第二十一章 天界の扇動者
天使の名は、メルエルといった。
これは彼の本当の名前というわけではない。天使にはそもそも名前が存在せず、彼が自分の個を自覚した時に初めて自分で名づけたものだ。だから、彼以外は、彼の名前を誰も知らない。知ろうとする者もいなかったし、また、彼から名乗ることもなかった。
彼にとって名前は、自分の行動理念を明確にするためのものだった。個というものが存在しない天界で彼は、自分の中に生まれた欲望とも呼べる生きる意味そのものに名前を付けたのだ。
メルエルがは勇者を神の元へ案内し、技術者たちを紹介した後、しかし、地上に降りることはなかった。
「俺は人を集めただけでなにも出来ないからな。またなにか別のことを始めるさ」
そう言って勇者の前から姿を消したメルエルはその足で、神の元へと向かった。彼は勇者に協力したことをおくびにも出さず、堂々と神の前に立った。
「勇者が、天界の住人の一部を地上に連れて行きました。いかがいたしましょうか」
「ほおっておけ、いくらあの勇者が、どんな危険な考えを持っていたとして、我々に害を及ぼすようなことができるものでもない」
神は表情一つ変えなかった。すでに存在することに飽いていた神は、言葉を発することすら面倒だと言わんばかりに、投げやりに答えた。
メルエルは神に背を向け退出する際、笑いをこらえるのに必死だった。
「これでまた、面白くなりそうだ」
その言葉を聞いたものは誰もいなかった。
彼にとって、革新的な魔導具の作成などはどうでも良かった。目的もなく機械いじりや無意味な研究をして燻っていた天使たちに、するべきことを与えてやった、ただそれだけのことだった。技術者たちを手放したのは、単に彼が飽きてしまったからに過ぎない。
メルエルは自分には何の才能もないことを知っていた。だが、自分には人材を集め、まとめ上げる力がある。その自負が彼を動かしていた。
自ら考えることを放棄していた天使たちは、進んでメルエルのいうことに従った。かつては自分なりの考えを持っているものもいただろうが、長い楽園生活で彼らは思考能力を完全に失っていた。
メルエルは、技術者たちに魔導具を作らせながら、一方で、天界に勢力を広げていた。天界の王ともいえる神もまた、彼から逃れることはできなかった。
勇者が研究施設を完成させたころ、メルエルは神の元へ再び参上した。
「なにやら勇者が不穏な動きを見せています。力を蓄え、魔王城に向かう模様です」
「くだらん。なぜそのような報告をする意味がある。こちらには関係のないことだろう」
「皆が怯えております」
「なぜ怯える必要がある」
「地上に引き連れていった天使たちを利用し、驚くべき兵器を作り上げたと、皆が噂しております。勇者の持つ力は看過できるものではありません。有する魔力の限界量、そして何より、これまでの歴史でも数人しか現れなかった究極の魔法を使うことができるのです。しかもやつは、天界に対する反逆的な思想を持っている……」
「たしかに、やつが天界に来た理由を考えればな。私を恨んだところで、どうにもならないことなのだが」
初めは投げやりだった神も、今やメルエルの言葉に真剣に耳を傾けていた。
「問題は、魔王を倒した後です。そのまま天界に侵攻してこないとも限りません」
「まさか、そのようなことが……」
「勇者が魔王に手を出さず、力を蓄え続けていたはなぜか。それは魔王を超える存在、すなわち神に対し刃を向ける準備をしているに違いないのです」
「しかし……」
「やつを見過ごすことは! この世界を統べるものとして正しいことではありません!」
メルエルが恫喝とも思えるような大声で言った。神は一瞬身をすくませたが、神としてのプライドが、動揺を表に出すことを踏みとどまらせた。
メルエルの発言は無論全くのでたらめである。天使たちのほぼすべてが、地上のことなど気にすることはない。だがそれは神も同じだった。
「ふむ……そうかもしれんな」
「今こそ思いあがったあの勇者に、神の鉄槌を下すのです」
「私にどうせよというのだ」
「もちろん、神が直々に手を下す必要はありません。が、あそこまで力をつけた勇者には、我々の力をもってしても太刀打ちできるかどうか……ここはひとつ、禁断の呪法の解禁を」
「なぜお前がそのことを知っている!」
「天界をめぐっておりましたところ、世界の端に過去の遺産が奉られている神殿をを見つけ、そこでいくつかの書物を発見しました。すでに有志を集め、解析を進めております」
「私に黙ってよくもそんな真似が出来たものだ」
「罰を受ける覚悟はできております。ですが、これもすべて、我らが世界を守るため。天界を思ってこその勝手な行動でした。お許しください」
「ふむ、まあよい。それで、呪法とは、どのようなものなのだ。先代の神が、あまりに危険だということで封じたと聞いているが」
「我ら天界の住人の力を限界まで開放するものと推察しております」
「なるほど、それで、呪法を使うことにより起こりえる危険とはなんだ?」
「力の制御を誤れば、地上の魔物どものように暴れ狂い、やがて己の力により自壊することとなりましょう」
「そのような呪法を本気で使う気なのか……!?」
「迷っている場合ではございません。神にはお手を煩わせません。我々が独断で行動するのです。神はごゆっくりとここでお待ち下さい」
「うむ……しかし、お前たち天界の者をむやみに危険にさらすわけには……」
「私にすべてお任せ下さればよいのです」
低く、押さえつけるような声でメルエルが言った。それを了承することは、一時的であれ彼に天界の全権を委ねることとほぼ同義だった。
神は、長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。




