第二十五章 世界の真実
気がつけば、再び闇に包まれていた。
「私もまた、お前の姿を見て、自分が何なのかを考えいた。私が身の内に秘めた闇の塊。その奥底まで深く潜り、最深部に眠る隠された記憶を引き出したのだ。気の遠くなるような時間を要したが、お前がここにやってくるまでには、長い時間があったからな」
「引き出したものがさっきの幻覚だっていうのか」
「その通りだ。先程の過去の幻影を見てわかっただろうと思うが、魔王も、勇者も、たどり着く場所は天界ただひとつなのだ」
「それで……天界にいった後、どうなる?」
“では、続きを見てみることとしよう”
勇者の頭に、再びイメージが流れ込んでくる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ニグズスはすでに禍々しい姿から、人の姿に形を変えていた。今や彼は力をほぼ失い、人と変わらぬ姿で安らかな表情でを浮かべていた。
ニグズスの横たわる場所は、真っ白で何もない空間だった。それはまさに、勇者がかつて踏み入れた、神の現れた空間に似ていた。周囲の空間が歪んだかと思うと、ニグズスのかたわらに神がその姿を現した。
神はニグズスを気だるげに眺め、やがて横たわる彼の体の上で手をかざした。彼を覆っていた闇の残滓がゆっくりと消えていき、代わりに神々しい光が彼を包みはじめた。闇は神の掌に集められ、ゆらゆらと揺らいでいた。
“今神の手にしているものが、闇の塊だ。これまでの魔王の歴史がすべてそこに刻まれている。闇を身に宿すことで、はじめて魔王は生きる意味を与えられるのだ。裏を返せば、魔王は闇を失うことでその役割を失う”
神は汚いものを扱うかの如く苦々しい表情で手を眺めると、その手を強く握りしめた。それと同時に、ニグズスの背中から白い翼が生えていく。
彼の姿は、まるで天使のようだった。
“もはやそいつはニグズスという名ではない。名前を捨て、個を失い、天使となり果てた。自分を証明するわずかな記憶すらも奪われて、何者でもないただの天使となったのだ”
安らかな寝顔の天使は、神が再び手をかざすことによって、一瞬で煙のようにかき消える。代わりに現れたのは、乾いた血が全身に広がり傷だらけとなって薄汚れた、もはやかつての姿をかけらほども残していないアデルだった。
神はニグズスから闇を取り出した右手をアデルにかざした。手のひらから闇が染みだし、勇者に向かって伸びていく。闇に包みこまれたアデルは、わずかに苦悶の表情を表したが、闇が体に吸い込まれるように消えると、徐々にその姿を変えていった。
苦悶の表情は、憎しみの滲む凶悪な相貌へと変わっていき、体もまた、手にはどす黒い爪、背中には翼と、魔物の姿へと変わっていく。全身に黒いもやがかかり、漆黒の体毛が全身を覆って行った。闇がしみこんでいくにつれ、体はいびつに、そして巨大に変わっていった。
“アデルの体が闇によって変化を遂げる。ここまでくればお前にもわかるだろう。そいつが、何に変わってしまったのかを”
勇者は目の前で行われていることを、受け入れることができなかった。全く現実味というものが感じられない。理解はできる。が、それを全身が拒絶している。
魔王が天使の姿に変わり、勇者が魔物に姿を変えた。
ただ、それだけのことだ。しかし、それだけのことを受け入れることができない。勇者は、これが魔王の精神攻撃の一種であることを考えた。単なる幻覚でしかなく、この期に及んで勇者の心に揺さぶりをかけてきているのだ。
しかし、何故こんなまわりくどいことを?
勇者の力を封じもせず、体を拘束するわけでもなく、無意味な幻覚を見せる意味とは? その気になればすぐにかき消すことができる精神攻撃など、攻撃のうちにも入らない。
仮に、動揺させることが目的ならば、もっと他に手はあるはずだ。勇者の心を限界まで揺るがせる仲間の存在。また、彼のもう一つの弱点ともいえる両親の存在。この二つの幻覚を見せられていたら、あるいは勇者を無力化することも不可能ではなかったはずだ。
だが、魔王の見せた幻覚は精神攻撃とはかけ離れたものだった。もしかすると、これは勇者の脅威におびえた魔王の妄想かもしれない。こんなでたらめな妄想を勇者に見せつけて、それが本当のことだと、言い張るつもりなのだ。
そう考えると、勇者の心は楽になった。周囲に結界を張り、長い間閉じ込めていたことで、魔王は精神に異常をきたし、意味の分からないことを言い始めた上に、ありえない幻覚まで作り上げたのだ。
そこまで考えて、しかし勇者は、不安を拭い去ることができなかった。目の前で繰り広げられた幻覚を、どうしても否定することが出来なかった。
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闇が晴れた。
勇者の目の前には、玉座に座る魔王がいる、相も変わらぬ情景が展開されていた。魔王がこちらをじっと見つめて、勇者の反応をうかがっているようだった。
「これが、真実だとでも言うのか?」
勇者が言った。その表情はわずかに引きつっていた。不安を表に出さないようにするのに必死だった。
「ああ、そうだ。信用する、しないはお前の勝手だがな」
気だるげに答える魔王の顔にはわずかな笑みが浮かんでいる。勇者の反応を楽しんでいるようだった。
「ならば、お前は……」
「そう、今や記憶は失われているが、かつての私はアデルということになるな」
「そんな! まさか!」
「私も驚いたさ。しかし、そこに記されていた歴史が偽物であるとは思えない。本当であるという証拠もまた、存在しないがな」
「そんなこと、あってたまるものか! かつての英雄がなぜ、ぼくの両親を殺し、仲間を殺したんだ!」
魔王は吠えたてる勇者に向かってあきれるように溜息をついた。
「認めたくないのはわかるが、よく考えろ。私は天界に連れて行かれた時点で、すでに記憶の全てを剥奪されているのだ。なにかの拍子に思い出すなどというようなことは起こり得ない。記憶が隠されるのではなく、消去されてしまうのだろう。はるか昔から、世界は少しの変化もなく、正確に同じことが繰り返され続けている。それがすなわちこの制度の厳格さを物語っている」
勇者は黙っている。魔王の話を聞いているのかいないのか、判別もつかない程に茫然とし、魔王の上のどこか遠くを眺めているようだった。
魔王は続けた。
「天界も、人間界も、この理、制度からは逃れることができない。すべては循環し、完璧な構造を有している。人間界から選び出された勇者が魔王を倒し、魔王となり、倒された魔王が天使となる。その単純な繰り返しを何千、何万年、いやもっとそれ以上に繰り返しているのだ」
「なるほどね……で、目の前の魔王様を倒せば、今度はぼくが魔王になるってことか」
魔王と視線を合わせぬまま勇者が言った。放心状態となった彼は自嘲するように笑い、虚空を見上げていた。
「そうだ。魔王の仕事はつまらないものだが、次にやってくる勇者が来るまでの辛抱だ。お前は人間界を支配する権利を得て、人間を殺しきらない程度に、世界を思うがままにできる。これまで魔王を倒すためだけに生きてきたお前にとってようやく訪れた完全なる自由だ。まあ、記憶をすべて失った後のことだがな」
そこで魔王は一拍置いて玉座から前に乗り出し、改めて勇者を見据えた。
「さて、ここまでの話を聞いたお前に問おう。どんなものを私に見せてくれるのか。まさか、普通に私を痛めつけて倒すなど、そんな私怨によるくだらない幕切れではなかろうな。私はずっとお前を見ていた。世界のすべてをかき集め、お前は恐るべき力を得た。その力でどうする? お前はいったい何を得る?」
魔王は、勇者をからかうようにうすら笑いを浮かべていた。




