その4 「忍び寄る魔族」
城塞都市パラナでの束の間の休息は、思っていた以上に私の心を軽くしていた。
眠れる場所があり、温かい食べ物があり、誰にも剣を向けずに過ごす時間。
それだけで、人はこんなにも変われるのかと少し驚く。
変装もしている。
もう「勇者エレナ」ではなく、ただの旅人だ。
私はフードを深く被ることもせず、堂々と正規の街道を歩くことにした。
足元の砂利を踏みしめる音が、やけに心地いい。
「あの焼き鳥……美味しかったなぁ」
思わず口からこぼれた独り言に、自分で少し笑ってしまう。
空を見上げれば、雲ひとつない青。
「空が、めっちゃキレイ」
胸の奥にこびりついていた重さが、風に少しずつ削られていくようだった。
本当は、街でもう少しゆっくりするつもりだった。
宿で何日かだらだらして、屋台を巡って、何も考えずに過ごしたかった。
けれど、帝国騎士団が勇者エレナを捕らえるために動いている。
それを知ってしまった以上、長居はできない。
面倒ごとに巻き込まれる前に立ち去るしかなかった。
それでも、心は、ほんの少しだけ晴れていた。
思えば、魔王討伐の旅に出てから、数年、戦っていない日の方が少ない。
休むことは許されず、迷うことも許されず。
女神の啓示で勇者に指名され、「世界のために戦え」と言われ、それが当たり前のように受け入れられていた。
でも今――
初めて、本当の意味で一人になった気がする。
(騎士団にも魔族にも見つからないように……誰とも深く関わらず、もう少しだけ、のんびり旅をしよう)
剣を抜かず、命を奪わず、ただ歩くだけの旅を。
そう思った、その矢先だった。
そのささやかな願いを、無情に打ち砕く出来事がすぐ近くで起ころうとしていることを――
この時の私は、まだ知る由もなかった。
* * * * * *
ちょうどエレナが宿泊していた宿屋に、帝国騎士団の一員が姿を見せた頃――。
城塞都市パラナに駐在する騎士団詰所の扉が、乱暴に押し開かれた。
「駐在長!大変です!」
駆け込んできたのは、この街に何度も出入りしている旅商人の男だった。
顔は青ざめ、息は荒く、額には汗が浮かんでいる。
「街の近くで……魔族を見たって噂があります!それも、かなりの数だそうで……!」
詰所の奥にいたノーム駐在長は、書類から顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「……詳しく話せ」
低く、しかし重みのある声。
ノームはこの街の生まれだ。
幼い頃、魔族に襲われた村の惨状を目の当たりにし、「故郷を守る力が欲しい」と帝国騎士団に入隊した。
帝都で実績を積み、二年前からこの街の駐在長を任されている。
そして、二年前、勇者一行による魔族前線基地攻略戦を、最前線で目撃した数少ない騎士の一人でもあった。
あの圧倒的な力。
人知を超えた戦い。
そして、その中心にいた美しい“勇者エレナ”。
魔族は、あの戦い以降、この周辺ではほとんど姿を見せなくなっていた。
だからこそ――。
「目撃場所は?」
「西の街道から森に入った辺りです。知り合いの商人が、遠くで……大男みたいな影が何体も動くのを見たと……」
ノームは顎に手を当て、目を伏せる。
(魔族だとしたら……放置できん)
彼自身、二年前の戦いで魔族に殺されかけた。
血の匂い。
砕けた鎧。
仲間の断末魔。
今でも、夢に見る。
「駐在騎士の中から精鋭を選抜。直ちに捜索を開始する」
短く、明確な命令。
「旅人や街に被害が出る前に確認する。魔族なら排除だ」
詰所に緊張が走った。
すぐに実戦経験の豊富な騎士たちが招集される。
しかし――相手が魔族となれば話は別だ。
魔法支援がなければ、まともに戦える保証はない。
冒険者組合へ応援要請を出したが、熟練の魔法使いたちは依頼で不在。
街に残っているのは近接型の冒険者ばかりだった。
「……仕方ない」
ノームは剣を腰に差し込む。
「魔法使いなしで行く」
内心では、舌打ちした。
(勇者捕縛命令といい、魔族出没といい……魔王が滅んだってのに、世界は少しも楽にならんじゃないか)
そして何より――
(勇者エレナが罪を犯すなど、あり得ない)
だが、騎士団員である以上、その想いは胸の奥に押し殺すしかない。
森に入る頃、空は白み始めていた。
だが、木々に覆われた森の中は薄暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。
風がない。
鳥も鳴かない。
虫の音すら聞こえない。
異常な静けさ。
「……嫌な感じだな」
誰かが小さく呟いた。
だが、これまでの経験上、危機を感じる。
ノームは片手を上げ、足を止める。
「……待て」
その瞬間――
闇が、動いた。
音もなく、巨大な影が背後から飛び出す。
「後ろ――!」
叫ぶ暇もなかった。
槍を構えていた騎士が、背中から斬り裂かれる。
「うわぁぁぁっ!」
血が飛び散る。
ノームが駆け寄ろうとした瞬間、別の影が行く手を塞ぐ。
「くっ……!」
巨大な魔族。
黒ずんだ皮膚。
異様に長い腕。
濁った目。
「隊長! 俺が引きつけます!」
若い騎士が盾を構え、叫びながら突っ込んだ。
その隙に、ノームは倒れた騎士を引きずる。
「しっかりしろ! 死ぬな!」
返事はないが、微かに胸が上下している。
その時――
さらに、闇が蠢いた。
「ま……魔族、八体確認……!」
完全な待ち伏せ。
「迎撃!散開しろ!」
剣と盾がぶつかり合う。
「はぁぁぁっ!」
ノームの剣が魔族の胴を斬る。
だが――
浅い。
皮膚をわずかに裂いただけ。
他の騎士たちも同様だった。
硬い。
異常なまでに硬い。
「くそっ……!」
数の上では互角でも、決定打がない。
それどころか、魔族の一撃は重い。
鎧の上からでも骨が軋む。
「撤退する!」
ノームは即断した。
「全員下がれ!俺が殿を務める!」
騎士たちが後退を始める。
だが――
「ぐっ……!」
一人が肩を斬られ、膝をつく。
別の騎士が必死に支える。
ノームは前に出る。
「魔族共! 俺を見ろ!」
剣を振るう。
魔族の腕を斬る。
しかし、反撃の一撃が脇腹に直撃した。
「――っ!」
鎧が歪み、血が滲む。
(こいつら……戦い方を知っている……)
知能がある。
連携している。
それが何より恐ろしかった。
「全員、森の外まで走れ!誰一人欠けるな!」
必死の撤退戦。
そして――
彼らはまだ知らない。
この絶望的な戦場に、手配中の“勇者”が現れることを。
* * * * * *
城塞都市パラナの外れ。
西門から少し離れた、なだらかな草原。
朝露に濡れた草を踏みしめながら、一人の少女が籠を抱えて歩いていた。
宿屋ヒカゲの亭主の娘だ。
「この辺りなら……滋養草、あったはず……」
膝をつき、地面を覗き込む。
細い指で草を分け、目的の葉を探す。
昨日、宿に泊まっていた旅の女の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
顔色が悪くて、
どこか遠くを見るような目をしていて、
でも、パンを渡したとき――ほんの少しだけ、柔らかく笑った。
(すごく疲れてた人。ちゃんと、眠れたかな……)
籠の中に数本の滋養草を入れながら、少女は小さく頷く。
「スープに入れたら、少しは元気になるよね」
自分でも、どうしてここまで気になるのかわからない。
でも、放っておけなかった。
ふと、風が止んだ。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、消えている。
「……?」
胸の奥が、ひやりとする。
耳を澄ますと――
――バキッ。
森の方角から、枝の折れる音。
「……誰か、いるの……?」
少女は立ち上がり、辺りを見回す。
返事はない。
だが、草むらの奥で、何かが動いた。
――ガサッ。
低く、湿った唸り声。
喉が、きゅっと締め付けられる。
「……や、やだ……」
後ずさった拍子に、足がもつれる。
尻もちをつき、籠が転がり、滋養草が地面に散った。
草むらが、大きく揺れる。
黒い影が、ゆっくりと姿を現す。
人の形をしているが、人ではない。
異様に大きな体。
濁った目。
牙の覗く口。
少女は、声も出せず、ただ見上げていた。
(たす……け……)
唇がかすかに動いた、その瞬間――
背後で、別の方向から。
――ガキンッ!
金属同士がぶつかる音。
――ドンッ!
誰かの叫び声。
森の奥から、戦いの気配が響いてくる。
少女は震えながら、そちらを見た。
何が起きているのか、わからない。
ただ一つ。
この森の中で何かが始まっていることだけは、はっきりと伝わっていた。
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