みどりの雫
自然に目が覚めた。
目を開けたはずなのに真っ白い世界が広がっているなあと思ったらそれは天井だった。
まだ起きていない頭で、目だけを動かす。
天井から部屋の壁、時計、棚、襖…
次第に、目の動きに頭が追いついてきて、ここが柏杜の部屋だと理解する。
顎を少し上げて枕元の窓を見ると、カーテン越しに薄明るい朝の陽ざしが見えた。
体が完全に固まっていたので、馴らすために身をよじった。
…よじろうとした。
「ん………っん?」
引っ張られた。
布団に何か乗っているらしく、掛け布団が動かない。
右側は壁以外何もないから…左側――
「…」
左側の視界の端に、もさもさした白いかたまりが見えた。気がした。
眼鏡がないので、良く見えない。
体だけを滑らせて、そっと布団から抜け出した。視点が高くなったことで、掛け布団の上に乗っているものの全貌が露わとなった。
柏杜と三篠が横に並んで、布団に突っ伏すようにして寝ていた。
「………な」
ぼんやりとした昨日の記憶がよみがえる。
確か…熱が出て倒れたんだったか
あまりよく覚えていない。
まだ少し体がだるい。
ぼんやりとした視界の中で、ベッド脇に据えられた机の上に体温計を見つけた。軽く汗を拭いて、体温を測る。
…。
沈黙。
チチチッ
鳥の声。
ピピピッ
「…うっ」
体温計の音に反応して、柏杜が身じろいだ。
起こしてしまったろうか。
黙って見守っていると、緩慢な動作で身を起しはじめた。ある程度上体を起こしてベッドに肘をついたものの、まだ完全に起きてはいないようで、頭は下を向いたままだ。
そのまま動きが止まった。
隙を見て液晶画面に目を向けると、37度6分と表示されていた。確認するや速やかに電源を切る。
「…あれ、とも。起きたんだね。おはよう」
顔を上げた柏杜が、おれの視線に気がつき、寝惚け眼でへらっと笑った。…ように見えた。
「おはよう。昨日の夜は…迷惑かけたな。ベッドまで借りて…」
おれが謝ると、輪郭が曖昧な柏杜は伸びをした。お互いに寝起きなので声がかすれている。
「気にしないで。熱は?」
「下がったんじゃないか。微熱だ。…店は良いのか?」
目を細めて壁にかかった時計を見れば、ぼんやりとだが、もう開店時刻を過ぎているのがわかる。
「今日は休み。…もともと不定休だから。そのまま寝てていいよ…ほら、三篠」
ゆさゆさ
「う…」
柏杜は適当にそう言って、隣で熟睡している三篠の肩を揺すった。
ゆさゆさ
「…ぅ?…あ、はっ!」
柏杜に起きるよう促され、三篠も最初は渋っていたが、突然がばっと身を起こした。
ばっとこちらを見る
「…あ、智者!おはよう!具合どう?」
「…んん」
おれがそれだけ言うと、見開かれた眼が細められ、ほっとした顔になった。…ように見えた。
はっきり顔が見えないとはいえ、じっと見られて、居心地が悪くなって目を逸らした。三篠の方はにこにこしたまま、まだこちらを見ていた。
「そうか、良かった」
そこで、はたと柏杜の方を振り向いた。
「…あれ、柏杜さんここで寝たんですか?風邪ひいてないですか?」
見れば、三篠は肩に毛布を掛けているのに、柏杜は余分な上着を肩に羽織ってるだけだった。
どうやら毛布は三篠に譲ったらしい。
口ぶりからすると、隣の部屋にでも布団を敷いているようだ。
「交代だって言ってんのに、起きないし。そもそも俺が看病するつもりだったし」
「ああ、それはすみません…」
三篠はしょんぼりと、申し訳なさそうに小さくなった。
不満そうに言う柏杜だが、本気で怒ってはいなかったらしい。すぐに謝った三篠を見て、ふっと笑った。
笑ったその顔は、とても優しいものだった。
「いいよ。俺が好きでこっちに来ただけだから」
その言葉を聞いても、三篠はなおも不安そうな目で、上目遣いにじっと柏杜の様子を窺う。その様子に、柏杜はますます笑顔になった。
「…」
様子が違う。
昨日何かあったのか?
胸の奥が、ざわりと嫌な音を立てた。
なんでこんな気持ちになるんだろう。
心当たりがありすぎてわからない。
「大丈夫」
柏杜は笑顔のままそう言って、三篠の頭に手を置くと、前から後ろへなめらかにひと撫でした。
「!」
「…!!」
柏杜の手が頭に触れた瞬間、三篠は体を硬直させた。いつになく柏杜が優しいからか、戸惑ったような顔をしている。けれどすぐに、嬉しそうに破顔した。
予想しない展開に、おれも思わず困惑する。けれどすぐに、何とはなしに納得した。
わかっていたことだった。
三篠が柏杜にとって不可欠な存在になりつつあることは、うすうす感じていた。そういう視点から見れば、予想通りの展開だ。
自分に言い聞かせるように思案する。
ドラマを一話見逃して、勝手に話が進んでいることに違和感を感じるようなものだ。
一日学校を休んでしまった教室に、しばらく馴染めないようなものだ。
ただ、自分が知らない所で急に態度が変わっていたから。そのギャップにうろたえてしまっただけだ。
別に。
予想していたとはいえ現実に直面するとなると抵抗がある…とか…。
そういうことは全然…
突然、柏杜がくるりとこちらを振り向いた。
「!……な」
一人で悶々と思考をめぐらせていたので、咄嗟に身構えてしまう。
柏杜は特に気にした風もなく、いつもの調子で問うた。
「とも、喉渇いてない?」
黙ったまま頷くと、柏杜はかすかにほほ笑んだ。
「じゃあ着替えと、なんか飲み物持ってくる…あ、なんか食べる?」
また黙って頷く。それを見て、今度はにっこりと笑った。
「じゃあ着替えてる間に鮭がゆでも作ろうか。待ってて。三篠、ともよろしく」
「あ、はい」
ぽんぽんと、おれと三篠の頭を軽く叩いてから、上機嫌で部屋を去っていく柏杜。
階段を下りる音が耳に届いたあたりで、そっと動揺したままの三篠が口を開いた。
「柏杜さん…寝惚けているんですかね」
「…さあ」
***
病人食にはお洒落すぎる器に、鮭がゆがたっぷりと盛られていた。
「和風の食器が店になくてね…。それで我慢して」
あははは、と苦笑いして、少し長くなった白髪を掻き上げた。
粥を作った土鍋を持って戻ってきた柏杜さんは、いつも通りの淡白な雰囲気に戻っていた。
やはり寝惚けていたようだ。
「はちぃ」
レンゲを口につけた智者が、そう言って口元を手で押さえた。
「熱かった?」
「ん」
柏杜さんに訊かれて、口を手で覆ったまま、智者はこくこくと頷いた。
「そういえばともは猫舌だったね。ごめん」
和食器は無いがレンゲはあるところがこの店の不思議なところだ。
そういう当人の手には、自分専用なのか、和食器が握られている。
「美味い」
「すごくおいしいです!」
柏杜さんの手製の鮭がゆは驚くほど美味しかった。鮭が程良く粥に馴染み、塩加減がまた絶妙だ。
ついでに一緒に朝ご飯にしよう、と思った柏杜さんによって大量生産された粥が、まだ土鍋にたっぷりと残されている。夢のようだ。
私は目を輝かせて柏杜さんを見た。
「毎朝食べたいです!」
「気に入ったならよかった」
「毎朝私のためにおかゆを作って下さい!」
「新しいプロポーズだね」
「味噌汁も作って下さい!」
「贅沢だね」
そもそもそれは男が女に言うセリフでしょう。と、柏杜さんは笑って、冗談交じりに流された。
「それで」
鮭がゆにかじりついている私に、柏杜さんが尋ねた。
「結局昨晩、冥令はどこにいったの?」
「…え」
聞いてなかったのか。
良く考えれば、あの時柏杜さんは私と冥令の会話の内容をあまり聞いていなかったようだったし、めいも柏杜さんの前を素通りしたのだった。
なんて大事なことを忘れていたのだろう。
家族の健康にかかわることなのに。
少し二人の反応が怖かった。
「…その」
事と次第を二人に説明する。
二人の反応は、昨日の冥令とそっくりだった。
青ざめている。
「で、でも、何かあったら絶対電話か何かありますよ。ずっと連絡がないってことは、無事ってことじゃないですか」
「…ああ」
「…うん」
二人とも生返事をしただけで、暗い表情は拭えない。
それもそうだろう。
私の言葉なんて、気休めにもならないだろう。
瑪瑙の無事をその目で確認して初めて、二人は安心できる。
そのあとは3人とも無言で、それでも美味しい柏杜さんの鮭がゆを静々とたいらげた。
私と柏杜さんで洗いものをして寝室に戻ったものの、再び具合が悪そうになった智者を寝かせるため、もう一度静かに部屋を後にした。
過労と冷えと寝不足と色々かぶっただけで、少し寝れば治る、と言って、智者は布団にもぐった。
飲み物と、タオルと、智者の携帯を置いてきたので、とりあえずは安心だろう。
私も柏杜さんも無言のまま、隣室に敷いてあった布団を簡単に片付けた。
「柏杜さん」
階段を降り切ったところで声をかけた。前を行く柏杜さんは歩みを止めたものの、私に背中を向けたままだ。
「様子、見に行かれないんですか」
無反応。
「さっきは私も心配ないって言いましたが…それでも気になりますよね。留守は、任せて下さい」
振り向きもせず、再び歩き出す。外に出る気配はない。
「行って下さい」
また歩みを止める。
…かた
僅かに、その細い肩が震えた気がした。
後ろ姿が、急に心もとなく感じられた。
黙って、後ろ姿を見つめていた。
オーナーは、よろりと、すぐ傍の椅子へ腰を下ろした。その勢いで、力が抜けたようにカウンターへもたれかかる。
店にすがっているようだった。
「頼むから」
震える低い声が聞こえた。
両手を握りしめ、腕の中に頭を落としている。
消えないように、何かかき集めたものを、必死で守っているように見えた。
「そっとしておいて」
黙って
私は黙って見つめていた。
壊れそうだった。
白髪に隠れた横顔は、触れば崩れてしまいそうなほど、脆く見えた。
近寄る。
ぎぃ
床が軋む。
「…やめて」
ぎぃ
「…近づかないで」
ぎぃ
「…ふれないで」
ぎぃ
「もう…」
ぎゅっ
目の前に柏杜さん。
目線を下げると、服の端を掴まれていた。
カタカタと、肌の色が白くなるほど強く布を掴む彼の手が震えていた。
そっと手を重ねた。
あんなに脆そうに見えたのに、柏杜さんは確かに私の手の下あって、温かくて、とても安心した。
「…いやだ」
下を向いたまま、私の服の裾を捕まえたまま、全身を震わせて、彼は呟いた。
「いやだ、やだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだぁ、やだ、やだ、いやだ、いやだ、いやだ、やだ…」
怯えていた。
「…怖いんだ…っ…」
彼の手の甲に触れていた私の手を、逆に掴み、強く握りしめた。
私はそれに応えるように、もう片方の手を、力を入れすぎている柏杜さんの手の上にそっと乗せた。
ふっと
力んでいた手の力が弱められた。
「会うのは怖いし、会わないでいるのも怖い」
黙って、聞いていた。
「姉さんが、怖い。いや、怖くない、違う…」
混乱しているのか、気持ちを整理しているのか、軽く頭を振った。
私は乗せていた手に、力を込めた。
柏杜さんははっとしたように、少し顔を上げた。
こちらを見ようとはしなかった。
「…いて」
蚊の鳴くほどの声がした。
時計の音にかき消されそうなほど微弱な声。
「…ここ、…ぃ、いて…」
両手で柏杜さんの片手を包み、ぎゅっと握りしめた。
それから、隣の席についた。
お休みの店には、相変わらず扉の前まで人影がよく現れた。
現れては消えていく。
客足が絶えることはなかった。
***
「ね、まだ?」
上目遣いに瑪瑙が訊く。
「まーだーだーめーって、さっきから言ってるよね?」
あんまりしつこいから、ぼくは片眉を吊り上げる。
「姉様の健康にかけては、ぼくは妥協を許さないから」
「…いじわる」
どっちがだろう。
ぼくは呆れて、あからさまにため息をついた。
瑪瑙はしょんぼりとして、再び布団にもぐりこんだ。
がらがらがら
「お疲れ様、山下さん」
水を変えた花瓶に色とりどりの切り花の束を差して、先生はぼくに笑いかけた。
「…でも、ほんとびっくりしました。先生と姉様が結婚しているなんて」
窓際に花瓶を置いて、雫をタオルで拭き取っている先生を見ながら、ぼくは言った。
「そうですか?察しが良い君の事だから、とっくに感づかれてると思っていましたけど」
先生は振り返って、機嫌よさそうににこにこしている。
反比例して、ぼくの顔はさぞかし不機嫌そうなものになっていることだろう。
「てか、お二人がいつの間に知り合ったかも記憶にないですし」
「ええ?本当?君達が紹介してくれたのに」
驚いて、ぼくは目を見開く。
「ぼくが?ぼくたちって、ぼくとともくんがですか?」
困った顔をした先生は、ねえ?と瑪瑙に振った。
いきなり振られて、瑪瑙はびくりと体を震わせる。
「そ、そう。…まあ、あたしはその前から先生が気になってたんだけどね」
「え?そうなんですか?」
先生が笑顔のまま、驚いたような顔をした。
こんな器用な表情が出来るのは先生ぐらいだろう。
ぼくも驚いた顔を瑪瑙に向けた。
「ええ…あら、冥令にはちょっと言ったと思うけど」
「身に覚えがありません」
「あらぁ?おかしいわね」
ふふふっと笑って、困ったような笑顔になった。全然困ったようには見えなかったけれど。
盗み見ると、幾分か顔色は良くなってきた気がした。
内心で、ほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、心配してると思うんで、ちょっとみんなに電話掛けてきます」
「ええ、お願い」
「じゃ…」
「冥令」
病院の扉特有の、縦に長い取っ手に手を掛けると、後ろから呼びとめられた。
「ん?」
振り返ると、二人ともこちらを見ていた。
先生はベッドの向こう側に立って、ショールを掛けた瑪瑙の肩に片手を置いている。瑪瑙は上半身を完全に起こして、肩に置かれた先生の手に、片手を添えている。
窓からの日差しを受けた夫婦は、神々しい一枚の絵のようだった。
先生も瑪瑙も、温かく微笑んだ。
「…ありがとう」
ああ
「いいえ」
笑顔を返して、後ろ手に扉を閉めた。
ああ。
平静な顔をして、病院の廊下を颯爽と歩き、1階へ降りて、受付の前を通り過ぎて、自動ドアを抜ける。
病院の裏に回って、携帯電話を取り出した。
この言葉を聞きたかったのだ。
瑪瑙の言葉が、じわりと胸の奥に広がる。
ぽたり
緑色の携帯電話に、透明な雫がぽたりと落ちた。
***
「あら?」
病室の窓の外を覗き込む。
ザアアアァァァ
「雨ですね」
どうもさっきから薄暗いと思っていたら、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。
「雨ね。…冥令は大丈夫かしら」
屋根の下で電話をかけていればいいけど。
そう言って眉根を寄せるあたしを見て、彼は朗らかに笑った。
「あなたは変わらないなあ」
そう言ってまだ笑ってる彼を見て、真意を測りかね、むっとした顔をする。
「どういう意味?」
あたしが不機嫌になった事を察したのか、彼は笑うのをやめて、ゆっくりほほ笑んだ。
大人びたその微笑みを不意に向けられて、胸を強く打たれたように感じる。どきどきと、ほのかに体が熱くなる。
ぱたぱたと、スリッパの間抜けな音をさせて、彼がこちらへ歩み寄ってきた。
「優しいあなたは素敵だという意味」
「や、やめてよそんなこと急に言うの」
さらっと恥ずかしい言葉を返されて、頭全部が熱くなった。
前置きを入れればいいの?と、彼は眉をハの字に曲げながらおかしそうに笑った。
それから、動けないでいるあたしの頭の上に手をおくと、自分の方に引き寄せて、軽く抱きしめた。
「そばにいるよ」
前置きを入れずそんな事を言うから、あたしは無言で、彼の胸を軽く叩いた。
肩にかけている彼がくれたショールが。
あたしが額をつけているこのネクタイが。
もしショッキングなイエローでなかったら。
…もっとロマンティックなのになあ。
それだけが残念で、彼には分らないように、小さくため息をついた。