第20話 最強の事務員復活
毒霧事件から数日が経った。
王都は、嘘のように穏やかな日常を取り戻していた。
「……これ、全部レオナルド殿下が?」
私は届けられた手紙と書類の山を見て、呆気にとられていた。
差出人は、すでに帰国の途についたレオナルド皇子だ。
『君たちへの詫び賃だ。……私の美学に反する“バグ”は、掃除しておいた』
同封されていたのは、今回の事件を裏で糸引いていた反王政派貴族たちの、汚職と反逆の証拠リスト。
彼は帰る前に、自分を利用しようとした王国の裏切り者たちを、その圧倒的な政治力で社会的に抹殺していったのだ。
「……最後まで、完璧で、恐ろしい人でしたね」
私は苦笑した。
でも、そのおかげでリズちゃんへの追及も消滅した。
帝国は公式に「実験体704号は事故死した」と発表。
代わりに、ギルドと帝国で「技術提携」を結ぶことになった。
リズちゃんが開発した新薬のレシピを帝国に提供する代わりに、彼女の自由を認める。
「管理コストをかけずに成果物だけ手に入るなら、その方が効率的だ」――それが、皇子の出した結論だった。
「ミシェルさーん! 新しいお薬、瓶詰め終わりました!」
一階から、リズちゃんの明るい声が聞こえる。
彼女は今、フィーナちゃんと一緒に地下のラボを自分好みに改装し、楽しそうに働いている。
もう、震えていた実験体の面影はない。
「よし。……仕事、終わり!」
私はペンを置き、大きく伸びをした。
日中は忙しくて行けなかったけれど、ようやくあの人の元へ行ける。
私は盆に食事と着替えを乗せて、二階の奥にある居住スペースへと向かった。
◇
コンコン。
「グレイさん、入りますよ」
返事を待たずにドアを開ける。
ベッドの上で、上半身を起こして本を読んでいたグレイさんが、こちらを見た。
「よう、ボス。……遅かったな」
「仕事が溜まってたんです。……体調はどうですか?」
「悪くない。飯も美味いし、枕も柔らかい。……こんなに寝たのは、ガキの頃以来だ」
彼は包帯が巻かれた胸をさすりながら、皮肉っぽく笑う。
まだ顔色は少し白いけれど、瞳の光は戻っている。
Sランクの回復力と、リズちゃんの薬のおかげだ。
「無茶しすぎです。……本当に、死んじゃうかと思ったんですよ」
私は椅子に座り、スープを差し出した。
思い出すだけで、手が震える。
あの紫色の煙の中で、彼が倒れた瞬間を。
「……悪かった」
グレイさんは本を閉じ、真面目な顔になった。
「だが、あれしかなかった。……お前に毒が届くくらいなら、俺の身体の一つや二つ、安いもんだ」
「安くないです!」
私は声を荒らげた。トレーがガチャンと音を立てる。
「グレイさんがいなくなったら、誰が書類のミスを直すんですか? 誰が私の紅茶を淹れてくれるんですか? ……誰が、私の隣にいてくれるんですか」
涙が滲む。
私が泣きそうになると、グレイさんは困ったように眉を下げた。
「……そうだな。俺も、死にかけの意識の中で思ったよ」
彼は私の手を取り、引き寄せた。
「走馬灯ってやつを見たんだがな。……出てくるのが、血塗れの戦場じゃなくて、この店でのことばっかりだった」
「え……?」
「お前が依頼人と笑ってる顔。カイルが皿を割って怒られてる音。フィーナが鼻歌交じりに掃除してる姿。……そんな『日常』が、俺の未練だった」
彼の手が、私の頬に触れる。
タコだらけで、無骨な手。
でも、皇子の手袋よりも、ずっとずっと温かい。
「俺は、お前との日々を手放したくなかった。……だから、戻ってきた」
「グレイさん……」
「レオナルドの野郎は、お前に『翼』をやると言ったな」
彼は私の目を覗き込んだ。
その銀色の瞳には、もう迷いも、身分差への引け目もない。
あるのは、燃えるような独占欲と、深い愛情だけ。
「あいつの言う通り、俺はお前を空へ連れて行ってはやれん。……俺は地面に這いつくばって、泥にまみれるしか能がない男だ」
「それがいいんです」
私は彼の手を両手で包み込んだ。
「私は、空を飛びたいんじゃない。……あなたと一緒に、この地面を歩いていきたいんです」
「……物好きなボスだ」
グレイさんはふっと笑い、そして私の腕を引いた。
抵抗する間もなく、私は彼の胸の中に抱きすくめられた。
「……っ」
グレイさんが小さく呻く。
傷が痛むはずだ。
「だ、大丈夫ですか!? 傷が……!」
「構わん。……今は、痛いくらいが丁度いい」
彼は私を離さなかった。
包帯越しの体温。トクトクという心臓の音。生きて、ここにいる証。
「……ミシェル」
耳元で、名前を呼ばれた。
「ボス」でも「ミシェル様」でもなく。
「もう、逃がさんぞ」
低い声が、私の心を震わせる。
「帝国だろうが、神様だろうが、お前を奪おうとする奴は全員叩き潰す。……お前は、俺の『居場所』だ」
「……はい」
私は彼の背中に腕を回し、しがみついた。
「私も……あなたを離しません。一生、こき使ってあげますから」
「はは。手厳しいな」
彼が体を少し離し、私の顔を両手で包む。
顔が近づく。
息がかかる距離。
「……契約更新だ」
彼は甘く、少しだけ照れくさそうに囁いた。
「期間は無期限。報酬は、お前の人生のすべて。……受けてくれるか?」
それは、どんなプロポーズの言葉よりも、私たちらしい愛の告白だった。
「……はい。喜んで」
私が答えると同時に、唇が重なった。
短く、でも深い口づけ。
紅茶の香りと、消毒薬の匂い。
そして、何よりも愛おしい彼の匂い。
唇が離れると、グレイさんは悪戯っぽく笑った。
「……これで、今日の残業代はチャラにしてくれよ?」
「もう……! バカっ……!」
私は泣き笑いして、また彼の胸に顔を埋めた。
窓の外では、春の月が輝いている。
皇子の提示した「輝かしい未来」よりも、ずっとささやかで、でも確かな幸せが、ここにあった。
最強の事務員と、無能と呼ばれた鑑定士。
私たちの「適材適所」な物語は、まだまだ終わらない。
次はどんな依頼人が、この扉を叩くのだろう。
どんな困難が来ても、大丈夫。
私の隣には、世界で一番頼もしいパートナーがいるのだから。




