しろを連れて
「女々しい」
「…」
「情けない」
「…」
「みっともない」
「…」
「ろくでなし」
「…」
「へたれ」
「……」
「何か言い返したら?」
「め、めい」
腕を組んだまま不機嫌そうに足元の人物を見下している、そんな冥令の蔑むような目つきが怖すぎて、私は思わず声をかけた。
「ような、っていうか蔑んでるんだけど」
「心を読まれた!?」
私と双子は立って、しゃがみこんで動かない一人を囲んでいる。
「つうか、まあ、なにも、そこまで言わなくてもさ」
私の気持ちを汲んでくれたのか、あるいは自発的に助けようと思ってか、智者が小さくため息をついてフォローしてくれた。
もちろん、冥令が不当に責めているわけではないとわかっている。
加えて、全てを把握できていない私には、自分が何をすべきで何をすべきでないのか、まだよく分からない。そもそも、自分がこの場に居るべきか、本当にそれが、この繊細で脆い彼の為になるのか否か、何が正しいのか、わからない。
何もできない自分を、不甲斐無く思う。
そうして先ほどからはらはらしていたが、事情を知る智者が助け船を出してくれたことに内心ほっとした。
しゃがんでいるその背中は小さく、とても弱弱しい。
ただでさえ自分で自分のことを責めているだろうに、これ以上外部からも圧力をかけては、精神的なダメージが大きすぎて、ぼろぼろになって潰れてしまうかもしれない。
これ以上は……
…。
いや、まだかろうじて大丈夫なはずだ。
……。
…多分。
……。
すでにかなりきつく言われた後ではあるけれど…。
………そういえば先ほどより沈んでいるように見えないでもないけど…。
……。
………………すでにぼろぼろではあるのかもしれない…。
誰も何も言わない中で、間をおいて智者は、いいじゃないか、とつないだ。
「甘いよ」
けれど、返す冥令はなおも冷たく言い捨てた。
「このままでいいわけないじゃない。甘え過ぎだし、何より甘やかし過ぎ。そんなの、だめ」
見下すその眼差しもまた、低温を保っている。
むしろ、みるみる温度を下げていくようにさえ見える。
「このままじゃ、だめになる。ぼくはあくまで対等な関係でありたいの。同じ目線に、立って欲しいの」
瞳は冷たいままだけれど。
その言葉と、眉根を押せた険しい表情は、どこか熱を持っているようにも感じる。
想うゆえに、こういう風な言い方をするのだ。
「…ね」
再度、冥令は問いかけた。
忠言は、相手が大事であるほど言う方が辛いのではないか。耳よりも口に逆らうのではないか。
と、思う。
少なくとも、私にはできない。
大事な人には、嫌われたくない。
弱っている人を諫めるなんて、到底できそうにない。
それでもその役を担う冥令は、もしかしたら誰よりも、想う気持ちが強いのかもしれない。
「何か言いなよ?」
うずくまったままの彼に視線を戻して。
「ね」
三人の眼差しが、再び一点に集中する。
「………」
それでも
私たちの足元の彼は
――――柏杜さんは。
微動だにしなかった。
***
奇妙なお茶会だ。
そう感じた。
「来るかな?」
まるで無邪気な声がした。
面白そうに、現状を楽しんでいるかのような笑顔を浮かべて、彼は言った。
細められた目を見つめる。
普段は誰に対してもですます調で話すのに、あたしと二人の時だけ砕けた話し方をする。
こういう時、特別扱いされているように感じて、嬉しくなる。
「ように、っていうか特別扱いしてるんだけどね」
「心を読んだの!?」
「…それにしても…」
半ば強引に話を逸らされた。
彼はこちらを向いて、歳の分からない顔を小さく傾げた。
「本当に、退院しちゃってよかったのかな?」
「いいのよ」
あたしは即答する。
手続きも早々に済ませ、病院は朝一で退院してしまった。
ベッドの数が足りないとかで、ほとんど追い出されたような形だ。
自分としては入院したのが大げさなくらいに思っていたから、それについては特に構わなかったけれど。
今は病院の隣にある、小さい広場に設置されたベンチに二人。
病院内の売店で買った紙パックのいちごミルクを二人で飲みながら、彼がつくってきた紅茶のゼリーを食べている。
…取り合わせが不思議すぎるが、特に不都合はなかったので、気にしない事にした。
「待ってることに、意味があるんだから」
間をおいて、そう結ぶ。
彼はこちらを向かないままに、目を閉じて、数回頷く。
「柏杜君が過去を乗り越えて、ここまで来ることに、意味があるわけだね」
訳知り顔で、そんなことを言う彼。
「瑪瑙は、今度こそ弟が迎えに来ると思ってる?」
あたしの眼を覗き込む。
意地悪な質問だと、自覚しながら問うている。
そういう顔をしている。
「来る」
だから毅然と、また即答した。
「信じているもの」
満面の笑みを、返してあげた。
つられたように、意地悪な笑顔だった彼の顔も、自然な笑みにかわっていく。
けれど、
「…、……そう」
ふいに、いつも笑顔の彼が、一瞬だけ複雑そうな顔になって、表情を曇らせたように見えた。
違和感を覚える。
「…どうかした?」
含みをもたせた相槌だと思った。
柏杜に会って、直接その決意を耳にしても尚、やはり彼は信じられないのだろうか。
二年前、夜更けまで待っても、柏杜はここへ現れなかったから。
彼が静かになったので、今度はあたしが窺うように顔を覗き込む。
彼はどこか遠くを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「君たちは、不思議だね」
突然言われた言葉に目を丸くした。
予想していた会話の流れからかけ離れ過ぎていて、咄嗟に反応できず、戸惑ってしまう。
「…え?」
「お互いに"家族"を求めて、盲目的にお互いを信じている」
ちらと、目線をこちらに流す。
珍しく無表情だ。
少し息がつまるように感じる。
目が合う。
「僕にはそう見える」
真剣な目で、見つめてくる。
…彼が言うことも、言わんとしていることも、わかる。
結婚をしたことさえ、あの二人には言うことを憚られた。
二人が日本に帰ってくるまでは黙っていたいと、あたしの意思を告げた時、彼はとても複雑そうな、悲しそうな顔をした。
あたしは、それをあの子たちに知られることで、あの子たちが何を思うかを考えると、とても怖かった。
裏切られたと、感じるかもしれない。
あたしが"家族"の環から離れて行くのではと、恐怖するかもしれない。
万に一つの可能性だとしても、その考えが頭をかすめただけでとても怖かった。
あたしはあたしのまま、家族の一人のままなのに。
あたしもまた、"家族"であり続けることを望んでいるのに。
誰かが聞けば、独りよがりな悩みに感じるだろうと思う。
笑い飛ばされるかもしれない。
考えすぎだと、そんなものは杞憂で終わるだろうと、言われるかもしれない。
でも、あたしたちに限っては、
それは十分あり得ることだった。
…あたしたちのことを想って、医者になることを決めたあの子たちだから。
きっとそういう可能性がありうること自体、普通ではないのかもしれない。
そう、思いいたってしまう。
幾度目のことだろう。
むしろそれは
信じていないということなのだろうか。
こちらに向けられた視線を、じっと見つめ返す。
その真剣な瞳の中に、心配する色があることに気がついた。
結婚を知らせたくないと、柏杜以外の家族への報告を渋るあたしを見つめた、あの時の瞳と同じ色を宿していた。
「もしかしたら、あなたの目には、あたし達"家族"が異常なものとして、映っているのかも…しれないわね」
あたしの言葉に、困ったように眉をひそめる。
その様子が妙に可愛くて、クスクスと笑ってしまう。
「そんなことは、ないけど…」
いつも明瞭な答えをくれる彼にしては珍しく、言葉を濁している。
言い淀む姿にもう一度クスクスと笑う。あんまり困っているから、それにしても冷えるわね、と話題を変えて、話の終わりを告げた。
彼は無言で脇のカバンから小さめのブランケットを出すと、あたしの膝に素早くそれを掛けてくれた。
自分が作ったゼリーをタッパーから掬い取り、持参したガラスの皿に移し、もくもくと食べ始めた彼に、ありがとう、とお礼を言う。
もちもちぷるぷるとした、良い薫りの紅茶のゼリーはまだたくさん残っている。
自分の紙パックを手に取り、ストローをくわえたものの、吸い込んでも乾いた音しか出なかった。
「…あら、なくなっちゃった」
てっきりあと一口ぐらいあると思っていた分、ちょっとがっかりしてしまう。
その様子に気がついた彼は、自分の紙パックを持ちあげた。
「よかったら、これ、飲んでくれない?」
受け取ると、ほとんど中身が残ったままだった。
驚いて、いちごミルクを差し出す彼の顔を見上げる。
「なに、全然飲んでないじゃない。あたしは新しいのを買ってくるし、気にしなくてもいいのよ?」
嫌いだったり、食べ合わせがいやだったら、買う時に言うだろう。
あるいは体が冷えたせいで具合でも悪くなったのだろうか。
ううん、と、けれど彼は首を横に振る。
「ちょっと、思ってたより甘くて…」
遠慮ではない事を悟り、その手から紙パックを受け取った。
「あら、甘いの好きだと思っていたけど…」
今度はううん、と唸った。
言葉を選んでいる。
「や、甘いのは、好きなんだけどね」
そして彼は、不思議そうな顔をする私の眼を見る。
「甘すぎるのは、ちょっと苦手なんだ」
そう言って
困ったように、笑った。
***
結局昨日は紅茶店に泊った。
二階の居間部分に、たたんだまま放置していた布団を敷かせてもらって、寝床につくことにした。
何時だったかは分からない。
突然、柏杜さんの寝ている寝室と、私が居る居間を隔てる襖が、ごとりと開かれた。
耳慣れない音に、浅い眠りから意識が浮上する。
柏杜さんがお手洗いに起きたのだろうと、夢心地の、漂う意識の中で思った。
「…」
「…」
しかし気配はその場を動く様子がない。
徐々に意識が形を取り戻し始める。
「…」
「…」
「…起きて、る?」
ぼそりと囁く声が耳に届いた瞬間、意識が収束した。
「はい!」
がばりと身を起こすと、黒い影はびくりと体を震わせた。
暗闇に目が慣れて、姿がうっすらと判る。
「…起こしたかな、ごめん」
はっとしたように、真っ黒な柏杜さんは謝った。
慌てて私は首を振る。
…柏杜さんには見えていないかもしれないけれど。
「そんなことはないです。それより、どうかしましたか?」
「ああ…うん…」
柏杜さんは言い辛そうに口の中でもごもごと何かを言っている。
私は掛け布団から出て、敷布団の上に正座した。
「あの、よかったら、こちらに」
寝ていた布団の、掛け布団の上をぽんぽんと叩いて、依然敷居の上に立ったままの柏杜さんに座るよう促した。
「…うん」
柏杜さんは少しためらったが、最終的に、ぎりぎり布団には座らない位置に、胡坐をかいた。
無言。
寒くなった外は静かで、虫の声もとうに聞こえなくなっていた。
無音。
「…あした」
真っ暗なせいで、少しうつらうつらしながら待っていると、絞り出すような声がすぐ近くで聞こえた。
距離感がつかめなかったが、思っていた以上に、柏杜さんは近くに居たようだ。
よく通る少し低めの声は、耳に直接届く。
思わず、びくりと体が震える。
「病院に行こうと、思う」
今度は俯いてぼそぼそと喋るから、とても聞こえづらかったけれど、静かな夜には十分なほど響いた。小さな子が渋々言わされたみたいな、どこか拗ねた声だった。
「はい」
その言葉は願ってもないことだったから、私はしっかりと頷いた。
「…それで」
しかし、その言葉にはまだ続きがあるようだった。
「その…」
「はい」
「…」
「…」
「…小さい頃、4人で、『学校の怪談』をみたことがあって」
「…。……はい」
突然すぎる話に驚いたものの、何も言わず、聞くことにした。
「すごく怖かった。その時俺は丁度小学校に入学する歳で、絶対学校なんて行かないって駄々をこねた」
その様子はなんとなく想像できた。
嫌がる柏杜を叱咤する瑪瑙と、なだめすかす智者と、呆れた顔で見守る冥令。
「俺は何を言われても動かなくて…それで…」
「それで、どう、されたんですか?」
「…それで、結局…」
……
…
そうして、ふと、昨夜の柏杜さんとの会話をふと思い出した。
何を求められていたのか。
何故この場に私がいるのか。
何をするためにここに居るのか。
思いだした。
理解した。
「…柏杜さん」
動かない柏杜さんに疲れ果て、半ば諦めかけている冥令と智者。
ずっと黙っていた私が急に声を出したので、驚いた顔をしてこちらを見た。
声をかけた彼の人に、反応は無い。
「じゃあ、もう、無理して行こうとなんてしなくていいです」
驚いた顔から、ぎょっとした顔になる二人。
「だから、まあ、とりあえず…」
そう言いつつ、私は自分のポケットを探りだす。
そんな私の様子を見て
「…おまえ、何言ってんだ」
顔に声に、怒りを滲ませる智者
「…はい、とりあえず、お菓子でも食べて下さい」
…を、スルー。
冥令は無表情に、黙って眠そうな目をこちらに向け、私の手の上の物を見つめている。
柏杜さんに向けて差しだした手には、ポケットから取り出した飴を乗せていた。
「先日柏杜さんが雑誌を見て、食べてみたいとおっしゃっていた、紅茶の砂糖で作った飴です。職場の人がたまたまくれたので、柏杜さんに差し上げます」
初めて
ピクッ
反応を示す柏杜さん。
双子は息を詰めて、視線をそちらに集中させた。
「疲れたんですよね。これで、元気を出して下さい」
ビニールの包みに巻かれた茶色い飴を掌に載せて、しゃがみこんだままの柏杜さんへと更に手を伸ばす。
「…」
しばらくして
「…」
赤い目をした柏杜さんが、僅かに顔を上げた。
「…」
「早く受け取って下さい。溶けてしまうので」
促されておそるおそる、長い指を伸ばす。
飴を親指と人差し指でつまむ。
その瞬間。
ガッ
「!?」
「!」
「!」
その手を捕えた。
「…なんて」
三人の視線を受けて、私は口を開く。
驚愕の顔をしている柏杜さん。
私は表情を動かさない。
「甘くするのは」
固まったままのその手を思い切り引っ張る。
突然のことに対応できなかったからか、さしたる抵抗もなく、たやすく私の手によって立たせられる柏杜さん。基本少食で、インドアな生活を送る柏杜さんの体は軽かった。
「柏杜さんの」
無理矢理立たされた柏杜さんは、唐突な環境の変化に即座に対応できない。
ぽかんと口を開けたまま、私の言葉を聞いている。
「…為にならないと思いまして」
にっこりと笑った。
つもりだったけれど、
私の顔を見た柏杜さんの顔が青ざめたところを見ると、
上手く笑えなかったのかもしれない。
「さあ、行きましょう」
ぐ、と、空いている方の手で腕を掴み、両手で引っ張る。飴ごと堅く握りしめた柏杜さんの手はそこで初めて、私の手の中で、抗おうと少し動いた。
「え…っと、あの…みす…」
「無理に行こうとはしなくていいですよ」
抵抗の意を示す声色に、強めた声をかぶせる。
柏杜さんは押し黙る。
そんな彼を振り返る。
怯えた目をしている。
「私が、無理矢理連れて行きます」
引っ張る。
一歩前進すると、
よろりと、
柏杜さんの体も動いた。
大丈夫。
動いてくれるなら、引っ張っていける。
「さあ、行きましょう」
もう一度、そう促す。
前を向いて更に歩こうとすると、不意に、つながった手の先が軽くなった。
「…ほら、行くぞ」
右を見れば、智者が柏杜さんのもう片方の手を握って、引っ張っている。
「はくちゃんは、ほんとにしかたないね」
呆れた声の聞こえる後ろを見れば、冥令が柏杜さんの背中を押している。
『それで、どう、されたんですか?』
『…それで、結局…』
とても言いたくなさそうに、言い淀みながら、口の中でもごもごとしていた柏杜さんは、ようやく何かに観念した風に、言った。
『…姉さんは俺がその時集めていたカードのついているお菓子を目の前でちらつかせて、智者が俺の両手を引っ張って、冥令が俺の背中を押して…それでやっと、学校に行けたんだ』
『………』
『………』
『……なんていうか』
『…なに』
『…いえ』
『………わかってるよ。誰かが何かしてくれなきゃ何もできない、どうしようもないほどの、甘えたがりだったって』
『…そこまでは…』
『それでさ』
その頃にはもう目も慣れて、暗がりの中でも柏杜さんの顔が、うっすらわかるようになっていた。
目を伏せて、俯いた青白い顔は、はっとするほど、綺麗に、微笑んでいた。
『今も、全然成長できてないんだ』
「ねえ、柏杜さん」
三人の強行に、もう無駄と判断したのか、すっかり抵抗のなくなった柏杜さんは、されるがままに、振り返った私の顔を見上げた。
その顔は疲れたようにも、どこか安堵したようにも見えた。
「気がつかないうちに、絶対、成長はしていると思うんです」
私が昨日の話の続きをしていると、わかっているだろうか。
不思議そうな顔のまま、じっと、こちらを見つめ続けている。
「だけど、もし成長できなくたって」
強く、手を握る。
いつか、私が駅のホームでこけて、引っ張ってもらった時を思い出す。
あの時とは、逆だけれど。
「何度でも、引っ張りますよ」
ぎゅ
引っ張る手を、握り返される。
はっとする。
もしかして私は、思うほど、柏杜さんに嫌われてはいないのかもしれない。
「何度でも、引っ張らせて下さい」
顔が見られなくて、私は前を向く。
つながった手も、顔も熱い。
「きっとそのために、私はあなたを追いかけたから」
電車を途中下車するか否か。
ホームを出るか否か。
角を曲がるか否か。
店に、入るか否か。
いくつもの分岐点で、私は柏杜さんの近くへと続く道を選んだ。
そんな過去の自分を、こんなに誇らしく思う時が来ようとは、夢にも思わなかった。
「早く、瑪瑙を迎えに行きましょう」
先ほどまで、世間話をしていた智者と冥令は、いつの間にか沈黙していた。
けれど顔が上げられないから、二人の様子が分からない。
智者に会えてよかった。
冥令に会えてよかった。
瑪瑙に会えてよかった。
そして、こんなに幸せな時間を齎してくれた柏杜さんに、
何よりも、会えてよかった。
「…よかったよ」
自分の思考が声に漏れたかと一瞬焦ったけれど、それは、柏杜さんの声だった。
背後で、囁くように優しく、私に語りかけた。
「三篠に、会えてよかった」
泣くのを、堪え切れなかった。
***
「…あ、あれ、オリオン座じゃない?」
彼女は精一杯首を伸ばして、上向きながら、そう言って天を指差した。
その示す方向を仰ぎ見れば、確かに三つ並んだ星が見えた。
その右上、左上、右下、左下にも、星が確認できる。
「ほんとだね。…ああ、ここは街灯が少ないから、星がよく見える」
オリオンの頭だとか、棍棒だとか、そういう部分に当たる星はどれかわからなかったけれど、資料を読んだことがあるし、それぐらいなら判別できた。
でもこうして生の星空をじっくり観察したことはないかもしれない。
彼女と二人で、こうしてゆっくり星空観察できることを思うと、柏杜が女々しすぎてこんな時間になっても来ないというのも、あながち悪くはないのかもしれない。
…いや、悪いか。
て言うかほんとに来るのか。
「あ、カシオペアも」
もう冬の星座が見られるなんて不思議、と、僕の右側で歌うように呟いている。
まだ日中は残暑が厳しいとはいえ、最近は、夜は肌寒いほどだ。
ましてや星星が煌々と照り輝くこんな時間帯になればなおのことだ。
自分が着ていた上着を、彼女の肩にかける。
羽織った僕の上着をひき寄せて、顔を埋める彼女を見ていると、寒さを感じなくなっていく。
「あ、いた!!」
その声に、二人の世界が急速に現実へと引き戻された。
上着を失った僕は夜風をダイレクトに受けて、激しい寒さと直面することになった。
昔の教え子はこちらへと駆け寄る。
「もう、すっごい探しました。受付の人は退院したって言うし、携帯、姉様も先生も電源切ったままだし」
瑪瑙はもちろん、僕もこのところ病院に入り浸りだったので、携帯の電源を失念していた。
その間で、あっという間に瑪瑙の片腕にしがみついている山下姉。
…いや、別にいいけど。
「え、でも、居場所は柏杜君の携帯の留守電に入れておきましたよ?」
「「え?」」
僕の声に、追いついた弟も一緒に、山下兄弟はきょとんとした顔になった。
「って、ことだけど…どうなの?」
すぅっと、愛しい瑪瑙の腕から離れ、山下姉が立ち上がった。
静かな声で問いかけ、振り返った先には、僕の義弟。
驚愕に打ち震えている。
…こちらからでは表情までは見えないけれど、静かな怒りが全身から漲っているところを見ると、山下姉が相当すさまじい顔をしているに違いない。
「…あ、け…たい、店…忘れ、た」
柏杜は恐怖でかすれる声を絞りだした。
「携帯しなさいって言わなかったかな…?この数時間を返してくれないかな?」
責めながら無茶な要求をしながら、鬼のような後ろ姿をした双子の姉は、白髪の弟ににじり寄っていく。
「ごめん、ごめんごめん、いや、ほんとごめん、ごめん」
柏杜は謝る以外の方法を知らないかのように、首を小刻みに横に振りながら、そう唱え続けていた。
不憫だ。
「具合は?」
遠ざかる姉を後目に、弟の方がいつの間にか近寄っていて、不機嫌そうに、瑪瑙にそう尋ねた。
両手をズボンのポケットに入れたまま、睨む勢いで様子を窺いながら、瑪瑙の前に立ちはだかっている。
「もう、大丈夫よ、ありがとう」
彼女は微笑んで、睨む彼の眼を見つめ返す。
悲しそうな目で、微笑む。
「…ごめんなさい」
そして、謝る。
瞳が揺れる。
「…」
彼女の謝罪には無言のまま、山下弟は彼女の、僕とは反対隣りに腰かけた。
前を睨んだまま、手を体の前で組む。
沈黙ののち、唸るような低い声で、呟いた。
「…もう、二度と、無理するなよ」
照れ隠しではなくて、本当に重い意味を込めて、その言葉は彼女に返された。
瑪瑙は、一向にこちらを見ようとしない眼鏡の弟の横顔を、しばらく見つめていた。
「…うん。本当に、ごめんね」
彼女はやっぱり悲しそうに笑って、山下弟の頭に、そっと、手を置いた。
弟は無抵抗にされるがまま、手を置かれていた。
「あの、そろそろ」
彼女達とは反対方向から突然声がして、びくりと体が震える。
「帰りませんか?」
見上げた先には
金髪碧眼の、見知らぬ美少女が立っていた。
ああ、この子が、瑪瑙の言っていた子か。
すぐに、そう思いいたる。
ザガッ
地面を踏む音がしてもう一度振り返ると、山下弟が素早く立ち上がった所だった。
頭に置かれていた瑪瑙の手が、行き場を無くして空をさまよっている。
「くっ…ふふ」
突然、瑪瑙が笑いだす。
「あははははっ」
堪え切れなったように、大きく笑いだす。
突然の笑い声に、少し離れた位置に居た山下姉と義弟も、ぎょっとしたようにこちらを見ている。
「うふふふっ、あははははは」
何故笑いだしたのかはわからない。
もしかしたら本人も、もうわかっていないのかもしれない。
ただおかしくて、笑っている自分がまたおかしくて、なんで笑っているのかわからない事がまたおかしくて。
そうして、笑っているのかもしれない。
「ふふふっ」
つられて、僕も笑い声が漏れてしまった。
そのうち、山下姉も笑いだし、義弟もぎこちなく笑顔になり、三篠というはずの少女も微笑んだ。
ただ一人。
山下弟だけが、長い間、苦々しい顔をしたままだった。
ここまで読んで下さった皆々様、本当にありがとうございました。
補足として、また短編が書けましたら。