第15話 ジェシカは語る
スピード狂のようなマリの運転は、助手席に乗っている俺でも快適とはほど遠かった。
なにしろ、普通の公道をレース場と間違えているのかという速度で疾走し、コーナーリングにおいてはプロレーサーでもちぎられそうな、ドリフトを華麗にしてのけたのだ。
月齢が満ちていない現時点で、もし車で競争したならば、間違いなく俺の完敗に違いない。
手荒い運転に慣れている俺でさえ、背筋をゾクゾク震わせたくらいだ。狭いトランクに縛られた状態で押し込められていたジェシカには、ざぞ不快極まるドライブだったであろう。
車から降りるなり、いきなり嘔吐していたのを見る限り、かなり居心地が悪かったことは言わずもがな理解できた。
取り敢えずゲーゲー言っている背中をさすってやり、紙のように蒼白な顔のジェシカを由里子の家へと連れて行った。
俺がドアのチャイムを押そうとすると、予想通り先に穂乃花がドアを開けた。
足音で恐らく気付いていたのだろう。俺の訪問を歓迎してくれているようで、穂乃花がパッと笑顔を咲かせる。
「ウイ。どうしたの? こんな夜遅くに」
「ああ、ちょっと用事があってさ。ところでお母さんはもう帰っているのかい?」
「うん。さっき帰ってきた。いま夕ご飯作ってるとこ」
時刻は八時過ぎ。開いた扉の向こうから野菜を煮るいい匂いがしてきた。
「カレーかな?」
「そうだよ。分かる?」
穂乃花の顔を見ていると、どうも俺はリラックスモードになってしまうみたいだ。用があってここへ来たことを、俺はしばし忘れてしまっていた。
「あら、大上さん。こんな時間にどうしたんですか?」
奥からエプロン姿の由里子が顔を見せた。取り敢えず何故俺がここに、両手を縛った女を連れて来たのかを、ざっと説明した。
「この人が俺たちの関係を色々と誤解してそうなので、君の口から説明してもらえると助かるんだ」
「勿論いいですけど、信用していい人なんですか?」
「それについてはこれから。だが、この人は君の知りたかった情報を持っていそうなんだ」
そのひと言で、由里子の顔色が変わった。
「入って下さい」
居間に通され、出された麦茶を半分くらい飲んでひと心地ついてから、俺はまず何から話せばいいのかを頭の中で整理していた。
当事者であったとしても、由里子はともかく、幼い穂乃花には見聞きさせてはいけないことがある。この母娘と関わり始めてから、俺は自然とそういった気遣いをするようになっていた。
取り敢えず、くっ付いてきたマリについては、信用できる知り合いだと言っておいた。悪戯に怖がらせるのを避けたかったからだ。
あとは、縛られたままの外国人だが、この女の素性についてはまだこれからだ。ここでジェシカに俺たちの関係性をはっきりさせることで、お互いに有益なものが得られるはずだ。
ここはまず由里子の警戒心を解き、話を前に進めるのが適切だろう。
「由里子さん、俺がいるから大丈夫だよ。取り敢えず、君から俺に依頼を持ち掛けてきたことを説明してやってくれよ」
「わかりました」
それから由里子の話を聞き、穂乃花が俺に懐いているのを見て、ジェシカはさっきまでの刺々しい態度を一変させた。
「大変失礼しました。そうゆうこととは知らず、掻き回してしまったようですね」
「ああ。その口ぶりなら君も、この母娘をバックアップしようとしていた感じだな」
「ええ。そのとおりです。由里子さんの夫からの嘆願で、我々の評議会は重い腰を上げました。それから私は直命によりここへやって来たのです」
ジェシカのひと言で由里子は、はばからず涙を見せた。
「あの人が生きていた……ジェシカさん、今あの人はどうしているんですか?」
「ご主人は我々のテリトリーで保護されてます。あの方は三年ほど前に我々の国に亡命したのです」
「亡命……どうして?」
「君と穂乃花を守るためだと思うよ。そうだろう、ジェシカ」
俺の解釈にジェシカはひとつ頷いて、由里子の夫、秋月御影の話をし始めた。
穂乃花の父親、秋月御影は三年前に日本から裏のルートを使って出国し、ポーランドにあるヨーロッパの眷族たちを統率する連合評議会(Wolf Council of Europe)に亡命した。
WCEと呼ばれるその組織は、日本の眷族が組織する評議会よりも歴史が古く、始祖と呼ばれる伝説上の狼男、ロルフが立ち上げた組織であるらしい。
同じ評議会という名称でも、その組織は完全に分離しており、僅かに交流はあるものの、お互いに干渉することの無い独立した組織だった。
敵対しているわけでは無いが、もし相手のテリトリーに土足で踏み込めば、それなりの代償を払わせられる。ジェシカはそう説明したうえで、本題に入った。
「実は、由里子さんの夫、秋月御影は。我々と同じくヨーロッパ眷族を祖先とする血統なのです」
その言葉に驚いたのは、俺というよりもマリの方だった。
「そんな馬鹿なこと……外国の狼人間の血を引き継ぐのは、十六夜家だけのはずよ」
「日本の眷族の資料ではそうなっているのでしょうね。しかし、眷族には表舞台には決して出てくることは無い裏の歴史がある。それくらい知っているでしょう」
ジェシカは散々痛い目に合わされた恨みを、ここで返そうとするかのように、皮肉交じりの冷笑を浮かべた。
「もう二百年も前の話よ。その頃はまだ日本とヨーロッパの評議会がそれなりの交流をしていた時代でね。お互いの国に優秀な留学生を送り、異国の狼人間同士が手を取り合おうとしていた。でもそんなとき我々の国で悲惨な事件が起こったの。続きを聞きたい?」
恐らく聞いてはいけない情報なのだろうが、俺もマリもここまで聞いてしまって後には引けなかった。
「なにがあったんだ?」
「日本から送られてきた留学生が、人間を食べたの」
「人間を? それだけ?」
サラリと言ってのけた内容は、普段から人間を食べているマリを驚かせはしなかった。
「そうよ。でも食べた相手が悪かった。その人間は供物。つまり上級眷族への捧げものだったのよ」
「なるほど、その当時はまだ生きている人間を食べていたんだな」
俺は納得した。獲物を横取りされるのを眷族は最も嫌う。
昔、そういった奪い合いで、決闘が行われたということを聞いたことがあった。
「供物を横取りされた上級眷族は、日本から来た眷族を八つ裂きにした。そしてそれを聞いた日本の眷族は、日本に滞在中の留学生を一人殺したの。そしてその報復としてヨーロッパでは二人の留学生が殺され、さらに日本でも四人の留学生が殺された。お互いに引き際を見極められないまま、留学生の半分以上が殺されたわ」
いかにもありそうな話だった。プライドの高い眷族が、お互いの意地をぶつかり合わせたといったところだ。
「それから問題を解決すべく、当時の評議会のトップ会談が行われた。あまり友好的といえないまでも、決着は着いたわ。お互いに今後百年間一切の交流を絶ち、冷却期間を設けようといった内容で調印書が造られた。このことはお互いに沽券にかかわる問題として、表沙汰になることなく闇に葬られたはずだった」
「はずだったって?」
聞き返したのはマリだった。俺よりも前のめりに話に集中しているようだ。
「ようやく決着がついてしばらく経って、日本に帰国した女子留学生の一人が妊娠していたことが分かったの。その娘の名は秋月恵蘭。眷族は恵蘭が妊娠していると知り、すぐに火消しに回った。母子共々始末しようとしたけれど、調印書の内容にはお互いに手出しをしないといった内容が含まれていた」
「そうか、それでお腹の中の子供に危害を加えることができなかったんだな」
調印書というものを見たことなど無いが、眷族の中で絶対的な効力を持つ特別なものであると、俺も聞き及んでいた。
「そういうこと。秋月家の一人娘だった恵蘭は男児を出産した。恵蘭の親は偽装の養子縁組をし、外国の血筋が入っていない純血の眷族としてその子供を育てた。それから長い時間が経って、子孫にあたる秋月御影は自分にヨーロッパ眷族の血が流れていることを、父親から聞かされたの」
「それで亡命できたのか。初めからツテがあったわけだな」
ようやく合点がいった。
秋月御影は親類のヨーロッパ眷族と、連絡を秘密裏に取り合っていたのだろう。
日本で、このことが明るみになれば、由里子は消され、穂乃花はどうなるか分からない。亡命という思い切った行動をとるに足る好条件を、秋月御影は先方から得ていたのであろう。
「それで、向こうに渡ったとして、この母娘の扱いはどうなってるんだ?」
「命の保証。それと、ヨーロッパにおける眷族社会での地位を約束します」
「信頼できるのか?」
「ええ。できますとも。調印書が発行されましたから」
それを聞いて、俺は目を丸くしてしまった。隣で聞いていたマリはそれ以上だったかも知れない。
「ホントか? 調印書って、個人に対して発行されることなんてあるのか?」
「ええ。私はその調印書によって動いている。私のモバイルにその画像があるわ」
「これの中に?」
俺はジェシカの所持していたスマホをポケットから出した。
彼女が気絶している間に色々試したが、指紋認証を受け付けない、暗号は解けないで、お手上げだった代物だった。
「これは諜報員に支給される特別製なの。私以外では開けられない三重のロックが掛けられてるわ」
ジェシカにモバイルを手渡すと、独特の持ち方をしてから起動させ、画面に暗号を打ち込んだ。
「どうゆう仕組みなんだ?」
「秘密よ。さあ、これが調印書よ」
実際に調印書というものを見たことは無いが、それらしい羊皮紙に書かれたものが写っていた。
俺は、隣にいるマリの意見を聞いてみた。
「なあ、マリ、これってどう思う?」
「実物を見なければわからないけど、調印書で間違いなさそうね」
「え? 見て解るの? こんな画像だけで?」
「ええ、おばあさまから叩き込まれているから。欧州の眷族が発行する調印書がどういうものかということも、十六夜家では当然知っていなければならない事柄なの」
「恐れ入ったよ」
何だか最近凄い奴だと思っていたが、マリは本物だった。
世間知らずのじゃじゃ馬だと、眷族の間では言われているみたいだが、同時に稀に見る才女でもあることは間違いない。まったく、調印書に関して無知で世間知らずなのは俺の方だった。
「マリがそういうのなら、きっと本物なんだろう。安心していいってことだな」
短絡的な解答に行きついた俺は、すぐにジェシカの次のひと言で考えを改めさせられた。
「そうなんだけど、調印書はあくまで我が国の物。この国にいる間には何の効力も無いわ」
「つまりは、こっちの眷族に対する抑止力にはならないということか」
俺は言ってしまってから顔をしかめた。
今の俺のひと言は、難しいことの解らない穂乃花はともかく、間違いなく由里子を不安にさせたに違いない。
深刻な表情に変わった由里子に、俺は弁解するように明るく声を掛けた。
「大丈夫だって。俺が付いてる。君や穂乃花に危害なんて加えさせないよ」
気休めにしかならない俺の言葉を遮るように、ジェシカは口を開いた。
「そのことなんですが、ここから先は我々プロの諜報員に任せてくださらない?」
ジェシカは落ち着いた口調でそう言った。




