あおむらさきの語らい
しばらく紅茶店には行かなかった。
新しく本を執筆することにしたからだ。
…といっても、書き溜めていたものがあったので、それを編集するだけで、主な作業は大体終わりだ。
「今までのも、いまだ売れ行き好調ですよ」
編集担当の人に言ってもらえてほっとする。最終確認も済み、あとは全て彼女に任せておけば、無事出版となる…はずだ。
「じゃあ、あとはよろしくお願いします」
深く頭を下げると、彼女も慌ててお辞儀を返してくれた。頭を上げるとニコニコと両手を振られる。
「いいえ!こちらこそ、また、よろしくお願いしますね。在家先生」
もう一度軽くお辞儀をして、事務所の扉を閉めた。
階段を降りながら、フードを目深にかぶり直す。
降り切った所で、ふと紅茶店に思いを馳せた。みんな元気だろうか。まだ友達じゃない柏杜さんは。私の唯一の、三人の友達は。
瑪瑙とは、あの日の朝、店頭で入れ違いに会ったきりだ。
あの日、店につくと同時に、瑪瑙が店から出てきた。
以下回想。
「あら、おはよう。三篠ちゃん」
にこにこと声を掛けてくれた彼女の顔色は良くなかった。
「おはようございます。…お出かけですか?」
「ええ。自分の店とはいえ、やっぱり出勤はしないとね。しかもさっき電話で呼ばれちゃって、急がないといけないの。…あら、そのスカート早速着てくれて嬉しいわ。昨日よりもっと素敵ね」
昨日二着目のスカートを戴いたので早速身に着けてきた。今日はスカートに合わせて、上も比較的可愛いのを選んできたつもりだったから、そう言われると照れるとともに嬉しい。もちろんフードは外せないが。
「ありがとうございます。…そういえば、瑪瑙さんのお店って、何屋さんなんですか?」
瑪瑙は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに元の優しい笑顔に戻った。
「洋装屋よ。あたしがデザインした服を売っているの。…だから」
す、と長くて細い指で、私が着ているスカートを指す。
「それも、私がデザインしたのよ。今度店に来てね。もっと良いの、見繕ってあげるから」
洋服を売るだけじゃない。そのひとに合った洋服をデザインをするのが主な店なのよ、と瑪瑙は自慢げに微笑んだ。少し頬に赤みが差してきた気もするが、依然肌は青白く、健康そうにはあまりみえなかった。
「顔色が優れないようですけど、大丈夫ですか?」
心配になって尋ねると、困ったような笑顔を返された。
「朝はいつもこうなの。すぐに良くなるわ。…最近ちょっと疲れちゃったみたいで治りが遅いだけ…」
休んだ方が良いのではと何度か勧めたが、ありがとう大丈夫と笑顔で受け流されてしまった。
「そうだ、それより…」
そのまま話の流れを変えられる。
「カウンターの奥に扉があるから、二階に上がっていてくれない?そこで、柏杜が寝てるから」
それを聞いて私は首を傾げる。
「いいんですか?いかにも嫌がりそうですけど」
瑪瑙は苦笑をこぼす。
「あなたが思ってるほど、あの子はあなたを嫌ってないわ。大丈夫。それに、何より寝起きのあの子には誰かがついててあげた方が良いの」
表情が曇る。
「ここニ、三日止まって、悪化してるって分かったから…」
「悪化…?柏杜さん、どこか悪いんですか?」
不安になって訊くと、瑪瑙は顎に人差し指をあてて、少し考えるような仕草をした。
「病気とかではないんだけど…。どこが悪いかと聞かれると…。夢見が悪い…?そうねえ…」
ぶつぶつしていたかとおもうと、ぱっと、思いついたように私を見た。
「寝起きが悪いの」
「…」
それからお茶のある場所、タオルのある場所などを次々と教えられた。時計を確認して、焦るでもなく「急がなきゃ」と言った瑪瑙と別れ、お言葉に甘えて、居住空間にあがらせてもらうことにした。
階段の半ば程で異変に気がついた。
荒い息遣いが聞こえる。
音をたてないように急いで駆け上がると、柏杜さんがうなされていた。尋常ではない汗が出ている。
「は、柏杜さん…!」
あわてて駆け寄って側に腰を下ろした。身悶えるように、体を右へ左へと反転させている。
「…うぅ…あああ…」
何か、言葉にならない声を出している。
「柏杜さん!」
「…血、ち、が……ぁ」
夢見が悪いとか、そういうレベルじゃない。
血…?
起こそうと、肩に手を伸ばすと
がっ
思い切り手を掴まれた。
「…っつ…」
ぎりぎりと握りしめられて、骨が軋む。
それでも柏杜さんは目を覚ます様子はなく、うなされ続けている。
「あ、あかい…血…。…お、れは…」
「柏杜さん、柏杜さん!起きて下さい!柏杜さん!」
何度も呼びかけると、次第に反応を示し始めた。体の動きも小さくなっていく。
「…ぅ…あ…」
「はく…っ」
突然、柏杜さんは飛び起きた。
ぼんやりしながら歩いていると、目の前を車が通り過ぎた。
びっくりして顔を上げると、今にも赤信号の横断歩道に足を踏み出すところだった。
危ない…。
大人しく信号が変わるのを待つ。
信号を渡り終え、近道するため公園を抜けて駅に向かおうとすると…
「あ」
公園の自販機の前に、見覚えのある紫頭が見えた。
ピッ
ガシャン
飲み物を取り出して振り返った所で、目があった。
「あ」
同じ反応を返された。
公園に設置されたベンチに、智者と二人で腰かけている。駅近くの割には人気もなく、のどかだ。
「自販機でコーヒーとか、意外と庶民的な…」
「…的もなにも庶民なんだけど。時間なかったからこれは朝飯代わりなの。…てかお前の中でどんなイメージなんだおれは」
本当は特にイメージを持っていたわけではなかったが、私が智者の中でストーカーイメージで定着しているので、私も智者に勝手なイメージを持つことにした。
「グルメ」
「なんで…」
「グルメ成金イメージ」
「だからなんでだよ!…嫌なイメージを加えたいがためだけに“成金”つけただろうお前!!」
その怒鳴り声で思いだしたが、そういえば前回は、智者が怒ったままで別れてしまっていた。何が気に触れたかは今でも分からない。けれど、どうやらその事を引きずってはいないようだ。
「…そういえば随分顔見なかったな。もう柏杜は諦めたのか」
ふふん、と嬉しそうに鼻を鳴らす智者。見下すその顔を、半目で睨み返す。
「違うよ。久しぶりに仕事してたから」
「…」
仕事してたんだ…とでも言いたげな、驚いた顔で見られた。
「智者は?仕事中?」
昼休憩には早い時間だ。…もっとも具体的な智者の仕事内容を私は知らない。病院に務める医者なら、あんなに長時間店に入り浸ることなどないはずだ。
「そう。仕事中。今からかかりつけのお宅に定期往診に行くとこ」
決まった場所を持って病人を待つのではなく、家のかかりつけになって、電話が来たらそこに出向くらしい。
アメリカンだ。
いつも持ち歩いている、大きな黒いカバンには医療道具がびっしり入ってるということか。
「冥令は薬剤師だから、薬は冥令に任せてるの」
あいつも医者だったんだけど、サポートのが楽とか言ってこうなったの。と、コーヒーを一口飲んだ。
「へー。智者のくせになんかすごいんだねー」
「感情がこもってねえ!当たり前のように“くせに”をつけるな!」
そうだ、とこれを機に、問いただしてみることにした。
「…智者って褒められると切れるタイプなの?」
いきなりの質問に、顔をしかめる。
「はあ?…なんだいきなり。…いや、どっちかというと冷めるかな」
律義に答えた。
正面を向く。
「最初は褒められるのが嬉しかったけど。でも、同じ事何度も言われるとうんざりしてくるから、高校ぐらいからなんも感じなくなったな」
「褒められ慣れてるって自慢かそれは」
挑発するような言い方をしたが、どこ吹く風とコーヒーを飲んでいる。本心らしい。
「言われ慣れてない褒め方をされればそりゃ照れるし、嬉しいけど。…なんでそんなこと訊くんだ」
缶コーヒーを口から離すと、整った眉をひそませてこちらを見た。
「この前柏杜さんの店で…」
僅かに顔を智者の方へ向け、ゆっくり見つめ返した。座高が違うので、若干上目遣いになる。
「智者が怒って黙ったまま別れたから、気になって」
顔を覗き込むと、背けられた。なんだか状況があの時と似ている。
「なんで怒ったのか原因がわからなくて…って、智者顔赤いけど大丈夫?」
「うるさい。…っち見るな!…ってねぇよ」
語尾が小さくなっていったので聞き取れなかった。顔が向こうを向いているので、唇も表情も読めない。
振り向かせようと、智者の肩に手を置く。
「え、聞こえなかった。なにって?」
肩に置いた手をはじかれたが、今度ははっきりと答えてくれた。
「…怒ってねえっつったの」
「なんだ、良かった」
気のせいだったようだ。きっと光の具合で顔が赤く見えただけだろう。智者が突然黙るのは今更だし、よくあることだ。
ぐいっとコーヒーを全て飲みほし、ようやくこちらを向いた。随分不機嫌そうだ。
いつもの顔だ。
そしてしばらく、眼鏡越しにじっとこちらを見ていたが、空の缶を持っていない方の手で、いきなり私の頭に手を伸ばした。
「…なに…」
思わず身を引く。智者は無言のままだ。
手が頭に触れる。
がっ
フードを掴む。
ばっ
フードをとる。
「…なっ!」
異質な髪の毛が露わになってしまう。慌てて元に戻そうとするが、フードが抑えられたままなのでどうしようもない。智者の手を両手で掴み、外そうともがくが、握りしめている拳が固くて歯が立たない。
抵抗する力を弱めたところで、智者が口を開いた。
「良い事を教えてやる」
手をフードから放し、私の両手をすり抜けて、膝の上に戻した。
「柏杜は、自信なさそうにしている奴が一番嫌いなんだ」
…どく
胸を突く言葉だ。
私もフードから手を離す。涼しい風が、髪をさらった。
「お前は中途半端なんだ」
はあ、と息をついて、智者は前かがみになり、両手を合わせた。
「見られるのが嫌なら黒髪に染めるか。染めるのが嫌ならいっそ晒すか。どっちかにしろ」
紫色の頭髪が、日の光を受けてさらさらと光った。
日本人ではないという証明のようなこの容姿が、人を遠ざけてしまう。
一方で、この髪もこの瞳もこの肌も、祖母から譲り受けた大切なものだ。祖母も自分も否定したくない。
だから生まれ持ったものはそのままに、目立たないよう隠してきた。
でもそれは矛盾だったのかもしれない。
いいわけだったのかもしれない。
寄ってきてくれる人が全くいなかったわけではなかった。彼らが離れて行ったのは、ひとえに私自身のせいだ。自分だけを気にかけて、相手を考えない事ばかり言ってきた。
自分の気持ちを言葉にすることが大事だと教わったが、だからといって、なんでも口にしていいわけではないという事に、独りになってやっと気付いた。
加えて、人目を気にする自意識過剰さ。一挙手一投足に怯える被害妄想の強さ。
見て見ぬ振りして、心のどこかに積っていた。
淀んだ気持ちが渦巻いていた。
自分が分かっていればそれでいいと思っていた。
だけど。
わかっていたつもりだったけれど。
直したつもりで、治ってなかった。
真正面から告げてくれる人も今までいなかった。
だから自棄になっていた。
だから周囲に甘えていたのだ。
どうせ受け止めてもらえないなら。
どんな振る舞いをしても構わないのでないかと。
受け止めないのは、
相手の勝手だと。
ああ。
壁を作っていたのは私だった。
「…なんだよ。急に黙ってんじゃねえ」
隣で窺う様な声がする。
その声を聞いて、じわりと滲む。
ぽろぽろと、温かい気持ちが零れ落ちる。
受け止めてくれていた。
初めてだ。
これが友達なのだろうか。
私ばかり貰っている。
嬉しい気持ちを、貰ってばかりいる。
うつむいていた顔を上げ、隣に顔を向けた。
視界が歪んで良く見えない。
おそらく、ぎょっとした顔で当惑しているだろう智者に、笑いかけた。
「ありがとう」
溢れたものは。
心からの、感謝の気持ちだった。