第2話 正体を知る女
喫茶店のコーヒーはこのブレンドコーヒーだけ。
一杯二百八十円。
これを安いと捉えるかどうかは、カップを口にした人の舌次第だが、俺の主観で感想を述べるとするなら、法外な値段だと言いたい。
コーヒーのふりをしているだけで、さしずめ焦げ臭い泥水といったところだ。
白いカップになみなみと注がれた色だけは立派な茶色い液体は、はっきり言って缶コーヒーの足元にも及ばない味だ。
さらに歯に衣着せずに言わせてもらうと、全くもってクソ不味い。その一言に尽きる。
アパートが足の踏み場もない以上、こういった面会には至って便利だが、喜んで足を踏み入れる店ではなかった。
誰の趣味なのか、昭和臭さを感じさせる狭い店内には、いわゆるシャンデリアと呼ばれる古臭い照明が吊り下がっており、大して明るくもない電球色が狭い店内をシックに照らしていた。
今は俺たちの他に客は無く、店のおばちゃんも奥へ引っ込んでいったので、話をするのには好都合だった。
俺は営業用の微笑を口元に浮かべながら、訪ねてきた女を静かに観察していた。
白いテーブルを挟んであらためてよく見てみると、どこかしら見覚えのある娘だった。
先ほど耳にした内容から察するに、彼女は同じ大学に通う違う学部の学生だ。はっきりとした面識はないが、学食で見かけたことぐらいはあったはずだ。
少し凝視し過ぎていたのだろうか、俺の心理を読み取ったかのように、娘は自己紹介をしてきた。
「理工学部、情報処理科、三回生の進藤由里子と言います。大上さんの評判はお聞きしています」
「経済学部、経済学科、三回生の大上琉偉です。俺の評判って?」
分かっているけれど一応は確認のために聞いてみた。少し言葉を崩したのは、相手が自分と同じ三回生であることが分かったからだ。
俺が投げかけた質問に、進藤由里子はすんなりと答えてくれた。
「厄介事を専門に解決する何でも屋だと聞き及んでます」
思ったとおりの酷い評判だった。まともな奴ではないと、耳にした誰もが思うだろう。
俺は苦笑いを押さえながら、軽く否定して見せた。
「俺はそのつもりはないけど、噂をしていた人はそうイメージしているんだろうね」
「そうですね。孝子はそう言ってました」
「そうか、それでか……」
俺は由里子が口にした孝子という女を知っていた。というか、少し親密な関係になったことのある女だった。
松島孝子。同じ学部の後輩で、やたらと男出入りの多い女だった。
飽きもせず男を替えていると思っていたら、ある時、外で知り合った男とトラブルになったと泣きつかれた。
頬に傷のある、いわゆるチンピラだったことが判明し、別れようとした孝子だったが、性行為を録画されていたらしく、言うことを聞かなければネットに流すと脅されたのだった。
相談を受けた夜、俺は覆面をして事務所に乗り込んだ。そして手当たり次第に、録画してあるであろうデータのありそうなスマホやパソコンを全てぶっ壊しておいた。
当然頭に血の上った連中からたっぷり歓迎を受けたが、丁度満月期だった俺にはどうということもなく、かかって来た何人かを病院送りにしたあと、さっさと退散した。
困ったのはその後だった。問題を解決した俺に、孝子はついて回るようになったのだ。
狼男の俺は人間の異性に対する性衝動はそこまでない。
全く魅力を感じないというのではないが、種としての根本で違いのある人間にどうしても本気になれないのだ。
パートナーとしての目線で人間の異性を見るのが苦手な俺も、孝子のしつこさには閉口した。
色んな男を渡り歩いていた孝子のことを、俺は見誤っていたことを知った。実際のところ、孝子は一途な女だったようだ。ただ、今まで誰かに本気になったことが無かっただけで、本気になれるパートナーを求めて彷徨い歩いていた女だったのだ。
完全に拒絶しなかった俺も悪かったのだが、いじらしいほど孝子は意中の相手を振り向かせようと積極的だった。そして、新月の夜に大酒を飲まされた俺は、とうとう孝子と肉体関係を持った。
その後も孝子とは数か月続いたが、俺からは決して愛情を得られないと分かった彼女は、やがて俺のもとを去って行った。
その孝子の友人らしい進藤由里子が俺の所に来たということは、孝子にそうするように勧められたからなのだろう。
いったいこの娘の抱えている厄介事とは何なのだろう。
焦げ臭い臭いしかしない液体にまた口をつけたあと、俺は単刀直入にそのことを聞いた。
「俺に何を頼みたいんだい?」
「人を探して欲しいんです」
即答した由里子に、俺は訝しげな顔をして見せた。
「俺に頼みごとをしてくる奴は色々いたけど、人探しを頼んできたのは君が初めてだよ」
物騒なことの解決を期待して、大概の奴らは俺の所に訪れる。由里子の頼みは俺の中でも異例中の異例と言えた。
そして由里子は俺に一枚の写真を差し出した。
そこには高校時代であろう、あどけなさの残った進藤由里子と少し精悍な感じの青年が写っていた。
恐らく自撮りで撮ったものだろう。二人の親密さがはっきりと分かるその写真で、言わずもがな恋人同士であることが窺えた。
「高校生の時に、彼と一緒に撮った写真です」
「そんな感じだね。それで彼を探して欲しいっていうのかい?」
「はい。お願いしたいんです」
俺は口元に苦笑いが浮かんでくるのを押さえられなかった。
どうやら俺の仕事では無さそうだ。
「それは、興信所か何かに頼んだらどうかな。俺みたいな素人に頼んでも時間の無駄だと思うよ」
「いいえ、大上さんしか探せないんです。どうしてもお願いしたいんです」
思い詰めているような必死さだ。なにか他の人には頼めない理由でもあるのだろうか。
俺はまた口の中の渇きを癒すためだけに、また茶色い液体を口に含んだ。
そのあと由里子の口から出た言葉は、焦げ臭いだけの液体の味を忘れさせた。
そう、彼女はこう言ったのだ。
「狼人間のあなたにしか頼めないことなんです」
ゼミのない土曜日。俺は先輩から借りた車を転がして、とある有名国立大学へと来ていた。
学食で美味そうな定食に箸をつけていた旧友を見つけて、俺は向かいの席にどかっと腰を下ろした。
「何の用だ」
全く顔を上げることなく如月はそう聞いてきた。
「いや、金を借りに来たんじゃないから心配するな。しかしお前の食ってるの、美味そうだな」
「じゃあ頼めよ。お前の金でな」
「分かってるよ。冷たい奴だ」
俺は食券販売機で、かけそばのチケットを購入し、侘しいどんぶりをトレーに載せて、再び如月の前に腰を下ろした。
如月紫吹。俺の中学時代からの友人で、頭の悪い俺と違ってエリートコースを順調に進んでいる期待のルーキーだ。
言い忘れていたが、如月は俺と同じ狼人間だ。母親は人間で父親は眷族。似た者同士の俺たちは自然と意気投合し、中学、高校とそれなりに悪さをして貴重な少年時代を過ごした。
しかし、おつむの出来はかなり差があり、俺は三流大学。如月は日本を代表する国立大学へ進学した。
まあ、話の出来る混血種など滅多にいないだろうし、それもあってか二人の友人関係は依然続いている。
しかし普通、大学で新しい友達ぐらいはできそうだが、一人で飯を食っているところを見る限り、如月に友人関係はナシといった感じだ。
原因はなんとなく解る。俺と違い、如月は人間に対して冷ややかな所があった。
お前らなんか相手にしない。そういった雰囲気を出している奴に誰も寄ってはこないだろう。
しかし、なかなかのモテ顔だ。冷たそうな感じさえなければ、今頃は一人で飯も食わせてもらえないに違いない。
如月は定食を大方食べ終えてからようやく箸を置いた。
「また金か? 一円も返してもらってないのに」
「おまえ失礼だな。俺が小遣いをせびりに来たとでも思ってるのか。それでも友達か」
「友達だったら借りた物を返せ。ごたくはその後で聞こう」
耳に痛い如月の言葉に、そのとおりなので何も言い返せなかった。
どうせすぐに腹が減って来そうな味気ないそばを完食し、俺は今日ここへ来た理由を如月に告げた。
「すまないけど、この男を探してくれないか」
俺は昨日進藤由里子から渡された写真をテーブルに置いた。
「誰だ? いや、やっぱり聞かないでおこう。お前に関わるとろくなことがない」
「いや、そこを頼むよ。ちょっと訳ありなんだ」
「いいや、聞きたくない。その写真を持ってまっすぐ帰れ」
あくまでも抵抗する如月に、俺は席を立って耳を貸せと小声で言った。
そして俺の言葉を聞いて如月は明らかに表情を変えた。
「場所を変えよう。ここでは話せそうもない」
そして俺たちは大学を出ると、路上に停めておいた車に乗り込んで走り出した。
「さっき言ったことは本当か」
「ああ。本当だ。でないとこんなこと相談したりはしないさ」
「その進藤由里子というのは狼人間と付き合っていたんだな」
「ああ、しかも俺たちと同じ混血種とな」
進藤由里子は高校時代混血種の男と付き合っていた。
それ自体は問題ではない。問題なのはその男がタブーとされている自分の素性を、赤裸々に彼女に語っていたことだった。
眷族はその存在を知ってしまった人間を生かしておかない。
危険分子はどんな小さな火種でも取り除く。それが今まで秘密裏に社会の裏側で生き延びてきた眷族のやり方だった。
付き合っていた混血種の彼は、彼女が高校を卒業する前に失踪したらしい。一度だけ手紙が来て、そこには必ず戻ってくると記されていたという。
理由は明かさなかったが、進藤由里子はその混血種の男とどうしても会わなければいけないのだと必死で俺に懇願した。
俺の懸念したのは、俺がこの依頼を断って彼女が独自に調べ周ることだった。
眷族はそういった情報に常に網を張っている。目立った行動をとって、奴らに目をつけられたら始末されかねない。
相談したのが俺のようなはぐれ者の混血種で良かったと、心底安堵した。
渋滞している都心を抜けて少し走ってから、俺はコンビニの駐車場に車を停めた。
「コーヒーでも飲むか?」
「ああ。奢ってくれるのか?」
如月は一円も金を出す気はないらしい。それはそうだろう。俺は如月から七桁の借金をしている身なのだ。
苦いコーヒーを飲みながら、車の中で如月は俺に色々質問をしてきた。
「しかし解せないな。どうして進藤由里子はお前が眷族の血を引いているのだと分かったんだ?」
「まあそれは、あれだよ。俺が派手に色々やってて目立ってたというか……」
「やめてくれよ。普通の人間に悟られるくらいやらかしてんのか? 最悪だな」
「まあ、やってしまったものは仕方ないっていうか、俺にも色々と事情があるんだって」
「まあ、それはいいとして、探し当ててどうするんだ? 男の方も事情があるから接触を避けているんだろうし」
如月の言いたいことは良く分かっていた。
混血種の男が進藤由里子のもとを去ったのは、恐らく眷族に彼女の存在を知られたくなかったからだ。
眷族と親密になった人間は親兄弟までも徹底的に調べられる。
そして眷族に関して何かを知ってれば、直接介入してくる。
眷族の情報を知らせた混血種は厳しく罰せられ、彼女は痕跡を残すことなく葬られるだろう。
見つけ出してお互いを引き合わせるのは大きなリスクがある。そう如月は言いたいのだ。
「直接でなく、俺やおまえを介してなら手紙くらいは渡せるだろ。その辺で納得してもらおうと思ってさ」
「男に別れの手紙を書かせて諦めさせる。そう考えているんだな?」
「鋭いな。まあそういうことなんだ。なんだか思い詰めてそうだし、放っておけば無茶しそうな感じがしたんでな」
「相変わらず甘いやつだ。まあ、今回はお前に手を貸すことにするよ。お前が混血種だってその娘に知られてるしな」
「悪い。恩に着る」
手を合わせた俺を、如月は鼻で笑って見せた。
如月は恐らく、進藤由里子とその彼だけの問題ならば、重い腰を上げたりしなかったであろう。
俺に危害が及ぶかもしれない。如月はそう思い動いてくれようとしている。
それが分かっていた俺は、この幼馴染のありがたさをまた痛感していた。