魔王陛下は次の反乱をお待ちです
魔王を殺すために集めた千人の兵が、魔王の帰りを出迎えていた。
城門の両側に整列する兵の手首には、赤い紐が巻かれている。
今日だけの識別標だ。これをつけた兵は味方。それ以外は、交戦を避けて拘束する。
魔王の首を取ったあとに、自分の国になる城だった。兵も、武器も、できるだけ失いたくない。
「陛下のお戻りだ。頭を下げろ」
将軍ガルネの命令に、兵たちが一斉に跪いた。
黒い馬車の扉が開く。
魔王オブシドは、御者の差し出した手を使わずに降りてきた。
飾りのない黒衣。肩まで流れる黒髪。二百年ものあいだ、誰にも明け渡さなかった王の顔には、今日も退屈が浮かんでいた。
「獣はおりましたか」
ガルネが尋ねると、魔王は短く答えた。
「いた」
「狩りのご首尾は」
「終わった」
それだけである。
北の山脈で目覚めた古竜だった。三つの砦が避難を済ませ、周辺の飛行路まで閉鎖した相手を、この王は朝食と夕食のあいだに片づけてしまう。
ガルネは唇の内側を噛んだ。
将軍が戦功を立てる機会さえ、王の暇つぶしに負ける。
ガルネは左の手袋を締めた。続いて右を。
十年かけた。
城の警備に自分の配下を送り込み、交代勤務の表を握った。勧誘は腹心と、その腹心が身元を保証する者に限った。魔王に忠実な指揮官には計画を明かさず、通常の命令で今日の城外勤務へ回してある。
反乱に加わった兵の多くは、魔王への恨みより、ガルネへの信頼を選んでいる。
その信頼を処刑台へ連れていくつもりはなかった。
魔王が城に入る。
背後で、重い門が閉じた。
いつもの音だった。
今日までは。
*
「厨房の封鎖だけは、お考え直しください」
侍従長アンバルは、縄で縛られていても声を荒らげなかった。
琥珀色の目が、向かいに立つ近衛隊長を見上げる。
「食事に毒を盛る気はありません」
ジルコンは答えた。
細身の剣士だった。白い髪を短く揃え、いつもと同じ白銀の鎧を着ている。違うのは、腰の剣と手首の赤い紐だけだ。
「そうではなく、料理人まで拘束しては夕食が作れません」
「今夜には王が変わります」
「どなたがお座りになっても、お食事は必要です」
ジルコンは少し考え、部下に命じた。
「厨房は監視だけに留めろ。刃物の持ち出しは禁止する」
「承知しました」
兵が走り去ると、アンバルは小さく息をついた。
「あなたまで、なぜ」
ジルコンの指が、剣の柄に触れた。
「陛下の警護を務めて百八十年になります」
「ええ」
「一度も、お守りできたことがありません」
魔王を狙った刺客は、近衛兵が剣を抜くより先に倒れていた。
魔王を狙った呪いは、術者のいる国まで逆流した。
守るはずの王に、守られる。ジルコンはそれを百八十年続けていた。
「陛下に届く刃がどのようなものか、確かめます」
最強の王の後ろで歳を重ねるより、守れる者のいる場所で剣士として働きたい。ガルネが王になるなら、その背を守るつもりだった。
「お尋ねになればよろしかったのでは」
「尋ねました」
ジルコンは、いつになく長く黙った。
「『予に届いた刃はない』と」
アンバルも黙った。
答えとしては正しかった。何の参考にもならないだけで。
遠くで鐘が鳴った。
夕刻を告げる鐘ではない。三度、短く。合図だ。
ジルコンは踵を返した。
「今夜には終わります」
「その言葉、覚えておきます」
*
玉座の間へ続く大扉は、内側から施錠されていた。
扉の前には、魔王に従う近衛兵が二十人。
ガルネの背後には、百二十人の精鋭兵がいた。
「将軍。これは何の騒ぎです」
「王を替える」
先頭の近衛兵が剣を抜いた。
ガルネは、その剣を自分の剣の腹で受けた。
刃を折る。
続く一撃で鎧の胸を打ち、息を奪う。
「殺すな。武器を落とさせろ」
背後から、青い光の鎖が伸びた。
二十人の腕と足が縛られる。抵抗の魔法を編もうとした者の足元には、別の魔法陣が先に開いた。
近衛兵の術が途切れる。
「魔力封鎖、完了。扉は任せてください」
大魔術師サフィラが、眼鏡を押し上げた。
青い髪の先から火花が散っている。
彼女の背後に控える魔術兵たちは、床に杖を打ちつけた。
銀の線が扉へ走る。
この城の防御術式を設計したのは、サフィラだった。
十年かけて、保守点検のための経路を増やした。扉も警報も連絡用の水晶も、いまはその経路から押さえてある。
ただし、魔王のいる玉座の間だけは、外側から制御できなかった。
「三秒、下がって」
サフィラが指を曲げる。
幾重もの保護を備えた大扉が、轟音とともに内側へ倒れた。
破片は兵に届く前に止まり、左右へ退く。
ガルネは煙の中へ進んだ。
玉座に、魔王が座っていた。
頬杖をつき、倒れた扉を眺めている。
驚いてもいなければ、怒ってもいない。
「ずいぶん騒がしいな」
ガルネは剣を抜いた。
「オブシド。今日で、その玉座を降りていただく」
背後で、誰かが息を吞んだ。
兵たちは王へ武器を向けている。それでも、名前を呼び捨てにすることには怯えたのだ。
「ほう」
魔王は頬杖を外した。
「城外に援軍はいません。転移も連絡も封じました。城門、兵舎、武器庫は我々が押さえています」
「そうか」
「近衛隊の半数も、こちらにつきました」
ジルコンが煙を抜け、ガルネの隣に立った。
魔王の目が、白髪の剣士へ向く。
「貴様もか」
「本日は、お命を狙います」
いつも警護に立つ場所より、十歩遠い。
ジルコンはその距離で剣を抜いた。
サフィラが右へ歩く。
精鋭兵が左右に分かれ、弓と槍を構えた。
「お覚悟を」
ガルネが告げると、魔王は立ち上がった。
玉座の前に、黒い衣の裾が落ちる。
「いいだろう」
その口元が、わずかに上がった。
「始めよ」
*
最初の矢は、魔王の喉へ飛んだ。
矢尻に結びつけられた魔法が、空中で枝分かれする。
一射が八射になる。百の射線が、魔王の立つ一点へ重なった。
逃げ道はなかった。
魔王が手を上げる。
すべての矢が止まった。
鏃が黒衣に触れる寸前で、宙に並んでいる。
「射線は悪くない」
指先が横へ動いた。
矢が一斉に向きを変え、兵たちの足元へ突き刺さる。
弓を握る腕が震えた。
「続けろ!」
ガルネが叫んだ。
止まれば終わる。
ここまでは、想定に入っていた。
槍兵が前へ出る。同時に魔術兵が床へ術式を走らせた。
魔王の周囲に、透明な壁が立ち上がる。
六面の壁が噛み合い、箱を作った。
サフィラは息を詰めた。
一枚の壁を六層に重ね、魔力を封じる六重結界。
外側から供給する魔力に、魔王の力を中和する聖鉱の粉を混ぜてある。
人間の神殿から、その粉を買い集めるだけで七年かかった。
魔王が手のひらに、小さな火を灯す。
火はすぐに消えた。
サフィラの指が震える。
成立した。
魔王の魔法を、初めて止めた。
「いまです!」
ジルコンが剣を振った。
刃は手元から消えた。
結界に刻んでおいた小さな転位陣を通り、魔王の首の後ろへ現れる。
箱の内部で発動する魔法ではない。外側から、刃そのものを送り込んだ。
同じ瞬間、魔王は右手を背後へ回した。
人差し指と中指が、剣の腹を挟む。
ジルコンの肩に、骨が軋むほどの反動が来た。
握った柄が、それ以上動かない。
「魔力を封じたな」
魔王は左手を結界へ当てた。
「よくできている」
透明な壁に、五本の亀裂が走った。
指を曲げたのだ。
箱が、内側から砕ける。
魔術兵が次々に膝をついた。
砕けた結界から逆流した力が、杖を折っていく。
サフィラは供給の線を切り、兵への逆流を止めた。
「何ですか、いまの」
「握った」
「魔法では」
「ない」
魔王は、挟んでいた剣を放した。
ジルコンがよろめきながら構え直す。
サフィラは奥歯を噛んだ。
魔法を使わせなければ勝てる。
その前提が、たった一度手を握っただけで砕かれた。
けれど、それで終わるために十年を使ったのではない。
「ガルネ。時間を」
「任せろ」
将軍が床を蹴った。
赤い光が剣に宿る。
戦場で敵の盾を断ち、重装騎兵の隊列を割ってきた刃だった。
魔王は腕を上げる。
手の甲で、剣の腹を叩いた。
軌道が逸れる。
ガルネは、その勢いを利用して二撃目を返した。
低く、膝へ。
魔王は剣の根元を靴先で踏んだ。
床が砕けた。
動けない。
ガルネは柄を放し、拳を打ち込んだ。
魔王の胸へ届く前に、その手首が掴まれる。
「剣を捨てる判断は早い」
身体が宙へ浮いた。
兵たちの盾の上へ投げ返される。
盾を受け取る腕が曲がり、数人が尻餅をついた。
ガルネは咳き込みながら立ち上がる。
頭上から、青い光が差した。
「全員、壁際へ!」
サフィラの声に、精鋭兵たちが左右へ退いた。
玉座の間の高い天井に、魔法陣が一つ開く。
二つ。三つ。
七つ目が重なった瞬間、中央に黒い球が生まれた。
灯火が細くなる。
部屋の熱が、球の周囲へ吸い上げられる。
兵たちの吐く息が白くなった。
黒い球の縁だけが、眼を刺すほど明るい。
サフィラは杖を両手で握った。
「《黒陽葬》」
かつて敵の城塞を、外壁から地下の兵糧庫まで焼き抜いた術だった。
その威力を、いまは一人分の範囲へ絞っている。
周囲に置いた魔術兵の防護壁は、味方を巻き込まないためのもの。
術者自身の逃げ場はなかった。
制御を失えば、最初にサフィラが焼かれる。
ガルネが、立ち上がりかけた兵を押さえた。
これだけは、近づいてはいけない。
魔王は顔を上げた。
「ほう」
その目から、退屈が消えていた。
「見せてみよ」
サフィラが杖を振り下ろす。
黒い太陽が、落ちた。
魔王は右手を上げた。
七番目の魔法陣へ、指先を向ける。
銀の線が一本走り、陣の外縁を横切った。
七番目だけが、逆向きに回る。
落下が止まった。
黒い太陽は、小さくなり始めた。
人の頭ほどに。拳ほどに。
白い刃が、魔王の頭上へ現れた。
術が破られる瞬間を狙い、ジルコンは太陽の光と熱に隠した刃を真上から落とした。
魔王は左の掌で刃を受けた。
鋼が、鏡のように割れた。
破片の一つ一つが薄い刃となり、魔王の腕を避けて四方から喉へ迫る。
「《鏡刃》」
ジルコンが握るのは、柄だけだった。
斬撃を止められることを前提に、鍛え直した剣。
正面の刃に触れさせ、その接触点を中心に転位陣を開く。
斬撃を受けた相手自身を、刃の出口にする技だった。
魔王の手首に、白い魔法陣が浮かんだ。
ジルコンの口元が動いた。
届く。
次の瞬間、その魔法陣が消えた。
破片も転位陣も、ひとまとめに細い黒い輪で閉じ込められていた。魔王が左手を握ると、破片が刃の形に並び、輪がそれを一振りの剣としてつなぎ止めた。
「出口に触れさせてから、囲むのか」
魔王は剣を眺めた。
「よく見ていたな」
ジルコンは柄を捨てた。
腰から短剣を抜いて踏み込む。
魔王が振った剣の腹が、肩を打った。
白銀の鎧がへこむ。
ジルコンは床を滑り、壁際で止まった。
魔王の右手の先で、太陽が火の粒まで縮んだ。
サフィラの杖の上へ、その粒が戻る。
彼女は呼吸を忘れた。
十年。
研究室で朝を迎えた夜。失敗した術式で焼けた腕。
すべてが、杖の先に小さく揺れている。
「なぜ」
魔王が言った。
「最後の環で、ほかの六つを統べている。そこを奪えばよい」
「奪えば、ではありません。あの速度で、どうやって」
「構造を見れば分かる」
分からないから、十年かかったのだ。
サフィラは歯を食いしばった。
泣く暇があれば、覚えなければ。
銀の線が入った角度。反転した環。圧縮されても破裂しなかった、黒い太陽の核。
魔王は戻した火の粒へ息を吹きかけた。
火が消えた。
「まだあるか」
サフィラは、何も答えられなかった。
魔王は剣を置いた。
玉座の脇に、丁寧に。
ガルネは立ち上がった。
砕けた床から、自分の剣を引き抜く。
骨が軋んでいた。左腕は上がらない。
「まだ終わっていない」
魔王の目が、将軍へ向いた。
その眼前で、ガルネは右の手袋を外した。
手首に巻いた赤い紐を、剣へ結ぶ。
城中で、赤い紐が光った。
武器庫を押さえた兵が、槍を床へ立てる。
城門の兵が、盾を地面へ伏せる。
玉座の間にいる者だけではない。
千人の反乱兵が、同じ術式へ魔力を注ぎ込んだ。
赤い紐は識別標であり、魔力を送るための結び目でもあった。
全員が承知でつけたものだ。
王に届く一撃を、将軍に託すために。
「《赤冠》」
ガルネの頭上へ、赤い光の冠が浮かんだ。
剣が燃える。
千人の魔力が将軍の身体を満たし、傷ついた腕を動かした。
サフィラが、床に片膝をついたまま息を吞む。
ガルネは、この術を使うことを最後まで嫌がっていた。
失敗したときには、千人全員が魔力を使い果たす。
だが、ほかの切り札は尽きた。
ガルネは剣を構えた。
「私を王にしたいと言った者たちだ」
反乱の準備を始めた夜、最初の一人に告げられた。
将軍についていきたい、と。
その兵は、今も城門にいる。
「その願いを、無駄にはしない」
赤い剣が振り下ろされる。
刃から伸びた光が、玉座の間を縦に割った。
魔王が、赤い斬撃を両掌で挟み止めた。
床石が沈む。
壁の燭台が落ち、玉座の背に亀裂が走った。
ガルネは叫んだ。
焼けた腕から、柄へ血が滴る。
魔王の足は、動いていなかった。
「千人か」
魔王の手の間で、光が細くなる。
「よく集めた」
掌が閉じた。
赤い光が砕けた。
ガルネの剣が、半ばから折れた。
千人へつながる魔力の道が、剥き出しになる。
そこへ魔王が指を入れた。
サフィラが顔を上げる。
「接続を切って!」
遅かった。
黒い輪が、ガルネの足元へ開いた。
赤い紐を伝い、同じ輪が兵たちの足元にも浮かぶ。
足と腕に、重みがかかった。
ガルネは踏ん張った。
その動きに応じて、重みが増す。
片膝が床に落ち、剣が手を離れた。
玉座の間で、兵が次々に武器を置いた。
城門でも。武器庫でも。
動こうとするほど身体が重くなり、座り込んで力を抜けば、息はできる。
千人の力を集めた道を、魔王が逆に辿ったのだ。
サフィラは最後の魔力で輪に触れた。
陣を消そうとする。
自分の腕にも、重みが宿った。
魔王は、彼女へ目を向けた。
「抵抗する魔力も重みに換えている。術で押すほど重くなるぞ」
サフィラは唇を噛み、杖を置いた。
ジルコンも、短剣から手を離した。
魔王は右手を下ろす。
床の黒い輪が薄くなった。
だが、兵たちは誰も立ち上がらなかった。
王を替えるために集めた千人が、王の前に伏していた。
*
ガルネは、折れた剣を見ていた。
十年の終わりにしては、短かった。
玉座の間へ踏み込んでから、鐘が一度鳴るほどの時間さえ経っていない。
「私が首謀者です」
顔を上げた。
「計画も、兵の配置も、私が決めました。兵は私の命令に従っただけです。処分は私に」
「私の魔法は、私が組みました」
サフィラが口を挟んだ。
「都合よく、研究まであなたのものにしないでください」
「サフィラ」
「私も自分で決めました」
ジルコンが続けた。
「近衛隊への指示は、私の責任です」
魔王は三人を見てから、割れた玉座へ目を向けた。
「そこまで欲しいものか」
ガルネは答えた。
「欲しいです」
最期まで、それだけは嘘にしたくなかった。
「陛下の下で働く限り、私の勝利は陛下の勝利です。私が築いたものも、集めた者たちも、最後には陛下のものになる」
「それが将軍だ」
「だから、王になりたい」
魔王は、少し黙った。
「予との決闘で負けてから、十一年になるか」
「はい」
「今度は三人と千人か」
「一人で勝てないと、知りましたので」
サフィラが隣で、かすかに笑った。
十年の始まりにも、ガルネは同じことを言った。
一人では勝てない。力を貸してほしい。
負けを認めるところから始まった反乱だった。
「なるほど」
魔王は、壊れた玉座の肘掛けを拾った。
「十年待った甲斐はあった」
ガルネは顔を上げた。
「……十年?」
「西回廊の、使っていない小客間だったな」
サフィラの眼鏡がずれた。
ジルコンの眉が動いた。
最初の密談をした場所だった。
「なぜ、ご存じなのです」
「散歩の途中で聞こえた」
魔王はあっさり言った。
「予を倒す策を練る、と。久しぶりに楽しみができた」
仲間を集める前から、知られていた。ガルネの喉が鳴った。
「では、今日まで……」
「いつ来るのかと思っていたぞ」
「止めようとは」
「なぜだ。止めれば、来なくなる」
三人とも、言葉を失った。
魔王は肘掛けを玉座の座面へ置いた。
「して、次はいつだ」
ガルネは、その言葉を理解できなかった。
「次、とは」
「反乱だ。一度で終わるのか?」
兵の一人が、顔を上げた。
別の兵が、その肩を押さえた。
まだ処刑の話が済んでいない。
「我々を、お許しになるのですか」
ジルコンが尋ねた。
「構わぬ。城の兵も含め、今日の反乱はすべて許す」
魔王は足元の黒い輪を消した。
魔王は兵の一人へ、城中に知らせるよう命じた。拘束した者を解放し、敵味方を問わず、怪我人には治癒師を呼べ、と。
身体が軽くなる。
それでも、ガルネにはすぐ立ち上がることができなかった。
「予の首を狙う者を殺していては、次の楽しみがなくなる」
魔王は、サフィラへ向き直った。
「あの黒い太陽は、いつ完成した」
「……半年前です」
「六重結界は」
「二年前。聖鉱の配合を変えてから、安定しました」
「では、その二年で、予が素手で割る場合も考えられたな」
サフィラの顔が赤くなった。
「普通は割れません」
「予は割った」
言い返せない。
彼女は乱れた髪をかき上げた。
「次は、割らせません」
魔王の口元が上がった。
「それを見たい」
ガルネは床へ手をついた。
立ち上がる。
傷ついた足が震えたが、もう重みの魔法ではなかった。
「次も、その玉座を狙ってよいのですね」
「そう言っている」
「余興として、負け役を務めるつもりはありません」
ガルネは魔王の目を見返した。
「次こそ、奪います」
魔王が笑った。
声を出して。
兵たちが、初めて聞く笑い声だった。
「ならば、約束しよう」
割れた玉座の前で、魔王は告げた。
「予に敗北を認めさせた者に、魔王の座をやる。策も武器も仲間も、好きに用意せよ。遠慮は要らぬ。本気で奪いに来い」
ガルネの右手が、ゆっくり拳になった。
*
アンバルが玉座の間へ来たとき、まず目に入ったのは倒れた扉だった。
次に、割れた床。
最後に、砕けた玉座。
「陛下」
「夕食か」
「その前に、状況を伺いたく」
「反乱が終わった」
「それは、見れば分かります」
アンバルは、三人の幹部を見た。
首がついている。
手も縛られていない。
サフィラに至っては、壊れた壁へ小さな術式を書きつけていた。
「全員、許した。次もやる」
侍従長の目が、魔王へ戻った。
「次」
「一年後でどうだ」
魔王は三人へ尋ねた。
ガルネが答える前に、サフィラが口を開いた。
「最低でも三年は。陣の構造を根本から変える必要があります」
「長い」
「十年お待ちになったのでしょう」
「もう一度十年待てというのか」
サフィラは黙った。
アンバルが咳払いをした。
「城を直す期間もございます」
「一年で直せぬのか」
「直せます。ただ、直したあとに、また壊すのであれば」
侍従長は割れた玉座を指した。
「開催場所を別にしてください」
魔王は玉座を見た。
その座面に、片方の肘掛けと折れた矢が載っている。
「ここでは駄目か」
「駄目です」
反乱を知った瞬間より、はっきりした声だった。
ガルネが、少しだけ笑った。
魔王に向けた笑いではない。
十年の計画に、城の修繕費を入れていなかった自分へだった。
*
三週間後、魔王は各氏族の長を城へ集めた。
反乱を許したこと。
今後、年に一度、自分の王座を懸けた挑戦を受けること。
その二つを、継承の宣言として書面にした。
ガルネも、王座を譲る約束を確かめるために立ち会った。
「複数で挑むことも、お認めになるのですか」
氏族長の一人が尋ねる。
「構わぬ」
「負けた者の処遇は」
「反乱の罪には問わぬ。次の年に、また来ればよい」
ざわめきが広がった。
書面には、挑戦者以外を巻き込まないこと、開催日以外の仕事は通常どおり務めることも記されていた。組で挑む場合は、王位を受け取る代表者を一人届け出る。
ガルネは、その条件を読んで署名した。
三人と兵たちの組は、ガルネを代表とした。
国を引き継ぐために国を壊すつもりはない。
「殺す必要はない。予に敗北を認めさせればよい」
「負けても、お認めにならなければ終わりでしょうか」
魔王の指が、自分の名を記した場所へ触れた。
「敗れてなお、勝ったふりをして玉座にしがみつけと?」
ガルネは、ゆっくり頭を下げた。
「そのお答えで、十分です」
各氏族長が証人として名を記した。
同じ宣言が、国の広場と兵舎に掲げられた。
魔王の王座を奪う試みが、魔王の名によって許可された。
兵舎では、それを三度読み直す兵がいた。
前回の反乱に加わらなかった者たちも、赤い紐をどこで受け取れるのか尋ねに来た。
ガルネは、志願者を訓練場へ集めた。
「失敗しても、処刑はされない」
兵たちの顔が緩む。
将軍は、その顔を見渡した。
「だが、陛下の魔法を受ければ痛い。怪我もする。刃の前へ出れば死ぬこともある。お祭りを見に来たつもりの者は、見物席へ行け」
誰も動かなかった。
「次は勝つ。そのために残る者へ、訓練をつける」
槍の石突きが、地面を打った。
最初の反乱で城門を守った兵が、前の列にいた。
腕には、まだ赤い紐を巻いている。
「将軍。今度は、あの輪を踏みません」
「あれは向こうから来る」
「では、来させません」
ガルネは笑った。
「サフィラに聞いてこい。どうすればいいかは、俺も知りたい」
*
一年後の反乱は、四十七秒で終わった。
開催地に選ばれた南の演習場は、古い石切り場を拡張したものだった。
民家は遠く、見物席には幾重もの防護結界がある。
治癒師と救護兵も待機した。
魔王は開始の鐘で石の椅子から立ち、その前で挑戦者を待った。
ガルネが突撃した。
サフィラは結界を十二重へ増やし、ジルコンはその内側へ剣を送り込んだ。
兵たちは左右から魔法を撃った。
魔王は結界の継ぎ目を見つけた。
そこを握って押し開き、箱を構成する術式の一部を外側へ引き出した。
触れられた術式が、書き換えられる。
魔王を閉じ込めていた壁が広がり、外で攻撃する三人と前衛兵を包んだ。
魔王自身は拘束の対象から外れた。足の位置は、変わっていなかった。
サフィラが外に残した供給路を遮断するまでに、魔王は新たな拘束の術を重ねた。結界の外から反乱兵が攻撃を続けても、その手は止まらなかった。
解除を終えた三人は、自分たちの足元にある黒い輪を見た。
ほかの兵にも同じ輪が浮かんでいた。開始から、四十七秒だった。
「中の魔法は封じたが、外側には術式が残っていた」
魔王は、サフィラに言った。
「外から組んだものを、外から崩しただけだ」
サフィラは、眼鏡を外した。
両手で顔を覆う。
「去年より、早い」
兵も結界も増やした。去年の続きを用意して、去年より簡単に負けた。
見物席で、誰かが拍手をした。
ガルネが振り向くと、すぐに止まった。
魔王だけが楽しそうだった。
「来年はどうする」
サフィラが顔から手を離した。
「それを今から考えるのです」
*
その晩、ガルネは兵舎に三人分の椅子を運んだ。
サフィラは紙の束を抱えて来た。
ジルコンは、修理を終えた白い剣を持って来た。
「強くしたものを、順に出しても駄目だ」
ガルネが言った。
「順には出していません。今日は、同時に」
「同じ場所へ、同じ時に攻撃しただけだ。陛下は、最初に結界へ手をつければ、全部を止められた」
「陛下は、攻撃を止めているあいだも、こちらを見ています」
近衛隊長は言った。
「矢を止めても、将軍を見ていた。黒陽葬を破るときも、私の剣を見ていた」
「どうすればいい」
「一つを止めることが、ほかを止める邪魔になるようにする」
サフィラの指が、机を叩いた。
「……大きな一つの術にしない。小さな術を、それぞれ別に動かす」
「千人の力を俺へ集めるのも、やめる」
ガルネが続けた。
最後の《赤冠》が、全軍を制圧する道になってしまった。
部下の力を受け取って強くなることばかり考え、部下をどう動かすかを考え足りなかった。
「兵にも、別々の仕事をさせる」
サフィラが紙を一枚広げた。
演習場の図だった。
「まず、私の魔法を破ってください」
「俺がか」
「ええ。陛下に破られるまで欠点に気づかないのでは、一年ごとに一つしか直せません」
ジルコンが椅子を寄せた。
「私も加わります」
「寝る時間は取れ」
サフィラが顔を上げる。
「将軍こそ」
その夜、三人は魔法陣を組んでは崩した。
翌朝、最初に訓練場へ来た兵が、三人分の朝食を運んできた。
*
次の反乱の日、魔王は開始時刻より早く演習場へ来た。
アンバルが、見物席の結界を確認していた。
「準備は済んだか」
「救護所は整っています。観客の入場は、これからです」
「そうか」
魔王は石の椅子へ座った。
少し経つと、立った。
演習場の端まで歩き、地面に埋め込まれた術式を覗く。
「陛下」
「何だ」
「始まる前にお調べになっては、挑戦者が困ります」
魔王は足を止めた。
椅子へ戻る。
「まだか」
「あと半刻です」
アンバルは、手元の進行表を見た。
宴の余興を切り上げる王のために、何度も短くした表だった。
今日は、開始までの待ち時間を削る必要があるかもしれない。
入場口から、ガルネが現れた。
右の手袋を締め、続いて左を締める。
サフィラは青い髪を後ろで束ねていた。
ジルコンの剣は、鞘に納まっている。
兵たちが、赤い紐に青や白の腕章を加えて入場した。前回は見物席にいた者も、今日は役割を持って列に加わっている。
ガルネが、魔王の前で立ち止まった。
「本日も、お命を狙います」
「待っていた」
魔王は椅子から立った。
周囲に、兵たちが広がる。
見物席の声が小さくなった。
開始の鐘が鳴った。
最初の矢は、魔王へ向かわなかった。
足元の地面へ刺さる。
石の粉が舞い、地中に埋めた魔法陣が一斉に起動した。
百を超える青い線が、魔王の周囲で交差する。
白い腕章の兵は、ガルネの退路を担当していた。地面には黒い太陽を一時的に溜める陣がある。標的を外れた力を次の一撃へ戻すためのものだ。使い終えた力は、地下の放熱路へ逃がせる。
サフィラが杖を上げた。
頭上に黒い球が生まれる。
前回までと違い、七つの環はない。
球を維持する線が、足元の百の陣へ散っている。
魔王が地面へ指を向けた。
触れようとした陣が消え、別の場所へ現れる。
担当の魔術兵が、汗を流して杖を動かす。
一人が一つ。
魔王の指を見て、自分の陣だけを移動させる。
サフィラ一人から奪えば終わる術ではなくなっていた。
魔王の目が、兵たちへ向いた。
ガルネが踏み込んだ。
赤い剣を振り下ろす。
魔王の右手が、剣の腹を打った。
刃が逸れる。
ガルネは抗わず、踏み込んだ足を軸に回った。
二撃目を返す。
そこへ、白い刃が重なった。
ジルコンの剣だった。
将軍の剣を転位の出口に使い、二本の刃を交互に送り込む。
魔王が一本へ触れれば、もう一本がその陰から伸びる。
魔王が左手を上げた。
細い黒い輪が、二本の刃を囲みかける。
「いま!」
サフィラが叫んだ。
青い腕章の兵が、杖を床へ打った。
輪のすぐ外側に、小さな封鎖結界が開く。
黒い輪が、途中で途切れた。
前回は、魔王ごと閉じ込めようとした。
今回は、組みかけた魔法の一部分だけを封じる。
術が完成する前なら、必要な魔力はずっと少ない。
魔王の口元が上がった。
ガルネの剣が、胸へ迫る。
魔王は指で刃を掴んだ。
ジルコンの刃が背後へ回る。
魔王は、掴んだ剣を引き寄せた。
ガルネの身体ごと持ち上げ、背後の刃と軌道を重ねる。
ジルコンが転位先を変えた。
仲間を斬らずに済む場所へ。
それも、訓練で繰り返した動きだった。
白い刃が地面へ刺さる。
同時に、ガルネが剣の柄を放した。
魔王へ身体を預けるほど近い位置で、拳を突き出す。
魔王が、その手首を掴んだ。
ガルネは笑った。
「サフィラ!」
黒い太陽が落ちる。
魔王の真上ではなかった。
右前方から、斜めに。
同時に、ジルコンの刃が左後方から現れる。
魔王の右手は将軍の剣を握っていた。
左手は将軍の手首を掴んでいた。
術を編めば、その一部分へ封鎖結界が重なる。
封鎖担当の兵たちは、魔王の手を見ることだけを命じられていた。
魔王の指が開いた。
剣と手首が放される。
白い腕章の兵が杖を引いた。ガルネの足元の転位陣が起動し、その身体を魔王のそばから退避させる。手を掴まれたままでは使えない術だった。
黒い靴が、地面を離れた。
一歩。
魔王が横へ動いた。
サフィラは杖を引いた。
落下する黒い太陽が、地面の受け止め用の陣へ沈む。
演習場の中央で、石が赤く焼けた。
ジルコンの剣が、その縁へ突き刺さる。
一瞬、誰も声を出さなかった。
ガルネは、魔王の足元を見た。
靴の跡が、二つある。
最初に立った場所と、今いる場所に。
「動いた」
兵の声がした。
最初の反乱で城門にいた兵だった。
「陛下が、動いたぞ!」
ガルネは剣を拾い上げた。
「止まるな!」
歓声が、突撃の声へ変わる。
黒い太陽は、地面の陣に蓄えられている。
サフィラが再び杖を上げ、魔術兵たちが陣を動かした。
ジルコンは剣を転位させ、手元へ戻す。
魔王は、その全員を見た。
「よい」
右手が上がった。
「では、次だ」
黒い線が、空に描かれた。
サフィラは、自分の杖を止めた。
見覚えのある形だった。
先ほどの封鎖結界が、魔術兵の陣と同じ数だけ現れる。
先に閉じ込められたのは、封鎖結界を担当する兵の陣だった。
兵が魔王の手へ向けて編んだ結界も、箱の中で途切れた。
続いて、黒い太陽を支える陣が包まれる。
サフィラは供給を切った。
黒い太陽を地面の陣へ戻し、蓄えていた力ごと、地下の放熱路へ逃がした。
演習場の地面が震えた。
ガルネが踏み込む。
魔王の掌が、剣の腹へ触れた。
赤い刃が地面へ縫い止められる。
ジルコンの剣も、転位の出口を黒い輪に囲まれた。
兵たちが陣を逃がそうとする。
黒い箱も、それを追って動いた。
サフィラは、唇を開いた。
自分たちが別々に担当し、何か月もかけて覚えた操作を、魔王は一人で行っていた。
そのうえで、二人の剣も止めている。
封鎖を担当する兵は、自分の陣を守ることで手一杯だった。
「使い方は、よく分かった」
魔王が掌を閉じた。
黒い箱が小さくなる。
中の陣が、音もなくほどけていった。
ガルネの剣は抜けず、ジルコンの刃も転位できなかった。
サフィラは杖を下ろした。
兵たちが、魔王を見る。
王は、全員を見渡した。
「まだやるか」
ガルネは、自分の手を見た。
震えている。
立っているだけで、汗が地面へ落ちた。
ほかの二人も、兵たちも同じだった。
魔王だけが、息さえ乱していない。
「……本日は、ここまでです」
ガルネは剣から手を離した。
拘束が消える。
見物席から、大きな拍手が起こった。
今度はガルネも、振り向かなかった。
*
救護所で、ガルネは両手に包帯を巻かれた。
サフィラは壁へもたれ、目を閉じていた。
ジルコンは、その横で剣の刃を確かめている。
「一歩でしたね」
サフィラが言った。
「一歩だ」
あれだけ準備して、一歩。だが、去年までは届かなかった一歩だった。
入口の布が持ち上がる。
魔王が入ってきた。
「あの連携は、誰が考えた」
三人が、互いを見た。
「三人で」
ガルネが答える。
「実行したのは、兵も一緒です」
「そうか」
魔王が頷いた。
サフィラが目を開く。
「陛下。最後は、避ける必要があったのですか」
魔王は、彼女を見た。
「あの位置で止めるには、貴様の術を崩しながら、剣と手首を放す必要があった。一歩動くほうが早かった」
「わざとではなく」
「貴様らを喜ばせるためにか?」
サフィラは、口元を隠した。
笑っていた。
「それで十分です」
魔王が鼻を鳴らした。
「勝ったような顔をするな。一歩で玉座はやらぬぞ」
「承知しています」
ガルネは包帯を巻いた手を握った。
「次は、二歩以上を」
「歩かせたいのか、王になりたいのか、どちらだ」
ガルネは魔王を見た。
「王になります」
魔王の口元が、ゆっくり上がった。
「待っている」
入口の布が下りる。
三人は、しばらく黙っていた。
サフィラが起き上がった。
「私の結界を使われました」
「見た」
「あの組み方なら、動かす速度を上げられます。覚えていますか」
ジルコンが頷いた。
「四番目の陣が、一瞬遅れていました」
「どれくらい」
「私の刃なら、通せる程度には」
ガルネは立ち上がった。
入口の外には、訓練場へ戻る兵たちが集まっていた。
将軍に気づいた一人が、拳を上げる。
「来年も、参加してよろしいですか」
ガルネは、包帯の手を上げた。
「明日から、訓練だ」
*
帰りの馬車で、アンバルが翌月の予定を読み上げた。
各氏族との会談。軍の閲兵。収穫を祝う宴。
魔王は窓の外を見ていた。
「陛下。宴の余興ですが」
「任せる」
「承知しました」
侍従長が手帳を閉じかける。
魔王が振り向いた。
「次の反乱は、同じ日か」
「はい。一年後の本日です」
「書いておけ」
「すでに記しております」
魔王は手を差し出した。
アンバルは手帳を渡す。
王は、来年の頁を開いた。
小さく記された『反乱大会』の文字を見つける。
指で、その日を確かめた。
アンバルは向かいの席で、予定を読み上げるのをやめた。
少しのあいだなら、待ってもよいだろう。
魔王はまだ、来年の頁を見ていた。




