その19 「魔王と悪魔の契約」
新生魔王軍の本拠地は、まだ世界に知られていない。
各国は未だ、その存在すら掴めずにいた。
地上世界のある場所――
一見すれば、ただの何もない荒地。
だがその地では空間そのものが歪められ、新生魔王軍の居城はそこに存在していた。
常人の感覚では、認識することすら叶わない場所。
だが、一つの影が足を踏み入れた。
警戒の結界が軋み、魔力探知が一瞬だけ反応を示す。
「おい、今の反応はなんだ?」
「一瞬で消えた。誤作動だろう」
魔力検知の魔法具を見ると、すでに光は失われていた。
それは誤作動として処理された。
侵入者は、堂々と歩いていた。
「……ここが聖女の居城……」
低く、余裕を含んだ声。
だが、おかしい場所に感じた。
魔族の装飾の中に、苦しむヒューマンの絵画。
太陽を欲する魔族の彫刻。
「ヒューマンの趣味とは思えんな」
赤髪の長身で黒衣をまとったその男は、隠れることをしなかった。
ただ、建物の中を歩き、何の迷いもなく奥へと進んでいくだけ。
悪魔族の王――アル=アガレス。
かつて魔王と刃を交え、敗北を喫した存在。
その魔王を討ち果たした勇者エレナと戦って数日。
だが、その戦いの傷は、もはやどこにもない。
身体に欠損はなく、白い剣に斬り落とされたはずの腕も、完全に元へ戻っていた。
再生ではない。
元より、欠けていなかったかのように。
「……ふむ」
廊下を進むにつれ、漂う魔力の質が変わっていく。
統制され、選別され、意図をもって配置された気配。
かつての烏合の衆ではない。
恐怖で縛られた軍でもない。
「……なるほど。これは面白い」
アル=アガレスは、口元に薄く笑みを浮かべた。
やがて、玉座の間へと通じる扉の前で足を止める。
扉の向こうから、確かな力が感じられた。
光の聖女にして、魔王。
世界の秩序を壊す存在。
「ふむ……ここか」
独り言のように呟き、扉を押し開く。
アル=アガレスは、一礼もせず、静かに告げる。
「初めまして、魔王殿。私は、貴女に興味を持った者だ」
それは、臣下の言葉ではない。
同格が、同格へと投げかける声だった。
玉座に座す聖女リサは、アル=アガレスを静かに見下ろしていた。
以前の魔王とは明らかに異なる気配。
禍々しいという言葉では足りない、ヒューマンの器には収まりきらぬ魔力の渦が、その身を包んでいる。
だが、彼女は微動だにしない。
「――貴様!」
鋭い声と共に、一人の影が前に出た。
「リサ様に対して、生意気な口を利くな」
血のように赤い瞳。
鋭く伸びた犬歯を隠すこともなく、敵意を剥き出しにしている。
吸血族――エルバラ。
新生魔王軍四魔将の一人で、最前線を任される実力者。
アル=アガレスは、ゆっくりとその姿を視界に収める。
「……吸血族か」
声音は低く、嘲りすら含まれている。
「人族に滅ぼされた下等な種族が、随分と偉くなったものだな」
「――っ!」
殺気が跳ね上がる。
「我は、そこのヒューマンの女と話をしに来た」
アル=アガレスは玉座を指さす。
「新生魔王軍は、我が貰う」
「貴様ぁっ!!」
エルバラは叫ぶと同時に、地を蹴った。
残像を残すほどの速度。
吸血族特有の加速――血と爪を刃のように伸ばし、喉元を狙う。
だが。
ガンッ――。
重い音が玉座の間に響いた。
エルバラの一撃は、アル=アガレスの片手によって、あっさりと止められていた。
「……遅い」
指先だけで受け止められた爪が、軋む。
「なっ――!?」
力を込めるが、微動だにしない。
アル=アガレスは、視線すら動かさず、もう一方の手を軽く振るった。
ドンッ――!
見えない衝撃が、エルバラの腹部を打ち抜く。
「ぐっ……!」
床を滑るように後退し、柱に背中を打ち付けて止まる。
骨は折れていない。
だが、内臓を揺さぶられ、呼吸が乱れる。
「……殺さぬ」
アル=アガレスは、ようやくエルバラを見る。
「貴様も我の配下に加えてやろう」
エルバラは歯を食いしばり、立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
格が違う。
そう、否応なく理解させられていた。
玉座の上で、聖女リサが初めて口を開く。
「……エルバラ、下がりなさい」
その一言で、場の空気が凍りついた。
エルバラは悔しげに唇を噛み、膝をつく。
「承知しました。リサ様」
アル=アガレスは、再び玉座へ視線を戻す。
「邪魔者はいなくなった。始めようか、魔王殿」
それは挑発でも、臣下の礼でもない。
ただ、同じ地平に立つ者の言葉だった。
「貴方……魔王に敗れた悪魔族の王ね」
玉座の上から、リサは静かに言い放った。
見下ろす視線に侮りはない。ただ、事実を確認するだけの声。
「光栄だな。我を知っているとは」
アル=アガレスは肩をすくめ、薄く笑う。
「先ほどは部下が失礼したわね。――それで、私に何か用かしら?」
「用、か。先日、我が血肉となった冒険者どもの記憶の中で貴様を見た」
「……それで?」
「ヒューマンの女が魔王軍を率いるなぞ滑稽。その座は我が貰い受けるのが道理だろう」
あまりにも堂々とした宣言に、玉座の間に一瞬、沈黙が落ちる。
「そう……どうしたら引いてくれるかしら?」
挑発でも怒りでもない、淡々とした問い。
「勇者といい、蒼天の魔法使いといい……近頃のヒューマンは随分と自信過剰だな」
「……エレナと戦ったの?」
その名を口にした瞬間、アル=アガレスの視線が鋭くなった。
「獣神の娘も含め、三人とやり合った。結果は……見ての通り我の勝ちだ」
アル=アガレスは勝ち誇ったように手のひらを掲げた。
「……その右腕」
リサの目が、アル=アガレスの腕に宿る魔力の流れを捉える。
「再生しているけれど、魔力に歪みがある。負けたんでしょう?」
「……っ!」
「どれだけ隠しても、魔力の傷は誤魔化せないもの」
「……魔力の傷」
「そんなことも知らないのね?悪魔族の王様」
小さく、だが確かに嘲るような微笑。
「――舐めた口を!」
アル=アガレスの魔力が一気に膨れ上がり、床を蹴った。
ーーーーー!!
気づけば、アル=アガレスは玉座の前に倒れていた。
四肢はすでに切り落とされている。
血は止められているが、痛覚だけはそのまま残されていた。
「……くっ、この俺が……?」
低く唸る声には、信じがたい現実への戸惑いが滲んでいる。
戦いを終え、玉座に座るリサは、表情一つ変えずにその姿を見下ろしていた。
「貴方がエレナと戦った時……エレナ、迷っていたでしょう?」
「……何を、言っている」
「エレナはね、クソ真面目なの。決断したように見えても、常に何かを考えて、迷っている」
淡々とした口調。
だが、その言葉は正確にアル=アガレスの胸を抉った。
「悩み無く本気で戦えたのは……魔王と私くらい」
「……馬鹿な。あの魔力、あの剣技……本物だったぞ」
「ええ。本物よ」
リサは頷いた。
「でもね――それは全力じゃない」
アル=アガレスの瞳が見開かれる。
「貴方は、実力が半分ほどに落ちている勇者と戦ったの」
「そんな……そんなわけが……」
「あるわ」
冷たく、断定する声。
「結果として、ちょうど釣り合う強さだっただけ。――貴方がね」
「……くっ……!」
歯を食いしばる音が、静まり返った玉座の間に響いた。
敗北。
否定しようのない、完全な敗北。
魔王との戦いでも、ここまで一方的ではなかった。
「……殺せ」
吐き捨てるような言葉。
それでも、その声には僅かな誇りが残っていた。
リサは、その様子をしばらく眺めてから、ふっと微笑んだ。
「いい感じね、貴方」
「……何?」
「ちょうど部下の席が一つ、空いているの」
玉座の上から、興味深そうに首を傾げる。
「どうかしら?悪魔族の王」
それは命乞いを許す言葉ではない。
服従を強いる言葉でもない。
選択を与える声だった。
戦いが終わった玉座の間に、再び静寂が戻る。
リサの背後に、エルバラを含む三人の魔将が並び立った。
「……その空席になった部下は、どうなった」
低く問う声。
リサは視線を動かさず、淡々と答える。
「蒼天の魔法使いに殺されたわ」
「……そうか」
短い沈黙。
それだけで、敗北の重さは十分に伝わった。
「私と契約すると、貴方にもメリットはあるわ」
リサは、ゆっくりと指を組む。
「私たちはね――勇者、蒼天、獣神の娘、そして人族を……徹底的に地獄の底へ叩き落とすつもりよ」
「……なぜ、そこまで」
アル=アガレスは、疑問を隠さず問いかける。
「あ、でもね。勇者エレナはダメ」
あまりにも軽い口調。
だが――空気が変わった。
「……あの子は、私の獲物」
リサの表情から、聖女の面影が消える。
理性も、慈悲も、感情すら削ぎ落とされたような瞳。
「なぜ、そこまで勇者にこだわる?」
その問いに、リサは一瞬だけ視線を伏せた。
「……あの子が、私の大切な者たちを蔑ろにしたから」
次に顔を上げた時、そこにあったのは――
悪魔そのものの殺意だった。
「だから、私と契約して仲間になってもらう。でも、エレナはダメ」
視線がアル=アガレスへ向けられる。
「他は、任せるわよ」
アル=アガレスは、ゆっくりと息を吐いた。
(――なるほど)
この女は、復讐のためなら世界そのものを燃やす。
人族も、魔族も、秩序も、すべて巻き込んで。
ヒューマンらしい感情。
悪魔のような決断。
これほど歪で、これほど純粋な存在は、見たことがない。
(……面白い)
アル=アガレスは、口元を歪めて笑った。
「……わかった」
膝をついたまま、しかし頭は下げない。
「聖女リサ……勇者と聖女の行く末を見たい」
その視線は、同格を見るものだった。
「――貴女の力となろう」
それは忠誠ではなく、破滅を共有する契約だった。
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