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紅茶店  作者: 方霧
18/21

うすきいろ兄弟


右手に、確かな手ごたえを感じた。


驚くほど無抵抗に、目に痛い黄色の上着が宙を舞う。

元居た場所から飛んで、道路のアスファルトに背中を激しく打ちつけるまでのさまが、ひどくゆっくりに見えた。

そのまましばらく、義兄は大の字にのびて動かなくなった。


そこで、はっと我に返った。


ピクリとも動かない状態を確認してやっと、さすがに不意打ちはいけなかったかな、という思いが頭をかすめる。

けれど、身じろぎしたのを見た途端、かすめた欠片すらすぐに霧散した。


そもそも、彼が言い出したことだ。


約束を守れなければ、すかさず俺の手で殴って欲しいと。





閑静な田舎の住宅街をまっすぐ突っ切る道路には、あまりふさわしくないいでたちをした二人が、長い間同じ場所に佇んでいる。はたから見ればきっと怪しい二人組だろうなと自覚しながら、俺は訊かれるままにぽつぽつと説明をはじめた。


「なるほど。それで思い切って病院に向かってみたものの、進めなくなってしまったんですね」


俺に殴られた右頬に手をやりながら、なるほど、と妙に納得した風に、彼は頷いた。

その言葉に、無言でうなずく。


「姉さんは、今、どうですか」


顔を上げる。

向かい合って立ってはいるが、窓傍まどはたさんの方が頭一つ背が高いから、俺が少し見上げる形になる。


「はい。顔色も良くなってきました。すぐに元気になりますよ。…ま、本人はもう大丈夫と言い張って、隙あらば病院から逃げようとするから、もう元気だと言えば元気なんですかね」


そう言って苦笑いをした。

つられて俺も笑顔になりかけた。が、顔が固まっていたので、顔が変に歪んだだけだった。

多分、笑顔には見えなかっただろう。

彼はそれから、とても優しい色を浮かべて、目を細めた。


柏杜はくと君は、最近どうです?お店は繁盛していますか?…なかなか行けなくてすみません」


「あ、いいえ。また時間ができた時にいらして下さい。客足は…寒くなってきたからか、結構、多いです」


紅茶店ではアイスティーを出さない。


始めた頃はそのことをなじる客や不満がる客も多かったが、慣れたのか、最近はあまり批判を聞かない。

なんだかんだと結局、みんな飲みに来てくれることを、とても嬉しく思う。

そういう人が新しい客を連れてきてくれるから不思議なものだ。


あの場所が、ここに掛け替えのないものとなってきていると、感じる。


そうだ


あの店を開くことができたのも、窓傍さんが居てくれたおかげなんだ。





彼が俺のせいで道路と仲良くなった後。

俺に殴られた衝撃がようやく鎮まったものか、無言で身を起こした後、窓傍さんはその場に正座した。

そして、深くこうべを垂れて、謝った。

守れなかったことを。


「もういいです。殴ったことでチャラということで、何事もなかったかのようにして下さい」


その方が良いです、と説得するも、承服しかねるとでもいうように渋る。

それでも、お願いだからと俺が念を押して、窓傍さんはようやく口をつぐんでくれた。

しばらくして、俺が言った通りに、何事もなかったかのような顔をして立ち上がった。

そして、さっき声をかけた時よりも幾分か優しい声で、俺に事情を尋ねてくれた。


憂いを帯びた、笑顔を称えて。



そもそも、俺もこんな偉そうな事が言える立場ではない。

解っている。


昔の記憶に怯えて、実姉の看病もできない臆病な子供だったし、

全て人任せで、それこそ夫と同様に、姉の不調に気が付けなかった義弟だ。


それなのに、そんな子供に真剣に話をし、約束を交わして。

義弟にも責任があると解っているだろうに、誠実にも約束を果たして。


それで今、こんな風に接することができるなんて。



この人のこういうところが、いつもすごくかっこいいと思うのだ。




――…その時は

わたしを殴って下さい。

けれどきっと。きっと、守ってみせます。

絶対にわたしがお姉さんを守ると、約束します――




姉さんと結婚することを聞かされた時、確かに彼はそう言った。

俺の眼を見て、真顔で。

俺はその約束を受け入れ、心から結婚を祝福した。


…しかし何となくわかっていた。


大体、姉さんは何かを心に決めると、周囲の言うことなど歯牙にもかけず無茶をすることを、俺が一番よく知っていた。

別に、その約束があったから窓傍さんとの結婚に同意したとかではない。

俺自身がこの人を、この人と一緒に居る姉さんを、間近で見て

二人ともに、幸せになって欲しいと思った。


約束を受け入れたものの。

仮にそうなったとしても、窓傍さんを責めるなんて、全ての責任が彼にあると思うなんて、

そんなことはあるはずないと、当然のように思っていた。


ところが。


智者ともひとから再発の知らせを聞いた瞬間、

あふれ出た憎悪の気持ちは

全て、窓傍さんに向いていた。


我に返って、自分でもびっくりした。

姉さん自身がほとんど家にいなかった、と聞いてやっと元の気持ちを思い出すことができた。

ああ、そうだ、姉はそういう人だったのだ、と。


それでも、完全に払拭できなかった心のもやもやを、


約束通り、この人を殴ることで晴らしたのだ。



…考えるほどに、自分が最低な奴だと改めて思い知って嫌になる。



柏杜はくと君、どうかしましたか。怖い顔になっていますよ?」


声を掛けられて、回想に深くのめりこんでいたことに気がついた。

慌てて首を振り、大丈夫です、と返す。

すると窓傍さんは眉をひそめて、軽く首を傾げた。


「そうですか?」


「いや、本当に大丈夫です」


「…柏杜君と瑪瑙めのうの“大丈夫”は信用なりませんからねえ…」


なおも疑わしそうな目を向けてくる。

少しむっとする。


「…俺と姉さんを一緒にしないでください」


「ああ、またそんな顔をする。ほらほら、折角の可愛い顔が台無しですよ」


「俺と姉さんを一緒にしないでください!!」


扱い方が全く一緒だ!

どこに、おっさんに可愛いとおだてられて機嫌を直す二十代男が居るだろうか。

………居たら気持ち悪いわ!


ますます、自分の顔が険しくなっていくのがわかる。


「あははは。怖い怖い」


言葉とは裏腹に、随分嬉しそうに笑った。


「ま、どちらもわたしにとっては可愛くて大事な家族ですからね」


にこにこと、細めていた目をさらに細くする。



「…今も、昔も」



昔も。



その言葉に、はっとした。


「…あの」


咄嗟に出た声は蚊の鳴く程度の大きさで、窓傍さんには届かなかった。

唾を飲み込む。


今だ、とわかった。


この人に会ったら、殴った後にちゃんと言おうと

店を出る前に

決心していたではないか。



そうだ。

言おう。



言いたかったことがある。


ずっと言えなかった。


言うなら



今だ。




「…柏杜君?」


再び黙りこんだ俺の顔を、彼は覗きこんでくる。

その声につられるように、俺は顔を上げた。


「…窓傍さん」


「はい?」


朗らかに、それでもまだ少し申し訳なさそうな笑顔で、義兄は俺の眼を見た。


頭が白くなった。

どくどくと、血の流れを感じる。

何故声にすると、こんなに緊張するのだろう。


見つめ返して、頭を下げた。


「俺の方こそ、すいませんでした。長い間、本当に、お世話になりました」


責任を押し付けて。

でも、ずっと気にかけてくれて。


なんだか口にしてみると、今からどこかへ旅立つかのようなセリフだと思った。


目頭が熱くなる。

ああ、とても今更だ。

言葉にして、やっとわかった。


何故今まで言えなかったのだろう。

もっと早く言うべきだった。


けれど

それと同時に

仮に今時間を遡れたとしても

言うことはできないだろうとも感じる。


今だからこそ言えるのだ。


今の、俺だからこそ。



口元が震えた。



「ありがとうございました」



いよいよ、今生の別れのようなていになってしまった。

なんだかこのまま言い逃げて、駆け出してしまいたくなった。


窓傍さんは


黙っていた。


俺の曖昧な言葉を受けて、何が、ともなんとも聞かない。

彼は俺が言わなかった部分を、理解しているようだった。


反応はない。

顔が見えない。


ふっ、と

不安が襲った。


もしも


笑顔が消えていたら。

蔑むように笑われていたら。


窓傍さんならそんなことあるはずないと、自分に言い聞かせるのに、不安で仕方がない。


あるはずない。


そう考えている時点で、俺は窓傍さんに甘え過ぎている。

赦されると、内心胡坐をかいている。


相手の反応を求める行為だ。

謝罪とは、なんて自分勝手なものだろう。



無反応すら、覚悟できていなかった。



我慢できずに、ちらりと、上目遣いに様子を窺う。



窓傍さんは



黙って



ほほ笑んでいた。




俺は慌てて、また目線をアスファルトに戻す。

ゆっくり、下げたままの俺の頭に、温かな手が置かれた。


「いいんですよ」


それだけ言って、窓傍さんは俺の頭を撫でた。

ゆっくりゆっくり、あやすように頭を撫でた。



懐かしい気持ちになった。



俺には父親の記憶はないけれど、

もし居たなら、きっとこんな風に頭を撫でてくれたのだろうな、と

ぼんやり考えた。


記憶の片隅に、真っ白なお爺さんの笑顔が蘇って、すぐに消えた。


あれは、だれだったかな。



申し訳ない気持ちが滲んで、顔を上げられない俺の頭を

窓傍さんは、ずっと撫でてくれていた。




なでなで




なでなで




「…!」


「お…っと」



されるがままになっていたものの、ここが往来のど真ん中だということを思い出し、思わず身を引いた。


距離を置いてすぐに、背後の交差点を、車が通り過ぎる音がした。

なんだかんだと、ここは車の通りも多いのだ。


咄嗟に、のばされた手から逃れた俺の顔を見て、窓傍さんはにこにこと笑った。


「あはは、照れなくていいですよ」


「ッ窓傍さん!」


一気に頭が熱くなるのを感じる。

ニット帽をより目深にかぶると、急いで後ろを向いて、早足に歩き出した。


「待ってますよ」


後ろで、優しい声がした。


「きっと、来て下さい」


優しい声は、しっかりと耳に届いた。



少し離れたところで、俺は足をとめた。


やや横を向いて、返事をする。


「きっと、行きます。それまで」


それから、


さらに小さい声で。


「それまで、姉さんをお願いします」


声が届いたかはわからない。



「…にいさん」



言い終わるやいなや走って、急いでその場から離れた。

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