控室にて、学校祭に耐える
晴天の午前9時。
教室のドアの窓には、黒色の画用紙が張り付けられている。
お陰で僕がこうして一人、安息の地で腕組みして座っていることは、廊下から見えやしない。
ここは教室棟の端に位置するから、浮かれた笑い声に混じってうっすらと聞こえてくる楽しげな会話は、その内容までは分からない。
今日は学校祭の初日である。
そして明日が学校祭の最終日である。
つまり僕は、この二日間、こうして安息を謳歌できる。
カーテンは開け放たれ、まだ涼しさの残る風が、折れた画用紙の切れ端をそっと押す。
スーーーーッと息を吸いながら、上体を反らして天井を見上げた。
「あなた、暇そうね」
ガバッと椅子から立ち上がり、慌てて振り返る。
そこには、うちの制服を着る、見知らぬ女子高生が立っていた。
「え、えっと……」
教室後方に机が寄せられ、後ろのドアからは出入りできないこの控室には、常に僕の視界に入っていた前方のドアを使うしか、入りようがない。
僕はもう10分はここにいる。
ずっと後ろにいた?
息をひそめて?
おかしいよな?
それにこの子はどこのクラスだ。
こんなにも美しい子がこの学校にいるなんて、知らなかった。
「どうしてここで、ぼんやりしてるのよ」
透き通っていて冷ややかで、薄く氷の張った湖に落とされるような、そんな声だ。
「どうしてって……えっと、まあ……待機してるから……」
「そう。いつまで待機するの?」
「いつまでか……うーん、もうちょっと、しばらくは、かな」
「そうなんだ。それなら、付き合ってあげる」
「え、まって……え?」
「あなたの暇つぶしに、付き合ってあげる」
細くて白い首を軽く傾けて、肩にかかる黒髪が揺れる。
そして、ニコリと笑った。
「ねぇ、あれはなに?」
指さす先には、プラネタリウムの残骸である、黒い布が折りたたまれて置かれていた。
僕のクラスは学校祭の出し物で、プラネタリウムをやっている。
とはいってもちゃちなもので、教室内を真っ暗にして、安いプラネタリウム機を設置するだけだ。
お客には寝転がって見てもらうから、ダンボールを何枚か重ねて敷いている。
もちろん寝心地は良くないはずだ。
教室内を真っ暗にするために、窓の淵は黒テープでびったり塞がれている。
そのせいで換気ができず、空気が淀んでいるらしい。
加えて無計画なもので、はじめは四方の天井から暗幕を垂らすと決めたはずが、どうやら暗幕の重さに突っ張り棒が耐えられず、壁に黒色の画用紙を貼ることになったようだ。
そのため黒板や棚の箇所がデコボコして目立ち、結局その空間が教室であることを逆に強調する結果になった。
目の前の女子高生が指さした黒い布が、使用を断念されたその暗幕なのだ。
「これは……プラネタリウムで使えなくなった暗幕だよ」
「ふーん、プラネタリウムか。星は好き?」
「まあ、うん」
とはいっても、正直まともに星を見た記憶がない。
夜は町明かりで星なんて見えないし、わざわざ夜に遠出して星を見ようとも思ったことが無い。
ただ何となく、惹かれるものがあるから、おすすめ動画にそういう宇宙系があったらたまに見る。
「そうしたら、見に行こうか。星」
「え?」
女子高生は、先ほど指さしたのとは反対側、窓側を指さしている。
見ると窓の外では、星々がキラキラと輝いていた。
窓は黒一色で埋め尽くされ、奥行きは全く感じない。
ただ所々、点が輝き、それが星であることは直感で分かった。
これは、作り物なんかじゃない。
本物の宇宙だ。
僕は思わず息を吞む。
窓辺まで歩き、またハッとする。
窓ガラスが消えている。
この教室の窓ガラスが、きれいさっぱり無くなっているのだ。
窓枠に手をかけると、窓の外に落ちていきそうな感覚に襲われ、慌てて強く窓枠を握って踏ん張った。
頭がグワングワンと痛み、教室が回転しているように感じる。
「ほら、ここからじゃよく見えないでしょ?」
女子高生が僕の手を引いて、窓の外に飛び込んだ。
僕の身体は彼女を追ってスッと浮き上がり、窓の外へ滑り出た。
その直後、凄まじい力で身体が上に引かれる。
ケロッとした顔で宇宙に立っている彼女の右手を離さないように両手で握るが、僕の身体はますます上に引っ張られる。
まるで上に落ちるみたいに。
怖い怖い怖い怖い怖い
意味が分からない
なんだこれ
どうなってる
やばい
手が
手が滑る
「ほら、そうじゃないの。空間だと思わないで。あなたはただ、自分がここにあるって思えばいいの」
はああ??
何言ってんだ
やばい落ちる
滑る
怖い
どうしたらいい
怖い怖い怖い
「まったく……ほら……」
女は僕をグイッと引き寄せ、唇にキスをした。
顔が近い。
というか、キスしてる。
あ、まつげ長い……
なんか、すごい、落ち着く匂いがする……
「ね、大丈夫でしょ?」
僕は彼女の横にいた。
口角を上げて微笑する彼女は、フイと振り向いて指をさす。
「これが、あなたの星」
見るといつの間にか指先に、ゴルフボールほどの青く輝く球体がある。
近づいて見ると、それは確かに地球だった。
「あ、ぶつからないようにね」
僕の背後を見ながら言う。
振り返ると、すぐ近くにバランスボールほどの赤く輝く球体があった。
「太陽だ……」
「ねぇちょっと、危ないって」
一歩踏み出そうとした僕を、彼女が慌てて止める。
視線を落とすと、胸元には地球と同じサイズの球体があった。
「ひやひやするじゃない。あなた、帰れなくなるよ」
ため息交じりにいう彼女は、どこか楽しそうだ。
「どうなってるの、これ……」
どこまでも続く闇と、輝く点を見回しながら、そして彼女を視界から外さないように、聞く。
「どうって、星だよ。星が沢山あるんだよ」
「いや、そうだけど、だからその……」
あまりに当然の事のように、涼しい日に交通量の多い交差点で信号待ちするみたいに、彼女は遠くの小さな星を見ている。
「うーん、私は好きだけど、ちょっと、退屈かもね」
移動しようか。と弾んだ声で言いながら、僕の手を握った。
「じゃーん。どう?」
振り向いた彼女の視線の先に、いくつもの光の筋が走っている。
右から左、上から下、右下から左上、いやもっと複雑に光の筋が飛び交い、そのうちに僕たちの周囲も光線で埋め尽くされた。
僕や彼女に当たった光線は、花がしぼむように光を失い、消えていく。
「これね、戦争してるの。第三次宇宙大戦」
僕は思わず吹き出した。
真剣な顔でSFみたいなことを言うなんて。
なんだか彼女の容姿にそぐわない。
「ねぇ、どれに勝ってほしい?」
「そんなこと言われてもなぁ……」
よく見ると飛び交う光線の中、手のひらサイズの赤い直方体がいくつもある。
この直方体に光線がぶつかると、時に光線が跳ね返り、時に光線がちりぢりになり、時に直方体が透けて消える。
「何と何が戦ってるのかも、分からないよ」
「そりゃあ人と、人だよ。戦争するのなんて」
「え、それなら、僕たち以外に人がいるの?宇宙に?」
「あー、そうじゃなくてね、人ができるのは一か所だよ。これは、ズレた同じ場所」
「ねえ君って、なんというか、その……ちょっとカッコつけた言い方するよね。結局全然よく分からないし……」
「分からないならいいの、折角だし加勢してやりなよ」
整った眉毛をギュッと下げ、不満げに言う。
「ほらそこのとこ、指でぴんって弾く感じで」
怒らせたいというわけでもないから、ここはひとまず従ってみようと思い、中指を親指に引っ掛け、手近な赤い直方体を弾いた。
ビュンという物凄い音を立てながら、赤い直方体は真っすぐに吹き飛び、別の直方体に直撃し、その直方体もまた別の直方体にぶつかる。
まるでビリヤードみたいに、光線を蹴散らしながら赤い直方体の衝突が次々に連鎖していく。
「これはまた、派手にやったね」
彼女は軽く手を叩きながら、初めてのイルカショーみたいに喜んでいる。
いや正直、僕はイルカショーを見に行ったことがない。
だからこれは想像でしかないけど、純粋に楽しんでいるこの視線は、そういうものだと思った。
「あのさ、今更だけど、こんなことして大丈夫なの?さっきは星に触るなって感じだったのに」
「あーうん、大丈夫。これはもう終わってることだから」
「終わってること?どういう意味?」
「あなたにとっては終わってるってことね。あなたがいることに変わりはないんだから」
「待って、全然かみ合ってない気がする。僕が悪いのこれ」
「あなたは悪くないよ。私も悪くないしね」
ニヤリと笑った彼女の眼は、ずっと奥が見えるように澄んでいて、どこか寂し気だった。
「ねぇ、最後にこれ。私すごい好きなの。綺麗でしょ」
気が付くと光線も長方形もその影はすでになく、僕たち二人の頭上から何かが降りてきていた。
それは透明な球体だった。
何色もの鮮やかな光を蓄えながら、プリンのような反発性とスライムのような柔軟性を併せ持ち、不規則にプルプルと変形を続けている。
「これには触っちゃだめだよ」
「これは何?」
「人が自力で認識できた、今のところの限界」
「これが宇宙ってこと?どうしてこんなに変形してるの?宇宙って何なの?」
彼女は真っすぐ僕に向き合い、フフッと軽く笑って、そろそろ戻ろうかと言った。
「楽しかったね」
僕たちは宇宙を背にして、教室の窓の淵に座っていた。
僕は宇宙を振り返りながら、綺麗だったけどよく分からなかったと、正直に答えた。
「綺麗だった、でいいじゃない。綺麗だったから楽しかったってことで」
彼女は片耳に髪をかけ、話を続けた。
「あなたは人だから、何かを分かろうとしてくれたのね。あなた達ってすごいのよ、頭が働くから何にでも意味を持たせられるの。例えばほら、教室の窓って、みんなが座った時に左側にあるでしょ?これにすら意味があるんだから。挙句の果てに人の存在する意味まで考えるでしょ?僕は私は何のために生きてるんだって。まったく、関心しちゃうね。人が作ったものですらないのにね」
彼女は僕への視線を少しずらし、僕の背後の宇宙に目をやる。
「本当は、全部そこにあるだけなのにね。そこにあるために、そうなってるんじゃないの。ただそうなってるから、そこにあるの」
難しいでしょ、と笑う彼女は、僕が話を理解していないと決めつけている。
あえて嘘をつかず堂々と宣言しよう。
そうだ、よく分からなかった。
ただ少し、確信に近い何となくではあるけれど、僕は彼女に励まされていると思った。
「ねぇ、私の姿って、あなたにどう見えてるの?」
「え、どうって……」
澄んだ瞳に滑らかな肌、透き通る声と温かな手。
そして見慣れた制服に、見慣れないこの子。
「ふふっ、そんな顔して、まぁ聞かなくても何となく分かってるけどね」
「あの、君は、君は誰なの?というか一体……」
彼女はうーんと言いながら立ち上がり、宇宙に向き直る。
「分かってるくせに」
ちらりと僕に視線を投げ、そう言った。
ドアの向こうから、笑い声に混じって楽しげな会話が聞こえてくるけれど、その内容は分からない。
窓の外は晴天。
机の上に置かれた暗幕に腰を下ろし、クッション性の無さに気付く。
これならイスで良い。
大型トラックは地面を揺らし、スピーカーから流れるチャイムは地域住民の入場開始を告げる。
さあ僕は、この控室にて。