第二十章 天使の襲来
街を出る勇者は一人の男とすれ違った。
「おや、勇者様じゃないか。久々に来てみればまたずいぶんな恰好だね」
「ああ、先生じゃないか。お久しぶり」
荷物の積み込まれた馬車を引いた男ががそこにいた。かつて、勇者の計画に多大な貢献をした、あの元商人、ヒラルドだ。魔術師や兵士の訓練方法の理論を組み立てていくうち、彼は城で周りから先生と呼ばれていた。
「ついに決心がついたのかい」
人当たりの良いヒラルドは、顔をくしゃくしゃにして、うれしそうに言った。彼は勇者に敬語を使わない、数少ない人間の一人だった。
出会った当初は、あらん限りの丁寧な口調で、勇者を辟易とさせたものだったが、勇者自身が、彼に敬語をやめるように頼んだのだった。
数年ぶりの再開に、勇者の顔もほんのわずかばかりほころんだ。今日は懐かしい顔によく出会うものだと、勇者は考えた。
「まあ、そんなところだよ。それより、先生は今何を?」
勇者が聞いた。城を出た彼のその後が気になっていたものの誰も知っているものがいなかった。
「うん? 少し前まで旅をしたりしてたんだがね。またなにか新しいことをはじめようかと思ってね」
「充実した毎日を送っているみたいだ」
「いやいや、なにかに熱中してる時だけだよ。その後は、いつものことなんだが、抜け殻のようになってしまってね。勇者様のところに居た時が一番楽しかったよ。楽しすぎて、最近昔のことばかり考えてしまってね。どうもいけない。それで、旅に出ようと決めたんだ」
「ぼくは、あなたがうらやましい」
勇者がぼそりとつぶやいた。ヒラルドは驚くように彼を見た。
「ぼくは先生のように、人のために、力を尽くすことができない。いつだって、自分のことばかりだ」
「世界を救った勇者様がそんなことを言うなんてなあ。あれかい、周りの人間の言うことを気にしてるのかい。気にしてはいけないよ。そうやって、人を悪くいう人間ってのは、自分ではなにもせず、文句ばかり言うものだからね」
「ありがとう……そう言ってくれるのは、先生ぐらいだよ」
「おいおい! やめてくれよ。ああ、そうだ。旅立ちの餞別にこいつをやろう。荷物になるかも知れんが、私の育てた作物だ」
ヒラルドが馬車の幌をめくると、そこには大量の作物が積み込まれていた。
彼が城を出てまずやったことは、各地の村を回ることだった。馬車を引き連れ当てもなく旅を続け、たどり着いた村の子どもたちに読み書きや計算の方法などを教え、わずかばかりの食料を分けてもらいながら生活した。
旅の中で、彼が注目したのは各村々の特産品だった。それぞれの村で採れる作物は、村独自の育成方法で作られており、村を回る彼にとっての一番の楽しみとなっていた。
ヒラルドは実際に作物を作っている農家で、一時は住込みで働き、植物の育て方や収穫方法を学んだ。一度熱中したら、とことん突き詰めるのが彼の性格だった。作物をもっと美味しく、もっと効率的に作れないかと、育成方法の研究を始めた。作物の性質から、その地域ごとの水や土の質、天候の変化が作物に与える影響など、考えることは山のようにあった。
ある程度の理論が完成したところで、村人たちにノウハウを提供し、一緒に作物を育てて暮らした。それからは各地を転々として、各村々の農業技術の発展に力を注いでいた。
「実は今日こっちに来たのも、世話になったお礼をしようと思ってね。勇者様に渡したら、城のみんなにも配って回ることにするよ」
ヒラルドは馬車の中からパンと果物を取り出し、麻でできた袋に入れ、勇者に手渡そうとした。
「ありがたくいただくよ――」
勇者がその言葉と同時に手を伸ばした時、強い光が天から降り注いだ。
「ん? あれは?」
商人が眩しそうに空を見上げる。
勇者の背中に悪寒が走る。強大な魔力と殺気が周囲を満たしていた。
「ごめん! なるべく安全な場所に飛ばす!」
即座に勇者は呪文を唱え、ヒラルドに向けて移動魔法を発動した。
彼が消えた瞬間、空から光の束が勇者に向かって降り注いだ。勇者は間一髪でその光をかわしていた。ヒラルドの馬車は一瞬で消滅し、馬の体も跡形もなく消え去っていた。
雲を割って、翼の生えた巨大な人型の怪物が姿を現した。異常なほど隆起した筋肉と骨格が真っ白な表皮をつきださんばかりに張り出し、その巨体の数倍はあろうかという巨大な翼が、太陽の光を遮っていた。顔は体ほど肥大化しておらず、胸や肩の筋肉に埋まっているため、どのような顔をしているのかはわからない。
「よお、久しぶり。さすがに一撃とはいかなかったか」
勇者の頭の中に、どこかで聞いた声が響き渡った。それは、かつて天界で神のところまで勇者を案内した天使の声だった。その声があまりにも頭の中で反響を起こしたため、勇者の視界が歪んだ。
「ん? わるいわるい、まだ慣れていないもんでね。少し出力を落としてみたよ。どうだろうか。しかし、こっちの世界なんて何千年振りかねえ。実にいい気分だ」
「なぜ、お前が……しかも、その姿は……?」
大音量の衝撃から回復しないまま勇者がつぶやいた。とても聞こえるような距離ではなかったが、声は答える。
「世界に危機が迫った時に現れる奇跡ってやつさ。お前がやろうとしていることは、神だって完全に把握しちゃいないが、とにかく天界にとってまずいことなのは間違いないと判断してる。俺としちゃあどうだっていいんだが、ま、神様の言うとおりってね」
空間が歪み、天使の背後から同じ姿を持った怪物が次々と現れた。勇者は状況を把握する前に、身体強化魔法を自分にかけた。街には住民が大勢居た。彼らを巻き込むわけにはいかなかった。
空から視認できるよう木々に覆われていない道を選び走りだした。姿を見せ、相手を追ってこさせなければならなかったため、移動魔法を使うわけにはいかなかった。強化された脚力により土煙を巻き上げながら、驚異的なスピードで城から離れていった。
「ふうん、まだお前にも周りを巻き込まないなんていう、人の心が残っていたか。まあいいさ。その誘いに乗ってやろう」
天使は背後の怪物たち大群を引き連れ、勇者の後を追った。




