第32話 眼前の地獄
暗い廊下に響く肉と肉のぶつかり合う音。
血しぶきが床と壁を汚し、狭い通路を異様な空気が満たしていた。
まるで地獄絵図だ。
俺は牙をガチガチと鳴らして襲い掛かってくる目前の怪物と闘いながら、どこか醒めた頭の中でそう思っていた。
縄張りに侵入してきた異物に、明確な殺意を剝き出しにする怪物たち。
そこには善悪も、大義名分もない。本能のままに、己の凶暴性を侵入者にぶつけるだけの存在だった。
地獄の番犬という表現が、これほどしっくりくるものなど他にないだろう。
マリの援護のお陰で相手の動きが鈍っているとはいえ、獣人化したままの怪物に少しずつ、確実に俺の体力は奪われ、追い詰められつつあった。
これはまずいな。
耳鳴りがする。肺の中に入ってくる酸素が足りない。
やたらと全身が重い。体中に砂袋を括りつけられているような感覚だ。
飛び散る血しぶきが、もうどちらのものなのか分からない。
まだ三体目の怪物の相手をしている状態で、既に俺の意識は朦朧とし始めていた。
さっきからマリの声が背後からしてくるが、何を言っているのか良く分からない。
ただ目の前の敵を倒す。
妄執に憑りつかれたように、俺はただ拳を振り上げる。
ごっ!
頬骨に硬いものが打ち付けられる音。
首ごと持って行かれるような感覚だった。
あっという間に視界が流れて、俺はたいして明るくもない天井の照明を見上げていた。
「琉偉!」
マリの声だということぐらいしか分からなかった。
背中に当たっている冷たく硬い床が、妙に心地よかった。
銃声が響き、また肉と肉がぶつかり合う音が聴こえて来た。
耳の中で音が反響している。
いや、頭の中でといった方が適切だろうか。
「立ってくれ! 立ってくだせい!」
腕を取って引っ張る見知らぬ男。
こいつ誰だっけ?
前歯がまるでないネズミのような顔つき。
懇願するように、必死で俺を起こそうとウンウン唸っている。
やめてくれ。俺は今疲れてるんだ。このまま少し眠らせてくれないか。
「あんたが案内しろって言ったんだろ! ここでおっちんじまってもいいんですか!」
奇妙なことを言う奴だ。俺が何を言ったって?
頭が痛い。いや、全身のどこもかしこもだ。
しかしこの男、確かに見覚えがある。
なにか、何か大切なことを俺は忘れている。
頭の中の靄のようなものがゆっくりと薄らいでいき、俺は自分が覚醒し始めていることを知った。
「ぐおおおお!」
腹に響くような咆哮がして、それからどさりと俺の傍で何かが打ち付けられる音がした。
全身の激しい痛みに抗って体を起こすと、そこには血まみれで横たわっているマリの姿があった。
「マリ!」
捉えどころのなかった頭の中が、一気に覚醒した。
意識の復活に伴い、全身を針のような痛みが貫く。俺は歯を食いしばり、立ち上がろうと奮闘する。
そこへ強烈な怪物の腕の一振りが飛んできた。
ものの見事に吹き飛ばされた俺は、今度はうつぶせで床の上に倒れ込んだ。
「マリ……」
怪物は、倒れたマリの息の根を止めようとせず、片手で軽々とマリの腕を持ち上げ、空いた手で頼りないシャツに手をかけた。
まるで紙か何かのように、シャツは簡単に怪物の爪で引き裂かれ、白い乳房が露わになった。
怪物は荒い息を吐きながら、その片方の乳房を鷲掴みにした。
そう、怪物は完全に、このフロアに現れた眷族の牝に欲情していた。
破壊衝動よりも、獣が根本的に持っている性的欲求が上回ったのだ。
明らかな欲情をその目に浮かべて、異形のものはマリの乳房に舌を這わせた。
尖った先端に舌が触れると、マリの体がビクリと反応した。
怪物は、その反応を愉しむかのようにマリの乳房を弄ぶ。
「やめろ!」
俺が必死で体を起こすと、怪物は一旦動きを止めてこちらに目を向けた。
怪物は行為を邪魔されたことを、殺意に転換して牙を剥きだした。
俺はなけなしの力を振り絞って、壁で体を支えながら立ち上がった。
「来いよ。相手をしてやる」
言葉が通じているとは思えないが、ほぼ気力だけで俺は唸り声を上げた。
怪物はマリを捕まえたまま、ゆっくりと俺に向き直った。
「ぎいええええ!」
悲鳴を上げたのはマリを捕えていた怪物だった。
俺は何が起こったのかを理解できず、呆気に取られてしまっていた。
状況を説明すると、マリを捕えていた怪物の胸に腕が生えていた。
背後から貫通しているであろうその手には、怪物の心臓が脈打っていた。
つまり、背後にいた別の怪物の手で、こいつの心臓はえぐり出されたのだった。
絶命した怪物はその場でばたりと倒れて動かなくなった。
投げ出されたマリはまだ意識が混濁した状態なのか、だらりとしてまだ動きだす様子はない。
後ろにいた怪物は、死体になった怪物を踏み越えてマリの体に手を伸ばそうとした。
「ごおおおおおおお!」
その怪物の背後からフロアに響き渡るような咆哮が上がった。
後ろに控えていた異形の怪物どもが一斉に、吠えたのだった。
俺はこの状況がどういったものであるのかを、既に悟っていた。
ここに残った七体の怪物は、性衝動を満たすために、眷族の女であるマリを奪い合おうとしている。
猛烈な色香を発するマリの体が、ここにいる連中をおかしくしてしまったのだ。
ずっとここに閉じ込められていた怪物たちの欲求は、マリの登場によって火を点けられ、制御不能な状態にまで増長されたみたいだ。
女で身を亡ぼす奴が世の中にはいるが、本能剥き出しのこの連中は、まさにそれに当てはまる。
怪物たちは俺たちそっちのけで、マリを奪い合って争い始めた。
自分の子孫を残すために争うその姿は、潔いくらいに凄惨でむごたらしかった。
全ての怪物が、この狭い通路で、お互いの血を浴びながら殺し合っていた。
肉のへしゃげる音。バリバリと骨が噛み砕かれる音。これを地獄と呼ばなければ、何を地獄と呼んでいいのかというぐらいの、地獄絵図だった。
俺はその有様に吐き気を催しながら、この先に待つ結末に冷たい汗を流していた。
必ず最後に一番強い奴が生き残る。
そして、俺たちは惨殺され、そのあとマリは蹂躙されるだろう。
そして俺はもう覚悟を決めていた。
俺は這ったまま手近な怪物の死体に近づくと、その肉にかぶりついた。
体内の血を大量に失った俺が、唯一出来うる復活の可能性だった。
味も臭いも最悪だった。
それでも俺は死体に首を突っ込んで、獣のように食らい続けた。
しばらく経って、とうとう怪物たちの殺し合いの音が止んだ。
「おおおおおおお!」
まるで勝利の雄たけびのように、天井に向かって声を上げた最後の怪物を、俺は肉を咀嚼しながら眺めていた。
他の怪物よりも一回り大きな奴だった。
異様に大きいだけではない。本来の腕の他に、脇の部分から腕がもう二本突き出ている。異形の中でも戦闘力が突出しているのは間違いないだろう。
中途半端に獣人化した醜い顔が血に染まっていて、本物の悪鬼のようだった。
こんな奴とやり合うのか。
俺は口の中にあった肉片を嚥下し、まだ朦朧としたままのマリを背に、怪物と向き合った。
「琉偉……」
「気が付いたみたいだな」
ようやく口を開いたマリを、余裕のない俺は振り返らなかった。
「勝って。琉偉」
背中を押してくれたひと言だったのだろうが、俺には死刑宣告の合図のように感じられた。




