第3話 依頼人の秘密
進藤由里子の件で、如月に混血種の調査を依頼したのは、俺が眷族のことに関して殆ど身動きが取れないからだった。
俺の父、大上宗吉は三大眷族の血筋を引く由緒ある家の当主だった。
人間の母親の愛を受けて育った俺は、どちらかと言えば人間寄りの考え方をしているのだろう。
冷徹で気位の高い父親に反感を覚え、物心ついた時には引き離されてしまっていた母の面影を、俺はずっと追い続けていた。
恐らく母は父によって処分された。
自分を産んで、器としての役割を終えた母に父が何をしたのか、大きくなるにつれ眷族のことが分かり始めたとき、俺は理解した。
俺は高校卒業後、家を出た。
普通の大学に入り、人間として生きていく。俺はそう決めたのだった。
勝手気ままな俺には親の援助は一切なかった。眷族として生きないのならどこかで野垂れ死ねばいいといった扱いだった。
俺は必死で生きた。多くの学生が気ままに遊びまわっている中で、いくつもバイトをこなし、時々頼みごとを受けて臨時収入を得、人間としての生き方をするためにもがいた。
完全に断絶した父子の縁は、他人のそれよりも質が悪いくらいだった。
そのため、俺が進藤由里子の彼を嗅ぎまわっていたとしたら、目立つことこの上ないだろう。そもそも放蕩息子で有名な俺に、親切に情報を教えてくれる眷属などいないはずだ。
如月だけが頼みの綱だった。
「はあー」
ゼミ終了後の教室で、俺は一つ大きなため息をついた。
実は少し胸の中に痛いものがある。
ポケットに入れてある二枚の紙幣。
進藤由里子から調査費用として渡された二万円だった。
あの夜俺を訪ねてきた彼女は身なりこそきちんとしていたが、裕福そうにはとても見えなかった。
俺と喫茶店で話をしたあと、あの娘はそのまま仕事に行っていたはずだ。
これから帰ろうとしている娘が、あのような香水をつけたりはしないだろう。着飾っていたのは夜の仕事を彼女がしているせいだったに違いない。
学生をしながら夜は働いている。
周りにいる大学生活を楽しんでいる女子学生とは、ずいぶん雰囲気の違う娘だった。
折りたたまれたこの二枚の紙幣に、彼女の思いが込められている。
そう思うと、なかなか使い辛かった。
「はああー」
「どうしたの? 元気無さそうだけど」
俺の隣に腰を下ろしたのは、松島孝子だった。
男と女の関係はとっくの昔に終わっていたが、孝子は時々こうしてお喋りをしに来る。
「お前のせいだからな」
「なんで? どうゆう意味よ?」
「進藤由里子。それでわかるだろ」
「ああ、相談に来たのね。でも私のせいじゃないわよ。私は琉偉のことをあの子に色々聞かれて話しただけだから」
「彼女から聞いてきたのか?」
「うん。学食で食べてるときに声を掛けられてさ。まあそのうちに仲良くなったんで、今は友達だけどね」
孝子とはもともと友人関係では無くて、彼女の方から俺の情報を聞き出すために孝子に接近してきたというのか。
それはつまり、孝子が俺と親密な関係であったということを知っていたからなのだろう。
由里子は孝子から聞いて俺の素性に気付いたと言っていた。
しかし、実際はそうではなく、彼女はそれ以前に俺の素性を知っていた可能性が高い。
それはつまり彼女が嘘をついていたということになる。
では何故由里子は、孝子から情報を聞きだす前に俺の素性に気が付いていたのだろう。曖昧な根も葉もないような俺の噂だけで、確信があるような行動に出るだろうか。
まだあの娘は何かを隠している。俺はこの時、きな臭い何かを嗅ぎ取っていた。
依頼人である由里子のことを嗅ぎまわるのは変なのかも知れない。
しかし、芽生えた疑惑に気付かないふりを出来る程、俺は落ち着いた狼男ではなかった。
俺は大学から出ていく由里子の跡をつけた。
相手の素性を知るにはまず相手の住処を知っておく必要がある。
月齢十日の狼男は余裕をもって女の跡をつけたのだった。
簡単な尾行ではあったが、心の中はやや痛んだ。
今俺が行おうとしていることは、知られたくない秘密を無理やりに露見させてしまうことだ。
何かを隠しているのだとしたら、隠さなければならない理由があるはずだ。土足で踏み入ってしまったら取り返しがつかないものもあるのではないか。
俺は怖い人たちの事務所に平気で入って行くような非常識な男だが、デリケートなプライバシーに関しては常識的で慎重な狼男なのだ。
そうこうしているうちに、由里子はかなり古そうな市営住宅へと入って行った。
「ここに住んでいるのか」
俺は少し離れた場所で、由里子がどの部屋に入って行くのかを確認した。
何人家族なのだろう。
俺は階段を上がり、鉄製の扉の前に行くと、狼の超感覚を使って中の話声に耳をそばだてた。
しかし、俺の耳が音を拾うよりも前に扉が開いた。
慌てた俺は身を隠そうとしたものの、それがあまりに格好悪いことだと反省し、そのまま謝罪をしようとした。
「すみません。これはその……」
俺はそこで言葉を飲み込んだ。
扉を開けたのは進藤由里子ではなかった。
大きな鉄製の扉を片手でスッと開けて顔を出したのは、あどけない顔をした年端もいかない女の子だった。
進藤由里子の家は、彼女の母親と娘との三人暮らしだった。
いきなり現れた不躾な俺に、由里子の母は暖かいお茶を出すと、そのまま部屋を出て行った。
取り敢えず、俺は頭を下げて今回の非礼を詫びておいた。
「ごめんなさい。君をつけたりして」
「いいんです。でも知られてしまいましたね」
詳しい話を聞く前からもう俺には分かっていた。
まだ小学校にも行っていないような、この小さな女の子からは俺と同じ臭いがしていた。
進藤由里子は混血種の彼と肉体関係を持ち、難しいとされる異種族間の子を妊娠し、出産していたのだ。
これで大まかな全体像が見えてきた。
俺は由里子に彼を探している本当の理由を尋ねた。
由里子は娘を膝の上に座らせ、落ち着いた口調で話し始めた。
「この子は穂乃花と言います。この子がどういう子なのか、もうあなたは気付いてらっしゃるんじゃないですか」
「ええ。なんとなくは」
「お察しの通り、この子は失踪した彼と私の間にできた娘です。この意味をお分かりですよね」
娘の前だからか、彼女は言葉を選んだ。年端も行かぬ子供でもその内容によっては傷つくこともあるからなのだろう。
「つまり、彼女は父親の血のせいで俺と同じような力を持っている。そういうことだね」
由里子は膝の上の娘の頭を撫でながら頷いて見せた。
「そのとおりです。この子は特別な子なんです」
「そうだろうね。否が応でも目立ってしまうくらいに……」
由里子の眉が少し動いた。
その時大人しくしていた女の子が口を開いた。
「あたしね、保育園に行ってるんだよ」
唐突に話の中に入って来たけれど、全く前後関係を跳び越えた内容だった。
まあ、この歳ならばこんなものなのだろう。
「そうか。保育園に行ってるのか。今何歳なのかな」
穂乃花は小さなモミジのような掌を突き出すと、親指を折ってニッと笑った。
「四歳」
「そうか、じゃあ年中さんかな。どうだい、保育園は楽しいかい?」
「うん。美智子先生がね。一番好きなんだ」
「へえ。優しい先生なんだろうね」
俺は由里子との話をいったん中断して、この幼児の相手をしてやることにした。
少したどたどしいが、人と話すのが好きなのだろう。物おじしない感じの娘だった。
おさげの髪が良く似合っている。大きな澄んだ目と愛嬌のある口元、なにより、お餅のようなに柔らかそうなほっぺたが印象的だった。
あまり母親には似ていない。きっと父親の血が濃いせいだろう。
「おじちゃんはお客さんなんでしょ」
「おじちゃんでもないし、お客さんでもないかな」
苦笑いを浮かべる俺に代わって、由里子は娘の柔らかそうな頬を掌で挟むようにして、説明してくれた。
「大上さんはママの行ってる大学の人なの。おじちゃんはダメよ」
「じゃあ、ママのお友達ってこと?」
今度は由里子が返答に詰まったので、俺が気を利かせた返事をしておいた。
「友達の友達ってとこさ。つまりは友達ってことでいいよ」
「分かった。じゃあお名前で呼ぶね。教えてくれる?」
「ああ。大上琉偉だ。よろしくな」
「オオガミウイ?」
「おおがみるいだって」
「ウイでいい?」
「ウイじゃなくってルイだって」
「分かった。じゃあウイって呼ぶね」
「はあー、もうそれでいいよ……」
ここで問答しても仕方ない。この子がもうちょっと成長してルイと呼べるまではウイで良しとしておこう。
「ねえ、ウイって、私と同じ匂いがするね」
そのひと言で狼人間である俺の匂いを嗅ぎ分けていることを知った。
そして、俺は迂闊だった自分にたった今気が付いた。
「そうか、この子が俺を見つけたんだな……」
「ええ。大上さんの言うとおり、一度大学に連れて行った時に、この子があなたを見つけたんです」
「それで俺の素性を見抜けたのか。でもどうして孝子に俺のことを聞いたりしたんだい? 穂乃花の嗅覚で確実に俺があれだと分かったはずだ」
「孝子に聞きたかったのはあなたの素性では無かった。あなたが信頼できる人かどうか知ったうえで依頼したかったんです」
「そういうことか。納得だよ」
恐らく孝子は俺のことを信用できる人間だと太鼓判を押したに違いない。
高い評価をつけてくれたことに、多少なりともくすぐったさを感じつつ、俺はもう一つだけ引っ掛かっていることを由里子に問いかけた。
「もう一つ解せないことがあるんだ。穂乃花が俺に気付いたのに何故俺は穂乃花に気付かなかったのだろうか。今ここにいても穂乃花が俺と同類である匂いがプンプンしているというのに」
「お分かりにならないでしょうね」
由里子の様子が変わった。最も秘密にしておきたかったことに踏み込んでしまったようだ。
「絶対に口外しないと誓って下さい。そうでないとお話しできません」
ただ事では無いような真剣さで、由里子は俺の目を真っすぐに見つめていた。
ここまで来てその先を聞かないわけにはいかない。俺は一度だけ頷いた。
「誓うよ。狼の誇りにかけて」
「分かりました。お話します」
深く息を吐いたあと、由里子が口に出した言葉は、俺の想像を超えていた。いや、想像すらもしなかった内容だった。
「私が穂乃花を大学に連れて行ったあの日は、丁度新月だったんです」
それが何を意味するのか。
俺はしばらく言葉を失った。