その3 「失意の勇者」
――暗い意識の底で、誰かの声が響いた。
「……起きろ」
低く濁った声だった。
まるで、深い井戸の底から響くように。
私はゆっくりと瞼を開けた。
最初に見えたのは、小さな松明。
錆びた鉄製の扉。
湿った石壁と床。
そして、足首と手首に食い込む鎖。
「……ここは……牢……?」
口にした瞬間、喉が裂けるように痛んだ。
水の代わりに血の味が広がる。
どうしようもなく懐かしい夢を見ていた気がするが、思い出せない。
手を動かそうとするが、鎖が鳴り、肩が痛む。
足先から床の石が冷たく肌に刺さった。
靴……を履いていない。
どこからともなく滴る水音が絶望を刻むよう響く。
暗闇の中で、ぼんやりと過去の断片が浮かぶ。
魔王を討った。
リサに仲間が殺された。
そのリサと戦い、負けた。
「…捕まったのか……」
声を出した瞬間、鉄の扉が軋んだ。
冷たい風が吹き込み、松明の光が差し込む。
複数の足音。
重い鎧の擦れる音。
「来い、勇者」
低い声と共に、腕を乱暴に掴まれる。
二体の魔人と一体の魔将がいた。
抵抗する間もなく鎖を引かれた。
鉄製の扉が開く音が、耳に焼きつく。
足を引きずり、裸足で冷たい石の廊下を歩かされる。湿気と遠くから聞こえる何かの呻き声。
やがて、前方にかすかな光が見えた。
暗闇に慣れた目には、それが焔のように眩しく見える。
階段を上るたび、光が強くなり、影が短くなっていく。
目を細めても、白い光が瞼の裏を刺した。
――外の世界の明るさが、こんなにも痛いなんて思いもしなかった。
私は顔を背けた。
けれど、鎖を引かれて無理やり光の中へと引きずり出される。
階段を上がり、暗く狭い通路を抜けると、重々しい扉の前で止まった。その隙間から漏れる光は、まるで裁きの炎のように眩しい。
服についた血の乾き具合から、恐らく数時間は経過している。もう日が変わったのだろう。
「無礼のないようにすることだな」
魔将が笑い、魔人が鎖を強く引いた。
扉が開かれる。
――まばゆい光。
目を焼くほどの白光が広間を満たしていた。
巨大な天井にはこれまでの歴史を物語るような戦争の絵画が飾られ、床は磨き上げられた黒曜石。
その中央、玉座に座る人物を見た瞬間、息が止まった。
リサだった。
光の聖女――そのはずの彼女が、今は黒衣に身を包んでいる。
肩から流れる長く明るい金髪は、闇に染まったように真っ黒にくすんでいた。
いつもの穏やかな微笑みは消え、氷のように冷たい瞳が私を見下ろしている。
「……リサ……」
掠れた声が、喉の奥からこぼれた。
彼女は答えない。
ただ、座しているだけだ。
その傍には四人の魔族らしき者の姿が見える。
「跪いて頭を下げろ」
後頭部に重い衝撃が走った。
魔将の手が私の頭を押さえつけ、石床に額が叩きつけられる。
「ぐっ!」
乾いた音が響き、視界が一瞬、白く弾けた。
血の味が口の中に広がる。
それでも私は顔を無理やり上げる。
「…な…んで、みんなを……」
掠れた声を絞り出すが、彼女は何も答えない。
代わりに、リサの右隣の女魔族が一歩前へ出た。
緋色の瞳が私を射抜いた。
その瞳には、怒りと、そしてどこか歪んだ楽しみが入り混じっている。
まるで私という存在そのものを“観察している”ようだった。
「――分をわきまえよ」
低く響く声が、広間全体を震わせた。
冷たい石の床に響くその音が、背骨の奥まで突き刺さる。
空気が重くなり、息を吸うことすら難しい。
魔力の圧が、皮膚を焼くように肌にまとわりついてきた。
「我々の多くの仲間たちが、この女の手によって殺された」
その言葉と同時に、背後の魔族たちがざわめく。
誰かが低く唸り、誰かが笑った。
熱気と殺気が混じり合い、息苦しいほどの重圧となってのしかかる。
「……くっ……」
私は床に押しつけられたまま、必死に顔を上げた。
血が滲んだ額を抑えつつ、緋眼の女魔族を睨み返す。
だが、彼女は唇を歪め、まるで退屈を紛らわすように指を弾いた。
ピシリ――と空気が軋む。
玉座の後ろにある鏡が、淡く赤い光を帯びて震えていた。光はやがて形を変え、揺らめく水面のように映像を映し出す。
そこにあったのは、私の“旅の記録”。
勇者として旅立った日の戦い。
旅に出て魔人を討ち取ったあの森。
魔族前線基地で、仲間と魔族を殲滅した瞬間。
街を一つずつ取り戻していった、あの日々の戦い。
剣を振るう私。魔族の血を浴びる私。
そして――勝利のたびに笑う、勇者エレナ。
「……こんなもの見せられて……なんだっていうんだ」
私は歯を食いしばる。
それは確かに私の記憶だった。
だが、そこに流れているのは“勇気”ではなく、“殺戮”にしか見えない。
映像を見つめる魔族たちの目が、一斉に私を憎悪で貫いた。
緋眼の女魔族はゆっくりと歩み寄り、私の顎を掴んだ。その指先は氷のように冷たい。
「我らは多くの同胞を失った」
声は怒りを押し殺したように静かで、かえって恐ろしい。
「ここは――お前に“裁き”を与えるための場所だ」
彼女はわずかに唇を歪め、微笑んだ。
その笑みは、まるで人間を真似て作られた“偽物の感情”のようだった。
「ヒューマンはこうやって罪人を裁くのだろう?――勇者エレナ?」
広間が笑いに包まれた。
耳を刺すような嘲笑が、心臓を締め付ける。
私は歯を食いしばり、拳を握りしめた。
頭が悲鳴を上げる。
視界が滲み、心臓が軋む。
「……お前らが私の故郷を潰した!そのための復讐をして何が悪い!!」
だがリサは答えない。
沈黙のまま、私を見つめていた。
その静けさが、何よりも残酷だった。
「この女は、我ら魔族からすれば勇者ではない。ただの殺戮者だ!」
緋瞳の女魔族が笑う。
「このまま我らがすぐに処刑してもいいが、それではつまらん。魔族の家族や仲間達に少しずつ貴様の皮や肉、骨を削らせて苦しめてもいいな」
魔族達の笑い声が響く。
そして、リサの視線が、一瞬だけ揺れた。
「はぁ……早く、こいつ殺して」
目の前が真っ白になった。
ざわついていた魔族が一斉に静かになった。
その声は――リサのものなのか。
私の耳が錯覚を起こしているのかと疑った。
「リサ様…!?」
右隣の女魔族が念を押すように声を出す。
リサは、面倒くさそうに顎を上げる。
薄く笑って言った。
「あまり面白くなかったわ。もう、いらない」
その言葉は、刃よりも深く私の胸を切り刻んだ。
凍りつくような寒気が背筋を這い、世界の色が一つずつ剥がれていく。
周囲の声も動きも、まるで遠い夢のように聞こえた。
――あの笑顔は、全部、嘘だったのか。
足元の力が抜け、思考が堕ちていく。何もかもが灰色に沈んでいった。
そのまま時間だけが流れていく。私は、無力に、ただそこに立ち尽くした。
寒気がした。
その直後、頬に衝撃が走る。
「ぐっ……!」
紅瞳の女魔族に殴られた。
鎖に繋がれた両手が引き絞られ、鉄の環が肌に食い込んだ。
足元を蹴り飛ばされ、膝が床に叩きつけられる。
冷たい石の感触と、鉄錆の味が口の中に広がった。
「仲間達からすると面白くないが、リサ様の命令だ。お前をこのまま八つ裂きにする」
嘲るような声が降る。
別の魔族が後ろから髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
視界がぐらぐらと揺れる。
笑い声。吐き捨てるような唾。
頭の奥で何かがじわじわと熱を帯びていく。
「……っ、くっそ……」
鎖を掴まれ再び体を引き上げられ、腕が軋む。
拳が腹にめり込み、呼吸が止まる。
(まさか、異世界に転生して、最後がこれとはな)
体の痛みよりも、心の奥にこびりつく屈辱のほうが重い。
だが、トクン、トクン――自分の血の音が、怒りを煽る。胸の奥に沈んでいた怒りが、再び湧き出した。
私の中で、何かがふっ切れた。
「…そもそも…なんでお前らに裁かれなければならない……」
リサは沈黙し、緋眼の女魔族は怒りの表情を出す。
頭を押さえつけていた魔族の手を払い、勢いよく頭突きを叩き込んだ。
鈍い音とともに、体が吹き飛び、石床に崩れ落ちる。
一瞬の静寂。
私はゆっくりと顔を上げ、血の滲む唇を舐めながら、女魔族を睨みつけた。
「……殺されるつもりはない!」
幸い、魔力は封じられていない。
膂力変換――体の奥で魔力が爆ぜ、筋肉に流れ込む。鎖が軋み、悲鳴を上げた。
瞬間、金属音が響き、鉄輪が弾け飛ぶ。
自由になった腕で、近くの魔人を殴り飛ばす。
次の一体は蹴りで壁へ叩きつけた。
石床に転がる彼らの姿を見下ろしながら、私は息を整える。
「……ここで終わるわけにはいかない」
「まだそんな力が……奴を捕えろ!」
緋眼の女魔族の怒号。
リサの側に使えていた女魔族以外の三体が私に襲いかかってきた。
私は腰の左に手を当てた。
幸いスカートの左腰付近に縫い付けていた魔法具がそのままだ。
勇者として旅に出る前に、母様から貰った希少な転移のアイテムだ。これを使えば、現在地から"私が行った事のある最も遠い場所"に転移して逃げることができる。
私は体を捻って腰部分の魔法具に左拳をぶつけて衝撃を与える。
魔石が眩い光となり周囲を包み込み、襲ってきた魔族は眩い光に怯んでいる。
「光が……!?」
眩い閃光が爆ぜ、視界が白く焼け付く。
魔族たちが目を覆い、動きを止める中――
リサだけが、動かずに私を見ていた。
怒りも悲しみも、そこにはなかった。
ただ、凍てつくような決意の光だけが、私の中に残っていた。
「…リサ……」
名前を呼んでも、返事はない。
けれど、ほんの一瞬だけ、リサの口元がわずかに動いた。
「ーーーーーーー」
次の瞬間、光が弾け、世界が歪む。
リサの無表情な顔が、遠ざかっていく。
何を言われたのか、わからなかった。
――そして、気がつくと森の中にいた。
大木の根元。
湿った土の匂い。
夜風が頬を撫でる。
遠くで虫の声がかすかに響くが、それすらも現実感を持たない。
「……ここは……どこ……」
手のひらを見る。
血がこびりついている。
もう自身の血が魔王の物なのかはわからない。
「あのリサは偽物なんじゃないか…」
否定しても、心のどこかで恐怖が囁く。
声が震える。
涙が頬を伝い、土に落ちた。
仲間たちの顔が、ひとり、またひとりと浮かんでは消える。
「みんな……ごめん……」
わからない。
なぜあんなことになったのか。
なぜリサがあんな事をしたのか。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ冷たい目で私を見ていただけ。
剣を握っていた右手を見つめる。
血が爪の隙間に入り込み、乾いてこびりついている。いくら擦っても、落ちない。
「…ぅ…ぅ……」
嗚咽が漏れる。
寒さと恐怖と絶望が入り混じり、体が震えた。
私は膝を抱え、冷たい夜風の中、暗闇にうずくまる。
月の光が木々の隙間から差し込み、濡れた地面を銀色に照らしていた。
その光は、まるで墓標のように冷たかった。
私は仲間たちの遺体を置き去りにし、
リサに理由を問いただすこともできず――ただ、逃げた。
この日、私は“勇者”であるはずの自分を見失い逃げた。
リサのあの冷笑の意味も、仲間を殺された理由も、わからないまま。
読者の皆様、いつも応援ありがとうございます。
これで序章は終わりとなります。
リサの裏切りを経て、エレナは世界の真実へと足を踏み入れることになります。
彼女が何を見て、何を選ぶのか。
どうかこれからも見届けてください。
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思われましたら下の☆☆☆☆☆を★★★★★にして頂けますと嬉しいです。
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