その9 「悪魔族の王アル=アガレス」
瓦礫の向こうで、
それはゆっくりと背筋を伸ばした。
崩れた壁材が、音もなく滑り落ちる。
まるで、この場の重力そのものを支配しているかのようだった。
「……ほう。勇者というのは、なかなか頑丈だな」
低く、粘つく声。
それは、決して姉のものではない。
「名乗っておこうか。我が名は――悪魔族の王アル=アガレス」
その名が告げられた瞬間、空気が、軋んだ。
肺の奥に重たいものが流れ込んできて、無意識に歯を食いしばる。
「魔界において悪魔族を統べていた者。そして、この肉体の“客人”だ」
私は拳を握りしめた。
「……姉を媒介にして出てきた悪魔か……」
「ふふ……愚かなヒューマンの希望よ」
アル=アガレスは、楽しげに笑った。
姉の顔で、姉ではない笑みを浮かべながら。
「魔王を討伐してくれたおかげで、我の封印は解かれた。そして、この体……実に素晴らしい」
胸の奥が、じわりと焼ける。
「どういう、ことだ……?」
「ふふふ。貴様らヒューマンは知らぬだろうが、魔王が現れる以前、我こそが魔界を統治していた」
その言葉に、背筋が凍った。
「だが敗れ、封印された。その封印を完全に破壊したのが……勇者、貴様だ」
「そんな……馬鹿な……」
「魔王が討伐され封印が解かれても、我の思念体は体を求め彷徨っていた。ある時、先程の魔法具に取り憑く事ができてな。それが姉妹の手に渡り、カトリーナと交渉したいたのだーー実の妹と戦うことになれば、我に肉体を譲るとな……」
「カトリーナ姉様が……」
「欲望、劣等、嫉妬、支配、それらは人の内から生まれる悪感情。悪魔にとっては、極上の糧だ」
アル=アガレスは、自分の胸、いや、姉の胸に手を当てる。
「特に……欲望に塗れた女の体は馴染みが良い」
私は奥歯を噛み締めた。
その瞬間、レーナが一歩、前に出る。
「つまり、アンタは悪食の寄生虫ってわけね」
冷え切った声だった。
「……蒼天の魔法使いか」
アル=アガレスの目が、細くなる。
「蒼龍撃退を単独で成し得た女。さて……貴様の欲望は何だ?」
「そんなの、ないわよ」
即答だった。
「ふふふ……我にはわかっている」
レーナが、奴を睨みつける。
そして、その視線は再び、私へと向けられた。
「勇者エレナ。魔王を斬った女よ。貴様の絶望は、実に甘美だった」
「……私の、絶望?」
「今の魔王……聖女リサに裏切られた時のものだ」
言葉が、胸に突き刺さる。
「……」
「……そこの獣神の娘からは、ほとんど負の感情を感じぬな」
ランを見る。
「獣人族に負の感情は少ないと聞く……つまらん。消えろ」
「っ!」
アル=アガレスの指先から、黒い雷が放たれた。
「くっ!!」
ランは構えていた双剣で受け止めたが、衝撃に耐えきれず、屋敷の外へと吹き飛ばされる。
「ラン!!」
私の叫びと同時に、
床が震えた。
「ひ、ひいいい……!」
マリアンヌ姉様が悲鳴を上げる。
「妹か……」
アル=アガレスが、ちらりと彼女を見る。
「カトリーナとの契約で、妹には手を出すなと言われている……ここから去れ」
「は、は、こ、腰が……」
マリアンヌ姉様は腰を抜かし、動けずにいた。
「護衛隊長!貴方も部下や屋敷の人を外に避難させて!」
「は、はい!」
護衛隊長は部下達に屋敷からの退去を命じていた。
「レーナ!!」
私が叫ぶと同時に、レーナはすでに構えていた。
「わかってる――アイススピア!」
彼女の周囲に、無数の氷槍が顕現する。
それらが一斉に、アル=アガレスへと放たれた。
「ファイアランス」
アル=アガレスは構えもせず、即座に、炎の槍が出現し、氷槍を正確に撃ち落とす。
だが、レーナは止まらない。
地面に手をつき、次の魔法を重ねた。
「囲め!」
土壁が隆起し、アル=アガレスを完全に包囲する。
「このまま――蒸し焼きにしてあげる!!」
ファイアボールが、雨のように叩き込まれた。
ドォォォォォン――!!
衝撃で床が砕け、マリアンヌ姉様の体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「……」
動かない。
気を失ったようだ。
「どう!?」
焼け焦げた土の匂いが屋敷に充満する。
壊れた屋根と壁から吹き込む風の流れが、明らかにおかしい。
「……な、なんだ?」
「風魔法……?」
次の瞬間、土壁が内側から引き裂かれた。
「ふふふ……いい攻撃だ。だが、まだ火力不足かな」
アル=アガレスは、無傷だった。
「ちっ……!」
レーナが舌打ちする。
「まぁ、この程度ならホコリが舞うくらいだな」
レーナの表情が、険しくなる。
「蒼天の負の感情が伝わるぞ。この魔法で、数多の魔族を葬ってきたのだろう?」
にやり、と笑う。
「だが――我には効かぬ」
「エレナ!」
レーナが私を見る。
「ランが戻るまで、二人でやりましょう!」
「おう!」
私は一歩、前に出た。
「最初から、そのつもりだ」
瓦礫の上で、ヒューマンと悪魔の三人が睨み合う。
空気が、張り詰める。
――第二ラウンドの始まりだ。
私が、先に踏み込んだ。
床を蹴ると同時に、距離を一気に詰める。
剣は顕現させないーーまずは拳でやる。
「はぁっ!」
拳を振り抜く瞬間、アル=アガレスもまた、腰を落として構えた。
拳と拳が、真正面からぶつかる。
ドンッ――!!
空気が弾け、衝撃波が走る。
腕に、嫌な感触が残った。
(硬い……!)
だが、止まらない。
「今よ、レーナ!」
「了解!」
背後で魔力が膨れ上がるのを感じる。
レーナの周囲に、ストーンランスとファイアランスが無数に顕現した。
次の瞬間、私の拳が、アル=アガレスの鳩尾に叩き込まれる。
「ぐっ……!」
その衝撃と、寸分違わぬタイミングで、
ズドドドドッ!!
石と炎の槍が、連続して突き刺さった。
私は即座に距離を取り、両手を前に突き出す。
「これも食らえ!!」
掌から、無数の火炎弾を叩き込む。
爆発、爆発、爆発。
視界が、完全に炎と煙に覆われた。
「っあ!」
瓦礫がマリアンヌ姉様に当たり、彼女は気絶したようだ。そっちの方が好都合かな。
……そして。
煙が晴れる前に奴が迫る。
「――ちっ!」
黒い影が、一直線に迫る。
「こいつ……魔法が効かないのか!?」
アル=アガレスの拳が、私を捉えようとする。
私は半身でかわし、伸びてきた腕を掴んだ。
「っらぁ!!」
体重を乗せ、一気に回転。
一本背負い。
アル=アガレスの巨体を、そのまま壁の方へと叩きつける。
ゴォンッ!!
壁が陥没し、石材が崩れ落ちた。
「今!」
「わかってるわ!」
レーナの声。
次の瞬間、淡い光が、空間を満たす。
「悪魔には――これでしょ!浄化!!」
アル=アガレスの体が、柔らかな光に包まれた。
「――ぐっ!」
光に押し込まれるように、奴は再び壁へと叩きつけられる。
「まだまだ!」
私は叫ぶ。
「レーナ!」
「当然!」
雷鳴が轟く。
「サンダーランス!!」
同時に、私は再び火炎弾を展開する。
雷と炎が、交差する。
ドォォォォン――!!!
凄まじい爆発音と共に、王の邸宅の壁が半壊した。
崩れ落ちる石、舞い上がる土煙。
(……避難は、終わってるよね)
確認する暇は、ない。
私は構えを解かず、煙の向こうを睨み続けた。
レーナもまた、息を整えながら魔力を練る。
屋敷の中は完全に戦場と化していた。
そして、土煙の奥。
気配は消えていない。
(……まだ、生きてる)
「ふははははははは――」
崩れた瓦礫の向こうから、アル=アガレスが姿を現した。
焼け焦げ、ひび割れたその身体。
だが――倒れる気配は、微塵もない。
「いい、いいぞ。まさか光魔法まで使えるとは思わなんだ」
瓦礫を、まるで邪魔な布切れでも払うように押し除け、やつはゆっくりと歩いてくる。
「数百年ぶりだ……こうして痛みを感じたのはな」
その声音には、怒りも憎しみもない。
あるのは、ただ――愉悦。
「これだから戦いは、やめられん」
やつは両腕を大きく広げ、無防備とも取れる構えを見せた。
――その瞬間。
「っ!!」
上から、影が落ちる。
「はぁぁっ!!」
鋭い声と共に、ランが双剣を構えて降ってきた。
狙いは、頭。
一切の躊躇もなく、双剣が振り下ろされる。
ザンッ――!!
一瞬、遅れて、
アル=アガレスの両腕が、宙を舞った。
「……ほぉ?」
切断された断面から、黒い魔力が噴き出す。
「油断しましたね!」
ランは着地と同時に、さらに踏み込む。
「まだ――!」
だが。
「甘い」
次の瞬間、アル=アガレスの脚が唸りを上げた。
ドンッ!!
鈍い音と共に、ランの身体が弾き飛ばされる。
「ぐっ……!」
ランは床を転がり、私とレーナの間まで吹き飛ばされた。
「もう一撃……入れたかったのに……」
悔しそうに歯を噛みしめるラン。
私は、目を細めた。
「いや……十分だよ」
「え?」
「今ので、なんとなく攻略法が見えた」
レーナも、同じことを考えていたらしい。
「ええ。ありがとうラン」
アル=アガレスの切り落とされた腕は、既に黒い魔力に包まれ、形を取り戻しつつある。
だが、再生には、僅かな間がある。
少し考える暇ができた。
「ラン、助かったわ」
「……いえ」
ランは立ち上がり、双剣を構え直した。
「三人でやりましょう」
私とレーナは、無言で頷く。
前衛は私。
制圧と火力はレーナ。
隙を突く刃が、ラン。
三人の呼吸が、自然と噛み合う。
「ふふふ……」
アル=アガレスが、低く笑った。
「いい攻撃だ。若いからと、みくびっていたぞ」
再生し終えた両腕を、今度はしっかりと構え直す。
空気が、再び張り詰める。
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