3話 不都合な真実
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15畳のワンルームマンションの一室にインターホンの音が鳴り響いた。
手頃な家賃の割にセキュリティのしっかりしているこのマンションに、訪問販売の類がやってくることはない。
そして滅多に来客もないこの部屋のインターホンが鳴るということは、即ちこの部屋の主の帰宅を表すものだった。
この部屋の住人の一人である青年は、掃除の手を止めてインターホンへと向かった。
「はい」
『私です。ただいま帰りました』
見慣れた黒髪の少女―――短めのボブカットに中性的な顔立ちで少年と間違われることも少なくないが、少女にしても少年にしても、その頭に“美”がつくことは間違い――――がモニターに映し出されたのを確認して、青年はエントランスのオートロックを解錠した。
青年の癖のない亜麻色の髪と藍色の瞳は、彼が日本人でないことを容易に想像させる。
加えての整った顔立ちで、青年がこのあたりでちょっとした有名人であることを、本人は知らない。
青年は玄関に向かい、ドアを開けた。するとそこには、今まさにドア前のインターホンを押そうとしていた先ほどの少女がいた。
「…弓月君」
「お帰りなさい、遊利さん」
弓月と呼ばれた青年は、少女ににっこりとほほ笑みかけた。
少女―――遊利はセーラー服に身を包み、学校指定のかばんを手に持っている。
それだけ見れば学校帰りのように見えるが、異質なのは脇に抱えている真っ黒な布の塊だ。かなり厚手な布のようで、相当かさばっている。
弓月は持つよ、と遊利から半ばひったくるようにして荷物を受け取ると部屋に戻った。遊利もそれに続く。
この部屋の住人は弓月と遊利の二人で、実際の家主は遊利で弓月の立場は同居人なのだが、家を空けることが多い遊利より弓月のほうがこの空間に馴染んでいて、彼がこの部屋の主人に見える。
遊利は部屋に置かれた一番大きな机の椅子に腰かけた。俗に言う社長椅子をクラシックなデザインしたような椅子だ。これも弓月の趣味である。
「何か変わったことはありましたか」
「特にないよ。平和だったな」
「…そうですか」
そう言ったきり遊利は暫く黙りこんだ。小さなため息を吐いた後、再び口を開く。
「弓月君。コーヒー貰えますか」
弓月はおや、と思う。同居が始まって2年、遊利は荒れているときにコーヒーを飲みたがるということは学習済みだ。彼女は普段紅茶派なのだ。
遊利は社長椅子の上で体育座りをしている。もともと小柄な彼女にはごつ過ぎる椅子なのでその体は椅子にすっぽり収まる。それも機嫌が悪い時の彼女のポジションなのだ。
「お疲れみたいだね?」
できるだけさりげなく、弓月は探りをいれることにした。もちろんコーヒーを淹れながら。
「…………疲れました」
遊利は膝に顔をうずめたまま言った。
「何かあった?」
「………」
遊利が帰宅したときに機嫌が悪いことは珍しいことではない。弓月はこういう時、彼女の不満を吐き出させるのは自分の役目だと思っていた。
「今回のヒトは向こうへ残ったんだよね?」
「……八つ当たられました」
「八つ当たり」
弓月は遊利の言葉を繰り返す。その心は?の意味を込めて。
「こっちの世界を切り捨てる罪悪感を、全部私への怒りにしてぶつけてきました。私はサンドバッグじゃないってんですよ」
今回遊利が迎えに行った落界者は、23歳(当時)の日本人男性だった。
弓月は淹れたてのコーヒーを遊利の前に置くと、机の上にあったB6の紙を拾いあげた。【落界者 調査結果】と書かれた用紙である。
中原元春。出身地は北海道。公立高校を卒業後地元の私立大学に進学、中退して就職のために上京した。はじめて勤めた菓子メーカーも半年ほどで辞めると、そこからはアルバイトと日雇い派遣で食いつなぐ生活を送っていた。ギリギリフリーター、下手をすればニート。親戚からは厄介者扱い、父親は要介護。奨学金未完済、消費者金融に借金あり。当然のように恋人なし。
これなら戻ってきたくない気持ちも分かるねぇ、と弓月は一人ごちた。
「その人、今更戻ってもアパートは強制撤去されてるわ家族に説明できねえわ仕事はねぇわで手遅れだろ、てめえがちんたらしてるせいだよ!とか言ってましたけど、私、仕事がねぇのはもともとだろと言いたいのをグッとこらえました」
「……遊利さん」
「何か?」
「教えてないの」
「……必要ないでしょう」
遊利は弓月がぼかした主語を正確に把握したようだった。
「言ってやればよかったんだよ。こっちの世界ではあなたが失踪してから一ヶ月しか経ってません、って」
そうなのだ。この世界、《ミッドガルド》は、他の世界と時間軸がズレている。
一般にそれぞれの世界は、どんなに環境が違っても時間軸には大きなずれはない。
それが世界が自身の存在を保つための条件であると現代魔法学は判断しているが、《ミッドガルド》だけは例外で、他の世界の時間軸に比べると時の流れは1/10ほどと圧倒的に遅い。
故にほかの世界の人間が地球にしばらく滞在した後に帰郷すると、だいたい浦島太郎状態になる。
その謎の解明は現代魔法学の命題となっているが、それが《ミッドガルド》の世界律なのだ、という身も蓋もない定義の方向で収束しつつある。
少女は小さくため息をついた。
「教えたところで彼は戻ってこなかったでしょう。たかだか一年ぽっち離れただけでこの世界に戻らない判断を下したんですから」
「遊利さん」
弓月は幾分か強い口調で遊利を呼んだ。それまで顔を伏せていた遊利はゆるゆると顔を上げる。
弓月の藍色の瞳が、遊利の黒い瞳をとらえた。
「教えたら、その人のもとの世界を切り捨てる罪悪感を増長させると思ったんだね。だからわざわざ『もとの世界に帰ることができないから、仕方なくこの世界に留まる』っていう逃げ道を作ってあげたんだよね?」
「…………」
沈黙は肯定だった。
遊利は、落界者のバックボーンを知って、異世界に留まった方が彼にとって幸せだと判断した。
そして時間軸のずれという情報を伏せることで落界者が異世界に留まる選択をするよう誘導したのだ。彼の理不尽な非難を甘んじて受けてまで。
「でも遊利さん、」
「わかってます!」
遊利も語調を荒げる。
「…今回は私が間違えました。軽率でした」
異世界に留まった方が中原元春にとって幸せである、と判断したのは遊利のエゴだ。
彼女の役目はあくまで落界者自身に“選択させる”こと。遊利自身が落界者の選択に介入してしまっては意味がない。
今回の遊利の行動は“選択させる者”としての立場を大きく超えたものだった。
「…もうこんな失敗はしません」
遊利も、もともとこんなことをするつもりではなかった。しかし彼の日本での立場を知った上で、異世界にいる彼の幸せそうな様子を見た時、彼女の心に迷いが生まれてしまったのだ。
優しすぎる。これがこの少女の長所で短所。
遊利が落ち込んでいた本当の理由を理解した弓月は、俯く遊利の頭の上にポンと手を置いた。
「そういえばシャロンテールの新作ケーキを買ってきてたんだよ。食べる?」
「……食べる」
遊利はようやく顔を上げたが、笑顔を見せることはなかった。
2011/11/13 改稿