第十章 神との対話
神の在る神殿は天界のほぼ中央にあるという。天使の話は聞き流していたが、それだけは聞きとめていた。
あまりにも巨大な神殿の内部。荘厳ではあるが、華美な装飾は施されていない。歩いても歩いても、だれ一人いない、空虚な場所だった。いくつもの回廊を抜けると、天井が見えないほどの大広間にたどりついた。
「じゃあ、俺はここで」
勇者に背を向けた天使は大仰に翼を広げ、開放された窓から飛び立っていった。
広間の奥に、かつて感じたことのない力を感じた。これまでに一度たりとも触れたことのない強大な魔力の滞留。しかし、魔物を目の前にした時のような禍々しさはない。ただやさしく、大きな力の流れが、広間に漂っていた。
勇者が足を踏み出すことで、力の流れが僅かに止まった。白くもやがかかったように力が形を取ろうとゆるやかに動き始める。
視界が完全に白く染まり、地面と呼べるものすら不確かとなって、勇者は一瞬ためらったが、足元を確かめるようにして、歩を進めた。
白く輝くもやが、勇者が歩を進めるに従って、やがて1点に向かって緩やかに収束してゆく。勇者は態勢を低くし、吸い込まれそうになる体を押さえた。
もやは塊となり、人のかたちを作っていく。
一瞬、輝きが強くなり、風が吹き荒れる。目がくらんだ勇者が視界を取り戻すと、そこには、彼が何よりも望んだ神の姿がそこにあった。
眼前には威厳をたたえた存在が立っていた。
勇者は安心した。くだらないことをべらべらと喋る天使とは違って、神は信用に足る偉大さを持っているように思えた。
「勇者よ。なぜ私の前に現れた」
神は言う。その言葉だけで、勇者は圧倒され、体の芯が震えたような気がした。いや、確かに震えたのだ。
「私はあなたにお聞きしたいことがある」
しばらくして、ようやくその言葉が口から出た。たったそれだけのことだったが、勇者は大きな疲労を感じた。肉体的にも、精神的にも、感じたことのない圧力のようなものが、彼を襲った。
「ほう。言ってみるがいい。聞けば、ここまで辿り着くのに大きな犠牲を払ったそうではないか。それに見合う質問ならば、私のできる限りの範囲で答えよう」
「確かに私は大きな犠牲の上で、ここに立っています。しかし、その理由はひどく自分勝手なものです。ですが後悔はしていません。罰せられる覚悟でここに立っています」
勇者はそこで一拍置いた。それは、今まで生きてきた目標であり意味であった、神に問うことの重大さをかみしめているようだった。彼はそのために生きたのであり、どんな苦労も、犠牲も、大したことではなかった。
「では問う。神よ。なぜあなたは人間に魔王を倒させるなどということをさせているのか。神が直接、手を下せば何の問題もないではないか。そもそも、魔王の目的とは何なのか? 世界の征服? くだらない。そんなことは、すでに私が達成している。人間界を見てみるがいい、人を殺さずとも、魔法や兵器の技術力で、経済の力で、世界は簡単に征服できる。もちろん、私の力もあるが、それは魔王も同じことだ。私程度でもできることが、魔王にできぬはずもない。私が邪魔だというのなら、それは私が生まれることにできたはずだ。なぜだ! 神も、魔王も、なにをやろうとしているのだ。人間ごと気の生活に分け入って、何の利益を得るのだ」
神は勇者の言葉を聞き、しかし黙っていた。
「さあ、答えてもらおうか! 神の意味とは! 魔王が人間世界に介入する理由とは! いったい何なのだ。あなた方の争いのために、幾人もの犠牲が生まれたと思っているのだ。それを繰り返すことで、何の意味があるというのか!」
神は黙っている。
勇者は大きく息をつき、静かに神からの返答を待った。
「意味などない」
ようやく神から出た言葉は、勇者の予想をはるかに超えていた。
「は?」
「意味などない」
時間が止まった。勇者はそう感じた。これまでのことが、走馬灯のように頭をめぐった。
「意味がないだって!? どうしてそんなことをいうんだ!? じゃあぼくたちは何のために、命をかけた戦いを続けていたんだ!」
勇者は目の前の存在が、神であることも忘れ、口調もいつもの状態に戻っていた。
「まあ、落ち着け」
「落ち着くなんてできるか!!」
神は憐れむように勇者を見た。
「では、本当のところを話そう」
神は言った。
それから、長い時間をかけて、神は世界の真実を語った。世界の歴史をはるか原点までさかのぼり、勇者が何故必要であったかを語った。しかし勇者は、そのすべてを心にとどめておくことはできなかった。神から語られる真実が、あまりにも彼の心を揺るがせたからだ。
彼は黙って聞いていることしかできなかった。
「本来は、勇者に話すべきことではないかもしれん。だが、お前が正規の道筋をたどらずここにたどり着いたことに対して、私は何かしらの言葉を投げかけてやりたい。そう思ったのだ。これは気まぐれにすぎない」
神はそう前置きして、世界の仕組みを語った。
「お前が憎んでいる魔王だがな。やつが本当に人間を憎んで支配を目指しているかというとそうではない。全ては、世界の理に導かれた結果なのだ。魔王は人間を支配し、人間から生まれ出た勇者と戦う。それが世界の理であり、魔王はそれ以外の生き方ができないのだ」
神の話が、進むにつれて、勇者の顔は焦燥に包まれていく。これまで知りたかった謎の答えが、神からあっさり語られていく。彼は耳をふたぎたかった。そんなことを、知りたいわけではなかった。
「また、神とて全能ではない。我々もまた、世界の理によって存在を規定されている。神だからといって人間世界を思い通りにすることはできないし、魔王もまた同じだ。神として生きることはつまらないことだ。人間界を監視して、魔王の出現を感知する。そして人間界から一人、または幾人かの若者を選び、力を与える。これくらいの力しか備わっていないのだ。それこそ、はるか原始の時代には、神もそのような力を持っていたのだろうがな」
神への尊敬が、崩れていく。天界の住人もまた、人と同じように、なにかに縛られて生きているのだ。神が全能だという言い伝えは、人間が自分たちを守ってくれる強い存在を望んだ結果生まれた信仰にすぎなかったのだ。
「同じく世界の理によって生み出された歪みである魔王も、それほどの力を持っているわけではない。自分のできる限りの力で人間界を揺り動かし、しかし、できることはそれだけなのだ」
そう言って、神は勇者の反応を伺うように彼の目を見据えた。しかし、勇者はすでに平常心を失っていた。今まで信じてきたものが、ことごとく崩れていく。なにもかもが、わからなくなっていた。
「勇者よ。おまえは魔王になぜ世界を征服してしまわないのかと問う。しかしそんなことはできないのだ。世界の理によって許されてはいないのだ。魔王は世界を征服できない。だから時間をかける。どうせ滅ぼされてしまうのなら、楽しんでしまえというわけだ。魔王も、神も、そして人間も、理に縛られた悲しい存在なのかもしれん」
神はそこで言葉を切った。
勇者は茫然としていた。神の言葉が頭の中で処理できず漂っていた。言葉の意味としては理解できている。しかしそれは到底受け入れがたい事実だった。
勇者はそれから動かなかった。視線も定まらず、体も固まったように動かず、神はそれをじっと見つめていた。




