第9話 「影」の正体と、ミシェルの決断
ライオネル様との裁判に勝利してから数日。
『人材斡旋ギルド・適材適所』は、開店以来最大の危機を迎えていた。
「た、頼む! グレイ様に一目お会いして、過去の非礼をお詫びしたい!」
「我が領地の帳簿を提出しに来ました! どうか、どうかご慈悲を!」
店の前には長蛇の列。
ただし、職を求める人たちではない。
顔面蒼白の貴族や、冷や汗を流す官僚たちだ。
彼らの目当ては私ではない。
うちの事務員――いや、王家直属の特別監査官、グレイさんだ。
伝説の「掃除人」が下町にいると知れ渡り、やましいことのある者たちが、先手を打って謝罪に来ているのだ。
「……ボス、塩を撒け。あるいは聖水だ」
当の本人は、カウンターの奥で心底嫌そうに顔をしかめていた。
裁判の日の紳士姿はどこへやら、また無精髭の事務員スタイルに戻っている。
「そんなことできませんよ。……皆さん、国を動かす偉い方々じゃないですか」
私は震える手で紅茶を淹れた。
この小さな店に、国家権力が密集している。
空気の重さが尋常じゃない。
「グレイさん……本当に、ここにいていいんですか?」
「あん? どういう意味だ」
「だって、あなたは……」
伝説の『影』。
国の腐敗を正す英雄。
そんな人が、こんな下町のボロ倉庫で、安月給の事務員をしていていいはずがない。
私の「適材適所」の理念に照らし合わせれば、彼はもっと大きな舞台に立つべき人だ。
私のエゴで、国家の損失を生んでいるのではないか?
その時。
カランコロン、とドアベルが鳴った。
騒がしかった外の貴族たちが、一斉に静まり返り、モーゼの海割れのように道を開ける。
入ってきたのは、厳格な雰囲気の初老の男性だった。
胸には宰相補佐のバッジ。
王宮からの、正式な使者だ。
「……お久しぶりです、室長」
使者は深く頭を下げた。
あの傲慢な貴族たちが直立不動になるほどの相手が、グレイさんに最敬礼をしている。
「よせ。俺は引退した身だ」
「国王陛下より、勅命を預かって参りました」
使者は羊皮紙を広げた。
「『特別監査室への即時復帰を要請する。昨今の貴族の腐敗を一掃するため、再びその剣と知恵を貸してほしい』……とのことです」
店内が静まり返る。
復帰要請。
それは、彼が本来いるべき場所からの、切実な呼び声。
「待遇は特S級。公爵位に準ずる権限と、王城内の離宮。それに、あなた専属の医療チームもご用意します」
破格の条件だった。
腰痛持ちの事務員に対する扱いじゃない。
国の守護者としての椅子が用意されているのだ。
私は、トレーを持つ手をギュッと握りしめた。
ああ、やっぱり。
彼は、こんなところにいるべき人じゃない。
私のわがままで、彼を縛り付けてはいけないんだ。
「……少し、考えさせてくれ」
グレイさんが短く答えた。
即答で断らなかった。
それが、私の胸を鋭く刺した。
◇
その日の夜。
閉店後の薄暗い店内で、私はグレイさんと向き合っていた。
「……話ってなんだ、ボス」
グレイさんは、いつものようにソファでくつろいでいる。
私は深呼吸をして、震える声を抑え込んだ。
泣くな。
プロの人材コーディネーターとして、最後の仕事を果たさなきゃ。
「グレイさん。……あなたを、解雇します」
グレイさんの動きが止まった。
銀色の瞳が、スッと私を射抜く。
「……理由は」
「うちは人材斡旋ギルドです。……適材適所を掲げているのに、従業員が『適所』にいないなんて、看板に偽りありですから」
私は精一杯の笑顔を作った。
口角が震えるのを必死で隠す。
「王宮へ戻ってください。あなたの能力は、国のために使われるべきです。SSSSランクの事務処理も、SSSランクの危機管理も……こんな小さな店の経理には、もったいなさすぎます」
「……それが、ボスの鑑定結果か?」
「はい。私の目は節穴じゃありませんから」
嘘だ。
本当は行ってほしくない。
明日からも、隣で紅茶を飲んでいてほしい。
「腰が痛い」ってサボる彼を、叱っていたい。
でも、それは私の私情だ。
「個人の感情」で「適材」を歪めることは、私が一番嫌ったライオネル様と同じになってしまう。
「……今まで、ありがとうございました。退職金は、ありったけ出しますから」
涙がこぼれそうになって、私は俯いた。
顔を見られたくなくて、背中を向ける。
「……荷物をまとめてきますね」
逃げるように階段へ向かおうとした。
その腕を、背後から掴まれた。
「待て」
「離して、ください……」
「離さん」
グレイさんの声は、裁判の時よりも、襲撃の時よりも、真剣だった。
彼は私を強引に向き直らせる。
「……俺は言ったはずだ。医者は嫌いだし、権力も嫌いだと」
「でも、国があなたを必要として……」
「国が必要としているのは『機能』だ。……俺の心じゃない」
グレイさんは、私の濡れた頬に触れた。
その指先は温かくて、微かに震えていた。
「暗殺者として生きて、監査官として人を裁いて……俺はずっと、自分がただの『刃物』だと思っていた。使い潰されて、錆びて捨てられるだけの道具だと」
「グレイさんは、道具なんかじゃ……!」
「ああ。そう教えてくれたのは、お前だ」
彼は私の目を見る。
「お前だけが、俺を『人間』として見てくれた。俺の事務処理を褒めて、下手くそな家具修理に感謝して……一緒に茶を飲んで笑ってくれた」
「……っ」
「王宮に戻れば、俺はまた『影』に戻る。……俺にとっての『適所』は、冷たい玉座の隣じゃない」
彼は私の手を取り、自分の胸に当てた。
ドクン、ドクンと、力強い鼓動が伝わってくる。
「ミシェル。もう一度、俺を鑑定してくれ」
「え……?」
「ただし、スキルや能力を見るんじゃない。……俺の『魂』を見てくれ」
「魂……」
そんなこと、できるだろうか。
でも、彼の真っ直ぐな瞳が、私を信じてくれている。
私は涙を拭い、震える指でフレームを作った。
「……はい」
深呼吸。
数値じゃない。能力じゃない。
この人の、一番奥底にある願いを見る。
「――【鑑定】」
世界の色が変わる。
以前見た、目が眩むような黄金の能力値。
でも、その中心に、別の色があった。
温かくて、優しい、陽だまりのようなピンク色。
そして、そこに浮かび上がっていた文字は――。
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【対象:グレイ・サイラス】
真の適性職業:
適材適所ギルド:終身名誉事務員(SSSS)
精神状態:
【安らぎ】【幸福】【決意】
最優先事項(Desire):
ミシェル・アルレットの隣で生きること(測定不能)
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「……あ……」
涙が、止まらなくなった。
事務員。安らぎ。そして、私への想い。
それが、彼の魂が選んだ「適材適所」。
「……見えたか?」
グレイさんが優しく問いかける。
私は泣きじゃくりながら、何度も頷いた。
「見えました……! あなたは……世界一、往生際の悪い事務員さんです……!」
「はは。違いない」
グレイさんは笑って、私を強く抱きしめた。
「俺の雇い主は、世界で一人だけだ。……王様だろうが神様だろうが、引き抜きはお断りだ」
「……はいっ……!」
翌日。
グレイさんは王宮の使者にこう告げた。
「復帰はしない。……俺はここで、『人間』として生きることにした」
使者の男性は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情になった。
彼は、グレイさんがかつてないほど穏やかな目をしていることに気づいたのだ。
「……承知いたしました。『腰痛が悪化したため、療養が必要』と報告しておきます」
使者は深々と頭を下げた。
「室長。……いえ、グレイ殿。どうか、お幸せに。それが、かつての部下としての願いでございます」
彼は分かっていたのだ。
無理に連れ戻しても、そこにあるのは「最強の道具」だけ。
「最強の人間」であるグレイさんが国を守るためには、この場所が必要なのだと。
使者が去り、店にはまた、いつもの(少し騒がしい)日常が戻ってきた。
でも、一つだけ変わったことがある。
カウンターの奥で紅茶を飲む彼の横顔が、前よりもずっと幸せそうに見えること。
私の最強のパートナー。
もう二度と、解雇なんて言わない。
ここが、私たちの、世界で一番正しい居場所なのだから。




