4話 それぞれの思惑
「弓月君、これ、次の人のですか?」
遊利は机の上に積まれた紙の束から一番上の一枚を拾い上げた。
ケーキを食べて若干気分が浮上したらしい。声のトーンも幾分か明るくなっている。
弓月は心底ほっとした。勿論顔には出さないが。
「ああ、それ昨日速達で届いたやつ」
ワープロの明朝体で書かれた【落界者 調査結果】という文書のタイトルの上に肉筆で
《朝比奈遊利様へ (・o・)ヨ(・д・)ロ(・ェ・)シ(・ε・)ク ∑d(・ω・*)ネッ! 》
と書かれている。
「…突っ込みませんよ」
「ダンさんももう年だから寂しいんだよ。構ってあげなって」
「だが断る」
朝比奈遊利―――遊利の本名だ―――とこの調査書の送り主である霧崎弾は旧知の仲で、弓月も随分世話になった人物だ。
外見は12・3歳の少年だが、齢は200を優に超えるらしい。弓月は眉唾だと思っているが、胡散臭いことには変わりない。
一応師弟関係な二人だが、弾は両親のいない遊利の保護者代わり的な存在だと弓月は認識していた。
遊利は何を狙ったんだか、と呟きながら書類に目を通す。
「望月早沙子、27歳。…また日本人ですか、珍しいですね」
「あ、でも《歪み》の発生場所はイタリアになってるよ。旅行中だったらしいね」
外国で落界。運がないにも程がある。
「保険会社勤務、ね。前の人よりはリア充みたいですねえ」
調査書には生年月日や住所・電話番号などの他に簡単な略歴・家族構成・交友関係まで記されている。
異世界に渡るには膨大な魔力と難解な魔法式の構成、マジックツールの準備のための多額の費用が必要だ。
だから、もし《落界者》が世界を渡ることのできるほどの魔力を持つ魔法師だったり、故意に歪みを利用して異世界へ渡ろうとした魔法師だったりしたら、遊利と弾が渡界に費やした時間と費用が無駄になってしまう。
《落界者》の身元調査はそれを避けるために行っているものだった。正体を隠して生活している魔法師も少なくないがゆえに、できるだけ詳細に、正確に。
「落界が12日前、か。今回は落界先の世界の割り出しがえらく早いですね」
「今回はダンさんが本気出したんじゃない?」
「いつも全力で取り組むべきです」
《落界者》を迎えに行く準備の中で最も時間と労力が注ぎこまれるのは、落界先の世界を割り出すことだ。
歪みは落界者を呑みこんだ後も暫くはそこに存在し続けるが、最長一週間程で世界律に消去されてしまう。
歪みは消去されてもそこにあった痕跡は残るが、歪みがどの世界に繋がっていたのかを割り出すのは非常に困難になる。
ただ一つの方法は、微かに残った魔法要素の残滓を解析、各世界の魔法要素の成分と照合すること。
これは“優秀”というレベルを遥かに凌駕した魔法学者にしかできない神業であり、そしてとんでもない虱潰し作業になる。実際中原元春の場合は落界先世界の割り出しに一カ月かかっていた。
「なら、こちらも急がなきゃですね。せっかく弾が頑張ってくれたんですし」
遊利は椅子から立ち上がった。
「あれ、もう行くの?」
「まさか。出発は明後日にします。二日間急ピッチで準備しますね。さすがに学校に行ってる暇はありません。弓月君、風邪をこじらせた、と学校に連絡を」
「駄目だよ、遊利さん休みなしじゃない。せめて今日明日は休んで、明後日から準備して」
「大丈夫ですよ、このくらい」
そう言って遊利は自室に消えた。
弓月は暫く閉まった遊利の部屋の扉を見つめていたが、諦めたようにはあ、と大げさなため息をついた。
こうなっては遊利は頑固なことを弓月は知っていたのだ。
***
「遊里の周りを嗅ぎまわっている奴がいる?」
「はい」
小学生のランドセルくらいありそうな厚さの本から目を上げたのは中学生くらいの外見の少年だ。
その見事な銀髪と、外見にそぐわない落ち着き払った雰囲気がどこかちぐはぐで異質な印象を与える。
少年の碧色の眼が捉えたのはスーツ姿の女性だった。長い青みがかった黒髪を一つにまとめた、黒縁眼鏡が似合う知的な雰囲気の女性だ。「美人秘書」という言葉が具現化したら、まさにこんな感じだろうか。
「彼女の周りにしばしばダークエルフの気配が感じられます。まあ、気配消しの技術から言って恐らく下っ端でしょう。まだ深刻になる段階ではないと思われます」
見た目を裏切らないやや冷めた声色で女性がそう告げると、少年は顎に手を当てた。
「消しますか?」
「いーや、それだと逆に怪しまれるだろ。泳がせておけ。そんなやつに遊利が遅れをとるわけないしな。まあ本人が気づいて消す分には問題ないが」
少年は暫く何か考えているような様子を見せたが、やがてひとつ大きな伸びをして息をついた。
「ま、暫くは現状維持っつーことで。まあ、様子見の頻度を増やす位は考えるか…」
「……」
「…お前の言いたいことは分かるよ」
女性の微妙な視線に気づいた少年は、ふっと困ったように笑って言った。
「確かに様子見なんて回りくどいことしないで遊利を眼の届くとこにずっと縛りつけとく方が確実だ。でもな、あいつは自分の力の使い方を自分で決めたんだ。それに俺らが口を出すことなんかできないさ」
「私はキリサキの采配に従うだけです。文句などありません」
澄まして言い放った女性に、少年は苦笑する。
しかし次の瞬間、その碧の眼がスッと細められ、剣呑な光が宿った。
「でももし万が一、遊利が《ユグドラシル》の敵になるようなことがあれば…」
温度が数度下がったのかと思うほど、部屋の空気がガラリと変わった。
自分に向けられた殺気ではないと分かっていても、女性は顔の強張りを抑えることが出来なかった。
世界でも十指に入ると言われる大魔法師・霧崎弾の殺気にあてられて平然としていられる者は世界に一体何人いるのだろうか。女性の背中を冷たい汗が流れる。
「ま、ないかそんなこと」
弾はニコリと笑ってそういった。同時に剣呑な空気も霧散する。
しかし弾が元の調子に戻っても、女性は自分の足の震えを自覚していた。
「じゃあそんな感じでヨロシクな。あ、絶対気取られるなよ。隠れて様子見てるって知ったらアイツ多分ブチ切れる気がする」
「分かりました」
「あ、そうそう言い忘れてたけど」
一礼し、くるりと背を向けた女性に弾はもう一度声をかけた。
「弓月が遊利に手ェ出そうとしてたら焼いとけ」
弾の目線はすでに先ほどの分厚い本に注がれていたが、女性は先ほどの殺気を思い出し軽く戦慄した。
これでプロローグ的な何かが終了です。
次の話から雰囲気が変わります。
2011/11/13 改稿