる目的とは、多くの人々が幸せになり、一人ひとりがよりよく生きるための、文化の発展であり、技術の発達である。勇者の考える価値観が正しいならば、神が人を超えた存在である以上、天界もまた、地上を超えた場所でなくてはならない。
しかし、ここには見わたす限りどこにも、地上を上回るものがあるようには思えなかった。あまりに平和な世界。それはどこかアドラスの街の雰囲気に似ていた。平和に溺れ、日々をただ安穏と過ごす人々……。
しかし、と勇者自分の考えを否定する。
そもそも、自分たちの世界と天界を同列なものとして考えること自体が恐れ多いことなのではないだろうか。天界の住人とは我々人間を高みから見下ろすような高次な存在のはずだ。だとすれば、勇者の及びつかないような、独自の技術体系を持っているのかもしれない。
しかし……
「見てくれよ。折角のお客様だってのに、誰も見向きもしやしねえ。これは問題だと思うね。実際にさ、勇者が来るってことはそりゃもう一大イベントなはずなわけよ。今でこそ、慣れちゃってこんなもんだけどさ。でも、お前さんは普通の勇者にはできないことをやり遂げたんだ。もうちょっと、歓迎じゃなくても、驚いたりするべきなんだがなあ」
天使が勇者の思考を妨げる。彼の話は主題も見えぬまま、ひとり言のようにだらだらと続いていた。神や天界を疑ってしまうのは、全てこの天使のせいだ。勇者はそう結論づけた。
あまりに人間味にあふれていて、まるで、金ばかりがあって、暇にまかせてべらべらと喋りたてる貴族のようだった。そんな人間は、地上でいたるところで見てきた。
勇者はそんな人間たちが嫌いだった。彼らを見る度に、自分だけが何故、魔王討伐などという過酷な試練に立ち向かわなければならないのだろうかと自身に問いかけたものだった。
勇者は神を否定したくなかった。しかし、あってはならない疑惑が、勇者の心を靄のように覆っていった。
神もまた、人と大差ない存在なのではないだろうか……。
「どうだい? こっちに来てみた感想は」
「……え?」
突然の質問に、勇者はうろたえた。
「だからここの感想だよ」
感想など、思いつくはずはなかった。勇者はしばらくの間の後、
「美しい場所ですね。言い伝えの通りだ」
という当たり障りのない一言をなんとか絞り出した。目の前の、天使とも思えない天使に対して言いたいことは山ほどあったが、話す気にはなれなかった。
天使は勇者の心を見透かしたように意地悪く笑った。
「そう思うか? ほんとに? まあいいんだけどさ。なんにもないところだぜここは。いくつかの建物がある以外は、後は緑と空の青ばっかりで、面白みの欠片もない。つまらん場所だよ。天使ってのはあれだな、腹も減らないし、身体も汚れない、歳もとらないし、そういうところがこの場所をつまんなくしてるんだと思うんだよな。だいたい……」
「神様のところには後どれくらいで着くのでしょうか?」
勇者は天使の言葉を遮り、話題を変えることにした。これ以上、天使のくだらない話を聞いているのにうんざりしていた。
「……ん? ああ、もうそろそろだよ。ほんとはさ、ちょちょいっと移動魔法使やーすぐなんだけど、それじゃ味気ないだろう? これは勇者が来た時の伝統みたいなもんよ」
勇者はなんだか馬鹿らしくなり、ため息をついた。
天界を目指したのは、神に自身の疑問を問うためだ。何故自分だけが、と恨んだこともあったが、同時に、神に対して畏敬の念を持っていた。神ならば疑問に応えてくれると信じているからこそ、多くの犠牲を払いながら、ここまでやってきたのだ。
だが、目の前を歩く天使の、あまりにも適当なふるまいを見ていると、それがひどく無駄なもののように思えてきた。天界に来たのは、間違いだったのかもしれない。勇者の心に迷いが生じていた。
よく見ると周りの景色も、勇者の心を震わせた美しい景色ではなくなっているように見えた。それはまるで作り物のように、彼の目には映り始めていた。