2話 《落界者》
《落界者》、と少年は言った。
どうやらこの世(この表現もなんか微妙らしいんだが)にはいくつもの世界が同時に存在しているらしい。
ある世界は剣と魔法のファンタジーワールドであったり、ある世界はタイムトラベルが可能なほど遥かに発達した超科学文明をもっていたり、ある世界はようやく二足歩行の生物が火をおこし始めたところだったり。
俺たちが住んでいた地球も、そんな世界の一つ、いや、厳密にいえば一部らしいのだ。俺たちの世界は、《ミッドガルド》と呼ばれているらしい。
「地球人がいうところの銀河系をはるかに超えた領域までが《世界》という単位なんです。よくある“世界の果て”なんて表現は本当に途方もない話なんですよ?」
人間の存在なんてちっぽけなものですよねえ、とユリウス少年は芝居がかった口調で付け足した。
ともあれ、その個々の世界は、《世界律》なんてものをそれぞれ持っているらしい。
《世界律》は魔法学のテクニカルターム、即ち専門用語で、日本語に直訳すると「真理」や「摂理」に当たるそうだ。そんな名前の宗教団体があったなあ…。
世界はその世界律を基盤にして存在している。
しかし、その世界律にも時々、律からはみ出した《歪み》ができてしまうのだ。いきなりコンピューターにバグが発生するように、どんなに精密な機械でもいつかは故障してしまうように。
世界はその《歪み》が発生し次第、消去もしくはその歪みを正してもとの世界律に取り込みなおすのだという。そうやって世界は存在を保ち続ける。
俺の説明が要領を得ないのは、俺自身が訳分かっていないからだ。けして作者の説明力不足というわけではありません。はいメタ発言自重。
「…もうここらでさすがの俺でも繋がったよ。そゆことね。俺が遭遇したあの黒い球体はその世界の《歪み》とやらだったわけね」
半ば投げやりな俺の言葉にユリウス少年は首肯した。
「そうやって《歪み》に巻き込まれて、世界を渡ってしまった人は《落界者》と呼ばれます。《歪み》は世界の境界にできた“落とし穴”のようなものですから、それに取り込まれてしまえば異世界へ飛ばされる、っていうのは道理ですけど―――」
そこで俺の中の何かがプッツンと音を立てて切れた。
「…何が道理なんだよ」
確実にトーンが下がった俺の声にユリウス少年は言葉を止めた。
「ただの一般市民の俺が、何の前触れもなく、いきなり言葉も通じない、魔法なんてものが存在する異世界へすっ飛ばされたのが道理だと?今まで培ってきた常識や知識が一切通じない世界に放り出されたことが?家族や友達に二度と会えないことが?マンガの続きを一生読めないことが?日本食を未来永劫食べられないことが!?道理どころか理不尽の極みじゃねえか。頭沸いてんじゃねえのか。だいたいあんた何なんだよ。さっきからニヤニヤしやがって。日本語喋ってるってことは少なくとも地球人なんだろ?わざわざそれを解説するためにこのファンタジーワールドに来たっていうのかよ。それとも何か?俺が日本に帰りたいって言えばちちんぷいぷいで帰してくれんのk「帰れますよ」
ユリウス少年は俺の怒りの言葉を今までと変わらない調子で遮った。
「……何?」
「だから、帰れるんです。あなたが望めばね。僕はそのために来たんですよ」
少年の口は相変わらず笑みの形に歪められている。それが、俺の神経を逆なでした。
「っふざけんな!!今更何なんだよ!!もう一年以上たってんだぞ!!今日本に帰ったって仕事はないわ、行方不明の家出人扱いだわ、家だって電気と水道止められてるどころじゃなくアパートの家賃滞納で強制撤去されてるわ!家族友人に今更帰ったところで一年以上何してたって言えばいいんだよ!!異世界にトリップしてましたなんて言ったら最後、檻のついた病院に入れられんぞ!!来るならもっと早く来ないと意味ねえだろうが!!」
「僕も最善を尽くしたんですよ?世界を渡るにはすっごく時間のかかる準備が必要ですし、ものすごくお金もかかるんです。まず落界者の存在の確認、落下座標世界の特定。渡界のための魔法式の計算、魔法のための材料の調達、渡界後は落界者を探して接触しなければなりませんし。ざっと挙げただけでこの工程です。これを考えると中原さんは運のいいほうなんですよ?僕が迎えに行ったのは落界後10年なんて人もいるし」
いちいち少年の口調は俺の怒りに油を注ぐ。俺は人生で一番、激昂していた。
「運いいわけあるか!!なんで俺がこんな目に遭わなきゃなんないんだよ!!」
「世界が存在する以上、《歪み》が発生するのは仕方がないことなんです。どのような条件で発生するものなのかも分かっていません。発生する場所も変則的ですし。たまたま発生した場所・時間に中原さんが居合わせて、接触してしまったのは、もう不幸な事故としか言いようがないです。いきなり車に撥ねられたみたいなものですよ」
……不幸な事故だと?
その言葉と未だに笑みを顔に張り付けるユリウス少年の態度に、俺の沸点は限界点を突破した。
「こ……の野郎ッッッ!!!!!!」
「ハル!?」
少年の胸倉を掴み、殴りかかろうと拳を振りあげた俺を止めたのは、聞き慣れた声だった。
反射的に声のしたほうに視線を向けると、そこには息を切らしながらも驚いた表情のカリナがいた。俺の怒声を聞いて駆けつけたらしい。
「一週間後にまた来ます。それまでに答えを出しておいてください。残るか、帰るか、ね」
突然のカリナの登場に一瞬フリーズしてしまった俺の隙を逃さずユリウス少年はそう言い残すと、文字通り、煙のように、消えた。
少年の胸倉を掴んでいたはずの俺の左手には、もはや何の感触も残っていなかった。
2011/11/13 改稿