生理の時くらい魔法をつかえたらいいのに
※月経の話が出てきます
「今夜からですか」
「うん、急で悪いんだけどね、根谷くん」
そういいながら、主任の倉田は両掌をこすりあわせるようにした。六十四歳という年齢の割に、やけに髪の多い頭を、水を飲む鳥のおもちゃのように振る。
根谷等はこんな時、倉田の不自然に黒い髪がふわふわと揺れるのを、つい目で追ってしまう。果たしてこれは地毛なのか、それともかつらなのか。地毛だとしたら染めているのか、居ないのか、等にはそれを知る術はない。
倉田は、身長は高くも低くもないのだが、やけに痩せていて、頬は彫刻したようにこけ、常に顔色が悪い男だ。ほとんど茶色の顔で、肌は表面がかさつき、より一層彫刻のような雰囲気を醸している。
倉田はU総合警備に入社してやっと半年目の等の、教育係のような存在である。そういうふうにいわれた訳ではないが、仕事に関して八割方を教えてくれたのは倉田だった。制服のどこにどんなものをいれておくべきか、ということについても、ほぼ倉田から教わった。――ベルトのここのとこに懐中電灯がひっかかるようになってるからね。で、こっちにはこれ、小さいけど結構光るから便利なんだよ。
彼の顔色の悪さは、病気の所為らしい。数年前、等がこのU総合警備という会社の存在をまだ知らない頃、胃ガンになって、胃を半分摘出したと、倉田当人が語るのを聴いたことがある。
あれは、美術館の警備業務の時だった。くらい館内をふたりで歩いて見回っていると、気色の悪い、妙に血みどろの絵が飾ってあったのだ。
等はそれを知らなかったが、有名なスペインの画家の絵の、レプリカらしい。美術館の警備をする時には、収蔵品のことをきちんと把握しておくのも仕事のうちだ、という話をしたあと、倉田はなんでもないように、俺もこんな感じで腹をかっさばかれたんだよ、と笑った。
いわれてみれば、倉田はひとよりも食が細く、酒の話も一切しない。薬をのんでいるのを見たこともある。ほかの警備員達も、倉田に酒の話をしないようにしていた。倉田はくわしく話さなかったが、どうやら胃ガンになる前には、かなりの量の酒を呑んでいたらしい。それが原因だとくさす先輩も居た。酒の呑みすぎで体を壊したのだ、と。
或いは、妻との不仲が理由だろうという先輩も居る。せまい田舎なので、当人がおくびにも出さなくとも、家庭でのことまでどういう訳だか外へもれてしまうのだ。等も子どもの頃よく、帰りがけに近所のおばさんから、自分の家の夕飯のメニューを教わったものである。それは一度も外れたことがなかった。そのおばさんがどうやって根谷家の食事内容を知っていたのか、等は未だにわからない。
倉田は今日も顔色が悪いが、それもいつものことで、特に体調が悪いという訳でもないようだ。普段の彼である。ほとんど茶色の顔色をした、彫刻のような男。木のような質感の男。
等は入社当初こそ、倉田の顔色の悪さに不安を覚えていたのだが、今はもう慣れてしまった。ほとんど毎日顔を合わせていると、最初はあれだけ心配だったのが嘘みたいに気にならない。寧ろ、顔色がいい倉田を想像できなかった。十年ほど前の社員旅行の写真には、少しだけ白っぽい色合いの倉田が映っているが、そちらに違和感を覚えるのだ。倉田さんが白くなったら、漂白したのかと思って笑ってしまうだろうな……。
等の考えていることがわかったみたいに、倉田は愛想よく笑った。ぴたっと動きを停める。
「いやあ、大森さん、お子さんが具合悪くなったらしくてね。悪いんだけど、ほんとね。五歳の子どもが倒れたっていわれたら、それでも出てこいとはいえないじゃない、ね? 肺炎なんだって」
「はあ……」
「根谷くんには一時まで居てもらって、そのあとは俺が引き継ぐから、ね?」
大森というのは、等の丁度、十歳上の先輩だ。たしか、奥さんがふたりめを妊娠しているといっていた。だから、お金を貯めたいのだそうだ。この二ヶ月ほど、十二時間働いて十二時間休む、という働きかたを続けていた。おもに、夜間の工事現場の警備だ。昼過ぎから夜中まで現場に立ち、時間が来たら次の警備員と交代して帰る。かなりきついかわりに、ほかの業務よりも給料はいい。ただ、そう何ヶ月も続けられるものではないから、U総合警備ではそういう働き方は連続して三ヶ月までと決められていた。等もそれをしたことはあるが、数ヶ月も続けていたら体を壊しそうだなとは思った。
それに、ひとりの社員だけが高い給料をもらい続けると、車内でもめごとが起こる、というのが、社長の言葉だそうだ。実際、そういうことが起こったかどうかはともかく、社長は慎重派らしく、細かい社内ルールがある。社員同士のもめごとは厳禁、とか、女性は夜間、屋内の警備はできない、とか。
等は時計を見た。時刻は午後一時。今日は休みだった。だが、とにかく急いで来てほしいと倉田に呼び出された等は、なにかしでかしてしまったかと慌てて出てきたのだ。
身に覚えはあった。少し前にひとりで立っていた工事現場で、等がどうにも我慢できずにトイレに行った時に、子どもののった自転車がはいりこんでしまったことがあったのだ。さいわい事故もなにもなくすんだが、等は倉田に叱責された。
社内ルールを定めた厳しい社長が、業務日誌をやはり厳しくチェックしている、と、等は先輩達から聴いている。なにか不手際や不備があれば、減給はあっさり行われる。法律的なことは等にはわからないし、田舎で、地元で幅をきかせている企業に勤めていると、社長だの専務だのの決定には誰も逆らえない。これをしたからこれだけ給料を減らす、といわれて、反論する口が等にはない。
それに、自転車がのりこんできた一件以降、誰かが等のロッカーにいたずらするようになった。酷いものではないが、インクらしきもので服を汚されたり、ロッカーのまわりに水が飛び散っていたりと、どうにも煩わしい。同僚のなかでも同年代の松木が怪しいと思っているが、証拠はなかった。
社員同士のいざこざは、失点になるらしい。等自身は誰へ対してもつっかかっていくつもりはないが、誰かが等を標的にいやがらせをしていた。それを、相手ではなくこちらに責任ありとされたら……。
等は突然の呼び出しにびくついていたのだが、いざ来てみれば、休んだ同僚のかわりをしてほしいという話だった。
ほっとはしたが、しかし、意外でもある。社長が決まりどおり、予定どおりに物事をすすめるのをよしとしているというのも先輩達から何度も聴いたことで、だからなのか、今までこういうことはなかった。突然、警備の仕事自体がなくなることはあったが、別の現場へ向かえといわれることは、今までにない。
もしかしたら、一人前だと認められて、臨時の仕事を任せてもらえるのかもしれない。
減給やなにかの話ではなくて安堵したのと、ようやくと力量を認められたような気持ちとがあって、等は気軽に頷いていた。もしかしたら、大森さんや松木よりも、信頼されているのかもしれない。
「わかりました。どこですか?」
「やってくれるの?」
「はい」
「ありがとう!」
みるみるうちに、倉田は笑み崩れた。
懐中電灯の強力なライトが、さっと宙を撫でる。
ライトのなかで、細かい埃がきらきらと舞っていた。それが埃と知らなければ、綺麗と思えなくもない光景だろう。ゆうらゆうらと、それは蛇行しながら上昇していく。
等は軽く咳込んで、懐中電灯を持っていない左手でマスクをずらし、口許を拭った。すぐに、マスクを戻す。目頭を指先で撫でるようにし、目やにを落とした。十数分に一回は目やにを落としている。明日も大森さんのかわりをするのなら、マスクをもう一枚持って来たほうがいいな……一枚じゃあ、この埃を防ぎきれない。
等は喉の奥で唸るみたいに咳をし、歩を進めた。かつかつと、ブーツの底と板張りの床が接する音がする。埃まみれのドアは、ノブだけはあまり汚れていなかった。毎夜の巡回で、警備員がここへ触れるからだろう。それでも、ノブをまわした手にはめた手袋には、茶色と灰色をまぜたような、汚い跡がつく。最後に掃除をしたのはいつなのだろう? 明日、倉田さんにいおう。これじゃあ病気になってしまう。
等はドアを開け、懐中電灯をすばやく動かして室内を見る。強力なライトで照らしても異常は見付からず、等はひとつ頷くと、ドアを閉めて、再び廊下を歩く。口のなかが埃っぽく、唾液は粘ついて、不愉快だった。
等がたったひとりで警備することになったのは、U総合警備卯鷺支部の、目と鼻の先にある建物だった。歩いて十分もかからない距離にあるし、支部の窓から見える。
古くさい、汚れた赤茶色の、三階建てのビルだ。これまた古くさい「ーーの宮村」という看板が、側面に掛かっている。なんの宮村なのか、錆と汚れで読めないのだが、隅のほうに茶碗のようなマークがはいっているので、飲食店だろうと等は考えていた。
倉田によれば現在の持ち主は宮村という姓ではないそうなので、おそらく宮村という人物がなにかの店をやっていたが、それが潰れ、ビルごと人手に渡ったのだろう。ここには今、テナントはひとつもなく、従って人気もまったくない。ついでに、電気や水道が通っているのも一階の一部だけで、それ以外は廃墟同然だった。
通勤中に何度も見たことがあったので、場所と特徴を聴いてすぐにわかった。たまに看板を見上げて、一体なんと書いてあるのか、と、読もうとしていたのだ。気になっているのだが、それを倉田に訊く時間はなかった。勤務を終えて、夜中に倉田さんとバトンタッチする時に、訊いてみよう。
それにしても埃っぽい。目がちかちかしてきた……。
等は左手で目をこすり、じりじりする痛みに顔をしかめた。目になにかがはいったのだ。手袋が汚れていたのに、それで目をこすったから、手袋についた埃が目にはいったのだと等は思った。不用意に目をこするんじゃなかったと思っても、後の祭りだ。
等は左目を閉じる。そうしていると、少しだけ痛みがやわらいだ。
目を洗いたいが、この建物の水道は、限られた場所しかつかえない。一階のトイレと洗面所、それから警備員室にある洗面台だけだ。それらは警備員がつかう為に生きている。どういう訳か倉田は、遠慮せずにつかっていいから、と、妙ないいまわしをした。
幾ら夜間警備をして不審者がはいりこむのを阻止しているといっても、水道を無駄につかわれるのは普通、オーナーとしてはいやだろう。そういえば、私物の持ち込みも、かなりの範囲ゆるされていた。等はそれで、数冊本を持ってきていた。仮眠をとるのは得意ではなくて、睡眠導入剤がわりに、だ。
どうも、ほかの場所でのセオリーが通用しないらしいなと、思い返してあらためて、等は妙な気分になってくる。なにもかもが予定や、これまでの経験と違う。
今、等は二階を巡回していて、これから三階へ向かう。倉田は何度も「巡回ルートを勝手にかえないでね」「時間をまもってね」「しっかり日誌をつけてね」と念をおしてきた。そこまでしつこくいわれたことはなかったので、なにかしら意味があることなのだろう。このビルのオーナーが神経質なのかもしれないし、例えば近所の住民から、必要以上にライトを動かしたり歩きまわったりしないでほしいと苦情があったのかもしれなかった。
後者に関しては、等が実際に体験したことだ。住宅街で行われたビルの改修工事の際、壁に穴があいていた時期があり、そこからひとがはいりこまないように警備員が立っていた。等もそのひとりだ。そこのオーナーの要望で、警備にあたっていたのは柔道や空手の段位持ちばかりだった。
警備員が目を光らせているのだ。誰もはいりこめはしない。だが、オーナーの要望でたまに、屋内の巡回もしていた。そうすると、窓からライトがもれて、近所の住宅の寝室にまで届いてしまう。足音も、いつもなら壁がある場所に穴があいているので、隣近所にまで響いた。それで、ライトについても足音についても苦情が来た。それからオーナーと近所の住民達とで話し合いが行われ、工事が終わるまで、巡回は十時と朝の五時の二回だけと決まった。
等はことの顛末を思い起こしながら、疑問を感じた。あの時は、博物館だったか美術館だったか、とにかく高価なものが収蔵された建物だった。数百万円する花瓶だとか、どうしてそんな値段になるのかわからない数千万円する木だとか、そういうものだ。オーナーが心配して、格闘技の段位持ちに警備させてほしいというのも、巡回を頼むのもわかる。巡回そのものに関しては、近所の住民も理解を示していた。だから、時間を決めてそれ以外ではやらないということで決着したのだ。
だが……こんな古くさい、テナントがひとつもはいっていないビルに、泥棒がはいる心配もないだろう。どうしてこんなに丁寧に警備しないといけないんだ? あんなに立派な錠もついてるのに。それに、どうしてみんなここをいやがるんだろう。
疑問はあったが、慌ただしかったのもあって、等は倉田に業務について以外でなにも訊かなかったし、倉田も必要以上の説明はしてくれなかった。こうやってルートをきっちり決め、厳重に巡回させる割に、ふたりではなくひとりでの警備である理由も。
先輩達に聴いた話では、たまにかわった人間から依頼があり、順番どおりに部屋を巡回してほしいとか、何時から何時までは絶対に警備室を出ないでほしいとか、いまいち意味のわからない注文をつけてくることがあるそうだ。偏執狂というやつだろう。
それに、卯鷺は田舎なので、未だに神だの鬼だのを信じているお年寄りは多い。神だろうと鬼だろうと、信じるのは勝手だが、自分がそれに付き合わないといけないのはたまに、不快に感じる。神さまが居るから、敷居を踏むな。悪いものが覗きこむから、障子をきっちり閉めろ。寝ている人間をまたいで歩くと、またいだのと同じところが痛くなるから、してはいけない。仏さまが宿っているから、蜘蛛を殺すな――という類のやつだ。
等の祖父母はその手のことを非常に気にする性質で、父も祖父母ほどではないが気にしていた。等は子どもの頃から、法律でもない奇妙な理屈の「家ルール」に振りまわされていたのだ。敷居の神さまなんて見たこともないし、障子を中途半端に開けていてもなにかが覗きこんでくることはない。縁側で昼寝している祖父を何度も何度も飛び越えたが、一日経ってもふつか経っても何事も起こらなかった。だから等は、その手のことはあまり信じていない。自分の目で見たことがない、自分の耳で聴いたことがない、自分が経験したことがないからだ。それもあって、家とはほとんど縁が切れてしまった。
心霊だとか超常現象だとかを信じていなくても、とにかく、巡回は続けないといけないし、指示されたのだからまっとうしないといけない。それが仕事だからだ。
左目がごろごろして、不快だった。しかし、目になにかはいったくらいで死にはしない。等は足をひきずるようにして、あまり足音を立てず、静かに歩く。いつもの調子で元気よく歩くと、埃が舞って大事なのだ。それに、左目にはなにかが残っていて、痛くてたまらない。自然と足が重くなる。
涙が左目尻からつるつると流れていた。ぬるぬるして、気持ちが悪い。手袋で拭っても拭っても、涙は停まらない。これだけ涙が出ていて、どうしてまだ、目にはいったなにかが出て行かないんだろう。ごろごろした不快感も、じりじりとした痛みも、なくならない。すぐに洗いたいが、巡回ルートを変えることはできない。「あ」
目の痛みに気をとられていて、等は廊下の、壁際に設置された棚だか靴箱だかに気付かなかった。音をたてて懐中電灯をぶつけてしまう。懐中電灯はつるっと右手からはなれ、落ちていく。
がたん。
ごろ。
床へ落ちた懐中電灯は、転がって右足の爪先にあたり、停まる。等はぶつぶつと文句をいいながら、それを拾い上げた。床にはうっすらと、細かい埃が積もっていて、とても清潔とはいえない状態だ。そこへ落ちたものを拾うのがいやだった。特段、綺麗好きという訳ではないが、限度はある。この場所は、少なくとも数ヶ月は掃除されていないだろうし、警備員以外が出入りしたこともないだろう……いや、床は綺麗なようにも見える。足跡ではなく、雑に箒で掃いたような痕がちょっとずつ、あった。誰かが掃除でもしているのだろうか? それにしては、適当だな。
懐中電灯を拾おうとした拍子に、手袋の先で埃を撫でてしまい、すうっと跡がついた。くらいが、なにも見えない真の暗闇ではない。どこからか、街灯の光がさしこんでいて、本当にかすかにだがものは見える。
渋々拾い上げた懐中電灯は、落ちた拍子にスウィッチが切れてしまっている。等はうんざりして、舌を打ち、スウィッチをいれようとした。
できない。電池がずれたのかと思って、その部分の蓋を開けようとしたが、手が滑ってうまくいかない。手袋越しではうまく爪がひっかからないのだ。
警棒のようなサイズの懐中電灯がなくとも、U総合警部の警備員達は、至るところに反射素材の貼り付けられた制服を着ているので、工事現場での交通整理の時に危ない目にあうことはない。それに、予備の懐中電灯も持っていた。といっても、立派なものではなく、ペンライトの少し上等なくらいのやつだ。
等は懐中電灯を左手へ持ち替えると、ペンライトを反射素材のついたベストのポケットから出し、スウィッチをいれた。ペンライトはとても強力とはいえない、ぼんやりとした光を投げかけ、そのおかげで周囲がもう少しだけ見えた。巡回がすんだら警備員室へ戻って、そこで懐中電灯の電池の具合を見よう、だめそうなら警備室に置いてある予備のものと持ち替えよう、と等は考えた。巡回ルートを変えてはならないし、時間をまもらないとならないし、日誌はきちんとつけないといけない。倉田に耳にたこができるほどいわれた。ほかになにをいわれたのか思い出せないくらいに、そればかり。
等は歩き出したが、光がせまい範囲しか照らさないのと、左目が痛いのとで、よろけた。目の痛みから頭に痛みへと発展してしまい、眩暈までしてきている。自分が持っているものではない光がどこからか、にじむようにはいってきていた。もしかしたらどこか、窓が開いているのでは? 警備に支障が出る。調べて閉めないと。順番どおり、それぞれの部屋を見て、たしかめないと。
ここは空気が悪すぎる。
左手で機械的に目を拭う。手袋が濡れていた。マスクにも涙がしみこんでいた。左目全体が痛い。眼球が腫れ上がって、そのまま爆発しそうな気がした。目玉が弾けとんでなかからカスタードクリームのようなものが出てくる、というのを想像した。なにかが目につまっているようないやな感じがしてたまらない。頭のなかで、目玉につまっているのはカスタードクリームから紫蘇の実のような小さな虫へと変化する。それがうじゃうじゃとつまっていて、一匹々々がごくわずかずつ動いている。その度に、痛みが走るのだ。
眩暈に項垂れた等の鼻先から、ぽたりと水分が滴った。
ペンライトのぼんやりした光の輪のなかに、雫があった。床へ落ちたそれはやけに色が濃い。等は目をこらしてそれを見る。
血だ。
「ん?」
首を下へ向けて折る。左手をライトで照らす。手袋には赤く、血がしみこんでいた。
等は左目を開けようとした。上下の睫毛がくっついてしまっていて、ぺりぺりと小さな音をたててはがれていく。乾燥して粉状になったなにかが睫毛からはがれて落ちる。
よろけながら歩く。階段……一階と二階の踊り場の壁に、姿見があった。あれでたしかめればいい。血が出る訳はない。見間違いだ。
等は両腕を振りまわし、壁へぶつかりながら走った。制服が汚れた、と頭をよぎったが、痛みと不安でそれはすぐにかき消えた。
短い階段を降り、左に姿見がある。等はそちらへライトを向けた。
ひゅっと息を吸う。鏡のなかの自分は、左目から血を流していた。マスクには血がしみこみ、出来の悪い仮装のようになっている。
目をこすった時。あの時に傷付けてしまったのか。なにかが目にはいって。
このままではとても、警備なんてできない。すぐに支部へ連絡して、かわりのひとを寄越してもらおう。
等はベストにはさんであるケータイをとろうとしたが、手が滑って落としてしまった。屈んで拾おうとする。
ケータイは不自然に、等の手から逃れ、横へ滑っていった。「え?」
四つん這いで追いかける。ケータイは一階へと、階段を滑り落ちていく。かしゃかしゃっと音をたて、ペンライトの光の輪のなかから消えてしまった。
等は転がるようにして階段を降り、警備員室を目指した。電源のはいっていないケータイを、頼りないライトで苦労してさがさなくとも、警備員室なら電話がある。目が痛い。倉田はまだ居る筈だ。怪我をしたことを伝えて、誰かをかわりのひとを……。
警備員室のドアが見えてきた辺りで、等は自分が巡回ルートをかえてしまったことに気付いた。
「わたしが……ですか?」
U総合警備に勤めてまだ一週間目の大山和子がそういうと、上司の倉田は水飲み鳥のように頷いた。不自然に黒い髪が揺れる。
「ごめんね。いや、松木くんがさ、突然辞めるっていいだしてね、ほかにはいれるひとが居なくて、だからお願いできないかな? ね、大山さん」
「でも、屋内の警備は、女にはさせられないって……倉田さん、いってたじゃないですか」
和子はもごもごと、不明瞭な発音で反論する。今夜は品町の、道路拡張工事の現場にはいる予定だった。そのつもりで居た。なのに、突然呼び出されて、別の現場へはいるようにいわれた。
ほかの警備会社はどうか知らないが、U総合警備には細かい社内ルールが多く存在する。なかでも、女性警備員に夜間、屋内での仕事をさせない、というのは、和子が女だからというのあろうが、勤めはじめてすぐに聴いたルールだ。
強盗や泥棒がはいった場合、女では対抗できないし、逃げきれないかもしれないから、というのがその理由だ。
実際そうなのかどうかはともかく、社長がそうしろといっている。だから、女で夜間の警備業務をするとなったら、屋外での、それも人通りが多い場所もしくは深夜でも営業しているコンビニエンスストアなどが近くにある場所での仕事に限定されていた。でないと警備員が怪我をしたり、最悪死んでしまうかもしれない。男性とふたりであっても、屋内の警備はできない。男女を屋内でふたりにするのはよくない、というのも、社長の考えだ。なんにせよ、このルールは絶対に破れない。そう聴いていた。
屋内の警備は、泥棒などの危険があるかわりに「割がいい」。和子はここへ勤めるようになってすぐに、屋外で交通整理などの必要性がある業務をするより、決められた時間に巡回をすればいい屋内の警備のほうが気が楽だし、警備員になったばかりの自分にはいいのではないかと思って、夜間の屋内での警備を希望していた。
その時、倉田から、女に夜間のビル警備はさせられないと説明されていたのだ。そういう警備の仕事にまわすのは、男でも柔道の段位を持っているとか、自衛隊や警察経験者だとか、とにかく対人格闘の訓練を積んでいる者だけだ、とも。また、男女で組ませて屋内の警備をさせることもない、という話も聴いていた。たとい男と組んでの警備であってもだめだといわれていたのに、今になってどうして……。
倉田は両掌を合わせて頭を下げる。数年前に大病を患ったとかで、顔色が悪く、いつも心配になる。なんだか彫刻みたいに見える時があるのだ。頬がこけ、骨の形がわかるような痩身だし、肌の色は茶色い。人間味がない。生きていると思えない。
「この間はそう説明したんだけど、ちょっと事情がかわってね。ほんとに急で申し訳ないんだけど、大山さんしかいないんだよ」
「でも、規則が」
「ここから近いし、なにかあったら僕がかけつけるから! 今夜だけ、ね? それに大山さん、夜間のビル警備希望してたよね? 希望どおりじゃない」
「それは、そうですけど」
一度だめだといわれたものを、今度はやれといわれ、和子はみぞおちの辺りにいやな感じを覚えた。ただでさえ、今、余計なことを考えたくない時期なのだ。
和子はルールというものに敏感で、これはだめだといわれたら誰かが見ていなくても絶対にやらない。道路は横断歩道か歩道橋がなければ絶対に渡らないし、信号無視なんてもってのほかだ。ゴミ出しの日時なども、今まで破ったことはない。
融通の利かない、あまりよくない性格だというのは、自分でも自覚はあった。これの為に、子どもの頃は同級生達に煙たがられ、孤立していた。ほんのひと握りの友達も、三十八歳の今、ひとりも居なくなってしまった。結婚して疎遠になったり、町から出ていったり、突然音信不通になったり……。
堅苦しいとか、真面目だというのではない。ルールを破るのがこわい。破ったら、よくないことが起こる。そういう強迫観念がある。なのに、誰もそれをわかってくれない。生真面目で、窮屈な性格だと思われる。煙たがられる。
和子は中学生の頃、学校へ行けなくなった。ことの経緯をはっきり覚えてはいないけれど、同級生の持ちものがなくなって、和子が疑われたのだ。普段から限られた友人とだけしか交流しておらず、孤立ぎみだった和子は、弁明したけれどだめだった。犯人が誰かもわかっていたから、それをいったのに、信じてもらえなかったのだ。
その後、高校にははいったものの結局退学して、それからは完全にひきこもっていた。誰も信じられないし、家族以外と顔を合わせたくなかった。どうしても働かなくてはいけなくなって、目についたのがここの求人広告だったのだ。ここか、葬儀屋だった。和子は葬儀屋で働くのを避け、こちらを選んだ。死体と仕事をしたくなかった。
接客業ではなく、夜勤を希望すれば日光を浴びなくてもいい、というのが決め手だった。和子は高校生の頃、喫茶店でバイトをしたことがあるのだが、横柄な態度をとる客に神経をすり減らしてしまい、すぐに辞めた。接客業は向かないという自信がある。
会社の側は、和子のように夜勤を継続的にしてくれる警備員を求めていた。いや、今も、求めている。U総合警備では、ここしばらく人手不足が続いているのだ。
この町は最近、あちこちで道路や水道管の工事を行っており、警備員は恒常的に不足している。道路工事の現場では、大手の警備会社の警備員が立っていることもあった。昭和の時代からここで警備会社をやっているU総合警備にしてみれば、地元の工事によその警備会社が(幾ら、大手といっても)くちばしをつっこんでくるのは、面白くない。だから、なんの経験もない和子のような女でも、夜勤を希望しているというだけで喜んで採用した。
勿論、正社員ではなく、倉田の言葉をかりれば「お試し期間」だ。それが法的にいいことなのかは、和子は知らない。ただ、働きがよければ、一年すれば正社員になれるかもしれないとはいわれている。
和子は上下する倉田の頭を見ている。まだたった一週間の付き合いだが、倉田がひとにものを頼む時、こうやって嘘みたいに頭を上下に振るのは何度も見ていた。これをされると、頼まれたほうは断りづらくなって、最終的には承諾する。倉田が直にひとにものを頼んで、断られるのを、和子は見たことがない。同僚の男性達が迷惑そうに請け負っているのを、何度も目にした。
倉田は六十五という歳の割に、髪がふさふさと豊かだ。頭を下げるとそれがふわふわする。真っ黒に染めているのには違和感しかないが、倉田当人がそれを気に入っているようだから、周囲がなにかいうことでもないのだろう。
髪型や服装についての規定がゆるいことも、ここに勤めた理由のひとつだった。和子は化粧が苦手なのだ。それに化粧品というのは、どういう訳だか天文学的な数字の値段をしている。安いものをさがせばあるのだろうが、和子は化粧に対するモチベーションが低いので、安いものをさがそうという気力が出ない。母や姉はいつも身綺麗にしていたけれど、和子がいやがることを無理にさせようとはしなかった。
白髪交じりの髪は伸ばしっぱなしで、たまに自分で腰の辺りまでに切り戻している。ひとに髪を触られるのはきらいで、子どもの時も親にも触らせなかった。唯一、姉に切ってもらうことはあるのだが、それも最近は都合がつかず、無理だった。
髪が長くても、白髪があっても、化粧をしていなくても、ここでは注意をされない。化粧の苦手な和子には、天国のような職場だ。苦手でも、規則だといわれたら和子はそれを断れない。だから、制服を着ることができて、巡回を予定どおりに行えて、日誌をきちんとつけさえすればいいここは、和子にとってはすごしやすい環境だった。
U総合警備は、そのひとにあう制服のサイズがあれば採用するんですよ、と、雇われたあとに先輩の大森から聴いた。大森は妻とひとりの子どもをもつ男性で、和子よりも年は下だが先輩にあたる。歳下の警備員達は、和子よりも長くここへ勤めていても、基本的には和子に対して敬語をつかった。現在、妻が妊娠中で、不意に仕事を休むことがあった。
大森によれば、ここの給料はよそと比べて悪い訳ではないのだが(寧ろほかより割がいいかもしれないくらいですと大森はいった)、やはり夜勤が異常に多いのがつらく、突然辞める者が後を絶たないらしい。なかには、連絡を無視し、無断で欠勤してそのままくびになる者も居る。少し前にも、根谷という男性が、夜勤を放り出して居なくなってしまったそうだ。制服や装備品を持ち逃げされ、根谷を指導していた倉田はしばらく意気消沈していたという。
和子はここを気にいっていたし、まだ「つらい」と感じるほど夜勤をしていない。給料についても、かなりいい待遇だと思っていた。だが、「規則」として呈示されたものがすぐにひっくり返されるのは、いい気分ではない。
倉田が上目遣いに和子を見る。
「大山さん、だめかな?」
「あの、社長は、このこと……?」
「え? ああ、勿論々々。社長にも伝えてあるし、許可もとれてるよ! 心配ないからね。ああじゃあ、大山さんやってくれるんだね?」
倉田の勢いに気圧されて、和子は頷いた。
現場で、和子は巡回前に、手洗いへ向かった。化粧をしている訳でもないのに、意味もなく一瞬鏡で顔をたしかめ、個室へはいる。ズボンをおろすと、眩暈がした。
血だ。
今日、和子は、出血していた。月経だ。和子は毎月きっちり、一週間の間、血を流した。それが終わると二十八日後にまたはじまる。中学一年生の頃から、そのサイクルが乱れたことはない。なにもかもがきっちりと、しっかりと、狂うことなく進行していた。勿論、それに伴う不愉快なあれやこれやも、当然いつもと同じに和子を苛んだ。
眩暈と吐き気を我慢して、生理用ナプキンを付け替え、汚れたものをサニタリーボックスへ放り込む。拭いとろうとすると、血はべったりとトイレットペーパーへ付着し、和子は呻いた。見ないようにしながら、数回かけて血を拭う。巡回することになったビルは、れんが造りの古くさいもので、トイレは当然のように和式だった。
倉田曰く、三階にはウォシュレット付きの洋式トイレがあるが、つかえないようにしているので間違ってはいらないように、とのことだ。何度もトイレットペーパーで血を拭いとらなければならない不快感はかなりのものだが、トイレがあるだけましだと考えたほうがいいだろう。工事現場などでは、簡易トイレを設置せず、近所のコンビニでトイレを借りろといわれることもある。
すべてを水に流し、手を洗って廊下へ出る。おそらく、朝になったらサニタリーボックスを片付けるのは自分だろうと和子は思う。倉田は、本当は夜中に交替してあげたいが、人員的にどうしても無理だから我慢してひとりで朝まで警備してほしい、といってきた。ごみなどはまとめて外のボックスへ移動させるようにとも。匂いでわかったんだろうか、とちょっといやな気分になる。気を付けているつもりだが、血の匂いはどうしようもない。ただ単に、誰にでもいっている注意事項かもしれないが、神経がささくれだっているから今はなんにでも過剰に反応してしまう。
和子は、昼の一時にここへ到着した。それから午後五時まで、警備員室で仮眠をとり、支度をすませて今から巡回をはじめるところだ。生理休暇をとれるかどうか、倉田さんに訊いたらよかったと、少しだけ後悔する。
和子は、血に強い、といわれることのある女にめずらしく、血が苦手だった。あの赤い色が、どうにもだめなのだ。血に限らず、赤は大概、苦手だった。ざくろ、ドラゴンフルーツ、ビーツ、紫キャベツやあけびの皮、そういうものもきらいで、食べても味はわからないし、調理する時には手が血にまみれているみたいな気がして、動悸がしてくることもある。いちごジャムもきらいだった。だが、トマトやトマトケチャップは、血のように見えないからなんともない。
いちごジャム程度でもだめなのだ。ホラー映画やミステリ映画で血まみれの人間やおばけが出てくるのも、本当にいやだった。苦手の範疇ではなく、悲鳴をあげて続きを見ることが出来ない。兄や姉に、あとから内容だけ教えてもらうことは、今までに沢山あった。こわがりな妹に、姉はくすくす笑って、こわくないように内容を嚙み砕いて教えてくれたものだ。かずちゃん、ごめんね、かずちゃんこわいの苦手なのに、お姉ちゃんに付き合って見てくれてたから、こういうとこもこわいよね。
和子は頭を振る。「……こわくないよ」
自分へいいきかせ、和子は巡回をはじめた。
ビルはかなり古く、がたが来ていて、階段はところどころ欠けていた。何製なのかわからないのだが、端が崩れている段があるのだ。手摺は掴みにくい、平たい形状だし、手摺の脚は間がかなり開いていて、十歳くらいまでの子どもならすりぬけて落ちそうだった。全体的に、安全面への配慮が足りず、古い時代の建物という印象をうける。踊り場にあるいまいち存在理由のわからない姿見も、古くささを感じさせた。それに、埃っぽい。咳込むほどではないが、しばらく掃除はされていないのであろう汚れ具合だ。
血がなければ、大丈夫。
和子はホラーやミステリが苦手だ。しかしそれは、血が出るから、血が流れるシーンがあるから、だ。おばけだとか呪いだとか、そういうものはこわくない。あまり、現実味がないのだ。半透明でものに触れないとか、夢に出てくるとか、そういうのを想像できない。血だと、自分の体のなかに流れているし、月に一回は目にすることになるから、想像は容易い。実際これくらいの血が流れたら……と考えてしまう。
血がなければ、どんな場所でもこわくはない。
和子は順調に、二階、三階、二階、一階と、移動しながらそれぞれのフロアの部屋をすべてたしかめ、警備員室へ戻った。警備員室では、ここへ来る途中にスーパーで買ったお弁当を食べて日誌をつけ、誰かが持ち込んだらしい本をぱらぱらめくってから、次の巡回の時間である十一時まで眠った。
「はい、これでオッケーです」
倉田がぎこちなく、人差し指と親指で丸をつくり、にやっとした。和子はそれに対してどう反応したらいいかわからず、微笑もうとする。あまりうまくいかず、頬がひくついただけだった。
倉田は和子が渡した日誌をデスクのひきだしへ仕舞いこむと、席を立つ。和子のかたをばんばんと叩いて、実に親しげな笑みをうかべた。「いやあ、立派だなあ。大山さん、こわくなかったみたいだね」
「え? あ、はい、特に」
こわい、というのは、なかった。たしかに、ひとけはないし、静かなところだが、どの部屋もきちんと窓が施錠されていて、猫などがはいった様子はなかった。庭に度々侵入されているので、猫が排泄をしたあとは見ればわかるし、吐瀉物も判断つく。そういうものは発見しなかった。それに、掃除こそ長い間されていないようだったが、害虫・害獣対策はしっかりされているみたいで、ねずみ一匹見かけていない。
「えっと、でも……凄く埃っぽくって、ちょっと、咽が変な感じです」
「そっかそっか、ごめんね! あのビル、去年の終わりに掃除がはいっただけだから、また埃っぽくなってるんだね」
倉田は自分でいって自分で納得し、激しく頷いた。髪がふわふわとなびく。倉田はなんにせよ、頭を上下させるのが癖らしい。和子は手袋を外した手の指を組む。サニタリーボックスもきちんと片付けたし、警備員室の灯もしっかり落とした。玄関の錠もかけた……。
「あの、それで、明日ですけど。明日こそ、品町でいいんですよね?」
「ああそれね、松木くんが、そっちだったらやるっていうから、彼に譲ってもらえないかな?」
「え?」
言葉を失う和子に、倉田はにっこりした。
「大山さん、全然こわがらないから、向いてるよ! あのビルはここからも近いし、なにかあったらすぐに飛んでいくからね、安心して。明日からもお願い! いいよね?」
「酷いよね、こっちの意向も考えないでさ……」
和子は自宅の台所に居た。生まれてこのかた、暮らしてきた一軒家だ。このところ、隣近所が転出することが多く、空き家が増えてきて、たまにそのことが心配になる。悪いひとが隠れて住んでいるのじゃないか、と。姉が好きなミステリに、そういうのがあった。カップルが空き家に忍び込んで勝手に暮らし、汚くなったら出ていく。数件目の空き家で、死体を見付けてしまって……。
和子はたまねぎを切る手を停め、ガスコンロのスウィッチをおした。ぱっと炎が立ち上がり、手鍋の底をちろちろと舐める。五徳にかけてある、白の把手がついた可愛い手鍋は、和子のお気にいりだ。しかし、鍋底の直径が小さいので、無駄にならないように火も小さくすると、その分お湯がわくまでに時間がかかる。小さくて可愛くて、ちょっとした汁ものやミルクティなどをつくるのには最適なのだが、時間がかかるのだけは難点だった。
ごめんねかずちゃん、と、リビングから母の声がした。和子はそれには、気にしないで、と軽く応じる。
面倒なので、なにが、とは訊かなかった。おおかた、食事の準備を和子ひとりでしていることについて、謝っているのだろう。それとも、中学の頃のこと?
このところ、母と父は和子に、やけに申し訳なそうにしていた。和子はもう、はっきりとしたことを覚えていないのだけれど、両親は和子が中学生だった頃のことを些細なきっかけで思い出したそうで、疑って悪かったと謝ってきたのだ。具体的な部分は忘れていたので、和子はその話はやめてと頼んでいる。でも、父母は何度もそれを蒸し返す。中学でのいやな思い出だ。
それもあって、最近、両親とはあまり口をきかなくなってしまった。もっぱら、姉とばかり話している。姉と話していると、母も父も、不安そうに申し訳なそうに娘達を見ているだけだ。こういう時お父さんもお母さんも、どうして黙っちゃうんだろうと、和子はたまに思う。
蓋をとり、切ったたまねぎと、解しておいたぶなしめじをいれる。蓋をして、包丁とまないたを洗った。手からたまねぎの、つんとした香りがする。それにかすかに、ぶなしめじのちょっとかびくさいような香りがまざっていた。ぶなしめじの匂いで、埃っぽかったビル内を思い出す。
リビングから、父が咳払いするのが聴こえた。話したい時に、父はよくそうする。和子はそれに気付かないふりで、姉へ向けて喋り続ける。
「大体ね、ルールで、女が夜間のビル警備するのはだめだって決まってるんだよ。それなのにさ、わたしだけ、それもひとりでやるのって、なんかおかしいよね。変なの。ルールと違うし」
そうだね、と、リビングから姉の声がする。あまり、集中している感じではない。多分、しっかり話を聴いていないのだろう。姉はひとの話をまともに聴かず、あとから「あれってなんだったっけ?」「さっきかずちゃん、なに話してたっけ」などといってくることがある。高校の頃にケータイを持つようになって、それが酷くなった。
また、同じことを繰り返さないといけないのか、と思ったけれど、和子はそれをいわずにタオルで入念に手を拭う。姉に対して何度も同じ話をするのは、別にいやなことではない。話しているうちに自分の考えが整理できて、意見がよりはっきりすることもある。
「わかめ、どこだったっけ? お姉ちゃん?」
返事はない。最近、台所を預かっているのはほぼ、和子で、たまに母が立つくらいだった。姉も父も、台所へは近寄らない。父は男は台所になんて立つものではないという考えのひとだし、姉は料理、というか食事そのものに、興味がうすい。好きなものをずっと食べ続けるので、はまったものによってはかなりふとったり、痩せたりした。たまに、お菓子の本を見ながら、本格的なケーキをつくることはあったが、それくらいだ。いつもは和子か母が食事を用意するのを待って、ケータイをいじっている。忙しなく指を動かし、ネットであたらしい型紙をさがしている。姉も両親も、わかめの袋の場所を知らないだろう。訊いておいてなんだけれど、和子は返事を期待していなかった。
案の定、姉は答えない。
和子は結局、自分でその辺りをうろうろし、戸棚から乾燥わかめの袋をとりだした。そのまま、汁椀へわかめをぱらぱらと出し、チャックを閉めて戻す。戸を閉めた。思い出したことを、整理もせずにぺらぺらと喋る。「松木さんも酷いんだよ。わたしが品町の現場へ行く筈だったのに、横からそれをとっちゃうんだもん。それで、ごめんねとか、悪いねとかいってくれたらいいけど、なんにもないの。どうしてそこでひと言、やな仕事おしつけてすみませんくらいいわないのかな。それ、いってくれたら、ちょっと謝ってくれたら、わたしだってもやもやしない。ルール違反だけど、倉田さんが、社長には許可とってるっていってたし、社長がいいっていってるんなら、まあ、気にはなるけど、それは仕方ないし……」
「和子」
はっと、和子は顔を上げ、斜め後ろを見る。台所とリビングをつなぐアーチの下に、二歳上の兄の瑞樹が立っていた。顔をしかめ、和子を睨むみたいにしている。
和子はぶっきらぼうにおかえりといい、こぽこぽとお湯が踊り始めた鍋に、おたまで掬った味噌をいれた。味噌こしはつかわないし、沸騰直前で火を停めるようなこともしない。乱暴におたまでかきまぜて、味噌が溶けたら汁椀へいれる。火を停め、蓋をして、汁椀を持ってリビングへ行った。瑞樹がさっと、和子を避ける。
「みずきちゃん、食べてく?」
和子は昔から、兄のことをみずきちゃんと読んでいる。五歳はなれた姉は、和子が生まれた頃から「お姉ちゃん」で、周囲の人間がそう呼んでいた。だから和子もそのまま、お姉ちゃんと呼んだ。
だが、瑞樹はどういう訳だか、和子が生まれても「お兄ちゃん」と呼ばれることは少なかった。周囲の人間が「みずきちゃん」と呼び続けていたのだ。それで、和子もそれをまね、そう呼ぶようになった。彼が兄扱いされることは、これまでに一度もなかった。兄らしく、和子に対してなにか責任を持つようなことは、一度も。
和子は汁椀を軽く持ち上げ、リビングのテーブルへ置く。すでにランチョンマットは敷いてあった。「みずきちゃんの分くらい、あるから、気にしないで食べて」
「……じゃあ、もらう」
「うん。納豆、たまごいれる?」
瑞樹は頷いて、台所へはいる。大山家は昭和初期という実に中途半端な時期にたてられ、中途半端な工法と間取りだった。もう少し古かったら歴史的価値があるし、もう少しあたらしかったら壊して建て直すのも考えたのにと、父が嘆いていたことがある。
和子が物心つく前に改築し、はなれにあった風呂場とトイレを渡り廊下で母屋へくっつけ、あらたに洗面所も設置したのだが、動線というものをまったく考えていなかったのであろう施工主の父は、玄関からも勝手口からも遠くはなれた場所に洗面所を設置するように大工に依頼した。結局、洗面所は朝晩の歯磨きくらいにしかつかわない。勝手口からすぐの台所で手を洗うのが、大山家の人間の常だった。
和子は納豆と刻んだねぎをいれていた鉢に、もうひとパック分納豆を足し、冷蔵庫からたまごをひとつ持ってきて、割り入れた。綺麗に割れたたまごのからは、ぽいと、チラシで折った箱にいれる。大山家のリビングテーブルにはいつも、長女の折った卓上くずかごがある。だいぶストックが減ったから、折らないと。
鉢にたれとからしも投入して、適当にかきまぜる。母の好みで、納豆はあまりまぜない。だから和子も、そうするのが癖だ。
瑞樹が汁椀に、自分の分の味噌汁を注いで、戻ってきた。和子は年代物の炊飯器を見る。みずきちゃんの分、あるかな。ご飯、冷凍してない。
瑞樹は黙っていたし、和子や、姉、両親もそうだ。姉は心ここにあらずという顔付きで、ふらふらとリビング中を立ち歩いている。食事をとるつもりはないらしい。あまり、「食」に興味のあるタイプではない。和子は成る丈、おいしいものを食べたいし、量もほしいが、姉は自分が好きなものを食べれば満足する。栄養バランスは考えない。好物は味噌汁と、炊きたてのご飯、最近はまっているのは、お肉屋さんのコロッケと唐揚げだ。仕事帰りにコロッケを買って戻っては、すでにおかずをつくって待っていた和子と喧嘩になっていた。
姉はそれだけは、はまっているものがかわっても同じことをやった。何度やっても学ばなかった。毎日のように好きなおかずを買ってきて、ごめんというけれど同じことを繰り返す。
「お味噌、うすくない?」
「うん」
「わかめに塩っ気があるから、ちょっと控えめにしてるの。わかめ好きだから……みずきちゃん、わかめ、いれた?」
「いれたよ」
「納豆、残り食べていいよ」
瑞樹はちらっと、姉の様子をうかがう和子を見、鉢をとって、残った納豆をご飯へかけた。和子は冗談っぽくいう。「たまご、古いけど」
「和子」
「あ、嘘だからね。帰りがけに買ったばかり。ごめん。みずきちゃんいきなり来るんだもん、驚いたから、こっちもおどかしてみようと思っただけ」
「和子。彩が、一緒に暮らさないかって」
和子は口を噤む。
彩、というのは、瑞樹の結婚相手だ。十年前、瑞樹は結婚して、この家を出て行った。市内に住んでいるが、あまり交流はない。瑞樹がこの家をきらっているからだ。
この家はきらいだ――それは、子どもの頃から、度々瑞樹自身が口にしてきたことである。小学生の頃には、高校生になったら出て行くといっていたし、高校生の頃には、大学生になったら出て行くといっていた。大学生になってから、就職したらここを出て行くといい、大学二年で彼女が出来ると、家を買うお金が出来たら出て行くといった。瑞樹は計画を立てて実行するのが得意なタイプのようで、その言葉どおり、お金を貯めて市内に家を買い、今は妻や子どもとそこで暮らしている。だから本当なら、彼が来たからといって、お帰りといってあげる義理はない。
かってなこというのね、と声がして、はっと背後を見ると、立ち停まった姉が、壁によりかかって、指を動かしている。目が合って、姉は肩をすくめた。みずきはいっつもそう。
和子はそれに同意したい気持ちを抑えて、前を向く。瑞樹をいたずらに怒らせるつもりはない。もともと、反りが合わない兄妹だ。和子が中学に上がって、体型が女らしくなる頃に、それは顕著になった。女はヒステリックだし、霊感があるとかなんとかいって目立とうとするばかな生きものだと、面と向かって罵倒されたことさえある。
瑞樹は和子の言葉を曲解するのが得意なのだ。瑞樹はそのことを忘れたふりをしているが、和子のなかにはそのことがずっと、ひっかかっていた。心臓に釘がずっと刺さっているみたいな感覚が、その一件からなくならない。いわれたことは、一生残るし、いったことも一生残る。だから瑞樹と、まともに会話するつもりはなかった。あちらもそうだろう。ひきこもりのお荷物の妹を、認める気はあるまい。
両親が瑞樹と、和子の顔を、順繰りに見た。ふたりはリビングの隅で、顔を見合わせ、心配そうに手を握り合っている。瑞樹が来ると、最近ふたりとも、喋らなくなってしまう。気が強く、遠慮せずにずけずけものをいう瑞樹を、このところ苦手にしているらしい。たまに、なにか喋りかけるのだが、瑞樹に無視されて黙りこむ。瑞樹は年齢を重ねるごとに、どうも、傲慢になっているようだった。昔は祖父母にも優しくしていたのに、高校に上がるくらいに無視するようになって、それきりだっった。
和子は汁椀を置いた。前なら、母がかわりに瑞樹に対応してくれたが、今はそれを望めない。「……なに? どういう意味、みずきちゃん」
「だから、彩がお前のこと心配してる。お前、疲れてるみたいだし……うちに来たら、しばらくゆっくりできるだろ」
「もうゆっくりしてたよ」
和子は目を伏せる。「ずっとひきこもってた。パワーならたまってる。働いてないってずっといってたのはみずきちゃんじゃん」
瑞樹は詰まったけれど、なんとか声を出す。
「それは……そうだけど、時と場合によるだろ」
「そうだね」
「和子、お前、俺がいうことは絶対にきかないよな」
「きいてるでしょ」
「そうじゃなくて……ここ、立ち退けっていわれてるんじゃないのか。マンション建つんだろ」
和子は顔を上げた。瑞樹を睨む。
たしかに、去年から、スーツ姿の三人組がたまにやってきては、土地を売ってほしいと両親に頼んでいた。両親はいやがっているし、姉も、家賃のいらない実家暮らしを手放すつもりはないと冗談めかしていっていた。姉は手芸という趣味にお金をかけているので、家があるのにわざわざ家賃を払うようなことをしたくないのだ。男性と付き合うつもりもないようだった。
姉はそういうことに、興味が向かないらしい。瑞樹がそれをばかにしていたのを、和子は覚えている。結婚もしない、子どももうまない姉を、瑞樹はなにか、欠陥のある人間のようにいっていたのだ。女で子どもをほしがらないなんて、おかしい、と。
あの三人組は最近来ないが、この辺りの土地をどこかの会社がまとめて買って、立派なマンションを建てようとしているらしいという話は聴いている。その話をしてくれた隣のおばさんは、いつの間にか引っ越してしまっている。だいぶお金をもらったのだろうと、父が困った顔でいっていたのを覚えている。
あの三人組はおそらく、建築会社の人間だろう。廊下からそっと、リビングを覗き見て、三人のうちひとりが父へさしだしていた名刺を目に焼きつけたことがある。その名刺に印刷されていたマークは、たまにTVで流れているCMでおなじみの、この辺りに本社がある建築会社のものだった。
姉も和子も、ここをでていくつもりはないし、仮にマンションの部屋を優先的に買えるとしてもいやだと姉はいっていた。一軒家で気楽に暮らしていたいのだ。上下左右に他人が暮らしているなんて、考えたくもない。それは、和子も同意見だった。意外なことに、母もいやがった。三人組は父に、随分いい条件でここを手放すことを持ちかけたらしいけれど、母も姉も和子も条件なんて訊かずに拒否したのだ。
瑞樹も、この家から出て行け、土地を手放せ、といいたいのだろうか。和子は思いきり顔をしかめた。それからふと思い付く。
「みずきちゃん、お金がほしいの?」
瑞樹は口を開いたが、言葉は出てこない。
瑞樹のところは、子どもをふたりとも私立に通わせていて、学費がかかるとよくこぼしている。去年、両親にお金を工面してほしいと相談に来ていたこともあった。和子の為にためているからという母に瑞樹は、働いてもいない和子と孫だったらどっちが大事なんだ、学校に行かないのに学費を払わせ続けた和子がそんなに可愛いのか、と詰め寄っていた。和子が廊下で聴いているなんて、考えてもいなかったのだろう。かなり激しい言葉もつかっていた。
結局あの時、和子のことをちくちくと攻撃し続ける瑞樹に、両親は折れて、まとまったお金を渡す約束をしていた。その後しばらく瑞樹は来なかったから、本当に渡したのだろう。それから両親は、瑞樹が来ると理由をつけてはやく帰らせるようになった。これ以上お金をとられたくないと考えたのだ。今となっては、話したらいいくるめられるからか、口をきこうとすることは稀だった。今だって、手をとりあい、不安げにしている。口を開くことはない。食事もとらない。
瑞樹は目を伏せる。都合が悪くなると顔を背けたり、目を逸らしたり、わかりやすい反応をするのが瑞樹だ。それは昔からかわらない。自分の失敗をひとにおしつけるのも、ひとからものを奪うのも、ずっとかわらない。
「そういうことじゃないよ」
昔からかわらないところはまだあった。こうやって、曖昧な、はっきりしない言葉をつかうところだ。議論で負けそうになると、曖昧なことをいい、言質をとられないようにする。あとから翻せるように、あやふやなことをいう。それをわかっていたから、和子は鋭くいった。
「じゃあ、今すぐ出て行かなくてもいいよね」
「和子」
「わたしはこの家が好きなの」声を張り上げる。「マンションの工事が始まったら出て行くかもね。みずきちゃん、いっておくけど、お金ならわたし、持ってないからね。去年お母さんに出してもらったでしょ。お父さんのお金、あてにしてるなら、だめだよ。家の修繕でもうつかっちゃったから」
和子が知っていると思わなかったのか、瑞樹はばつが悪そうな顔になって、黙った。父が和子に話したとでも思っているのか、横目でリビングの隅を睨んでいる。
その後、食事は無言のままに終わり、瑞樹は挨拶も片付けもせずに帰っていった。姉は和子の隣に座ったけれど、食事は要らないらしい。かすかに鼻歌を奏でながら、和子にはわからない材料で、和子にはわからないなにかを編んでいる。
和子はまた、あのビルでの夜勤を終え、支部へ戻った。誰もあそこへはいりこもうとはしないし、誰かが潜んでいる様子もない。屋上への階段は上がるなといわれているから、屋上へのドアは施錠されているかたしかめていないが、指示だから仕方ない。倉田に訊いたのだが、あそこは社長がきちんと施錠しているから問題ないといわれただけだった。
制服をロッカーへしまおうとしたのだが、扉を開けた途端、悲鳴をあげて後ろへさがった。
ロッカーのなかに下げていた上着の、右袖の先が、赤くなっている。まるで、血がついているみたいだ。そこからは水分が滴りおち、下に小さな赤い水溜まりができている。
誰かのいやがらせだ、というのはわかった。ロッカーには錠がついているのだが、簡単な構造だから開けようとすれば幾らでも開けられる。現に、ここへ勤めだしてすぐの頃、松木が間違って和子のロッカーを開けたことがあった。なにか妙なことをした訳ではなく、松木が普段つかっている鍵でも錠が外れてしまったのだ。警備会社のくせに、ロッカーの錠はいい加減なものをつかっているのである。
和子は吐き気をこらえ、むかむかする胃を宥めながら、上着のかかったハンガーをとる。高校入学の記念に父に買ってもらった、型崩れしたトレンチコートの右袖は、じっとりと濡れ、変色していた。電車で一時間かけて大きなショッピングモールへ行き、その時一番可愛いと思った、一番ほしいと思ったものを父にねだった。
あまり、誕生日でもプレゼントなんかをくれる父ではないのだが、あの時ばかりはにこにこと嬉しそうにお財布をとりだしていた。和子に似合うのが見付かってよかったよ、と、誉めてもくれた。和子はそのコートを気にいって、大事に着ていた。ひきこもっていたけれど、たまには外に出て体を動かさないといけないから、たまに姉と散歩していたのだ。寒い時期に外へ出る時には、それを着ていた。
そういう思い出のあるトレンチコートを粗末に扱われ、和子は息が苦しくなるのを感じた。
「ひどい」
思わずもらし、和子は涙ぐむ。上着からハンガーをぬくと、トイレへ向かった。途中で私服姿の松木とぶつかりそうになり、和子は低声で謝ったけれど、松木はなにも返さなかった。
和子は洟をすすりあげながら、洗面台で上着の右袖を洗う。流水でもみ洗いしていると、多少、色が落ちた。なんなの、これ? どうしてこんなに酷いことをするの。
洗面台に溜まった水が、グレナデンシロップのような色になっている。コックをひねって水を停めると、鮮やかな色合いの水はずずずず、というような音をたてて、排水口へ吸い込まれていった。白い洗面台に、赤がかずかに残っている。水垢に赤がこびりついている。
本当の血の訳はない。それはわかっているが、和子は上着の袖へ顔を近付け、匂いをたしかめた。むかむかする。気持ちが悪い。もし、金臭かったら、生臭かったら、どうしよう。誰かが本当に、血をしみこませたんだとしたら?
トイレは芳香剤や洗剤の匂いでいっぱいだ。袖についたなにかの匂いはわからない。正体不明の赤。気色の悪い赤。和子は泣きながら、手荒い用においてあるせっけんをひっ掴んで、汚された袖を洗った。泡がピンク色になっている。ペンキではない。水彩絵の具か、インクか、とにかくそういうなにかだろう。同僚の仕業かもしれない。どういう理由でこんなことをするのかは知らないが、女というだけでいやがらせの対象になることもあると聴く。
こんなばかみたいなことをする人間の気持ちなんてわかりたくない。
濡れた袖を絞り、ハンカチで水気をとったが、完全に乾くことはない。和子はしめった袖の上着を着て、かすかにピンクに染まったハンカチを握りしめ、逃げるように家へ向かった。本当は帰りに買いものをするつもりでいたのに、そんな気分ではなくなってしまった。誰がわたしにこんなことをするんだろう。わたしがなにをしたっていうの……。
姉に愚痴をこぼそう、大丈夫だよと慰めてもらおうと思っていたのに、小走りに家へ戻ると瑞樹が居た。和子は口から出かかった、どうして居るの、という言葉をのみこみ、上着とハンカチを洗濯かごへ放った。無言で台所へ向かい、手を洗う。
肩越しにリビングを見ると、瑞樹はソファへ脚を投げ出して座り、両親は部屋の隅でテレビ画面を見詰めていた。ちらちらと瑞樹の様子をうかがっている。父の表情から、話しかけようとしているのはわかった。瑞樹の態度をおそれているのか、いいくるめられるのがいやなのか、ためらっている。
ストッキングの足裏に、台所のタイル張りの床がつめたい。和子は動揺でスリッパを履くのも忘れていたことに思い至り、自分の怯えようを自分で笑おうとする。だが、笑いは出てこない。そんな精神状態では、ない。
血。
血のようななにか。
「いやがらせでも酷いよね」
和子は足裏を突き刺すような冷えを意識しながら、しつこく手を洗う。そうしながら、低声でいうと、隣に居る姉が頷いた。瑞樹の顔を見たくないようで、和子の横で調理台に腰を預けるようにして、姉は立っているのだ。喧嘩を起こさないようにだろう。姉は和子を心配そうに見て、やわらかく肉のついた少し厚い手で、優しくせなかを撫でてくれた。大丈夫、と、口の形だけでいう。瑞樹に見付かりたくないのだ。瑞樹は口が達者で、他人を攻撃するのがうまくて、自分がいかに正しいかを振りかざしてくるから。
姉も、ここから出て行くのはいやがっているし、瑞樹と最近話そうとしない。
もともと、姉と瑞樹はほとんど口をきかない仲だった。和子について、ふたりの意見には違いがあり、それが仲の悪さの原因だった。姉は和子の味方だったし、瑞樹はどちらかというと敵だったのだ。
それが、最近、顕著になっている。和子は意識していなかったが、おそらくはマンション云々のことがはじまってからだろう。そういえば少し前、瑞樹が訊ねてきて、姉と喧嘩し、姉に追い出されたことがあった。みずきちゃんはひいきされてるよね、と、姉が苦々しい表情でいっていたのを、和子は思い出す。そう、なににつけ瑞樹は贔屓されてきた。瑞樹はなにか、特別な人物みたいに、大山家では下にも置かない扱いをされていた。
瑞樹は男で、両親は瑞樹を特別扱いしていたし、親戚連中はそれがもっとずっと露骨だった。長女の姉ではなく、長男の瑞樹が跡を継いで家をもらうのが当然だ、というようなことを平気でいってくるおじさんおばさんが居たし、女の子達はさっさと結婚して、みずきちゃんが奥さんをもらえるようにしてあげなくちゃね、小姑が居ちゃみずきちゃん結婚できないからね、なんて、他人にいったらセクハラ間違いなしのことを平然と、面と向かっていってくる。母に文句をぶつけると、田舎だからねえ、と困ったようにいわれて、申し訳ない気持ちになった。母はそんなことをいっていないから、母に文句をいっても仕方はないのだとわかっていたって、不満はどうしようもなかった。
誕生日やクリスマス、お年玉なんかでも瑞樹との差は大きくて、姉はそのことでいつも文句をいっていたし、和子もまったく、納得していなかった。姉が瑞樹に、プレゼントは仕方ないけど、普段のご飯のおかずでもみずきちゃんに合わせるのはおかしい、と、正々堂々抗議してくれたこともある。瑞樹はぶうたれていて、母が庇うので、普段の食卓や旅行先の食事での瑞樹の優遇がなくなることはなかった。どこかへ食べに行くとなったら、姉と和子がハンバーグがいいといっても、瑞樹がハンバーグを食べたがったらふたりはそれよりも少し劣るものを注文しないといけない。瑞樹は男だから、瑞樹と同じものを姉妹が食べるのはおこがましいのだ。生まれ順は関係ない。成績も関係ない。普段の言動も、姉や和子が家のことをしているのも無関係だった。瑞樹は男だから、優遇されて然るべきだという考えが、父母にはあった。姉も和子も女だから、男の瑞樹よりも扱いは悪くて当然という考えが。
理不尽と思うことは多々あったし、姉は和子を度々助けてくれた。瑞樹が和子の本をとりあげたのを取り返してくれたし、瑞樹はなにもしてくれなかったが、姉は勉強も見てくれた。
だから今は、自分が対処しないといけない。これまで二十年以上、姉に庇ってもらった。長じて家を出てからの瑞樹には、流石に両親も甘いばかりではなくなって、和子を庇ってくれることもあった。今、みずきちゃんと話して、家をまもるのは、わたしの番なんだ。
和子はうがいをして、顔を水で洗い、タオルで拭いた。手もしっかり拭く。姉が優しい表情をうかべて和子を見ている。本当に小さな、かすかな声がする。かずちゃん、そんなに気負わなくっていいよ。みずきちゃんがいやなら、話さなくって、いいじゃない。
和子は小さく頭を振った。大丈夫だといいたかったけれど、うまく声が出ない。姉は瑞樹と話したくないのか、瑞樹の存在そのものがいやなのか、軽く肩をすくめてからすうっと出ていった。大丈夫。わたしがする。みずきちゃんにこの家は渡さない。
和子がリビングへ行くと、瑞樹は膝に抱えた、洋菓子店の名前が印刷された箱を示した。「和子、ほら。ミルクレープ好きだろ」
「子どもじゃないんだから、甘いものでごまかされないよ」
「和子、そうじゃない。彩が心配してて、お前にこれ持っていけって。あいつ、並んで買ってきたんだぞ」
和子は口を噤み、踵を返した。冷蔵庫からつくりおきの煮ものをとりだし、電子レンジへつっこむ。スウィッチをおしてしまうと、前日の味噌汁の残りをガスコンロであたためにかかる。
瑞樹がやってきた。「和子」
「ご飯、食べるから。甘いのはいらない。お父さんみたいに、糖尿病になったら、やだし。それにわたし、甘いのそんなに好きじゃないよ。みずきちゃんしらなかった?」
ぱっと、瑞樹をまっすぐに見詰めた。「わたしがミルクレープ食べたがったのは、瑞樹ちゃんがわたしのモンブラン、とったからだよ。だから、残ってたののなかで食べたかったのをとったの。それだけ。今は食べたくない」
和子の刺々しい言葉に、瑞樹はぐっとつまる。ほら、この子はなんにもしらない。わたしの好きなものも、きらいなものも、なにも。
「みずきちゃん、それで、なんの話なの。ここから出ろって話なら、わたし、やだよ。出ない」
「和子、なあ、冷静になろう。お前、いきなりいろいろやって、疲れてるだろ。ひとりで家事するのだって大変だろうし」
「みずきちゃんてそういうとこあるよね」
和子は鼻を鳴らす。
「それだったら彩さんだっておんなじでしょ。みずきちゃんって、自分は主婦に配慮してるみたいに思ってるけど、そりゃね、なんにもしないひとよりかはましだよ。でも、みずきちゃんってご飯よそって、お味噌汁注いで、お茶淹れて、配膳手伝ったら家事したって思ってるよね。汚れた食器、流しに持っていったこと、今まである? お皿洗ったこと、ある? ご飯食べたあと、なんにもしないよね。彩さんが本気で、わたしに来てほしいっていってるとは、わたしは思えない。女ひとりでもご飯は普通に食べるし、お洗濯は大人ひとり分増えるし、わたしが寝起きするお部屋も要るよね。そういうの、彩さんがほんとにいやがらないの? みずきちゃん、ほんとにそういうこと考えてからいってる?」
瑞樹はゆっくりと項垂れ、しばらく黙りこんでいたが、また来る、といって、勝手口から出て行った。和子は、あたらしい錠をつけよう、と思う。
幾ら兄といっても、もうほかの場所で家庭を築いた人間だ。勝手にここにはいれるのは、おかしい。出ていったひとがいつまでも、ここに自由に出入りできるのは、変だ。理屈に合わない。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、みずきちゃんをこわがってるし、いやがってる。わたしがあいつを追い出そう。
ミルクレープの箱はリビングのテーブルに放置されていた。和子はそれを捨てようと思ったが、少し考えて、仏壇へ供えた。久々にお鈴を鳴らす。お経は、ひとつも覚えていなかった。昔、おばあちゃんにならったのにな。「お姉ちゃん、覚えてる?」
覚えてない、と、いつの間にかそこに居た姉は苦笑した。
両親は、和子が瑞樹へくってかかるのを見ないふりで、ひたすらテレビ画面に目を向けていた。和子はふたりのせなかを軽く撫でて、ご飯にしよっか、という。ふたりは項垂れ、申し訳なそうにしている。母が小さく、ごめんね、うたがってごめんね、かずちゃんごめんね、といった。最近ずっと繰り返すことだ。泣いているみたいだった。見られたくなくて、顔を俯けているらしい。和子は見えないふりをする。
味噌汁が吹きこぼれたのか、台所からじゅうっと耳障りな音と、味噌の焦げる香ばしい匂いがした。ご飯を食べたら、コートをしっかり洗わなくちゃ。漂白剤をかけよう。それでなんとかなるとも思えないけれど。
夕方、おそるおそる開けたが、ロッカーは綺麗になっていた。なんの痕跡もあるようには見えない。いたずらをした人間が、底面を拭いたのだろう。きっと、予想よりも和子が血をこわがったので、問題にならないように隠蔽したのだ。ここでは、社員同士はいざこざをおこしてはいけない。そういう決まりだと倉田が話していた。ほんのちょっとのいたずらのつもりで、和子がああまで大袈裟に反応したから、咎められるのをおそれて掃除したのだ。
血、血、血。どうしてみんな、血を見ても平気なのか、わからない。目を突き刺すようなあの赤。あれに危機感を覚えない人間が居るんだろうか。
ぞっとする。流れる血を考えると、体がぎゅうっと縮こまる。血が流れるということは、怪我をしているということだ。
「大山さん、昨日も問題なかったみたいだね」
「はい」
制服に着替えて、装備を確認していると、倉田がにこにこ顔でやってきた。今日も顔色は悪く、頬はこけている。ずっとずっと昔、親戚のおばさんにもらった、東南アジアのお土産を思い出した。木でできた粗末な人形は、顔だけはやけに細かく彫られていて、痩せた人間みたいだった。「いやあ、よかったよ。松木くんも、あのビルは気持ち悪いっていやがってたし。その前も、あのビルにまわした途端に辞めるひと達が居てね。それも何人も」
「はあ。埃っぽいだけで、後は普通ですけどね」
「はは、そうか、大山さんは豪胆だねえ。もっと女の子っぽいひとかと思ってたよ。おばけとかこわくないの?」
「え?」
「いや、ははは、そんなね、僕だって信じてないけど、この仕事長いと、見ることってあるんだよ」
なにを見ることがあるのか、わかったが、和子はあえてそれを口にすることはない。倉田は上機嫌で、何度も頷く。
「僕もね、博物館とか美術館で結構ね、それらしいものを見てきたから、こわがるひとの気持ちもわかるんだよね。まあちょーっと影が見えたとか、足跡が変なところにあったとか、その程度だからそこまでこわくはないよ。あれはなんだろうな、変だな、くらいのものでさ。どうせこっちの見間違いだろうし、じゃなくちゃ光の加減とか、風の所為とか、子どものいたずらとかね、なんでも原因なんて考えられるでしょう。だからこわくないけど、こわがるひとの気持ちはわからないでもないなあ。ふいにそういうものを見てしまったら、気持ちが悪いのはそうだよね、たしかに」
「あの……倉田さん」
「その点、大山さんは凄いよねえ。埃っぽい以外は普通ですう、だもの。そういうの苦手っていってなかったっけ? ほら、ええと、ゾンビとかの映画はきらいだって」
顔をしかめ、和子は小刻みに数回頷いた。以前、なにかの拍子に倉田から苦手なものを訊かれた時に、ゾンビ映画やキョンシー、ホラー、サメ映画などがきらいだといったことがある。
それらの映画にはいやがらせのように、かならずといっていいほど流血シーンがあるから、苦手なのだ。なんだかめったやたらと銃をぶっ放したりどこにあったのか知らないが都合よく出てきた武器を振りまわしたり、怪物のほうもどうしてそんなことをしたいのか知らないけれど人間をどんどん攻撃してきて、だから当然、怪我人が出る。怪我人が出れば、それ相応の血が流れる。
そして死ぬ。
そのことも説明はした。倉田は理解していなかったらしい。自分の説明がつたなかったのだろうと和子は思ったが、以前もこういう誤解はされた。「ホラーがこわい」といえば、普通は「髪の長い女の幽霊」「顔色の悪い痩せた男のおばけ」「奇妙な格好の子ども達のおばけ」のようなものをさしていっているらしい。和子は、そういうものは平気だった。なにがこわいのかもわからない。あんなのはにせものだからだ。和子がこわいのはただひたすらに、血だ。出血だ。出血に到る怪我だ。血は、偽物だとわかっていても、こわい。
「あのビル、ゾンビでも出てきそうだよね。そんでさ、こーんなマッチョな男が、銃で撃っちゃったりなんかして、ゾンビの頭がばんばんうたれて弾けとんじゃってね。でも大体、ああいうのに出てくる女の子って、気が強いよねえ。ゾンビとかばけものと戦うじゃない? 包丁とかでさ。僕は、気が強い女の子は苦手だなあ。大山さんみたいにおとなしい子はいいよねえ」
三十八歳の女をつかまえて、女の子ときたか。
和子は苦笑いして、それでも一応、誤解を解こうと努力しようとする。
「あの、倉田さん、わたしゾンビ自体が苦手なんじゃなくて」
「倉田さん」
松木がジッパーのついたファイルを手にやってきた。和子は口を噤んで、松木をちょっとだけ見た。すぐに目を伏せる。
以前、松木の鍵でロッカーが開いたことがあった。それを第一の理由に、和子は松木を疑っている。四十手前のおばさんが後輩になって、からかうのが楽しいのだろうか。あのビルの仕事だって、わたしにおしつけたくせに、ほんの一言の謝罪もなかった。
去年大学を中退したという松木は、不透明なファイルを倉田へ渡す。
「これ、社長からです。至急、目を通すようにといってました」
「はい、たしかにうけとりました」
「はい」
「ああ待って、松木くん。今度の土曜の会食だけど、俺は無理だって社長にいっておいてもらえるかな? ね?」
倉田は和子含め、女性警備員の前では「僕」という一人称をつかうが、男性警備員と話す時には「俺」になる。男女で態度をかえているのは、このご時世どうかと思うが、倉田はバランス感覚が優れているのか、男女どちらからも「セクハラだ」といわれたことは今までない。露骨に女の子だとか女だからとか、ジェンダー差別的な発言はあるにはあるのだが、どこかへ訴えるほどのことでもないし、気にはかかるけれど和子は無視しようと心がけていた。今のところ、実害はないのだし、些細なことだ。騒ぐほうがおかしいだろう。
男性警備員達がどう思っているかは知らないが、もしかしたらそれでいやがらせされたのだろうか、とは、頭をよぎった。
女である和子からすれば、倉田は特に文句のある上司ではない。男と同等の扱いをしてくれるからだ。もしかしたら、男の松木にしてみれば、それは面白くないことなのだろうか。今まで警備員としての経験がない和子を、倉田が贔屓しているように見える、なにかがあったのかもしれない。ただ単に、女の子っぽいねえ、と倉田がいうのでさえ、ほかの警備員達にしてみれば気にくわないのかもしれなかった。
女だから優遇されている、と思われていたら、いやだ。女だからって、なにかを余分にもらったとかなにかを免除してもらったなんてことは、ない。生理休暇も、申請していない。それとも、女が男と同等の扱いをうけたら、いけないのだろうか。
倉田は歯を見せて笑う。なにか、こみあげてくるものをおさえられない、という感じだった。
「その日、娘が戻ってくるんだよ。孫つれてね」
「ああ、わかりましたよ。今、伝えておきます」
松木は苦笑いで踵を返し、軽く手を振ってから歩いていった。和子はそれをじっと見ていたが、松木に和子を気にした様子はない。松木ではないのだろうか。しかし、松木ではないとしたら、誰なのだろう。ほかにも同僚は居るし、ほとんどが和子より歳下で、いきなりはいってきたおばさんが面白くないのだろうというのはわかる。だが、倉田の「男の子」「女の子」発言と同じで、実力行使する程のいらだちはないだろう。結局、一度松木の持っていた鍵でロッカーが開いたから、というだけしか、疑う理由もないのだが。
「それにしても、変なところに割烹なんてつくったよなあ」何事もなかったみたいに、倉田が続きを喋る。「昔は隣近所が文房具店とか本屋だったらしいから、そんなところに高級割烹なんてつくっても仕方ないと思うんだけどねえ。塾でもつくっておけば丁度いい場所なのに、ねえ、大山さん」
あのビルのなかにはどうやら、以前は料理屋がはいっていたようだ。巡回していて幾つもの部屋があるのは見ていたし、厨房らしい大きめの部屋の存在も目にしていた。すでに、設備などは大半がなくなっているが、据え付けの調理台らしきものや、立派な換気扇などを見ると、料理をする場所だというのはわかった。部屋数から見ておそらく、個室で食事をとれるお店だったのだろう。なにかを食べる場所。なにかを食べさせる場所。誰かが食事を世話してくれる場所……。
倉田は自分の喋りたいことだけを喋り、じゃあ今夜も頑張ってねと和子のせなかを撫でた。和子は苦笑いで、日誌を掴み、廊下へ出る。倉田は悪いひとではないが、ひとの話をあまり聴かない。でも、いいひとだよね。
「そうだね」
頷く。仕事が終わったら、帰りに、食糧を買おう。お姉ちゃんの好きなカップのチョコアイス、お父さんの好きな巨峰のはいった大福、お母さんの好きな緑のメロンを買って、家へ戻ろう。おいしいものを食べてもらうんだ。三人とも、きっと喜んでくれる。
物思いにふけっていた和子は、頭の右後ろ辺りになにかが居るような気がして、立ち停まる。ゆっくりと振り向いた。「な・あ・に?」問いかけた声は自分でも気持ちが悪いと感じるくらいにぎこちなかった。
かすかに埃臭さを感じる。
それと、金臭さ、生臭さ。
和子は不意にむせ、咳込んだ。気管支がひゅうひゅうと音をたてている。
疲れた顔の大森がせかせか歩いてきて、息を整えた和子に挨拶しながら通りすぎていった。大森からは、赤ん坊の香りがする。瑞樹のように家事を手伝っているつもりなのではなく、赤ん坊の匂いが染みつくくらいに、実際に育児をしているのだろう。
気配はもうなかった。匂いもしない。大森の残した、日に晒したガーゼと粉ミルクの香りが、一瞬強くなってからすうっと消えていった。
最初からなにも居なかったのだ。ただ、なにか居るような気がしただけ。なにかの匂いがしたように感じただけ。目に見えないんだから、ない。
見えないものがそこにあるなんて、信じられないじゃない?
ビルのなかは静かで、くらい。倉田がきちんと社長に伝えてくれたのか、埃っぽさは少しだけ軽減されていた。しかし、きちんとした業者がはいったとは思えない、雑な掃除振りだ。もしかしたら倉田か誰かがしたのかもしれない。
懐中電灯でゆっくりと、見落としのないように、丁寧に照らし、すみずみまで目視で確認する。猫も、ねずみも、ゴキブリも居ない。窓やなにかが厳重に封鎖されているので、猫が出入りできないのはわかるけれど、こんなに古いビルなのにねずみが居ないどころか、ゴキブリさえも居ないのは、妙な感じもする。なにか強い薬でもまいているのだろうか。だとしたら、そんなところに長時間居るのは、危ないかもしれない。ゴキブリを殺す薬って、どんなものだろう。和子の家では、薬品をまくことはめずらしかった。母がぜんそくを起こすからだ。シロアリ駆除の時なんて、母は親戚の家へ避難していた。駆除がすんでから、半月程。
和子は二度目の巡回を終え、警備員室へ戻った。帽子を脱いで壁にとりつけられたフックへひっかけ、汚れが目立つ畳の上に座ろうとする。埃そのものはほとんどなくなっていたが、たたみ自体が古くなっていて、かびが生えているし、日に焼けているし、ところどころなにかのしみがある。表がはがれたところもあった。
腰を少し屈めたが、考え直して手袋を外し、もう一度廊下へ出た。憂鬱な気分でトイレへ行き、たまっていた血を外へ出して、ナプキンをかえ、警備員室へ戻る。時刻は夜十一時をまわったところだ。三時にもう一度巡回をして、あとは朝まで寝ていればいい。
トイレを出ようと体の向きをかえると、目の前がぼんやり、くらくなった。
くらくらする。
血が出すぎている。和子は以前から、月経過多気味だった。月経に伴う体調不良もあった。精神不安は、それらと比べものにならないくらいに大きかった。
二十歳くらいの頃婦人科へ行って、低容量ピルというものをもらった。それのおかげでしばらくは楽だったのに、体質がかわったのか半年くらいで効き目がなくなってしまった。数回薬をかえ、結局どれもだめで、和子は漢方薬をのむことになった。苦くて渋くて甘くて、お世辞にもおいしくはないものだ。それと同時に、鉄分などが多く含まれている食材を料理につかうようになった。月経過多気味なのはどうしようもないが、十年近くかけて、酷い生理痛は徐々に改善していった。和子の頑張りはまるで関係なく、単に加齢で、そろそろ生理そのものがなくなるのかもしれない。
鉄分やビタミンは気にしているし、食事にも気を配っているが、どうしても足りなくなる。生理の時には決まって貧血になった。貧血で、死にそうになった。
くらくらする……。
和子は生理になると、非常に、精神が不安定になった。血がきらいな和子にとって、生理は一番いやな時間だ。トイレへ行く度、どうしても見なくてはならない。赤い血。
血、血、血。
はじまって三日目だ。和子はその日、一番酷くなる。出血量も、痛みも、不快感も、どれもが一級品になる。
血……。
どろりと、なにかが流れるような感覚があった。制服を汚す訳にいかない。和子は呻いて、もう一度トイレの個室へはいる。かえたばかりのナプキンに、血の塊がべったりついていた。ナメクジみたいだ。
ナプキンをかえ、血を拭う。
サニタリーボックスはもういっぱいになりそうだった。和子は呻き、便器にたまったものを水に流した。血が尾を引いて、一本の線のようになる。
こんなにきついのに、誰かが労ってくれる訳でもない。
女に生まれたのが不幸だった。
血。
男がこれだけ血を流したら、大騒ぎするだろうに。
怪我じゃないとか病気じゃないとか、そういう問題ではない。
血が流れているのに隠さなくちゃならないなんて。
和子はよろけながら、個室を出、手を洗う。廊下へ出る。はやく警備員室へ戻ろう。戻って、仮眠をとろう。次の巡回に備えて。
肉体的な痛みに、精神的な不安もミックスされて、和子は神経を尖らせていた。何事もなく終わるようにと祈っていた。誰かがはいってくることがありませんようにと、ちゃんと施錠しているのに願った。
しかし窓というものがあるのだから、そこを破れば誰かがはいってくることはありうるのだ。
いやな想像をした時だった。空気が不意に、重くなったのは。
なにか居る。
和子は、胸ポケットのライトをとりだした。大きな、いざとなったら警棒のようにつかえる懐中電灯は、警備員室へ置いてきた。ここまでなら迷いはしないし、大丈夫だと思っていた。目と鼻の先なのだ。
ゾンビが出てきそう、と倉田が冗談めかしていっていたのを、思い出した。
ライトをつける。
投げかけられた光の円のなかに、なにかがあった。
警備員室の扉を開けようとした和子は、息遣いに気付いてそちらを向く。
手を伸ばせば触れられそうな位置に、頭に布をまいた男が立っていた。布には、血がしみこんでいる。
和子は悲鳴をあげた。
男は和子の手首を掴んだ。ライトが天井を照らす。「しずかに」
男の声は掠れていた。血の匂いがする。それに、饐えたような、汗のような匂いも。酔っ払いがはいりこんだのか。浮浪者だろうか。玄関の錠はかけてある筈なのに。
口を塞がれて、和子は黙り込む。男は必死な様子でいった。
「逃げて。ここに居たら危ない」
和子は目をしばたたき、ゆっくりした動きで、ライトを持ちかえた。向きをかえた。そうすると、男が照らされ、どんな格好をしているかよくわかる。
制服だ。和子と同じ、U総合警備の警備員の格好だ。
胸のところに、名札がついている。根谷等、とあった。
根谷。ここの警備を放り出して居なくなった、といわれていた、あの?
根谷が顔を背けた。それは、和子には嬉しかった。彼の顔の布、それが和子を不安にさせ、パニックにさせた。血をたっぷり吸い込んだ布。よくよく見てみれば、薄汚れたタオルだった。それが、血が、和子にとっては耐えがたくおそろしい。血が流れるのがこわい。血を流しているひとがこわい。
根谷は喘ぎ、和子の顔から手をはなした。随分、痩せている。乏しいライトだけだが、顔色が悪いのもわかった。「ここから逃げて。俺は、あいつらを……あいつらを……」
もごもごといいながら、彼ははなれていく。階段へ向かっているらしい。和子はそれへ、いう。
「あいつらって?」
根谷は振り向いて、短くいった。
「鍵を開けて、はいってきた連中」
鍵。
ここの鍵を持っているのは……。
彼はどこからかとりだしたケータイを、明かりにしている。なにでできた汚れか考えたくない、赤茶色のしみがついた制服で、歩いていく。
和子はぼんやりと、それを見ていた。ばけもの。血。怪我人。行方不明の筈の警備員。
血。
すぐに、悲鳴が聴こえた。
ふたり分だ。
和子はそちらへ、歩き出す。生理でもできる最高の速度で動いた。
なにかが起こっているのはわかった。それがいいことなのか悪いことなのか、わからない。
格闘技の有段者しか屋内警備にまわさないというのは、きっと正しいことだったのだろうと、そんなことを考えた。和子はきったはったはできない。
根谷が座りこんでいるのが見えた。和子はライトで、できる限りの範囲を照らそうとする。階段のすぐ傍だった。踊り場に倉田が倒れている。
倉田さんがどうして、と思った。その傍になにかいるのが見えた。それからもうひとり、男のひとが立っている。和子より随分歳上だ。随分肥えている。頭がまんまるだった。ふっさりと、嘘みたいに髪が濃い。型崩れしたずぼん、ぱつぱつのポロシャツ、やはり型崩れした革靴。肉に埋もれて顔の判断がつかないが、体型で誰かわかった。社長だ。社長や倉田なら、支部にあるここの合鍵を持ち出せる。ここに、いつでもこられる。
倉田の傍に居るものが、もぞもぞと動いた。
生肉みたいな色合いのなにかだ。
ぶよぶよとしたもの。
ぶよぶよしていて、波打つような形状で、それは、動いている。
脈打っている。
呼吸みたいなものが、暗闇のなかから、わずかに聴こえてきた。
見えないものはないんだよ、かずちゃん。
目をぎゅっと閉じて、もう一度あける。光のなかには、まだそれが居た。動いていた。
うごめいている。
スウィッチをいじって、光量を上げた。
根谷が叫んだ。
かずちゃん、と、姉の声がする。かずちゃんは、おねえちゃんがまもるよ。お父さんもお母さんも、かずちゃんの味方だから。
和子は光のなかに居るそれを睨んでいる。生理痛で死にそうだった。薬はちゃんとのんだのに。それにまた、ナプキンが濡れているのがわかった。何度交換したらいいんだろう。制服を汚してしまう。
見えないものはないけど、かずちゃんには見えてるんだよね。
ならそれは、あるんだよ。
かずちゃんが信じなくても、おねえちゃん信じる。
近付いていく。
「社長」
声をかけると、みっともないくらいにぶくぶくと肥えふとった男は、弾かれるように和子を見た。
社長は焦ったような顔だったけれど、和子を指さした。いや、階段の下に居る、和子と根谷を示した。
「そいつじゃない。あれだ。あのふたり。ふたりとも喰っていいぞ」
倉田の傍でうごめいていたあれが、体を起こす。ぶよぶよしたものだ。色は生肉に似ている。大きい。
そいつは跳ぶようにして、階段を降りた。根谷が、どこからかとりだしたナイフで、それを切る。それはそんなことは気にせずに、和子へ向かってきた。
見えないけれどあるものなんてないんだよ。
見えてないひとがいるだけ。
ぶつかってきた。和子はそれでよろけ、倒れた。社長が安心したみたいに息を吐いた。和子は痛みを感じている。あいつに嚙まれた。腕を嚙まれた。
血が流れたのはわかった。
頭を打ち付けた。あの柵に。子どもだったらすりぬけそうな、安全じゃない柵に。
耳が音をゆがめた。
ゆるやかに、時間が流れている。
血が流れている。腕からも、頭からも、内臓からも。
かずちゃん、と、姉の声がする。
信じてくれた姉。
疑わなかった姉。
血を流したくない。
血が流れていると、いやなことがある。
和子は息を吐いて、自由になる手で、あの、生肉の塊みたいな、へんなものへ触れた。
ぎゅっと掴む。
力をいれる。
なにかがにじみでてくる。
ねとついた、なにか。
姉が居る。
根谷の手からナイフを奪い、和子の腕を嚙むそれへ突き立てる。
和子は息を吐いて、それをひっぱった。
口が外れる。
可哀相に、それはほとんど半分になっていた。和子がひきちぎったのだ。社長が狼狽えたような声を出す。「なんだ? どうした? キンサン?」
和子はそれを振り向いた。痛む頭で、手にしたものを投げる。
あれは、社長へぶつかった。
「あ」
社長の首にそれが嚙みついたのを見て、和子は息を吐き、目を瞑る。根谷が喚いているが、なにをいっているのかわからない。
ばりばりと、柱が折れるような音がする。
体に力がはいらなくて、和子はその場へ倒れた。かずちゃん、と姉がいっている。
和子が昏睡状態で治療されている間に、瑞樹が家を売ってしまった。和子が目を覚ますと思っていなかったようで、病院のベッドでまだ点滴に繋がれている和子に説明したのは、彩だった。瑞樹は和子に怒鳴りつけられたくなくて、逃げたのだろう。兄嫁は非常に申し訳なそうだったのだが、どうやら家を相当いい値段で売ったらしい。ブランドもののバッグを持っていた。わかりやすい行動に和子は微笑み、彩はその微笑みをゆるしと判断したようで、謝罪はそれで終わった。
和子は出血だけですんだけれど、根谷は違った。
「不便そうですね、それ」
三週間と少しが経ち、退院した和子は喫茶店に居た。U総合警備からもらった慰謝料の一部を、コーヒーにかえたところだ。
四人がけのボックス席で、向かいには根谷が居る。こちらも、あの会社から慰謝料をもらったらしい。平たくいえば口止め料だ。
社長は死んだ。倉田は大怪我で入院している。具体的になにが起こったかは、社長の長男(あたらしい社長になったそうだ)にはわからないのだろうが、うしろぐらいことがあるのだけは理解したらしい。普段現場に出てこない社長が居たのだ。それに根谷は、最初の頃、「ばけもの」のことを話していたらしい。なにかしらまずいことがあるのは、誰にだってわかる。
だから新社長は、ふたりの治療費をすべて持ち、かつ法外な金を渡し、退職を促した。つまるところ、これで会社でのことは黙っていてくれ、という意味だ。警察が放っておくのかと思ったけれど、田舎のこと、長く続いている地元企業には弱い。
根谷は左目を、そっと手で撫でるようにする。彼は、左の眼球をなくしていた。タオルをまいていたのは、怪我をしたかららしい。あのビルで、巡回中に、怪我をしたのだ。そこには義眼がはまっているが、違和感しかない。
「眼帯よりは、目立たないんですよ」
「へえ……」
年齢の差が相当あるけれど、和子は根谷に対して、普通に喋れた。彼に助けられたが、和子も彼を助けた。彼に対してはなんにも、負い目がない。
「あの」
根谷はそういって、しばらく黙ったが、紅茶をすすってからいった。
「あれって結局、なんだったんですか。なんか、強盗がはいったみたいな話になってますけど」
和子は肩をすくめる。
世間的には、そういうことになっていた。そういう「事件」だ。廃ビルに、なにを勘違いしたのか、武装した強盗がはいった。詰めていた警備員に襲いかかり、ふたりとも重症を負った。異変に気付いた上司と社長がかけつけ、そのふたりも襲われて、片方は死んだ。強盗は逃げた。警察が捜査しているが、犯人は見付かっていない。
それでお仕舞だ。瑞樹はそれで、警備員を辞めてよかったという。女があんな危険な仕事しなくていい、うちで彩の手伝いをしていればいい、と。子ども達もお前が来たら喜ぶよ、と。和子がもらった莫大な慰謝料をあてにしている気持ちが、はっきりと透けて見えている。
瑞樹はきらいだ。今更なにをされても、きらいなものはきらいだった。
瑞樹は、家を売ったお金のことは、なにもいわない。ほんの一円でも、和子に渡すつもりはないようだ。結局、瑞樹は自分のことだけ考えている。だから和子も、そうすることにした。
話したい、と根谷が病院を訊ねてきたのは、一昨日のことだ。退院が近かったから、和子は退院してからならといった。それで、今日、こうして喫茶店に居る。
「わたしの推測になりますけど、いいですか」
「あ……はい、少しでも、なにかわかれば、すっきりすると思うんで」
和子は肩をすくめる。本当に推測だし、聴いてもすっきりはしないだろうな、と思いつつ。
小さい頃、オカルトやホラー好きな姉の持っている本を、一緒に読んだ。そこには、蠱毒という呪いがのっていた。虫をつかった呪いだ。
虫を沢山集め、瓶にいれて土に埋める。数日から数週間かけて、なかで殺し合いをさせる。最後の一匹になったら、とりだす。
それは、多くの富や名声をもたらす。かわりに、定期的にひとをほしがる。だから、持ち主は虫の為に、ひとを殺す。
虫の要求は終わらない。要らなくなったら、それまでその虫のおかげで手にいれた富をつけて、虫を捨てる。拾った誰かが虫を世話しないといけないが、知らなかったら当人が殺される。
そもそも、気にいらない相手を殺す為につかうこともある。瓶からとりだした虫を、すぐに気にいらないやつへ送りつけるのだ。相手は虫がどんなものかわからないから、いけにえを捧げることがない。だから、当人かその家族が死ぬ。或いは、虫を気にいらないやつへ喰わせてもいい。毒だ、という。
「じゃあ……あいつがその、虫ですか」
「そう考えると、つじつまが合うんです。社長がキンサンっていってたでしょう。蠱毒につかわれる虫の名前だった筈。それに、あのビルを警備してたひとって、あとで突然退職することが多かったんですよね」
彼はそれに、怪訝そうな顔をした。それで、説明されていない、聴いていないのだとわかった。だから、あのビルの警備にまわされた人間が、これまでも数人、もしかしたら十数人辞めているのだと、和子は説明した。
「根谷さんって、家族は……」
「ああ、もう居ません。いや、父は生きてるんですが、絶縁状態で」
「そういうひとを狙ったんだと思います。家族の居るひとは、あのビルの警備にまわされても、なんでもなく終わってる。全員がいなくなる訳じゃないから、ただ単に、あのビルの雰囲気をきらっている根性のない社員が辞めた、ってだけの話になってたんでしょう。わたしも、似たようなものです」
根谷は口をゆっくりあけたが、言葉は出てこなかった。
和子の説明は辿々しいし、憶測でしかない。しかし、根谷は納得したようだ。
あのあと、U総合警備が大手の警備会社に仕事のほとんどを奪われ、廃業の噂まで立っているのも理由だろう。たしかに世間的には「警備先に強盗がはいった」会社ではあるけれど、だからといってここまですばやく事業が傾くのは不自然だ。虫が居なくなったから、お金が集まらなくなったのだと考えれば、つじつまがあってしまう。
根谷は、和子の直前に、あのビルの警備を任された人間だった。別の警備員がいやがったから、と倉田は説明したそうだが、和子もそういわれたので、もしかしたら常套句だったのかもしれない。それならば、松木がなにもいってこなかったのもおかしくはない。松木は本当になにも知らず、そもそもあのビルには近寄っていないのではないか。
家族の居ない人間なら、居なくなっても誰も気にしない。
和子はちらりと、自分の隣の席を見る。
根谷はあのビルで、なにかに襲われた。直前から、不可解なことは幾らか起こっていたらしい。ロッカーが汚されるのも和子と同じだった。そして、ビル内で怪我をし、巡回ルートをかえてしまった。
そこに、あれが来た。
怪我をした根谷は、けれど必死に逃げ出した。屋上へ行って、そこから飛び降りたのだ。運よく隣の建物の屋根に落ちて、怪我はたいしたことがなくすんだ。だが、U総合警備の人間は信用できないと考え、逃げた。ビルの前で社長と誰かが話しているのを見てしまったからだ。社長は、今月分が、とかなんとかいっていたらしい。
左目はその段階で、なかったそうだ。根谷はホームレスに紛れてすごし、夜になるとあのビルの傍へ戻った。警察へ届けることは考えなかったらしい。その辺りの心の動きは、和子にはわからない。
「大山さんも、ご家族、居ないんですか」
「ああ……はい」
和子はじっと、根谷を見る。「この間、家に車がつっこんできたんです。庭に居た両親と、縁側に居た姉が、それで」
暑い日だった。
和子は室内にいた。
両親は庭でゴーヤを収穫していた。
姉は縁側で手芸をしていた。
車がつっこんできて、三人をひき、縁側や壁の一部を破壊した。
運転手は無事だったけれど、三人は死んだ。
だから、あの家を手放したくなかった。お金をかけて修繕しても、あそこに居たかった。
あそこには、三人が居る。
まだいる。
和子には、たしかに、見えている。
見えているから、いるのだ。
和子は昔から、そういうものが見えた。特に、怪我をすると顕著だった。そして、初潮が来るともっと酷くなった。
瑞樹は絶対に信じないし、父母も懐疑的だったけれど、姉だけは信じてくれた。信じて、もともと沢山集めていたホラーやオカルトの本をもっともっと、専門的なものまで集めて、和子がそういうものを見ないですむようにしようとしてくれた。
でもだめだった。和子は、見える。普通のひとよりも多くの「人間」を見ている。怪我をしたり、生理で出血があると、それはより鮮明に、くっきりと見えるようになる。
学校では気味悪がられた。その頃の和子には、普通のひとでも見える人間と、和子のようなものにしか見えない人間の区別がつかなかった。それで、まわりから見ればひとりで喋ったり、ひとりで遊んだり、気味の悪い子だった。だから、クラスでなにか問題が起こると、なにかと和子の所為にされた。
今でも、出血していると区別がつかなくなる。根谷は、さっきウエイトレスと話していたから、普通のひとにも見える人間だろう。
両親も姉も、あれから見えない。
居なくなってしまった。
和子は隣の席に居るものを、軽く撫でた。随分小さくなったそれを。
「大山さん、これからどうするんですか」
「……そうですね……」
「俺、友達がやってる店で雇ってもらえることになったんです。居酒屋で。雑用とか出前係とかですけど。料理できるひと募集してたんです。大山さん、できます?」
和子は根谷を見る。頷くと、根谷はにこっと笑った。「じゃあ、来ませんか、大山さんも。助けてもらったから、お礼したいんです」
「……考えてみます」
指先がねとついている。
根谷と別れ、和子はとぼとぼと歩いていた。明日、居酒屋へ面接に行くと決まった。なんとなく、いやな気分ではない。
腕には鞄と、もうひとつ、小さなものを抱えている。
多分、と、根谷には喋らなかったことを、和子は頭のなかで考えた。
あの虫は、昼間は支部に居たんだろう。そして、ロッカーになにかをした。印をつけるようなことではないか。社長がさせていたのか、虫がそれをした人間をいけにえにしていたのかは、わからない。そのあと、社長が虫を、あのビルへ持っていく。夜になって、警備員があれにくわれる。
巡回ルートが決まっていたのは、なにかのルールなのか。虫のご機嫌とりだろうか。
「……まあ、いっか」
和子は歩いている。いつもとは違う道だ。これから数ヶ月、弟の家に世話になる。マンションができたら、そこの一室をかりられるそうだ。なにも嬉しくなんてないけれど、和子はそれに抗議しなかった。
両親と、姉が死んだ場所。
家をとりこわされて、きっとあの三人も消えてしまった。
あの前日、和子はあれを見ていた。
巡回中に、居たのだ。
でも、和子は血を流していて、「見る」力が強かった。
「見る」以外の力も強かった。だから追い払えた。
あれは和子に近寄ってこなかった。
社長の命令に従っていたから、そういう決まりというか、なにかあるのだろう。多分。
だから、わたしの命令もきく筈。
和子の腕には、生肉のような色合いのものがある。普通のひとには見えないものが、ある。
マンションなら、沢山のひとが住んでいる。これがおなかをすかすことはない。
それまでは、みずきちゃん達で足りるでしょう。