その12 「後味の悪い決着」
腕を失った悪魔を、ただ、見下ろしていた。
床に膝をつき、血を垂れ流しながら、アル=アガレスは、苦悶に歪んだ顔で私を見上げていた。
その瞳は、もはや悪魔そのもの。
黒く濁り、底知れぬ悪意を孕んでいる。
「……ヒューマンごときが……」
低く、掠れた声。
「我を……見下ろすなど……」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
「アル=アガレス」
私は静かに名を呼ぶ。
「お前の負けだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
視線を落とすと、床に転がる切り落とされた右腕。
その手は――最後まで、剣を握り締めていた。
父様の剣。
私はゆっくりと近づき、その手から剣を引き抜く。
ずしり、と重い。
だが、不思議と手に馴染んだ。
(……やっぱりだ)
この剣は、父様のものだ。
「これは返してもらう」
剣を持ち上げ、そう告げる。
「そして、姉様の体もね」
炎帝を構え、アル=アガレスの顔へ突きつけた。
紅蓮の刃先が、すぐ眼前で揺れる。
龍炎の熱が、空気を歪ませた。
アル=アガレスは、喉を鳴らして笑った。
「……くく……はは……」
血に濡れた口元が、歪む。
「……ふ、ふふふ……」
アル=アガレスの喉から、嗤いとも吐息ともつかない音が漏れた。
次の瞬間だった。
奴の体から、真っ黒な靄が噴き出す。
「っ……なんだ!?」
空気が一気に重くなる。
視界が揺らぎ、嫌な魔力が肌にまとわりついた。
「エレナ!離れた方がいいわ!」
レーナの声に、私は反射的に後退する。
靄は渦を巻き、アル=アガレスの姿を完全に覆い隠した。
やがて、黒い霧がすっと引く。
そこにあったのは。
「……っ!」
倒れ伏した、ひとりの女性の体。
「カトリーナ姉様!」
考えるより先に、体が動いていた。
私は駆け寄り、姉様の体を抱き起こす。
温かい。
呼吸もある。
(よかった……)
体に外傷は見当たらない。
意識を失っているだけのようだった。
つい先ほどまで胸を焼いていた怒りも、疑念も、全部吹き飛んだ。
今はただ、姉様が生きている事に安心した。
「レーナ!」
顔を上げて叫ぶ。
「あの悪魔はどこに行った!?わかるか!」
レーナは目を閉じ、ゆっくりと指を伸ばした。
「……あそこよ」
視線の先。
エントランスへと続く階段の上。
そこに、黒い魔力が澱のように溜まっていた。
「ラン、すまない」
私は姉様を抱いたまま言う。
「姉様の体を、倒れてるマリアンヌ姉様のそばへ連れて行ってくれ」
「……わかりました」
ランは迷いなく駆け寄り、姉様を受け取る。
その背中を見送りながら、私は再び前を向いた。
「レーナ、どうする!?」
「……暫く様子を見ましょう」
その言葉が終わるより早く空間が、震えた。
「その必要はないぞ」
エントランスに、低い声が響く。
「冒険者の亡骸が落ちていたからな。こちらの体に移させてもらった」
黒い霧が晴れる。
そこに現れたのは、無傷のアル=アガレス。
「……死体でも、いいんだな」
「我も死体などを媒介にしたくはない」
奴は肩をすくめるような仕草を見せた。
「だが、貴様にその剣を奪われたせいで、その女との契約はご破算だ」
「それなら、このまま魔界に消えてくれていいんだけど?」
私も肩をすくめた。
「ふふふ……そうはいかん。久しぶりの地上世界だからな。もう暫く、楽しまねば」
一瞬、視線が鋭くなる。
「良い戦いであった。褒めてやろう」
「何よ!負けそうになってたくせに」
レーナが食ってかかる。
「ふふふ、そう思って貰っても構わん」
(いや、あいつにはまだ余裕があった)
私は奴との戦いの中で、そう感じ取った。
「だが……少々、力を使い過ぎた。今回は退散させてもらおうか」
「逃がすか!」
私とレーナは、ほぼ同時に動いた。
二人の魔法が放たれる。
だが、黒い靄が再び空間を覆い尽くす。
次の瞬間、アル=アガレスの姿は、跡形もなく消えていた。
「……くそっ」
「逃げられたわ」
思わず、吐き捨てる。
結果だけ見れば、こちらの勝ちだ。
姉様も取り戻した。
それでも。
最後まで、掌の上で転がされていたような。
そんな、ひどく後味の悪い終わり方だ。
「まだまだ、強くならないとダメだなぁ」
戦いが終わり、護衛隊長と隊員が戦いの場へ戻ってきた。
あれこれと話をしたが、少し休ませてもらいたくて、屋敷の一室が応急の療養部屋として使われた。
壊れた壁から差し込む光が、白いカーテンを揺らしている。
レーナとランも別室に通され、休ませてもらっている。
私は壁際の椅子に腰を下ろし、二つの寝台を見つめていた。
一つには、次姉のマリアンヌ姉様。
もう一つには、長姉のカトリーナ姉様。
しばらくして、マリアンヌ姉様が微かに身じろぎをした。
「……う……」
「……姉様?」
声をかけると、ゆっくりと瞼が開く。
「……エレナ……?」
「はい。私です」
焦点が定まるまで、少し時間がかかったようだった。
やがて、はっとしたように身を起こそうとする。
「カトリーナ姉さんは……!?姉さんは無事なの!?」
「大丈夫です」
私はすぐに答えた。
「隣で、眠っています。命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、
マリアンヌ姉様の肩から、目に見えて力が抜けた。
「……よかった……」
両手で顔を覆い、小さく息を吐く。
それは、張り詰めていた糸が切れた音だった。
私は一拍置いてから、静かに口を開く。
「……姉様」
「……なに?」
「どうして、悪魔の力なんて……」
言葉を選んだつもりだった。
それでも、責める響きが混じってしまったかもしれない。
マリアンヌ姉様は、しばらく沈黙した後、ぽつりと語り始めた。
「……知らなかったの」
「え?」
「あの魔法具が、悪魔との契約道具だなんて……」
視線を落とし、続ける。
「つい先日、ロイが来たのよ」
その名を聞いただけで、胸の奥がざわつく。
「相談にのってあげたお礼にと、渡されたのが願い叶える魔法具だと言われたわ。まぁお礼と言っても、多額のお金を払ったわ。でも、国を立て直す力になる、と……そして、願いを叶える対価として、剣を一振り預けるだけだと」
私は、思わず拳を握り締めた。
「……父様の剣を対価に?」
「ええ……」
マリアンヌ姉様は、小さく頷いた。
「ロイが持ち歩いていたの。あの人が……それを、カトリーナ姉さんに渡した」
(あいつ……)
聞いているだけで、腹の底が煮えくり返る。
(いつか本気で殴る)
「……ロイは、今どこに?」
私は努めて冷静に尋ねた。
「連合の案件で、エルフの国へ向かったと聞いているわ」
「そうですか……」
当分、顔を合わせることはなさそうだ。
今は、それでいい。
マリアンヌ姉様が、私の方を見て、深く頭を下げた。
「エレナ……勇者としてカトリーナ姉様を救ってくれたのかもしれないけれど……」
「カトリーナ姉さんを助けてくれて……ありがとう」
「……」
私は首を横に振った。
「礼を言われるようなことじゃありません。ただ、放っておけなかっただけです。妹ですから」
「……願いが叶う魔法具。正に悪魔の囁きね」
マリアンヌ姉様の声は、震えていた。
「……姉様は昔から……」
そこで、言葉が途切れる。
私は、その続きを待った。
これまで語ってこなかった姉二人の話を初めて聞くことになる。
マリアンヌ姉様は、しばらく言葉を探すように俯いていた。
指先が震えているのが、はっきりとわかる。
「……エレナ。あなたは、知らなかったでしょうね」
私は黙って頷いた。
「あなたが七つになった頃……いえ、正確には才能を示し始めた頃からです」
マリアンヌ姉様は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「父様と母様は……あなたを誇りに思っていました。剣も、魔法も、学問も。すべてにおいて突出していたあなたを」
胸の奥が、少しだけ軋んだ。
「でも同時に、私たち姉妹には……厳しくなったのです」
それは、私が思っていた両親の姿とは違った。
「比べられていたわけではありません。ただ……結果がすべてでした。できなければ注意され、できても小さなエレナができるから当然だと言われる」
マリアンヌ姉様は、苦笑する。
「私もカトリーナも、あなたほど器用ではありませんでした。剣は並、魔法も凡庸。貴族としての知識も……努力して、ようやく平均」
私は息を呑んだ。
そんなこと、一度も聞いたことがなかった。
「あなたは忙しかったものね。毎日、毎日、予定が詰まっていて……リリサと過ごす時間ばかりだったでしょう?」
図星だった。
当時の私は、訓練と勉学で一日が終わっていた。
「だから、見えなかったのね。私たちが、少しずつ追い詰められていたことも」
マリアンヌ姉様の視線が、眠るカトリーナ姉様へ向かう。
「特に……カトリーナ姉さんは」
声が、わずかに震えた。
「あなたを、怖がっていました」
「……私を?」
「ええ。覚えていますか?子供の頃……大理石の机を拳で割ったこと」
覚えている。
怒って割った。
「あの時、カトリーナ姉さんは本気で怯えたのです。この子は、私たちとは違うと」
マリアンヌ姉様は目を伏せる。
「母に似た美貌、父譲りの頭脳、剣も魔法も才能がある。そして何より……努力を苦にしない」
胸が、締め付けられた。
「長姉として、守る立場のはずなのに。気づけば、追い抜かれていく恐怖に支配されていました」
沈黙が落ちる。
「……でも、言い訳ですね」
マリアンヌ姉様は、はっきりと言った。
「私たちは、あなたに意地悪をした。突き放し、貶し、遠ざけた。それはすべて、自分たちの弱さです」
涙が、頬を伝って落ちる。
「…こうやって結婚しても……自分たちは選ばれなかったという思いだけが残りました」
だから、贅沢に逃げた。
責任から逃げた。
自分たちを正当化するために、民を見下した。
「……悪魔の魔法具も、最初は国を立て直す力だと言われた。でもその魔法具をエレナへの憎しみに使った」
マリアンヌ姉様は、嗚咽を堪える。
「それが、どんなものかも知らずに……」
私は、何も言えずに立ち尽くしていた。
怒りは、確かにあった。
今も、胸の奥で燻っている。
民を苦しめ、父様の剣を差し出し、悪魔と取引をした。
その事実が消えるわけじゃない。
「……知らなかったです」
それが、正直な感想だった。
私はずっと、思っていた。
両親は優しかったと。
姉たちは、ただ私を嫌っていたのだと。
でも、それは――私の見ていた世界が、あまりにも狭かっただけなのかもしれない。
七歳の頃。
毎日が訓練と勉学で埋まっていた。
朝は剣、昼は魔法や座学。
話し相手は、ほとんどリリサだけだった。
姉たちが何を感じ、何を恐れ、何を失っていったのか。
考えたことすら、なかった。
(……私、怖かったのか)
自分が、誰かにとって恐怖だったという事実が、胸に刺さる。
大理石の机を殴り砕いたあの日。
力の制御ができず、ただ驚いていただけの私。
でも――あれは、姉たちの世界を壊すには十分だったのだろう。
それでも。
「だからって……」
だからって、民を踏みつけていい理由にはならない。
父様の剣を、悪魔に渡していい理由にもならない。
私は、カトリーナ姉様の眠る顔を見る。
そこにあるのは、かつて私を見下し、蔑み、憎んだ姉の顔であり、同時に、恐怖に押し潰されたまま大人になってしまった、ひとりの人間の顔だった。
(許すかどうか……)
ここでは、考えずにいよう。
私は勇者だ。
魔族を斬り、悪魔と戦うことはできる。
けれど、人の弱さをどう裁くかは剣で決められるものじゃない。
拳を握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……」
答えを出し向き合うのは、少し先にしようと思う。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は1/24土曜日22時に公開予定です。
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