21話 虎穴
なぜ。どうして。
疑問が頭を支配する。
あり得ない、訳じゃない。
歪みは、いつどこで発生する未解明である。だから、ここ明奏館学園の部室棟、倉庫の裏に発生する可能性も0ではない。
でも、その可能性がいかに低いかは、語るまでもないだろう。
ここ最近日本人の落界者が続いたこと、そして、遊利が通う明奏館学園に歪みが出現したこと。ただの偶然で片付けるには、あまりに出来過ぎていた。
ぐらりと視界が揺れた気がした。
バランスを失いかけた体を、足に力を入れて支える。そう、呆けてはいられないのだ。
深呼吸して精神を落ち着け、瞬時に周囲の気配をさぐる。怪しげな気配は感じられない。
歪みは、バチバチと黒い電流のようなものを放電させながら、脈打つように数センチ幅で拡大と収縮を繰り返していた。
少し見ただけで分かるほどに、世界律の干渉が強い。この速度なら、本日中この歪みは修復され、跡形もなくなるだろう。
警戒を解かないまま、遊利はポケットから携帯を出して、通話履歴を呼びだす。
目的の人物に電話をかけると、相手は3コールほどで出た。
『もしもし?』
「緊急事態です」
『遊利さん?どしたの?』
「緊 急 事 態なんです」
『…ものすごい焦ってるのは分かったから、順を追って説明してくれないかな?』
弓月の困惑した声が、通話口から聞こえてきた。
『…罠だね』
「ですよね」
弓月の冷静な見解に、遊利は同意する。
早沙子の時は歪みの発生場所はイタリアだったが、中原元春の時といい、こんなに日本に歪みが集中するのは珍しい。遊利の行動範囲内でまた新しい歪みが発生したということには、何者かの作為を感じずには居られなかった。
『もしかしたら《宝珠》と関係あるかもね。今、周りとか大丈夫なの?』
「ええ。不審な人物が潜んでる気配はしません」
そっか、と安心したように息を吐く弓月。最近は失態続きだが、遊利の索敵能力は本来ならばかなりの精度を持っている。弓月はそれを信用していた。
『じゃあ、とりあえず修復できそうなら修復しちゃえば?無理そうならダンさんに連絡して―――』
「それが、そうもいかないのです」
遊利の視線の先には、靴が片方転がっていた。
歪みから50センチほど離れた位置に、男物の、黒いスニーカーが落ちていたのだ。人気スポーツメーカーの最新デザイン。ごつめのシルエットが特徴だ。
そのことを説明すると、弓月は深刻そうな声色でいう。
『じゃあ、誰かが巻き込まれた可能性があるってこと?』
「はい。まあ、これを含めて罠である可能性も否定できませんが―――」
状態を見るに、この歪みは今日中に、早ければあと数時間で消失してしまうだろう。
そうなればまた弾に調査を頼んで、落界先の世界を特定する作業が必要になる。それには早くて一カ月、長ければ数年の時間を必要とする。
もし本当に誰かが巻き込まれていた場合には、大きな時間のロスとなることは分かり切っていた。
「弓月君。私――――」
『…行くの?』
弓月に先回りされて一瞬沈黙したが、遊利ははっきりとはい、と言った。
はぁ、とため息を吐く気配が電話口から伝わってきた。正直、落界先の世界が分からない状態で歪みに飛び込むのは危険極まりない。
しかし、もし落界先の世界が危険だったとしても、今なら落界者を助けられるかもしれない。その希望を捨てられるほどに遊利は大人ではなかった。
『…分かったよ。でも僕も行くからね』
「それには及びませんよ。私一人で」
『あのねえ遊利さん。危険なのは分かり切ってるし、僕はホントは反対なの。でも遊利さんが一回決めたことは梃子でも動かないのを知ってるから、最大限の譲歩をしてあげてるの。わかる?』
「弓月く」
『それに遊利さん、前科もちだしね?』
う、と言葉に詰まる遊利。彼女の左掌の包帯はまだ取れていなかった。
先ほどマリに「そこどうしたの?」と聞かれた時もぶつけました、と適当にごまかしていたのだ。
『僕も一緒に行く。異論はないよね?』
「…はい」
強い調子でそう言われ、遊利はしぶしぶ返事をする。弓月は少しでも危険のある行動をいちいち咎めるので、動きづらくなるな…と心の中で愚痴を言った。
「なるべく早く着てください。あんまり時間はないと――――って」
『うん、もう学校ついた』
遊利の索敵範囲に弓月の気配を察知した遊利は閉口する。電話をとった直後からこっちに向かっていたのだろう。過保護―――弓月に聞こえないように口だけを動かしてそう言った。
「いいんですか、荷物の準備とかしなくても」
『渡界では物資は現地調達が基本でしょ?あんまり外界の物を持ち込むべきじゃない』
「…。もう、切りますね」
終始弓月ペースだったことへの意趣返しか、遊利は弓月の返答を待たずに通話を切った。
どちらにしろ後1分もしないうちに弓月はここへやってくるのだ。咎められる謂れもない。
遊利は脈打つ歪みを睨みつける。やはり、不自然だ。通常の歪みよりも世界律の干渉が強い気がする。 遊利も直接歪みを見たことはそんなに多くないが、修復スピードが速いのは気のせいじゃないと思う。もしかしたら、この歪みは、誰かによってこじ開けられたものかも―――
「お待たせ」
振りかえると、息を切らした弓月が笑顔で立っていた。
「…偉く早いですね」
多少の皮肉をこめて遊利がそう言うと、弓月はたまたま近くにいたんだ、と嘯いた。
しかし、歪みを認めた弓月の表情は険しくなる。
「…ホントに行くの?」
「愚問ですね」
「もー。ほんっとに危ないことはやめてよね」
「善処します」
納得してなさそうな弓月を置いておいて、遊利は歪みに向き直る。
「ダンさんに連絡しなくていいの?」
「メールでも入れときます。うるさそうなんで」
うるさいのは弓月君だけで充分です、と呟いた遊利の声は果たして弓月に届いただろうか。
遊利は目を閉じて歪み修復のための魔法式を組み立てる。二人が歪みに入った直後に修復が開始されるように設定を付けて、歪みの真下に陣を固定した。
自分に軽く‘酔い止め’のための保護魔法をかけた遊利は、弓月を振り返って笑顔で言った。
「弓月君に‘酔い止め’はかけれませんから。気合いで乗り切ってください」
「…わかってるよ」
やや特異体質である弓月には、保護魔法の類は効果を表さない。
遊利のいい笑顔は、小姑全開な弓月に対する小さないやがらせだ。
遊利は落ちたままだった黒いスニーカーを拾い上げる。
「さて、シンデレラさんを探しに行きますか」
二人分の人影が、黒い球体に吸い込まれた。
日付が変わる前に更新しようと思ったら…このザマです。
これで2章のプロローグ的なものが終わりです。
次回新キャラがわさっと出ます。