交わって、みずいろ
腕の中に顔をうずめ、自らの両腕を固く握りしめている。
とても、声を掛けられなかった。
じっと、動かない柏杜さんを見つめる。
とん とん とん とん …
智者が軽快に階段を下りてくる音が聞こえた。居住スペースもそんなに広いわけではないから、二階に柏杜さんが居ない事は、すぐ分かったようだ。
現状に、ふと我に帰る。一階へ降りてきたら、見つかったことを告げようと、立ちあがった。
扉の取っ手が、ガチャリと鳴った。
「ともっ…」
がくんっ
「えっ」
目が合った。
何か言おうと思ったのに。
透き通った鋭い眼差しに射抜かれて、息を詰まらせてしまった。
キィ…
「2階にはいね……あ?三篠?」
今はカウンターの下側しか見えない。
気配で、探し回っているのがわかる。
「三篠!…柏杜!」
焦ったような声がする。
荒い息は無理やり抑えられているから聞こえないのだろうか。
ならば、どくどくと強く打つ心臓の音に気付きはしないのだろうか。
「…っち」
舌打ちと、店の扉が開閉する音が聞こえた。
道路を蹴って走り去る音と、二人の名前を呼ぶ智者の声が、遠くで聞こえた。
ようやく私の口を覆う手の力が緩められた。
息を吐き、冷たい空気を吸い込む。
引っ張られた右腕は、今だ柏杜さんの右手に強く握り締められている。
力を弱めた柏杜さんの左手は、口から離れると私の右肩を前から掴んで、自らの方に引き寄せた。
バランスを崩して倒れこむ。
どっ
「ぅあっ…」
間抜けな声が出た。
後ろ向きで拘束されていたので、背中を柏杜さんに預ける形になった。
いままでにないほど、存在を近くに感じる。
取り敢えずそのままの体勢でいると、掴んだ私の右肩に、今度は額を乗せてきた。
すぐ真横に柏杜さんの頭がある。そう考えると、緊張で頭が真っ白になった。
右頬をさらさらの白髪が撫でた。そのせいで、体は火がついたように熱いのに、ぞくっとして、鳥肌が立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
チク タク チク タク チク タク チク タク …
振り子時計の音が無機質に時を刻んでいる。
他に聞こえるのは、私と智者さんの息遣いだけだ。
自分の呼吸する音がうるさくて、静かにさせようとしたら、息の仕方がわからなくなった。
「…どこ、いってたの。みんな」
かすれた声がした。
今日の、ことだろうか。
軽く咳払いをする。
「…私の服を買うのに、瑪瑙さんのお店に行ってました。場所がわからなかったので、めいと智者に付き合ってもらってました」
口が乾いてしまって、かすれた声しか出なかった。
「ふうん…」
それきりで、また黙ってしまった。
同じ体勢を、保ち続けている。
おそらく、私は柏杜さんの左大腿の上に座っている。完全に体重を預けているから、このままだと柏杜さんの足を痺れさせてしまうに違いない。せめて床に腰を降ろそう、と僅かに身じろいだ。
けれど、すぐに左腕の力を強められ、より身動きが取れなくなってしまった。
あたかも、少しでも離せば逃げてしまう、とでも思われているかのようだ。
ようやく頭が正常に機能し始め、次第に、全体的な現状をのみこめてきた。
のみこんでしまったせいで、更に困惑するはめになった。
…何なんだこの状態は…。
どうなっているのかはわかったが、なんでこうなっているのかがまったくつかめない。
身の振り方を考えていると、抑揚も感情もない声が間近で響いた。
「じゃあいままでずっとみんな一緒にいたんだ」
さっきとは違った良く通る声。
良く通る、低い声だった。
はははっ
自嘲的に薄く笑う、くぐもった声が背中に伝わる。
柏杜さんの右手が私の右腕から離れ、腹部の前を通って、今度は私の左腕を掴んだ。
ぎゅっ
苦しいほど力を込められる。
母親にすがる子供のようだ。
「服を買ったのは、柏杜さんに、もう嫌われたくなかったからです」
声が思うように出ない。
柏杜さんの笑い声が、ふつりと止んだ。
「柏杜さんは、自信なさそうにしている人が嫌いだと聞きました。…だから私は、もうフードをかぶりません」
私の右肩から、額が離れた。
「これなら、私を受け入れて下さいますか」
両腕の力が少し抜けたので、思い切って振りかえった。
目を見開いた柏杜さんの顔がすぐそこにあって、再び目が合った。
柏杜さんは。
「ばかだなあ」
そう言って、笑った。
「そんなの、もうとっくに…」
暗くてよく見えないが、目が、潤んでいるように見えた。
「ばかだなあ…」
独り言のようにそう呟くと、また私の肩を掴んで、背中を引きよせた。
どんっ
柏杜さんの左肩に音を立ててぶつかった。音のわりに、痛くはなかった。
今度は柏杜さんも両腕をすぐに下ろし、私が柏杜さん椅子に座ってるかのような形になった。
どうやら顔を見られたくないらしい。それを察して、前を向いたままで呼吸を整える。
柏杜さんが口を開いた。
「ずっと聞きたいと思っていたって、この前気がついたんだけど」
それはそれで変な言い方だが、特に文句をつける気もないので、そのまま無言でうなずく。
「…なんで?」
予想以上に漠然とした問いだった。
それ以上言うつもりもないらしく、黙ってしまったから、この前智者に言ったような答えを返した。
“なぜ柏杜さんと友達になりたいと思ったか”への答えだ。
「…なんだ、髪の毛が白いからじゃなかったんだ。…ああ、いや、そうじゃなくてさ…」
あっさりと否定された。言葉じりを濁している。
「…ちゃんと訊いてくれないと、ちゃんと答えられません」
ふてくされた私の言葉をもっともだと感じたものか、しばらく悩んでいる風にしてから、ぽつぽつと話し始めた。
「…最初」
私はやっと足から降りることを許され、今は柏杜さんの足の間に収まっている。
「三篠もすぐに来なくなると思った。4年ぐらい前からこの髪にして、物珍しげに近寄ってくる人はいても、それだけだった。あたりまえだけど、俺の事を格好良いとか、褒めちぎるのも…居なかった」
とものは家族の欲目だよ、と苦笑いをこぼす。
静かで、落ち着いた声だった。
「自信が無いのは、俺なんだ」
独白に近かった。
「俺は、俺が一番嫌いなんだ」
後ろを見たかったけれど、話の続きが聞きたかったから、我慢した。
「三篠が現れて、三篠と会うたびに、俺はますます自分が嫌いになっていった」
少し傷つく。
「三篠があんまりきれいだったから、自分がどんどん醜悪になって、汚れていくようだった」
黙っている。
「でも、そうして勝手に鬱々とするたびに、すくいあげてくれたのも三篠だった」
語る声が、熱を帯びる。
「三篠のせいで自分が嫌いになると同時に、三篠に褒められるたびに、俺は少しずつ、自分が好きになれた」
そこでふと、言葉が止まった。
「ねえ、格好良いっていうけど…」
やっと声を掛けられた。振り向くことができる。
澄んだ茶色い瞳は純粋な疑問の色を浮かべていた。両の目が美しくて、無意識に私は微笑んでいた。
まだちゃんとした問いにはなってないけれど。
「柏杜さんは、はたから見ていて、とても気持ちが良いんです」
今度は、柏杜さんが沈黙する番だった。
「いつでも、背筋がぴしっと伸びていて、所作には無駄がありません。仕事をする時の凛とした顔には、誇りと威厳を感じます。柏杜さんが淹れてくれた紅茶は本当に美味しかった。一回一回、あんなに真剣に、丁寧に淹れてくれるなら当然だと、勝手に納得しました」
聞き始めは柏杜さんも真顔だったのに、徐々に眉を歪ませていった。なんともこそばゆそうな表情だ。
なかなか見られない表情なので、嬉しくて顔をほころばせてしまう。
「内心で何を思っていても、柏杜さんは“客”には、絶対に笑顔を崩しませんでした。誰もに、包み込むような笑顔を浮かべていました」
サービスのために笑顔でいられるほど、器用な人ではないことくらい、私でもわかる。
「このお店を特別な場所にしたかったから、そうして、ここを守っているように見えました」
ふと、視線がそれる。
「この空間が、うつろわないように」
愛おしそうな眼をして、床を見つめる柏杜さん。
「この店の常連さんは、紅茶だけが目当てではありません。…変わらず迎えてくれる、この場所と、柏杜さんに会いに来ているんです」
はっとしたように、面を上げる。
「作り笑顔とか嘘とか、そういうのを見た時、私はいつも人間の俗っぽさを感じます。でも柏杜さんのは、作り笑顔も、嘘も、優しいから。相手を心から和ませようとするためのものだから。一時的な感情では、決して乱されないから。だからいつも変わらず、とても自然で、純粋で、美しいんです。人間ではないようだと…目の当たりにするたびに、思っていました。…そういうふうに、自分の大切なものを曲げない、まっすぐなところが、かっこいいんです」
小さく柏杜さんの頭が横に揺れた。歪ませた顔が震えている。だんだん、左右の揺れは大きくなる。
…否定している。
そっと
両手で、泣きそうな顔を包んだ。
「醜悪だとか…ひどい言葉を使って…そうやって、自分を嫌な奴だと思いこまないでください」
あたたかい気持ちがあふれて、自然と笑顔を浮かべていた。
普通に話しているつもりなのに聞こえた声は、震えていた。
「こんなに、素敵な人なのに」
目を細めて、喉からあふれるものを呑み下す。
「私は、誰よりも柏杜さんに、柏杜さんの魅力を分かってほしい」
涙が止まらない。
揺れは、次第におさまっていった。
「…うん」
柏杜さんは右頬を包む私の手の上に、自身の手を重ねた。
「…ありがとう」
今まで見たことのない、優しい笑顔だった。
指に涙が触れて、初めて柏杜さんも泣いていると分かった。
あの時と同じ、温かくて少し硬いその手をすり抜けて、静かに、私は手の位置を元に戻した。
「そう。最初はそれだけでした。でも」
流れていた涙を、指で軽くぬぐう。
柏杜さんも顔を逸らして、何度か袖を顔にあてていた。
「瑪瑙と、智者と、冥令と…友達になって…。柏杜さんと話をするようになって、違う顔が見えるようになりました。達観しているようで、子供っぽくて、時々厭味を言う。表の柏杜さんと裏の柏杜さん、両面の柏杜さんが見えた時に、初めて人間らしさを感じました。そうして、今まで以上に魅力的なひとだと、感じました。どんどん、もっと柏杜さんと一緒に居たい、もっと柏杜さんに近づきたい、思うようになりました」
困った顔をして、口をはさむ。
「普通逆じゃない?人間ぽさが見えたら、冷めるもんじゃないの」
声がいくらか明るい。大分、いつもの調子が戻ってきたようだった。
それを聞いて、私は少し首を傾げた。
「私は幻想や人形に、興味はありませんから」
「そ、そう」
すっぱり言い切ると、柏杜さんの顔は驚いたとも呆れたともいえないものになって、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が訪れる。私は言葉の続きを探す。
お互いに、見つめ合っているようで、お互いを見ていなかった。
智者はまだ街中を探し回っているのだろうか。冥令は今どのあたりに居るのだろうか。
「ずっと、ひたすら素敵だな、格好良いなって、そればかり思っていました」
いつの間にか俯いて、私は言う。視界の端で、こちらに向けられた視線を感じる。
両手を合わせて、意味もなく指を絡めたり離したりする。
難しい。
「…でも、駅で転んだ日」
あんなにたくさん喋ったのに。
「柏杜さんに引っ張ってもらって」
…言葉にするのは、難しい。
「あの時の背中が頭から離れなくて」
無意識に、両手で顔を覆う。
「あの日から…」
何も言わない柏杜さんは、もしかしたら私の話を聞いていないのかもしれない。
あらぬ方を眺めたまま、こちらを見もしていないのかもしれない。
暗闇では、何もわからない。
「柏杜さんに嫌われたくない。ずっと、傍にいたいと、強く思うようになりました」
両手を顔から外した。
この狭い空間はどこよりも暗いはずなのに、かすかな光も眩しく感じた。
相槌も聞こえないので、ちらりと様子を伺う。
まっすぐに
目を射抜かれた。
心臓がひとつ強く打つ。
とっさに目を離した。
手が、伸びてくる。
目の前に――
ガチャキィバターン!!!
取っ手が引かれ扉が開き扉が閉まる音が重なった音だった。
私と柏杜さんは二人揃って体をびくりとふるわせた。
「お待たせー…え?誰もいない?」
冥令の声だ。
「…ん」
かっ かっ
何故か。
かっ かっ かっ
何故かよどみない足音は、カウンター越しのすぐ向こう側で止まった。
「よっ…と」
ぎしっ、とカウンターが軋む音がした。
「なあにしてるの、おふたりさん」
目の前に、満面の笑みを浮かべた冥令の顔が、さかさまに表れた。