第十五章 魔王の城
一方、勇者の作りだした結界により、領地は極限まで狭められ、もはや拠点となる城内にしかその力を及ぼすことができなくなってしまった魔王は、一体なにを思っていたのか。彼は勇者によって戦わぬまま封じ込められた哀れな存在でしかなかったのだろうか。
勇者が着々と次なる計画を進めるなか、魔王は城内の広間にただ一人、玉座に座り、目を閉じたまま何かをつぶやいていた。
「なにも、なにもかわらんさ。くだらんよ。ただ、もしかすると、奴なら……いや、しかし……」
そのつぶやきは堂々巡りで、半ば意味を失っていた。しかし魔王は飽きもせず、囁くように延々とつぶやき続けていた。魔王のいる広間には、魔物を模したいくつもの石像が無作為に並んでおり、そのどれもが、苦しみの表情を浮かべ、あるものは倒れ、あるものは一部分が粉々に砕けていた。
それは、勇者が天界への道を探し初めてしばらくした頃のことだった。魔王直属の幹部たちは恐慌状態に陥っていた。世界各地の拠点を次々と破壊され、魔王の力による人間世界の支配への道が閉ざされようとしていたからだ。
城の外には依然として強大な力を持つ魔物が大勢いた。しかしそれは、森や地下、辺境の土地にある魔力の溜まり場や、精霊の影響による野生動物の変質の結果生まれた異形の魔物に過ぎず、魔王につき従う者たちではなかった。
世界を効率よく統治していくためには、人間を支配する意思と魔王に対する忠誠を可能にする知能と思考能力を持ち、他の魔物を扇動するエリートが必要だった。
幹部たちは焦り、そして怒りを募らせた。勇者にここまでこけにされ、王は一体何をしているのか。このまま勇者なぶり者にされ、無様に醜態を晒さなければならないのか。彼らの知能とプライドは、ただ死を待つことを許さなかった。
そして怒りは、幹部による反乱という形で噴出した。彼らは心のどこかで魔王を疑っていた。言い伝えられる歴代のどの魔王よりも、人間への憎しみが、支配への意志が、欠けているように思われたのだ。幹部たちはひそかに悩んだ。自分たちがこのように考えるのは恐れ多いことなのではないだろうか。
幹部たちは反乱をおこしながらも、心のどこかでは、魔王に罰してほしかった。強大な力を見せつけ、自分たちを従わせてほしかった。もしかしたら、自分たちの行動で、目を覚ましてくれるかもしれない。幹部たちが魔王にかなうわけがないということは分かっていた。
しかし現実は、幹部たちの思うようにはいかなかった。反乱は一瞬で鎮圧され、城内は静まり返り、物音ひとつしなくなった。全ての魔物たちは、魔王の力によって、なんの機会も与えられないまま石像に変えられてしまった。叱責も、弁解も、交渉も、なにも起こらず、一方的な粛清が行われただけだった。
そのようなことが起きた後にも、魔王はそれまでと全く変わらぬ平静を保っていた。彼にとって、自分以外のものなどどうでもよかった。魔王のルールに基づき目的を遂行する、ただそれだけだ。どちらにせよ、幹部クラスの力を持つものが束になってかかろうとも、今の勇者には傷一つつけることもできない。
魔王の今の望みは、勇者がこの場に現れてくれることだった。
「しかしまあ、楽しみと言ったらそれぐらいだ」
はじめ、勇者が天界を探し始めたと聞いた時、止めるべきかと悩んだ。幹部たちのいうように、こちらから総力戦を挑み、力をつける前に勇者をつぶすことも考えた。しかし、魔王は魔王としての絶対的なルールがある。
魔王は城から出ず、勇者を待たなくてはならない。
それは、神に与えられた役割と同じように魔王に課せられたルールだった。それを、幹部たちは理解できない。また、それを悟られてもならないというのが、魔王としてのルールだ。魔王は幹部たちを言葉を尽くして諌めたつもりだ。その結果が反乱であるというのなら、致し方ない。もっと別の方法もあったかもしれないが、今となってはもう遅い。
もともと、気まぐれで、自分の移し身を作り勇者の一行に手を出したのが間違いだった。魔王としては軽く遊んでやったつもりだったのだが、勇者のほかは跡形もなく消し去ってしまい、勇者の中にある「なにか」を目覚めさせてしまった。
あれから何年もの月日が過ぎた。たった一人となり、魔術によって、勇者の行動を監視しているうちに、魔王の心の中にも、ある考えが浮かび始めていた。魔王という役割に、意味などあっただろうか。自分は本当に、人間を支配したいのだろうか。
魔王として生を受け、準備に準備を重ね、魔王としての仕事を忠実にこなすために力を尽くしてきた。絶対的な支配とは、今となってはなんと馬鹿らしい言葉なのだろうか。そんなことをして領地を拡大し、その先に待つものは何なのだろうか。何度も自問自答を繰り返した魔王は、もはや勇者のやることを止めるつもりはなかった。
今魔王は、勇者のやることが楽しみでしょうがない。目的を完遂した先には、一体何が待っているのだろうか。ここまで時間をかけたのだ、私を殺すことよりもずっと、面白いことをやってくれるに違いない。
魔王は思案する。勇者は狂っているのか?
魔王が城で大人しくしていることに、勇者はおかしいと感じなかったのだろうか。諸国の国王たち、はたまた民衆たちは、魔王もまた、勇者を恐れていると考えていた。だが、そうではないことは、勇者が一番わかっているはずではないか。魔王の移し身によって、仲間を殺された勇者が、自身が強大な力を手に入れたとはいえ魔王を侮るとは考えにくい。
勇者は狂っていた。どの時点でかはわからない。仲間が死んだ時か、孤独の旅の中か、天界へ向かおうと決めた時か、神から真実を伝えられた時か。とにかく、勇者の心は壊れてしまっていたのだ。
だが、本当にそうだろうか?
「いや、そのことを考えるのはよそう。狂っていようがいまいが、楽しませてくれるのならそれでいいさ」
魔王は再びつぶやきに戻る。
いつか必ず、勇者は魔王のもとにやってきて、彼なりの決着のつけ方をするはずだ。
それまでは、なにもせずここにいよう。
「しかし、それだけではつまらないな。たまには、魔王らしいこともしておこうか」
ゆっくりと、しかし着実に、魔王の周囲の空間が大きく歪んだ。




