その1 「森を彷徨う」
大木の根元に転移してから、二日が経った。
私は、鬱蒼とした森の中を一人、彷徨うように歩いている。
どこを見渡しても同じような木々と下草ばかりで、進んでいるのか、同じ場所を回っているのかさえ分からない。
喉はひりつき、唇は乾いていた。
足取りも重く、鎧の内側で汗が冷えていく。
私は無意識のうちに、腰に縫い付けてある小さな魔法具に手を伸ばした。
親指ほどの大きさの、淡く光る石。
その感触に触れた瞬間、遠い記憶が蘇る。
――これは大変希少な転移のアイテムです。
――恐らく、世界に二つとないでしょう。
幼い私を前に、母様はそう言って微笑んだ。
――私が両親から貰いました。
――使う事はありませんでしたが……二回だけ。
――今いる地から、自身が行った事のある一番遠い地に転移できます。
――貴方は強い子だから、大丈夫。
あの時は、その言葉の意味も、重さも分からなかった。
幼い頃、母様から渡された魔法具。
まさか、こんな形で使う事になるなんて思いもしなかった。
初めての転移。
私は……遠くまで逃げられたのだろうか。
それとも――。
不安が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
茂る木々の間を抜けるたびに、葉が顔や腕を掠め、湿った土の匂いが鼻を突く。
既に日は落ちて辺りは真っ暗だが、寒さを感じる余裕はなかった。
仲間を殺した光の聖女リサから逃げ出した事が、私の足取りを重くする。
(情けない…おめおめと逃げ出して…)
リサの狂ったような微笑みと冷たい眼差しの両方が脳裏に焼き付いて離れない。
「……あれは、現実なのか…」
答えの出ない疑問や情けなさが頭を占めている。
そのとき――。
ガサリ、と草むらが揺れた。
反射的に身構える。
低く唸る声が、森の奥から響いた。
月明かりの下、青光を放つ丸い物が現れた。
ーースライム。
群れで行動する魔物だが、単体でも、今の私には厄介な相手だ。
右肩の傷がずきりと痛んだ。
杖代わりに使っていた木の棒を持つ手が震える。
「……今は、戦いたくないけど……来るなら……!」
スライムが飛びかかる。
反射的に体を捻り、木の棒を横に払う。
棒が折れた音が夜の森に響いた。
だが次の瞬間、隠れていたもう一匹が背後から牙を剥く。
「くっ……!」
振り返りざま、下段から折れた棒をスライムに突き刺す。力が乗らないが十分だった。
息が荒い。体が重い。魔力も上手く使えない。
折れた枝の代わりに拾った枝を杖代わりにして立ち上がる。
夜風が吹き抜け、頬の血を冷たく撫でた。
ふらつく足を前に出す。
しばらく歩くと、木々の隙間から微かに水音が聞こえてきた。
耳を澄ませ、音のする方へ向かう。
やがて、小さな川が姿を現した。
私は膝をつき、両手ですくった水を口へ運ぶ。
冷たい水が、焼けつく喉を一気に潤していく。
思わず、何度も水を啜った。
――生き返る。
そう感じたのも束の間だった。
川の対岸、草むらが不自然に揺れる。
ぬちゃり、と湿った音。
現れたのは、また半透明のスライムだった。
一体、二体……いや、それ以上。
「……数が多いな」
無意識に、腕の小手に手がかかる。
だが今は、近接戦闘をする気分にはなれなかった。
私は片手を突き出す。
「火炎弾!」
小さな火球が次々と放たれる。
――火炎弾、十発。
炎に包まれたスライムたちは、甲高い音を立てながら縮み、やがて黒い煙を上げて蒸発していった。
川辺には、焦げた臭いだけが残る。
私は大きく息を吐いた。
腹が減っている。
それに、お腹も痛い。
そんな状況も影響しているのだろう。
気がつけば、頭の中は後ろ向きな考えでいっぱいになっていた。
生き延びられるのだろうか。
胸の奥で、静かな不安が膨らんでいく。
(砂漠に転移してたら死んでたな…)
血が足りないのか、体が思ったように動かない。
少しの休憩を挟みながら寝ずに歩き続けた結果、なんとか森を抜けて山道に出る事ができた。
霧が立ち込める山道が視界に広がり、木々の隙間に、見覚えのある古びた建物の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
「あれは……」
足を止め、目を凝らす。
所々色の違う木材で補修されている屋根、扉の横に置かれた壊れた樽や薪――ちょうど三年くらい前に立ち寄った山小屋に間違いなかった。
自然と足が早まる。
この小屋があるという事で自分がどこにいるのかはっきりとわかった事など関係なく。
足音を立てずに小屋へ近づく。
(……誰かいる?)
一瞬、警戒心が走った。
扉の隙間から、かすかに灯りが漏れているように見えた。
私は息を殺し、耳を澄ます。
「……」
しかし、物音はしない。
風の音と、枝が軋む微かな音だけ。
恐る恐る扉を押すと、蝶番が軋む音が静寂に溶けた。中は暗く、灯りに見えたのは、外の月明かりが窓の隙間から差し込んで、鏡に反射していた光だった。
「……誰もいないな」
小さく呟き、胸の奥の緊張がふっとほどける。
粗末な木の机と、ほこりをかぶった椅子が一脚。
壁には古びたランタンが掛けられ、床には干からびた薪が転がっている。
(あまり使われていないのだろうか)
私は扉を閉め、椅子に腰を下ろした。
長い旅路の疲れがどっと押し寄せ、身体が重く沈み込む。誰もいないはずの小屋の静けさが、今は少しだけ心地よかった。
人に見つかりたくはなかったが、寒さには抗えない。夜の森は凍えるように冷たく、吐く息が白く揺れる。
「……少しだけ」
私は棚に残っていた古い薪を数本拾い、暖炉の前に積んで掌をかざした。
「…ファイアボール」
小さな火の魔法が指先から生まれ、薪に火が移る。
ぱち、ぱち、と乾いた音が静寂を割いた。
やがて炎が赤く揺らめき、小屋の中に淡い明かりと温もりを広げていく。
「…暖かい……」
壁の棚を開けると、古びた衣服が数枚入っていた。
そして、ありがたい事に靴もあった。
私は衣服の一枚を裂き、血の滲む肩口をそっと拭ってから、布で縛る。
痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「女神アルカナよ、傷つき倒れた者に再び立ち上がる力を与えん『癒光』…」
左手を当て、小さく呪文を唱える。
淡い光が指先から滲み、じんわりと熱を帯びて傷口を包み込む。痛みが少しずつ遠のいていく感覚に、ほっと息を吐いた。
「少し傷が残ったな…」
外では風が鳴き、木々の枝が軋んでいる。
それでも小屋の中だけは、わずかな炎の明かりが生きていた。
私は火のそばに体を寄せ、膝を抱える。
まぶたが重くなり、思考がゆっくりと溶けていく。
「…みんな……」
掠れた声を最後に、私はそのまま眠りに落ちた。
* * * * *
鳥の声で目を覚ました。
窓の隙間から差し込む朝の光が、灰になった薪を照らしている。
疲れていたのだろう。
逃亡中だというのに深く眠ってしまった。
「…人に見つからなくてよかった」
私は立ち上がり、肩に手を当てて動作を確かめる。
痛みが少し残るが、もう歩けそうだ。
「……助かったよ。ありがとう」
独り言のように呟き、小屋の入口で一礼した。
誰もいないはずの空間に、ほんのわずかな温もりが返ってくる気がした。
扉を開けると、朝の光が差し込む。
冷たい風が頬を撫で、焦げた木の匂いが遠くに流れていった。
睡眠をとって頭もスッキリした。
私は背を伸ばし、街を探すため、森を歩き出した。
あの小屋のおかげでここがイグニス王国と隣国のバイエルン帝国の国境付近にあるリレトの森だとわかった。
かつて旅の途中で立ち寄ったことのある街が、森を抜けた近くにあるはず
バイエルン帝国は、私の生まれ故郷であるイグニス王国の隣国であり、このリレトの森はちょうど国境沿いにある大きな森だ。
この森にはある特徴がある。
「またスライムか、本当に、もう…」
出現する魔物がスライムばかりなのも実はリレトの森ならではである。
この世界のスライムは、火で簡単に燃える。他のモンスターのように動きも早くないので、子供でも討伐可能だ。
だが、疲れているため戦わず、スライムから逃げつつ先へ進む。
あの小屋から街までは、普通に歩けば一日だったはずだ。
街が近づく前に、髪に染色の魔法をかける。この白銀の髪色は『勇者エレナ』を連想させる目立つ特徴のひとつ。
(…色は……これでいいか…)
勇者として数々の偉業を達成してきた自慢の髪色を茶髪に染め、勇者に指名されて三年間伸ばし続けた腰まであった髪の毛を、肩口あたりまで切った。切った髪の毛を魔法で燃やして、髪を指で軽く整え、無言で街の門を目指す。
歩き続けて一日半経過したところで、街の門が見えてきた。
"城壁都市パラナ"
この街は、魔王軍の基地に近かったため、高い城壁のような頑丈な壁に守られており、帝国騎士団が常駐している。冒険者や商人が多いため宿屋も多く、身を隠すにはちょうどいい。
街道を馬車で通行していた商人に交渉し、銀貨五枚で旅人用のマントを購入して、同行者として検問を一緒に通過させてもらう事にした。
この世界の商人はお金があればだいたいの事は協力してくれる。
騎士団の検問は、拍子抜けするほど簡易なものだった。
旅の商人と名乗っただけだ。
もちろん、私は“勇者エレナ”などと名乗らない。
武器も携えていない。
それが、かえって都合がよかった。
門をくぐった瞬間、
耳に飛び込んできたのは、人々のざわめきだった。
表通りには明かりが灯り、
通りの両脇には屋台が並んでいる。
焼けた肉の匂い。
香辛料の刺激的な香り。
甘い菓子の匂い。
腹が、きゅっと鳴った。
本当なら、何か腹に入れたい。
そう思う自分も、確かにいる。
――けれど。
身体は正直だった。
重たい瞼。
鉛のようにだるい手足。
思考すら、ゆっくりとしか回らない。
今、必要なのは食事よりも――休息だ。
私は賑わう表通りから視線を逸らし、
人通りの少ない裏通りへと足を向けた。
目立たない、静かな宿屋を探すために。
今日は、もう……眠りたい。
そう思いながら、
私は暗がりの中へと紛れ込んでいった。
森を彷徨い、偶然見つけた山荘でひとときの休息を得たエレナ。
しかし、辿り着いた町で彼女を待っていたのは“罪人”としての既に手配されている現実でした。
真実を探し続けようとする彼女の旅が、ここから本格的に始まります。
第1章もぜひお付き合いください!
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