みどりを交えて
だから満員電車には乗りたくなかった。
暗い顔で膝を見ると、滲んでいた血が流れ出ている。ティッシュもハンカチも持ち合わせが無いので、そのまま放置するより他にない。
危うく寝過ごす所だった。電車から慌てて降りようとして、芋を洗うような大混雑の出入り口付近を抜けようと、人を掻き分けた。最後の隙間に押し入り、密集した人の塊から勢いよく解放された瞬間、勢い余って体勢を崩し、正面からこけ…かけた。
「おうふっ」
変な声を発しながらも、とっさに両手を出して、上半身を支える。コンクリートダイブは免れたものの、したたかに膝を打ってしまった。
ゴッ
ザリッ
嫌な音と共に膝に走る違和感。
遅れて来る鋭い痛み。
「ああ…」
よりによってスカートの日にこれだ。思わずため息をつく。折角のスカートが汚れてしまった。
いつもはジーンズとパーカーを愛用している。動きやすいし、長袖長ズボンなら日焼けも防げる。パーカーのフードで髪の毛の色を隠す事も出来る。完璧な服装だといつも思う。
けれど――
「三篠ちゃん。これ、あげる」
昨夜店から帰る時、瑪瑙が私に差しだした。有名な服屋の、お洒落な紙袋だ。一度カウンター内にある扉の向こうへ消え、戻ってきた時に、その手に握られていた。
「着なさい」
有無を言わせぬ微笑みを見て、私は黙って頷くしかなかった。
「あたしが見たいー……のもあるけど…、ほら、これを着れば、きっと柏杜とも、もっと親しくなれるはずよ」
それを聞いて、明日必ずこれを着て店へ行くことを確約した。
家に帰って中身をみると、それは真っ赤なスカートだった。膝丈ぐらいの長さで、裾が二段のひらひらによって飾られいる。裏地は真っ黒。品質表示が無いが、手触りからしてシルクのようだ。
そこでふと気がついた。
これが、初めての友達から貰った、初めてのプレゼントであることに。
「…!!」
胸が熱くなる。思わず笑顔になる。
嬉しすぎて、夜はなかなか眠れなかった。
そして今日。
ふふ。
赤いスカートに、赤い血がお似合い、か。
ふふ。
「…なにやってんの」
立ちあがって呆然と立ち尽くす私の背後から、くすくす笑いと共に、声がした。
「え、あ」
柏杜さんが真後ろにたたずんでいた。ホームと線路のギリギリで、電車が過ぎゆくまでそこにいたのだろうか。全く気がつかなかった。柏杜さんは手に口をやって、あからさまに笑いを堪えた顔をしている。今日は驚くべきことにサングラスをしていない。
普段なら、偶然乗り合わせていたことにはしゃぐところだが…まさかよりにもよってこんな場面で会おうとは。
「…オーナー。奇遇ですね。買い出しですか」
声をかけるも、すぐには返事が無かった。しばらく無表情でじっとこちらを見ていたが、すっ、と眉根を寄せた。
「ああ、うん。そう、買い出し。…あと、別に呼び方は何でもいいよ」
そう言って、私の前方に回った。
「…それで?なんでホームで土下座してたの」
振り返った顔には、黒い笑みが戻っていた。
「こけかけました」
手に付いた砂を払う。…なるほど、両手と両膝を地につけていれば、土下座にも見えよう。見ると、手も擦り剥いてしまっていた。途端、血が滲む両手からずきずきとした痛みが生まれる。
「なに?怪我したの…」
言いながら、手を口元から外してもなお、ずっとにやにやしていた柏杜さんは、私の手を見た途端、表情を落とした。
すぐに膝へも目を向け、そこから血が流れ出ていることに気がつく。彼の顔が、さっと青ざめた。そして、さっと顔をそむけると、険しい顔のまま、硬直してしまった。
「柏杜さん?」
声をかけると、険しい顔から、困ったような、思い詰めたような顔になった。それでも、こちらを見ようとしない。
様子がおかしい。
他に反応が無いので、肩に手を置こうとした。
すると、伸ばした手を思い切り掴まれた。
「!?」
慌てる私をかえりみる事もなく、しっかり私の右手首を掴んだまま、早足で改札を抜ける。遅れないように、急いで切符を改札へ通す。ただでさえ身長が高く、歩幅の広い柏杜さんが、早足で歩くのについていけるはずもなく、途中からはほとんど引きずられる形となってしまった。
膝は痛むが、柏杜さんに手を引っ張ってもらえている現実が信じられなくて、顔が熱くなり、頭は真っ白になっていた。
店に到着すると、オーナーはガチャガチャと音を立てて扉を開け、「close」の表示を変えることもなく、私が中へ入りきらないうちに乱暴に扉を閉めた。
靴音も激しくカウンターの中へ入り、流しで強引に私の両手の汚れを洗い落とす。それから、昨日柏杜さんが座っていた椅子に、私を無理やり座らせると、そこでやっと腕を離した。灰色がかった白髪が、店の奥へと消える。抜けゆく温もりと感触の跡を逆の手で包もうとするが、怪我をしていたので断念した。
強く握る硬い手。
目に焼きついた前を行く長い背。
ああ、今日はなんて良い日なんだろう。きっとこの、メノウスカートの効力に違いない。
感慨に浸っていると、柏杜さんは金属製のボウルと、タオルを持ってきた。青ざめた顔を、依然背けている。
「洗って。あとこれ」
こちらを見もせずそう言うと、私に水を張ったボウルとタオルを渡し、消毒液とガーゼ、マスキングテープ、包帯を、あらゆるポケットから取り出し、カウンター手前の、一段高い台の上に置いた。そしてカウンターの外側に回ると、私の目の前に席に座り、むこうを向いて腕を組んだ。
「ありがとう、ございます」
無言。
私も黙って、自らの治療を始めた。
チク タク チク タク …
ぱちゃ …
店の壁にかけてある振り子時計と、私が動く音だけが店内に響く。初めて店に来た時と記憶が重なる。
雑踏はくぐもった音で、別世界に隔離されている。
チク タク チク タク …
いや、隔離されているのはこの空間だ。
店はいまだ閉められたままで、扉に近づいては、残念そうに引き返すお客さんらしき人が、先ほどから後を絶たない。切り取られたこの部屋を、柏杜さんと共に過ごせるのは嬉しい。けれど、現状を振り返ると、段々申し訳ない気持ちになってきた。明らかに迷惑をかけている。
「ごめんなさい」
反応はなかった。
柏杜さんの後姿が目の前にある。まだ不機嫌そうな顔をして、腕を組んでいるのだろうか。
駅で見た、表情を無くして、青ざめた顔が脳裏をよぎる。
「血が、苦手なんですか」
問いかけると、ピクリと背中が動いた。
それでも、向こうを向いたままだ。
「三篠には、関係ないよ」
掠れた声が返ってきた。
名前を呼ばれたことを嬉しいと思う。けれど、突き放した言葉がいつもより冷たく感じられて、少し心が冷えてしまった。
もう、何も言わなかった。
包帯で、ガーゼを完全に固定した。
再び窓に人影が差した。
その人は店の扉に、扉の小窓から頭が見えるほど近づくと、しばし佇んだ。
柏杜さんはそのままの姿勢で、身じろぎもせず、黙ってその様子を見守っている。
治療が終わったので、折角のお客様が帰る前に引き留めよう、と立ちあがりかけると
カラン
鈴を鳴らして、扉が開かれた。
二人とも驚いてそちらを凝視する。若草色のワンピースを着た女性が、扉を閉め終え、振り返った。
一瞬、智者が女装したのかと思った。
智者と顔の造りがよく似た彼女は、眠そうな目を柏杜に向け、首を傾げると、鈴の鳴るような声で問いかけた。
「…ねぇ。"close"の表示は間違いだと思っていいよね」