第10話 狼男は辛いもの
そろそろ深夜のバイトが辛くなる時期になってきた。
月齢二十七日。
もうすぐ新月を迎えようとしているこの時期は、狼人間にとって気分が滅入る下降期に当たる。
今の俺は僅かながらタフなくらいで、普通の人間とそれほど変わらない状態だと言えた。
足しげく俺のアパートに顔を出していたマリも、三日ほど前から姿を見せなくなった。
大上家の血筋である婿候補と親睦を深めるのを、マリの両親はむしろ歓迎しているらしいが、箱入り娘のマリが超能力を失った状態で出歩くことは流石に親も許さないらしい。
俺はこの機会にマリの目を気にすることなく穂乃花のもとへ向かうことにしたのだった。
夏休みに入ってから、穂乃花の母、由里子はフルタイムのアルバイトに出ていて日中は家を空けていた。
祖母と二人で退屈していた穂乃花は、俺の訪問をもちろん歓迎してくれた。
「ウイ!」
「待たせたな穂乃花!」
颯爽と登場したものの、新月に近づいた狼男は実際あまり役に立たない。
勢いよくしがみ付いてきた穂乃花に、内臓が口から飛び出てきそうなくらい締め上げられて、少し加減してくれるよう頼んでおいた。
「悪いな。いまちょっと本気でかかって来られたらマズいんだ」
「うん。気を付ける」
祖母に了解を取ってから、元気に溢れる穂乃花を俺は近くの公園へと連れだした。
途中のコンビニで買ったアイスを二人でチュウチュウ吸いながら、変わったことがなかったか尋ねてみた。
「あったよ。このまえ進級した」
「ラッコからフグにか? やったな」
どうやら水泳の進級テストに合格できたようだ。
気がかりだったので、俺は素直に喜んだ。
「そうか。じゃあお祝いしないとな。何か食べたいものとかないか?」
「えっと、じゃあケーキとプリン。それと回るお寿司も食べたい」
「どれか一つだよ。どんだけ食べるんだよ」
「じゃあ回るお寿司。たまにケーキとプリンも流れてくるでしょ」
「やられた。穂乃花の言うとおりだ」
ハハハと笑いあって、またアイスをチュウと吸い込んだ時に俺は気付いた。
ほんの十メートルほど向こうで、ぎらつく太陽の陽射しを浴びながら、こちらに怒りの目を向けている赤毛の娘に。
「マリ……」
呆然とそう呟いた俺に向かって、マリは凄い勢いで突進してきた。
「私をたばかったな!」
怒りに目を吊り上げてマリは拳を振り上げた。
俺はアイスを手にしたまま。マリの右ストレートをまともに食らったのだった。
そのまま倒れ込んだ俺に、マリはヒステリックな叫び声を上げながら馬乗りになってきた。
「この恥知らず! 子供を隠していたんだな!」
怒り狂ったマリは文字通り俺をボコボコにした。
そして、それを止めてくれたのは他でもない穂乃花だった。
「ウイを叩かないで!」
穂乃花の一突きで三メートルほど突き飛ばされたマリは、信じられないものを見るような目を穂乃花に向けた。
「どういうこと……」
俺は殴られた顔を腫らしたまま、マリに穂乃花の特異性を知られてしまったことに頭を抱えていた。
そして自分が器用に立ち回れる人間、いや狼人間ではないことを思い出し、素直に打ち明けることにしたのだった。
「と、いう訳なんだ」
公園の水道でハンカチを濡らし、腫れた顔を押さえながら、俺はマリにざっくりと打ち明けた。
「なあ、マリ、君を見込んで頼みたい。このこと黙っておいてくれないか」
穂乃花が俺の子ではないということが分かり、マリは掌を返したようにしおらしくなっていた。
そして思いがけなくあっさりと頷いてくれた。
「いいよ」
「本当か? ありがとう。流石マリだ」
やたらと聞き訳がいいのは、先程逆上したことによる羞恥心からなのだろう。どうやらマリにとっては穂乃花のことよりも、子供がいると勘違いし、我を失ってしまったことの方が重大だったようだ。
「それより、その……殴ってごめんね」
「ああ、それはいいって。二、三日すれば治るさ」
誇り高い眷族として、とても恥ずかしい醜態をさらしたことを、今はひたすら後悔しているようだ。
それにしてもこういった勘違いで逆上したということはつまり、この赤毛の眷族の娘は俺に好意を持っていたということなのだろう。
ちょっと変わった俺みたいなのに興味があるだけだと思っていたが、意外とシンプルな理由で付きまとっていた訳だ。
顔の形が変わるくらいボコボコにされたけれど、それくらい妬いてくれたということなんだろうな。
「貸して、私がする」
マリは俺の手にあったハンカチを取って、腫れた瞼に当ててくれた。
「ごめんなさい。琉偉を信じると誓ったばかりなのに、私は宣誓を破ってしまった」
純血の眷族にとっては相当な重みがあるものなのだろう。宣誓を破った自分の行為にマリは打ちひしがれているようだった。
「気にするなよ。誰にだって勘違いぐらいあるさ」
ちょっとした度量を見せた俺の言葉は、マリには届いていないようだった。
「そう思い詰めるなよ。穂乃花のことを秘密にしてくれるだけで十分だからさ」
「それでは私の気が済まない。何か償いをしないと……」
思い詰めたままのマリに、俺は代替案を提示することにした。
「マリ、代わりと言っては何なんだけど、昼飯を御馳走してくれないか? さっき穂乃花と約束したんだ」
「そんなことで埋め合わせができるとは思えないけれど、取り敢えず琉偉の望むようにするわ。で、どこへ行きたい?」
俺は腫れた顔のまま口元に笑いを浮かべて穂乃花の頭を撫でた。
「それは勿論、回るお寿司だよな」
「やった。お寿司とケーキとプリンだ」
当然ながら回転寿司を知るはずもないマリは、眷族らしからぬ不思議そうな顔で首を傾げたのだった。




