現代知識で無双できる――と思っていた時代が、私にもありました
日本人転生者でありながら、平凡な町の平凡な農家の娘として生まれ変わったことを、アリアナは少しだけ残念に思った。
膨大な資金もない。高い地位もない。人脈といえば、町の自治会長と父が顔見知りだった程度である。
何か使えそうな知識でもあれば良かったのだが、前世の彼女はただの事務職のOLだった。
医者でもない。
研究者でもない。
技術者でもない。
そもそも、前世の記憶自体がかなり曖昧だ。
名前も思い出せないし、どんな人生を送っていたのかもよく覚えていない。
覚えていることといえば、結婚とは縁がなく、恋人もいない、いわゆる『喪女』だったことくらいである。
だから――
よくある現代知識による無双などという夢は、八歳の秋、さつまいもを収穫しながら諦めた。
*****
それから数年が過ぎた。
アリアナは学校へ通いながら家の手伝いをし、相変わらず平凡な毎日を送っていた。
現代知識で無双するという夢はとっくに諦めていたが、だからといって人生に不満があるわけでもない。畑仕事は大変だが、家族は優しい。それなりに楽しい日々だった。
そんなある日の朝。
父が買ってきた新聞を何気なく眺めていたアリアナは、ある見出しに目を留めた。
『伯爵令嬢、農地改革に失敗』
『収穫量激減に領民阿鼻叫喚』
「なにこれ……」
思わず呟く。
記事によれば、その伯爵令嬢は婚約者との顔合わせの席で突然倒れたらしい。そして目を覚ました後、まるで別人のようになった。
婚約を解消し、領地へ戻り、新たな農法や肥料の導入を次々と進めたという。当初は成果を上げていたらしい。
しかし数年後。
農地の疲弊や病害が発生し、領内は深刻な不作に見舞われた。
(あれ?)
アリアナは首を傾げた。どこかで聞いた話のような気がする。
突然倒れる。別人のようになる。妙に進んだ知識を語り始める。
まるで、生まれ変わる前に読んだことのある転生小説のようだった。
まさか、と思う。
けれど――
(もしかして、この人……)
そんな考えが頭をよぎったものの、結局それ以上は分からなかった。
新聞に載るのは結果だけだ。その伯爵令嬢が何を考え、何を目指していたのかまでは書かれていない。
アリアナは最後まで記事を読み、新聞を畳んだ。
*****
春が来た。
畑に種を蒔き、雑草を抜き、雨が降れば空を見上げる。
そんなある日。市場の帰りに買った新聞の片隅に、小さな記事を見つけた。
『男爵家次男、古代遺跡探索へ』
『傭兵数名を伴い出発』
記事によれば、その男は半年ほど前に落馬事故を起こし、一時は生死の境をさまよったらしい。
その後、突然「遺跡には古代文明の技術が眠っている」と言い始めたのだという。
「また?」
思わず呟いた。
記事の続きを読む。本人は強く反対する家族を振り切り、私財を投じて探索隊を結成。
現在も消息不明。
なお男爵家は捜索願を提出したとのこと。
アリアナは新聞を閉じた。
(あぁ……)
なんとなく察した。
きっと彼は、何かを知っているつもりだったのだろう。
けれど。
知っていることと、辿り着けることは別問題である。
*****
冬。
街は聖夜祭の準備で賑わっていた。
雪の降る広場を歩いていると、新聞売りの少年が大声を張り上げる。
「号外! 号外!」
「新薬開発で逮捕者!」
アリアナは思わず足を止めた。嫌な予感がする。受け取った号外を開けば、予感は見事に的中した。
ある薬師が事故の後に突然性格を変え、新薬開発に没頭。画期的な治療薬だと売り出したものの、重篤な副作用が発生。多数の被害者が出た結果、開発禁止処分を受けたらしい。
(薬剤師さんだったのかしら)
記事を読みながら思う。
けれど前世で薬剤師だったとしても、この世界の植物は違う。
材料も違う。
設備も違う。
きっと、思っていたより難しかったのだろう。
雪が静かに降っていた。
アリアナは温かい焼き菓子を一つ買い、家路についた。
*****
その後にも、新聞記事は様々な出来事を伝えてくれた。
ある国では、学園に通う男爵令嬢が突然王太子への猛アピールを始めたらしい。
しかし、その王太子には既に婚約者がいた。
公爵令嬢である。
男爵令嬢はそんなことはお構いなしだったようで、授業中だろうが舞踏会だろうが、とにかく王太子へ熱烈な求愛を続けたという。
その内容は、新聞に載せられる範囲だけでも十分に強烈だった。
学園中の生徒や教師たちが困惑し、婚約者である公爵令嬢は終始静観していたそうだが、最終的には王家が介入。度重なる不敬行為と王家への名誉毀損を理由に、男爵家は取り潰しとなった。
記事を読み終えたアリアナは思った。
(きっと恋愛ゲームか何かだったのね)
また、ある時は「国民皆保険」を掲げる文官の話が新聞を賑わせた。
事故の後から人格が変わったその男は、誰もが平等に医療を受けられる制度を提唱したらしい。
理念そのものは立派だった。民衆からの支持もあったという。
だが、問題は金だった。
制度を維持するための財源がない。税収も足りない。病院も足りない。医師も足りない。
結局、その構想は数年で頓挫した。
新聞では大失敗と書かれていたが、アリアナは少しだけ複雑な気持ちになった。
少なくとも、その文官は誰かを救いたかったのだろう。
結果はともかくとして。
この世界には、魔法はない。
魔物もいなければ竜もいない。
邪神もいなければ聖女もいない。
勇者が魔王を倒すこともなければ、神託によって世界が救われることもない。
あるのは人間だけだ。
畑を耕し、家畜を育て、商売をして、恋をして、結婚して、そして歳を取る。
そんな、ごく普通の世界だった。
だからこそアリアナには時々分からなくなる。
このような世界に転生して、彼らは一体、どんな夢を見ようというのだろうか――
*****
「あら?」
コーヒーを一口飲みながら、アリアナは新聞の見出しに目を落とした。
『新進気鋭のデザイナー、新事業に失敗』
「またかしら?」
その言葉は、いつの頃からか癖のように口をついて出るようになっていた。驚きというよりも、確認に近い響きだったかもしれない。
「どうしたんだい?」
この家の主人であるルーカスが、食器を片付けながら顔を上げた。
「ほら、アレよ、アレ。『転生者』の話」
そう言って、アリアナは新聞を指先で軽く整えた。
ルーカスは少しだけ目を細めて笑う。
「ああ、君がよく言っている、『別の世界から生まれ変わってきた』という、あの話かい」
「そう、それよ」
「君も好きだね」
「好きというより……よく目にするだけよ」
この国では、成功談よりも失敗談の方がよほど多い。
いつしか新聞に載る『転生者らしき人物』の話は、一種の娯楽になっていた。
アリアナは再び新聞へ目を落とす。
平民出身のデザイナーが、新しい雑誌を立ち上げようとして失敗したという記事だった。
最初は誰も見たことのない斬新なデザインを発表し、社交界でも一時話題になったらしい。
だが、その国の嗜好にはやや合わなかったようだ。
人々の反応は「奇抜すぎる」「品に欠ける」というものだったという。
やがて方向性を変え、今度は貴族向けのドレス制作に活路を見出した。
一時は成功しかけた。
しかし、長年その分野を支えてきた職人たちの方が市場をよく知っていた。
結果として、勢いは続かなかった。
さらに彼女は、新たにファッション誌の発行を試みたという。
だが、この国は貧しくはないが、豊かでもない。
人々は装飾よりも実用を好む。
その雑誌は、思うように広まらなかったらしい。
(同じ平民出身だから、少し気になっていたのだけれど)
アリアナは新聞をそっと閉じた。
残念、というほど強い感情ではない。
ただ、どこかで応援していた相手が、静かに通り過ぎていったような、そんな感覚だった。
「まぁ、君の面白い『想像の話』はともかくとして、そろそろ準備した方がいいんじゃないか?」
食器を片付け終えたルーカスが、アリアナの方へ視線を向けた。
「あら、もうそんな時間だったかしら?」
アリアナは軽く首を傾げる。
新聞を畳む動作も、どこか慣れたものだった。
「今日は出版社の人が来る日だろう?」
「そうだったわね」
そう言って、アリアナはゆっくりと立ち上がった。
テーブルに残ったコーヒーカップを、夫のルーカスが流しへと運ぶ。
「また新しい話を考えたんだろ? アリアナ『先生』」
「そうよ。今回は渾身の作なんだから、楽しみにしていて」
目の下にわずかな疲れを残しながらも、アリアナは微笑んだ。
この世界には、魔法はない。
魔物もいなければ、竜もいない。
邪神もいなければ、聖女もいない。
勇者が世界を救うこともなければ、神託が降ることもない。
あるのは、人と人の営みだけだ。
ゴシップを娯楽として楽しむ文化があり、それを国中へと伝えるだけの出版力があった。
その意味では、この国は静かに豊かだったのかもしれない。
一本の筆は剣よりも強いと言われる。
だがこの国では、それは誇張ではなかった。
一本のペンは、人々の心を動かし、時に世界の空気すら変えていくのだ。
(――漫画オタクが、私より先に転生していなくて本当に良かったわ)
アリアナは小さく息を吐き、最新作のネームを取りに自室へと向かった。
「ちょっと転生者の皆さん、最近無双しすぎじゃないですか?」と思ったので、こんな話を書いてみました。




