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紅茶店  作者: 方霧
20/21

うすべにいろの思い出

明日、瑪瑙めのうが退院する。


そんな内容の電話が、冥令めいれいから掛かった。


「智くんと、はくちゃんにはもう伝えてあるから」


心もち上機嫌そうな声で、報告はそう締めくくられた。


久しぶりに訊いた電話越しの冥令の声が、無性に懐かしくて胸が熱くなった。




自分以外誰もいない家の中。

居間のソファの上。

携帯電話を片手に、膝を抱えて座っている。


静かな場所は落ち着く。


雲が流れて遮ったのか、窓から差す陽が翳ったことで、やっと部屋の電気をつけ忘れていたことに思い至る。


無気力だ。



家族から、もうしばらくイギリスの実家に留まると言う連絡が、留守電に入っていた。


毎年恒例の里帰りに、去年は私も同行していた。

だから、いつもは日本に居ない私が、珍しくこの時期この地に存在している、という貴重な機会を逃すまいと、私が勤める出版社の編集長と私の編集担当が話し合ったらしい。


その結果、長期間、私は紅茶店に行くことも家に帰ることもなく、みっしりと仕事に打ち込むこととなった。

締め切りが近くなると、無言の圧力で携帯電話の電源にも手が出せないでいた。

そのせいで、まったく4人の様子が分からないままだった。


だから


ずっと、気になっていた。


「そういえば、あれから柏杜はくとさんは…?」


「…」


突然、柏杜さんが店から出て行った、あの日。

私も智者ともひとも、柏杜さんは病院に行ったのだと思いこんでいた。


しかし、暗くなった頃帰ってきた柏杜さんは、陰鬱な空気を纏っていた。

肩を落として一言もしゃべらず、店の二階の居間に居た私たち二人を素通りして、自室に引きこもってしまった。

とても、トラウマを克服した雰囲気ではなかった。

すっかり元気になった智者が冥令に確認すると、案の定、病院には来ていないという返事。


次の日店に訪れると、柏杜さんは何事もなかったかのような顔をしてカウンターに立っていた。

それからすぐ次の仕事の連絡が入り、私は何も訊けないまま、あれから店を訪れることはなかった。



「…来てないよ」


沈黙ののち、うってかわって憮然とした声が響いた。

その声で、我に返る。


「後から聞いたんだけど、あの時やっぱりはくちゃんは病院に向かってたみたい。先生がばったり会ったんだって。見つけた時は道端にうずくまってて、はくちゃんだと知らずに声をかけたんだって。で、少し話した後、きっと病院に行くと先生に言い残して、別れて…」


電話の向こうで、苛々を吐き出すように、大きく息をつく気配がした。


「…それきり」


呆れ声が、疲れた声に変化した。


「…そう」


それだけしか返せなかった。

冥令の声にも、憤るやら情けないやら心配やら、色々な感情が混ざっている。今回ばかりはいつもとは違って、柏杜さんに対してどういう態度をとるべきなのか、迷っているようだった。

急に口を閉ざしてしまった彼女に、何と言えばよいかわからない。


沈黙。


二人ともしばしそうしていた。


「…あ、連絡ありがとう」


「んん、いいえー。久しぶりにすずちゃんの声が聞けて良かったよ」


返ってきた声は、幾分か明るくなっていた。

今日は忙しくて様子が見に行けない、と言う冥令に、私の仕事は大体済んだから、今日は店に行ってみるね、と伝えて、電話を切った。





今日は乗客がとても少なかった。



いつもと同じホームに降り、

もう何度訪れたかわからない駅の改札を抜ける。


この改札が目に入るたびに、沈んでいた記憶が鮮明に浮かび上がって、その場所から遠ざかろうとする足を遅らせる。

走ってもいないのに、鼓動が速くなる。


はたと、木製の椅子に目をとめる。

初めて来たときは真新しく見えた駅内の椅子も、少し色がくすんできている。

そのことで、むしろ駅に馴染んでいるように見えた。


駅を出て


あの道を辿る。


「あれ」


角を曲がると、紅茶店の前に立ちすくむ人影が見えた。


「…」


近づいても、人影は微動だにしなかった。



あ、紫色。



…なんだろうこれ。


…デジャヴ?



「やっぱり、智者」


人影に声をかけると、初めて会った時と変わらない、相変わらずの紫頭がこちらを向いた。

振り向いた両の眼だけが、かつてと違って、優しく細められた。


三篠みすず


智者はそれだけ言って、険しい顔に戻って、再び前を向いて店を睨んだ。


「…どうかした」


尋ねると、少しだけ顔をこちらに向けて、片眉を上げた。

その仕草はとても冥令に似ていたけれど、怒りそうだから言うのはやめておいた。

視線は柏杜さんの店を捉えたままだ。


「いや、ちょっと」


入り辛いのだろうか。


……


…待てよ。


…だとしたらもしかして…


…最初に智者と出会った時も…


あの時、店に入る決心を定めている途中だったのに、私が近づくことで急かしたからあんなに睨まれたのだろうか…?

てっきり、智者が柏杜さんを大事に思うあまり、大事な弟の近くをうろちょろする、不逞の輩たる私をうざったく思っていただけかと…思っていたけれど。


…智者に直接害をなしていたのなら、謝らなければ。


「…なんかごめんね、智者」


「は?何が」


表面的には何の脈絡もない私のセリフに、智者は両の眉をあげて、頓狂な声を上げた。

先ほどの脳内劇場をかいつまんで説明すると、智者は、ああ、と言って


「いや、急かされはしたけど、それは全く怒ってないし、睨んだ理由もお前を嫌ってた理由も、お前が考えていた通りだけど?」


…それはそれで複雑だった。

…まだ急かされたことで怒っていた方が人格的に納得できたような…。


それにしても、好かれてないのは分かっていたけれど…やっぱり嫌われてはいたんだな…。


「ま、今は嫌って無いから」


私の影った表情を気づかってか、智者がフォローしてくれた。


「よかった。私も智者のこと好きだから、それを聞いてほっとしたよ」


「…」


「…え、と、とも…?」


「…」


「…と、ともひとさん?」


「…」


「…ご、ごめん…好きとまでは言って無かったよね…」


「…え?」


ようやく目が合う。

魂が抜けたような顔をしていた智者の眼に、光が戻った。


「…今のは忘れて下さいすみませんでした…。…それで?結局どうして入らないの?」


きょとん、とした顔の智者。

私の言葉に何か言いかけて、少し悩み、もう一度口を開く。


「ん……いや、ちょっと久しぶりで、入るのを渋ってただけだから」


「久しぶり?智者も?」


「ああ。最後にお前と会った一週間後に一回行って…それきりだな」


「ふうん?」


仲が良いようで、不思議と店を訪れる回数にはムラがあるようだ。


「…ああ、でも大人になったら、家族ってそんなものかも知れないね」


「え?」


私の言葉の意味を測りかねて、智者が訊き返す。


「あんまり一緒に居ない、けど、いつでも側に居る、というか。どんなに遠くに行っても離れられないし、違う場所に住んでいても、やっぱり"帰る家"は、家族の居る場所なのかな、と」


「…んー?」


智者は首を捻った。


「よくわからないけどなあ…」


しばし宙を眺めて、私の言葉の意味するところを咀嚼していた。

…そこまで深く考えての発言じゃなかったので、そこまで考え込まれるとなんだか申し訳なくなってくる。


漂わせていた視線を、私に戻す。


「…よくわからないけど、そういうものかもしれないな」


「…やっぱりよくわからないんだ」


それも、そういうものなのかもしれないね、と私が笑うと、智者も笑った。


冷たい風が吹いた。


「ぅうう…さぶい…」


両腕を抱えると、智者が私の右肩に左手を置いた。そこだけがじんわりと暖かい。


「早く入って、柏杜さんの紅茶が飲みたいです…」


「おれも。…ん、そういえば」


この期に及んで何か言いだそうとする智者を、恨めしげに見上げる。

私の視線に気がつく様子の無い紫頭は、左手はそのままに、右手を顎に当てた。


「大分前、柏杜が、全員集まったら一緒に飲みたい紅茶があるとか何とか…言ってたな」


「へえ…」


柏杜さんのことならば話は別だ。


「大分前って…いつ?」


「さあ…。…そうだ、台風が来たぐらいだから…確か、お前が突然来なくなったあたり…かな」


言っとくけど、全員の中にお前も入ってるからな、と智者が付け足す。


「じゃあ…丁度みんなが揃わなくなり始めたあたり?」


「そうだな。瑪瑙はずっと来てなくて、そのまま入院したし、おれも冥令もすぐに店に来れなくなったしな…」


「じゃあ、みんな揃わなくなって、結構…経つんだね」


「んー…。だな」


「…」


なんとなく二人して無言でいると、智者が、じゃ、行くか、と言い残し、自分はさっさと階段を上って、取っ手に手を掛けた。

肩を包んでいたぬくもりが離れて行く。


私も我に返り、以前と同じく置き去りにされないよう、慌ててその後ろに続いた。

智者は扉を開けたまま、私が先に行くよう促してくれた。



そうだ


明日は瑪瑙が退院する。


智者と冥令さえ忙しくなければ、明日こそ、久しぶりに全員が揃うのだ。





「いらっしゃい」


よく通る低い声が、私たちを迎えた。

店内は暖かく、紅茶の香りで溢れていた。

席はほぼ満席で、隅のカウンターしか空いていなかった。


「こんにちは」


笑顔を向けると、微笑みが返ってきた。


私はダージリンを頼み、智者はアールグレイを注文した。

妙に暖かいのでカウンターの中を覗き込むと、ちゃんとストーブが出してあった。





智者が店を出たのは閉店直前だった。


滝廉太郎の着信音が聞こえたかと思うと、隣に座っていた眼鏡の医者は、慌てて紅茶を飲み干し、店を出て、それきり帰ってこなかった。


つまり、それほど時間は経っていない。


それなのに、長時間柏杜さんと二人きりでいるような気がする。

二人きりになった途端、お互いに喋らなくなった。


前会った時とほとんど同じはずなのに。

この重い空気は何だろう。


「三篠」


突然名前を呼ばれて、心臓が跳ねあがった。

茶色い双眸がこちらを向いている。


「は、はい!」


真顔だった柏杜さんが、私の裏返った返事を聞いて口角を上げ、顔を歪めた。

そして前になおり、また食器を拭き始めた。


「前にさ」


俯いたまま、ぽつりと零した。


「俺が、この店を特別な場所に」


拭いていた食器を横に置いて、次の食器を手に取る。


「…この店がうつろわないよう守っているみたいだって、言っていたよね」


「…」


「…」


「…はい」


「…」


「あ、思い出しました!」


「…やっぱり忘れてたんだ」


悲しげな笑みになった。


「だ、大丈夫です!カウンターの下で、お話した時のことですよね?」


慌てるあまりさらっと言ったものの、あの時の状況を思い出して、顔が熱くなる。

ふと顔を上げると、柏杜さんも照れたような顔をしていた。


「ああ、うん。そう」


濁すような相槌。

ちらりとこちらを見た目と、目があった。

すぐに逸らされた。


「それ聞いた時、すごいなって思ったんだよ」


「…すごい」


「…そう、まさに、ぴったりだった」


その言葉がね、と言いながら、拭いていた食器を、先ほど拭き終わった食器に重ねた。


私は立ちあがって、勝手にカウンターの中に入った。


「な、なに」


突如侵入してきた私に対して、身構える様子を見せた柏杜さんを無視し、勝手に残りの食器を拭き出した。

私の意図が呑み込めた柏杜さんは、布巾を置いて、体ごと私の方に向いた。


なんだかいつもよりも重い、ただならぬ雰囲気に、私も食器を拭いていた手を止め、柏杜さんと向き合った。


「昔話」


真剣な目だ。

じっと、見つめ返した。


「長くなるけど、聞いて」


質問でも、確認でもなかった。


私が頷くのを見てか、もしくは全く関係なく、私の手をひいて、その場に座った。

手をひかれるままに、柏杜さんの横に腰を下ろす。


また、この場所。

カウンターの内側。


世界から隔絶されたように感じる空間。


ひっそりと、寄り添う位置に

二人とも、前を向いたまま。


「この店の二階はね、もともと俺と、姉さんと、母さんが住んでいた家だった」


柏杜さんは突然に、


「母さんたちが、死んでしまうまで」


けれどおもむろに、話し始めた。


「俺はおぼろげにしか覚えていないから、ほとんど姉さんとか、唯一俺達がここに住んでいた頃から知ってる隣の家の人とか、人づてに訊いた話なんだけどね」


紅茶店の隣の家には、仲のよさそうな老夫婦が住んでいる。

二人で一緒に、庭の手入れをしているところを見かけたことがある。

もう片方の隣は空き家だった。


「当時一階は、お爺さんが一人でバーを営んでた。名前も声も覚えてないけど、歳のわりにふさふさと残った頭髪も、整えられた鼻の下のもふもふした髭も見惚れるほど真っ白だったこととか、いつも白いシャツに、赤と黒のチョッキを着ていたこととかは…俺も覚えてる」


容姿を聞いただけでも、とても素敵なお爺さんが想像できた。


「父さんの伯父で、父さんの、唯一の肉親だったらしい。父さんは俺が生まれてすぐに亡くなった。身寄りのない母親一人と子供二人の貧しい家庭に、そのお爺さんは随分良くしてくれて、食事をよく御馳走してくれたり、母さんや姉さん、俺の誕生日の夜には、開店時間を遅らせて、一階の店でささやかなパーティーを開いてくれたりしたらしい。ぼんやりだけど、四人でいれば幸せだったのも、覚えてる」


四人でいれば。


四人。


「俺が三歳の時、母さんが結核で入院した。母さんが入院している間、お爺さんが面倒を見てくれた。

ずっと面会もできなかったけど、四歳になった頃、特別に、ガラス越しに姿が見られることになった」


いつだったろう。

柏杜さんが悪夢にうなされているところに、居合わせたことがあった。

何日かして少しだけどんな夢を見たかを教えてくれた。


ガラスの向こうの女性が血を吐いていたと。


そして、もう一人、別の女性も―――


―――…今なら、何となくわかる気がする。


おそらく、それは。


畳の上で、柏杜さんの足もとに倒れこんだ女性は、きっと…―――


―――彼の、姉だったのだろう。


「最初で、最後の面会だった」


声がかすれていたけれど、柏杜さんの方は見なかった。


「久々に会った母さんは別人みたいだった。元から色白だった肌は青白く、やつれて、髪もぼさぼさだった。それでも、母さんだった。目があって嬉しくて俺が笑うと、母さんも笑顔になってくれた。隣で泣きそうな顔をしていた姉さんに、笑うよう促した。姉さんが笑うと、母さんはますます笑顔になって、きらきらと輝くような、いつもの母さんの顔になった」


一瞬、声が止まる。


「そして」


噛み締めるように言う。


「血を吐いた」



「そして」



「その日の夜」



「母さんは、いなくなった」


不自然なほど、感情のない声だった。


「どこにもいなくなった」


俯いた。


「幾ら俺が笑っても、笑顔になっても…――――もう…母さんは笑ってくれなかった」


「…」


黙ってしまったので、横目で様子を窺う。

暗い

目をしていた。


「最低限のお金はお爺さんが出してくれた。骨は父さんと同じ墓に埋めた。そのうちに、だんだん、母さんはもういないのだと、わかった。そして、家に帰ると姉さんが突然、ここを出よう、と言いだした」



「俺はわけがわからなかった。このまま、この場所で、三人で暮らしていくのだと思いこんでいたし…というよりも家を出る意味がわからなかったし、せめて、少しでも母さんの面影が残るこの家に居たかった」


声が、少しだけ熱くなる。


「だけど姉さんは言った。母さんが焼かれている時、近所の人が話しているのを聞いたのだと」


『他に身内はいるのかな』


『いないらしいですよ』


『じゃあ、あの、お爺さんが』


『…無理だろうなあ』


『子供は施設に預けた方が良いだろうね』


『母親が体を壊したんだから。お爺さんまで居なくなったら…』


『うん。もたないよ』


『ちょっと離れたところに、身寄りのない子を預かっている施設があるみたいだから…あそこを紹介してみようかしら』


『それがいい。我々でサポートするにも、限界があるよ』


そんな感じのことを、話していたらしい。


柏杜さんはそれから滔々と。


滔々と、回想に浸るかのように、語り始めた。


「『お爺さんまで居なくなったら。お爺さんまで居なくなってしまう。あたしたちのせいで』

姉さんは真剣だった。

俺はその剣幕に圧されて、ただ、お爺さんまで居なくなるのは嫌だと、それだけいうと、姉さんは俺を抱きしめた。


しばらくして、近所のおばさんがチラシを持ってきた。火葬場で話していた施設の情報が書かれていた。

俺達は扉の隙間から、ひっそりとその様子を見たらしい。

お爺さんは丁寧にお礼を言って、それでももうあの二人は自分の孫みたいなものだから、自分が育てていくつもりだと、話していた。


『倒れてしまうわよ』


会話の中でおばさんが言ったその一言が、やけに頭に響いて残った。


倒れてしまうわよ


倒れて


母さんだけじゃない。


お爺さんまで」


突然、柏杜さんがこちらをちらりと見た。

気配を感じて目を合わせる前に、柏杜さんの視線は前方に戻っていった。


「ここからは俺は完全に覚えてないんだけど、姉さんはお爺さんを説得したらしい。

あたしたちはここに帰るから、それまでこの家で待っていて欲しいと。


…でも決意しようとしまいと、

俺達はすぐに二人ぼっちになった。


お爺さんはある日突然、頭が痛いと訴えた。

救急車を呼んだけど、病院にすぐ運ばれたけど、間に合わなかった。


俺が四歳の時、そうしてここを離れて、二人が居た、あの"家"に行った」



柏杜さんはいったんそこで息をついた。

座り方を変える。


「お爺さんは、遺書を残してくれていた。日付は、母さんが死んだ次の日になっていた。

この家と、家の物は全て姉さんと、俺に継ぐ。二人が高校へ行く為のお金を差し引いた分の、自分の残した財産が尽きるまで、この家は二人のものだと。

ここは二人の帰るべき場所だと。

そう記してあった。


姉さんが高校一年生になる時、俺達は、ともとめいが居る"家"を出た。そして誰もいない、空っぽの家に帰った。

近所も様変わりしていて、知らない人ばかりだった。

隣の家の御夫婦が家の管理をしていてくれたから、家の中はどこもかしこも俺達が出た時のままだった。

お爺さんが生前、自分が居なくなった後は頼むと、お二人にお願いしていたらしい。


"家"に居た頃から、バイトが出来る歳になると、俺も姉さんも必死になって働いた。

お爺さんが残してくれた時間はあと少しだった。


だけど生活するのがやっとで、家のためのお金なんてなかなか稼げなかった。

俺が高校に入るまでに何とかしないと、手放さなくてはいけなかった。というか、俺は既に、高校入るのも諦めてた」


私はもう、話を真剣に聞きすぎて、その頃には相槌を突くのも忘れていた。

いつのまにか、不躾にも柏杜さんの横顔を眺めたままだった事に気がついて、慌てて前を向いた。

また、柏杜さんがちらりとこちらを見た気がした。


「で、俺が中学三年ぐらいの時、そろそろやばいなーと思ってる時にね…」


そう言いながら、突然柏杜さんが立ちあがった。

何事かと仰ぎ見ると、水の入ったやかんを火にかけるところだった。


どうやら紅茶を淹れようとしてくれているらしい。


私も立ちあがって、準備を手伝う。


「窓傍さんが助けてくれたんだ」


「え」


思わぬ名前が出てきて、思わず驚きの声が出てしまった。


「あ、すみません」


声を出した私を驚いた顔で見るから、思わず謝ると、柏杜さんは可笑しそうに笑った。


「いいよ。俺もびっくりした。初めて姉さんに紹介された時に、この人に助けてもらうことになったことと、」


「…姉さんが、この人と結婚することを告げられた」


「ええええ」


また思わず声を出すと、柏杜さんは私を力強い目で見て、何度も頷いた。


「ね、普通驚くよね。俺もすごく訝しんだ。あの人の全てが怪しく感じた」


瑪瑙はその時十九歳。

弟もいる。

相手は、見た目では歳の分からない高校教師。


「はい。それは怪しいです」


怪しむべきだ。


「だよね?俺がすごく心配すると、知り合って二年になるし、絶対大丈夫だと言われてますます不安になった」


つまり瑪瑙が高校生の時に知り合ったということか。

………

……


「うわぁ…」


私の嫌そうな反応に、柏杜さんが満足そうに頷く。

しかし、すぐに悩ましげに長いため息をついた。


「で、徹底的に怪しんだんだけど…窓傍さん、すごく良い人だったわけ」


「良い人…」


「話してみると、すごい真面目で、紳士的で、人格的に大人だった。完璧すぎて、絶対いつか化けの皮が剥がれると思ったのに…結局剥がれないまま…」


だから今でもちょっと怪しんでるほどだよ、と言って、苦笑いした。


「ああ、話が逸れたね」


緩んでいた表情が、再び引き締まる。


「とにかく窓傍さんのおかげで、俺と姉さんは夢を諦めなくて良くなった」


「…夢」


「夢」


はっきりとした声で返して、私に笑いかけた。


間を図ったかのように、突然薬缶が湯気を吹きだした。

そろそろ沸くようだ。


「姉さんから聞いたんだけど」


茶葉をポットに移しながら、柏杜さんは続ける。


「母さんがね、まだ元気な頃、お爺さんが一階に居ない時を見計らって、この椅子に座ったんだって」


指差す先には、カウンターの中に、一脚だけある椅子。

いつも柏杜さんが座る椅子。

かつて、私が怪我の治療をしてもらった時、座らされた椅子だ。


「で、姉さんを膝に乗せて、こう、両手で頬杖をつきながら、」


立ったまま、客側のカウンターより少し高い内側のカウンターに、両手で頬杖を突いてみせた。

少し可愛い。


「『柏杜が大きくなったら、ここで、みんなで紅茶が飲みたいな』と、呟いたらしい」


柏杜さんは体勢を元に戻して、しゅんしゅんとうるさいやかんを手に取り、ポットに湯を注いだ。


「俺が生まれてすぐ…父さんが居なくなる前、一回だけ、家族でピクニックに行ったんだって。水筒に、温かい紅茶を入れて。…その時飲んだ紅茶の美味しさが、今でも忘れられない、と、姉さんに熱く語ったらしい」


そのピクニックの時のことは、さすがに姉さんも覚えてないらしいんだけどね、と、また苦笑した。


砂時計を、カバーをかぶせたポットの横に置く。


「そして、その呟きは、叶わなかった」


零れ落ちる砂を見つめながら、柏杜さんは敢えて無感動そうにそう言った。


「それは姉さんの夢になって」


右に傾けていた首を、左に傾けた。


「俺の夢になった」


私が柏杜さんの顔を見つめるのと

柏杜さんが私の顔を見つめるのは

偶然にも、同時だった。



「みんなで、紅茶を飲むんだ」



熱く語る目は輝いているようにも見えたし



「家族、みんなで」



とりつかれているようにも見えた。



「姉さんと、智者と、冥令と――」



けれど



「――三篠と」


「…私も」


「うん」


「ありがとう、ございます」


「うん」


優しく細められた目に、うっとりと、見惚れる。



もうなんでもいいか、と。


そういうものかもしれない、と。


思って、



「新しい、俺の家族」



私は



「みんなで」



笑った。



とても幸せそうな、微笑みがかえってきた。

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