第7話 満月の夜
夕方まで市民プールではしゃいでいた穂乃花だったが、今は俺の背中で寝息を立てていた。
「すみません。何から何まで」
穂乃花の母、進藤由里子はつば広の帽子の下で、申し訳なさそうに俺の顔を見上げた。
「いいんだよ、これぐらい。ところでどうだい、穂乃花もそうだけど、君も少しはリフレッシュ出来たんじゃないかな?」
「ええ。お陰様で。大上さんがこの子を見ててくれたお陰です」
「そうかい。それは良かったよ」
先輩に借りっぱなしの小型車に穂乃花を乗せ、俺は焼けた車内の空気を追い出そうと窓を開けた。
エアコンを利かせて走り出した車の中で、助手席の由里子が俺にもう一度お礼を言った。
「車まで出して頂いて、ありがとうございました」
「なあに、気にすることは無いよ。俺も丁度暇だったんだ」
これは嘘だった。
本当なら今日は引っ越しのバイトに狩り出されていたはずだったが、穂乃花と出掛けるために、昨日の夕方から一件入っていた一番きつそうなシフトと入れ替えてもらっておいたのだった。
とはいっても満月期の俺には余裕すぎた。
予定よりも一時間も早く荷物を運び終えた俺に、依頼した客が呆気に取られていた。
その後に入れていた深夜の工事現場での作業を終えて、俺は一睡もすることなくこうして車を運転していた。
それもこれも真円になった守護星のお陰である。
この時期の狼男はまるで疲れ知らずなのだ。
俺は後部座席のチャイルドシートで眠りこけている穂乃花をバックミラー越しにチラと見た。
「穂乃花はよく眠っているね」
「ええ、今日はきっとはしゃぎ過ぎたんだと思います」
はしゃぎ過ぎたとしても、この時期の狼人間は疲れることを知らない。
恐らく穂乃花は根本的に俺たちと何かが違う。
俺は穂乃花のあどけない寝顔にまた目を向けてから、由里子に疑問を投げかけた。
「満月期の狼人間にしては穂乃花は疲れているみたいだね。いつもこうなのかい?」
「ええ、お昼寝はいつもさせています。月齢に関係なく穂乃花はよく眠る子なんです」
「満月期に限らずこの子は特別な力を発揮しているみたいだけど、月の周期によって力が強まったり、あるいは弱まったりとかしていないかい?」
「いえ、特にそういった感じはないと思います。大上さんは月の満ち欠けに敏感みたいですけど、普通はそういうものなのでしょうね。失踪したあの人も大上さんと同じでした」
満月期に強力な超能力を発揮する自分たちと違い、穂乃花は規則正しすぎる程の一般的な幼児と同じリズムで生活していた。
それが何を意味するものなのか、頭の回転が鈍い俺には分かりようもない。本当は頭のいい如月に穂乃花の特異性を全て話して、何らかの助言をもらいところだが、今は沈黙を貫くことにしていた。
別に如月に不信感を抱いている訳では無い。だが、如月が動けばそれを不審に思う奴が出てこないとも限らない。安全が確保できるまでは情報は最小限にとどめておくべきだろう。
二人を家まで送っていく途中、俺はなけなしのバイト代で、この母娘に夕飯を御馳走していた。とはいっても、そこいらにあるファミレスでだが。
俺は穂乃花が口の周りを汚しながら、キッズプレートのハンバーグを美味しそうに食べているのを眺めていた。
「美味いか?」
「うん。ウイのは?」
「ああ、美味いよ。エビフライ食べるか?」
「くれるの? やった」
俺は自分の注文したミックスグリルのプレートからエビフライを載せてやった。
「ありがと」
早速かぶりついた穂乃花に、頬が緩んでいるのを俺は感じていた。
しかし可愛いやつだ。こうやって美味しそうに食べている姿を見続けていられるのなら、エビフライをいくらでも載せてやりたいくらいだ。
ほんの数日一緒に行動しただけなのだが、いつしか俺は、この小さすぎるガールフレンドにやられてしまっていた。
「すっかり大上さんに懐いちゃったわね」
由里子が微笑みを浮かべながら、娘の汚れた口元をナフキンで拭った。
「こんなにゆったりした気分で外食したのは久しぶり……まるで……」
そう呟いた由紀子は自分の口からついて出た言葉に、戸惑いを浮かべた。
「あ、ごめんなさい。なんだか私、大上さんに親切にして頂いて気が緩んでいたみたい。気にしないで下さい」
「ああ、気にしないよ。だから君も俺に気を遣わないで言いたいことを言えばいい。俺は君の同級生で、穂乃花のボーイフレンドなんだ。何にも気遣いする必要のない友達なのさ」
由里子の表情が和らいだ。そして穂乃花が空になったコップを軽く振って見せた。
「ウイ。ジュースなくなった」
「みたいだな。じゃあ淹れに行くか。穂乃花が選んで俺がボタンを押すよ」
「うん。いこ」
コップを持って駆け出そうとする穂乃花をなだめて、俺はその小さな手をとる。
並みの大人なら引っ張られていくであろうその怪力も、今の俺なら余裕の対応ができるのだ。
繋いだ手が引かれるのに、俺は心地よさを感じていた。
そういえば家族でファミレスに来たことなんて一度も無かったな。
由里子が呟いた安らぎの言葉。本当に安らぎを覚えていたのは、遠い記憶にある母の面影を由里子に重ねてしまった俺なのかも知れなかった。
二人を送り届けてから、俺は車をアパートの敷地に無理やり停めた。
ドアを開けて空を見上げると、すっかり日の落ちた夜空に金色に輝く満月が浮かんでいた。
煌々と輝く真円の守護性をしばらく眺めたあと、俺はアパートの前にベタ付けされた趣味の悪いスポーツカーに目を向けた。
「何の用だ?」
俺が声を掛けると車のドアが開いて長い髪の女が降りてきた。
女はピッチリとした体の線を強調するかのような、ワインレッドの服に身を包んでいた。
月明りの中で照らし出されたその女に、俺は見覚えがあった。
「あんたは確か……」
そこまで言ってから、俺はどうしてもその先を思い出せなくて黙り込んでしまった。
「やはり失礼な男ね」
あのお見合いの席に現れた跳ねっ返りが再び姿を現した。
真っ赤な光をたたえる双眼を、俺は真っすぐに受け止める。
先程から俺の中で本能的な何者かがしきりと警告している。
俺はこのとき、目の前の女が紛れもない敵であることを感じ取っていた。