第8話 十六夜マリ
煌々と光をたたえる真円の月に照らされた女は、真紅の双眼で俺を見据えながらゆっくりと近づいてきた。
異様な殺気を孕んでいる。話をしに来たわけでは無いらしい。
「ここでやってもいいけれど、どうする?」
女が投げかけてきたシンプルな質問を説明するとこういうことだ。
この女は決闘を望んでいる。このアパートの前でおっ始めてもいいが、場所を変えたいのなら構わないといいたいのだ。
狼人間同士の決闘を目撃すれば、その人間は必ず始末される。関係のない誰かを巻き込みたくないので、俺は場所を変えようと申し出た。
「乗りなさい」
言われるがまま乗り込んだ真紅のスポーツカーは、アスファルトにタイヤ跡を残しながら急発進した。
こんな狭い住宅街をキチガイじみたスピードで走らせるなど、頭がどうかしているとしか考えられない。
しかし、今のこの娘の反射神経ならば、恐らく事故を起こすこともないのだろう。
国道に入ってさらに加速しだした車の助手席で、俺はうんざりとした声を上げた。
「どこまで行くんだ?」
俺の質問に一切耳を貸さず、車は再び国道をはずれ、ひと気のない山中に分け入ったのち、ようやく少し開けた場所で停まった。
「降りなさい」
「言われなくてもそうするよ」
ここへ来るまでの間に、この女の名前を俺はようやく思い出していた。
車を降りて少し間合いを取ってから、俺はその名を口にした。
「十六夜マリ。確かそんな名だったな」
「やっと思い出したの? トロイおつむね」
「名前も言えたし、帰ってもいいか?」
「ふざけてるの? そんな訳にはいかないって分かってるでしょ」
マリの瞳が爛々と輝きを増す。
ゆっくりと獣人化現象が起き始めたようだ。
満月の夜に狼人間に訪れる奇跡が、十六夜マリの体を変身させようとしていた。
「一応聞いとくが、なんで俺を殺したいんだ?」
「気にくわないから」
「それだけでか?」
俺は呆れたような声を上げてしまった。
気にくわないという理由でいちいち人を殺していたら、この娘の性格ならば死体の山などあっという間に出来上がってしまうだろう。
「それと、あんたが私の夫になる可能性を排除したいのよ。お父様も結婚相手が死んだのならば断念するでしょう」
「そうゆうことか。なんだか納得だよ」
「納得できたのなら、いざ尋常に立ち合いなさい」
順調に獣人化し続けるマリに、俺は警告しておいてやることにした。
「あのなあ、さっきから聞いていたら何だかあんたが勝つ前提で話を進めているけど、俺が勝つ場合もあると思わないのか?」
「あんたが? 下賤の血をひく混血種に純血の私が敗れる? あり得ないわね」
「いったいどんな教育を受けて来たのか知らんが、純血と混血種にそれほど違いはないはずだよ。言っておくが俺はこう見えてそこそこ手荒い修羅場を何度も潜り抜けてきている。それに比べて箱入り娘のあんたはそういった経験とか無いんじゃないかね」
図星だったようで、マリは一瞬返す言葉を失ったかに見えた。
「また私を愚弄するか。まあいい。どうせここで死ぬわけだし」
「なにを言っても無駄ってわけか」
すっかり変貌を遂げたマリは半獣半人の姿で俺に掴みかかってきた。
俺は咄嗟に身を捻ってその突進をかわした。
流石に女とはいえ獣人化した眷族だ。気が進まないが俺も余裕をこいている場合ではないと悟った。
「るうるうるうううおおおおお」
俺は頭上の守護星に向かって咆哮を上げた。
体内の奥底で小さな火花が弾け、体内にある高出力エンジンが轟音を上げて始動し始めた。
マリは俺が獣人化を完了するまで攻撃を仕掛ける気はないらしい。
その真紅の瞳をこちらに向けて様子を窺っている。
そして体内のエネルギーが俺の外見までをも変貌させたとき、マリは再び仕掛けてきた。
「ごおおおお!」
鋭い爪の一撃が俺の体をかすめる。
すんででかわした俺の体に、さらに二度三度の追撃が迫ってくる。
速さと威力は恐らく同等だろう。
しかし、闘い慣れた俺にマリの爪は届かなかった。
歓迎はしないが、満月期以外でも俺は厄介ごとの解決を生活のために買って出ていた。そのせいで人間の凶悪な連中ともハンデなしで渡り合った経験が俺にはあった。
最近は喧嘩ではなく格闘技や武術を積極的に研究し、いかに相手を潰すことなく制するかということを追究し、鍛錬していた。
そして今夜それが役に立った。
「ごおおおお!」
執拗に単調な突きや蹴りを叩き込んでくるマリの動きを、俺はある程度見切っていた。
速い突きが俺の心臓を狙って伸ばされたときに俺は仕掛けた。
捌いた腕が流れたのを俺は見逃さず、そのまま肘関節を極めて締め上げた。
「ぐううう、放せ! 放せ!」
激痛に顔を歪めながらマリは極められた状態から逃げ出そうとするが、完全に極まってしまった腕はそう簡単には抜けない。
このまま腕を折ってしまうことも出来たが、あまり痛い思いをさせるのは本意ではない。
俺は極めていた腕を一旦解いて、そのままその腕を返してマリを地に這わせた。
いま習っている武道の押さえ技だった。
一度極まってしまえば、相手はその場から動けなくなる。
正確に抑えるポイントを極めて、相手が起きあがれない状態にする、極めて紳士的な技だった。勿論苦痛もない。
「放せ! 放せ! このゲス野郎」
獣人化した口から唾を飛ばしながら、それからしばらくマリは汚い言葉を俺に吐き続けた。
散々高貴なレディらしからぬ罵声を喚き散らしたあと、どうあがいても起きあがれないことをようやく悟り、マリはもがくことを断念した。
「私を笑っているのだろ。地に這ったままの私を見て蔑んでいるのであろう」
「俺はそんな悪趣味じゃない。大人しくなるまでこうしているだけさ」
「大人しくなったら私を辱める気なんだろ。お前たちの考えていることなど、私はお見通しだ」
「いや、そんなことしないよ。俺がそんな奴に見えるか?」
「ああ、そんな奴にしか見えない!」
これはちょっと傷ついた。
ハンサムではない自覚はあるが、そんないやらしい奴に見られていたとは心外だった。
「あのなあ、俺はこうみえてもまともな狼男なんだ。嫌がる娘をどうこうしたりなんてあり得ない」
「嘘だ!」
「何でも頭ごなしなんだな。いい加減にして欲しいよ全く……」
別に疲れてきたわけでは無いが、ずっとこうして夜が明けるのを待つのも退屈だった。
「なあ、マリ、俺はお前を辱めたりはしない。誓ってもいい」
「ならここで宣誓してみせろ。そうしたら信用してやる」
「分かったよ。それで疑いが晴れるんだったらいくらでも宣誓するよ」
そして俺は、狼の最大級の誓いを立てた。
「俺は決して君を辱めたりしない。そう誓うよ。狼の誇りにかけて」
「分かった……」
マリは一気に大人しくなった。
格式を重んずる純血のマリには狼の宣誓は効果的だったようだ。
狼の宣誓は決して破ることの出来ない強力な契約とされている。
その誓いは何よりも尊く、宣誓は生きている限りこの効力を維持し続ける。
俺は大人しくなったマリを解放した。
マリはゆっくりと起きあがると、服についた汚れを手で払って俺を振り返った。
既に獣人化を解いていたマリは、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「大上琉偉。あなたは私に宣誓を立てた」
「ああ。俺は決して君を辱めない」
「私はあなたの宣誓を受け容れた。そして宣誓の代償として私はあなたをこの先ずっと信頼します」
「俺を信頼する? ああそうか、さっき宣誓したら信用してやるって言ってたね」
「ええ。狼の誇りにかけて」
真紅の虹彩の瞳が淡い光を放つ。
月明かりに照らし出された、ほんの少しはにかんだマリの顔はとても美しかった。