第6話 夏の休日
穂乃花はひいき目で見なかったとしても、なかなか利口な娘だった。
俺は彼女と行動を共にしている間、ちょっとした時間を見つけては、穂乃花に狼人間である自分たちが、周りの人間たちと付き合っていくコツのようなものを教えた。
穂乃花は本能的にそれを必要だと認識したのだろう。俺の言葉を幼児らしからぬ真面目さで聞き、行動で示して見せた。
穂乃花の狼人間としての特性が現れたのは三歳になった頃らしい。
母親の由里子は穂乃花の身に、いつか狼人間の超能力が現れることを、父親である秋月御影から予め聞かされていた。
予備知識はあったものの、実際に娘の能力が発現し、その力の制御について相談できる者は当然いなかった。
危険極まりない力を持った幼児でも、きちんと制御できれば、人間社会の中で目立つことは無くなる。
人間たちの中に上手く紛れ込めれば、おのずと眷族の目にも留まることは無くなるだろう。
逆に言うなら、このままではそのうちに何らかの偶発的事件を起こしてしまい、世間や眷族の注目を浴びることになる。そうなれば、この母娘は悲惨な運命を辿るだろう。
何気なく使っている特別な力に関して、どの程度抑制していけばいいのか、俺は自分の経験を踏まえて、狼人間の先輩として本格的に色々教えてやることにしたのだった。
通常、狼人間の生理は、地球を周る我が守護星によって決定されている。月の満ち欠けが普通の人間と不死身の狼人間とを行ったり来たりさせているのだ。
しかし穂乃花は、そういった確固たる定義を覆し、我々が超能力を喪失する新月期に狼人間の力を扱えた。それがどういうことなのか、短絡的な俺でさえ、その希少性をひしひしと感じていた。
だからこそ、その特異性を知られてしまう前に、途方に暮れているこの母娘を何とかしてやらねばと、俺は焦っていたのだった。
恐らく俺がここまで肩入れしているのは、自分の生い立ちとこの母娘を重ねてしまっているからなのだろう。
怪物の子供を産まされた俺の母親は、未だ行方知れずだ。
怪物の子供を宿すための器として連れてこられ、望みもしない獣の子を産まされた母は、それでも赤子の俺を愛してくれた。
狼人間の記憶は人間のそれと違って、幼少期のことさえもある程度鮮明に想い出せる。
俺は母の笑顔が大好きだった。
母が喜んでくれることを俺は率先してやった。
怪物の子を可愛いと言って、母は俺を愛しんでくれた。
あなたはとてもやさしい子だと、優しい手で髪を撫でてくれた。
小学校に行き始めた初日、家に帰ると母はいなくなっていた。
父は何も言わなかった。
その日から母の代わりに、三人の世話係の女が俺の面倒を見始めた。
俺は何度も家出し、母親を探し回った。
しかし母を見つけることはできなかった。
その母の面影が俺のすべきことの羅針盤となった。
穂乃花を母親と引き離させない。俺は自分にそう誓った。
母親の愛を受けて育っているこの娘を、俺は守ると決めたのだった。
月齢十五日。
青く高い空に、真っ白な入道雲。夏の陽射しが降り注ぐ、本格的な夏の日だと言えた。
今は日中だが、満月の日、狼男の体内には高出力エンジンが出現する。
体内で唸り声を響かせるそのエネルギー源は、俺の体を賦活化し、恐らく不死身に変える。
肉体ばかりではなく精神的なものも高揚し、とにかくじっとしていることに耐えられなくなり、その有り余る力の奔流をどこへ向かわせるのか、それが目下の俺の課題であった。
大概この時期には荒っぽい仕事を頼まれて、そっちの方で精力的に悪党相手に力を使っている俺だが、今日は勝手が違った。
今俺は、進藤由里子と一緒に、穂乃花を連れてプールにやって来ていた。
海パン姿の俺の隣には、アニメキャラの浮き輪を胴に巻いた穂乃花が上機嫌で早速プールに飛び込もうとしている。
「おいおい。その前にちょっと準備運動だ。保育園でもやってるだろ」
「えー、早くプールに入りたい」
愚痴る穂乃花と一緒に、俺は準備運動を入念にしておいた。
「ウイ。こっちだよ」
「ああ、分かった」
穂乃花に手を引かれるまま、俺は流れるプールに足を浸けた。
穂乃花がすっぽりと収まった浮き輪は、緩い流水プールの流れに早速流されていく。俺はそれを追いかけていく。
しかし凄い人ゴミだ。
夏休みの市民プールというのは、年寄りからちびっ子までまんべんなく混在しているものなのだと俺は知った。
実は市民プールは初体験だった。
学校のプールとスポーツクラブのプールは体験済みの俺も、この混雑している、ただ浮いているだけの流水プールは初めてだった。
人にぶつからないよう気を遣いながら、あんまし冷たくもない水に流されて同じところをぐるぐる回る。
これってそんなに楽しいのか?
今の俺ならば、この体内の高出力エンジンをちょいと唸らせれば、自由形で世界記録を凌ぐスピードで泳げるだろう。
流水プールの流れに逆らって、ぐるり一周、あっという間に泳ぎ切ったら穂乃花は喜ぶだろうか。
浮き輪で浮いているだけの穂乃花の様子を見ると、それはもう楽し気な顔をしていた。
「なあ、穂乃花、これって楽しいか?」
「うん。もう最高」
「そうか。それは良かったな」
小さすぎるガールフレンドはご満悦な様子だ。ならば余計なことはせずに、付き合ってやることにしよう。
実は俺がプールに付き合っているのは、ちょっとした理由があった。
穂乃花の通う保育園には水泳の授業があった。そしてもうすぐ進級テストがあると聞かされたのだ。
穂乃花は現在ラッコ級。ラッコ級というのは背面キックが十メートル出来るという級らしい。ラッコ級の次はフグ級だそうだ。フグ級は息継ぎなしのクロールを十メートルだそうだ。
穂乃花はそのフグ級の審査に向けて今頑張っている最中だった。
身体能力が高い穂乃花は、技術さえ身に付けば大人顔負けのスピードで泳げるだろう。
しかしちょっと水が苦手な穂乃花は、クロールになると手足をバタバタやり過ぎて、ろくに前に進まなくなるらしい。
補助に入ろうとした先生が振り飛ばされたりして、穂乃花にちゃんと教えてあげられる人がいないと母親から聞かされた。
そこで俺の出番というわけだ。
取り敢えずは午前中は遊びに徹して、昼からでも特訓にかかるつもりだ。
満月期の狼男のエネルギーを無駄遣いしているようにとられるかも知れないが、この時期だからこそちょっとしたいいこともある。
つまりは、眷族たちの鼻が利くのも勿論俺と同じでこの時期だ。
市民プールに押しかけた大勢の人の中に、もし眷族や混血種がいたとしたら、穂乃花の存在に気付くかも知れない。
だからこそ人ごみの中に出かけようとする母娘に、俺は余計な老婆心を起こしてしまった。
こうして一緒に行動すれば、俺の狼臭がきつすぎるせいで穂乃花のことはまあ気にかけられない。
おまけにプールに入ると、狼臭は極端に激減するのだ。
遊んでいるだけのように見える俺の行動も、実は計算しつくされたものなのだよ。
「フフフフ」
「なあに? ウイ、おかしな笑い方して」
プカプカ浮き輪に乗って流される穂乃花が俺を振り返った。
「いや、ちょっと考え事してた。それより穂乃花、昼ご飯を食ったら特訓だからな」
「えーー」
「えーじゃないよ。何のためにプールに来たんだ。進級したかったら頑張らないと」
「ウイは泳げるんだよね」
「ああ。俺は凄いぞ。特に今日はな」
俺は自慢げに鼻を鳴らしてみせた。
俺が楽観的なのは、この市民プールの雰囲気のせいか、それとも屈託のない笑顔を見せる小さなガールフレンドのせいか。
仰向けになって漂いつつ、俺は真っ青な高い空を見上げる。
ギラギラと照り付ける太陽の眩しさに目を細めながら、いつしか俺も少し陽気になっていた。