第1話 夏の夜の依頼人
蒸し暑い夜だった。
エアコンも無いボロアパートの狭い部屋。
ただ生ぬるい空気を掻き回すだけの扇風機だけが、真っ暗な部屋の片隅で五月蝿く首を振っていた。
蚊の入ってくるのも気にせず開け放った窓からは、昼間十分に温められた空気が微風に乗って入ってくるだけ。
アパート裏には、管理人が手入れを億劫がって伸び放題の草っ原があり、夜になると、そこから夏虫たちの大合唱が聴こえてくる。
大した気休めにはならないが、それでも無いよりかは心なしか涼しげに感じられた。
俺は額からひどい汗を流しながら、この部屋で唯一体を冷やしてくれる缶ビールを喉に流し込んでいた。
酒の肴は何もない。
ただ窓の外に浮かんでいる上弦の月が唯一の肴といえた。
こう表現すると、俺がいわゆる洒落た男で、情感なり風情なりの解るちょっと高級な人間であると思われるかも知れない。
だが、俺はそういった上品なものなど、さらさら持ち合わせていない。
俺が月を見上げているのは、そういった習慣が体に元から備わっているからだ。
先に紹介しておこう。
俺の名は大上琉偉。歳は二十一。このボロアパートから徒歩30分くらいの大学に通う三回生だ。
身長は170センチちょっと。男前だとは誰からも言われたことは無いが、愛嬌があって可愛いと言ってくれるガールフレンドがいたこともある。
ここまでは一般的な表のプロフィールで、実は俺にはあまり人には言えない裏の顔がある。
実は俺は狼人間だ。
いわゆる、伝奇に登場する狼人間と人間との間に産まれた混血種だが、狼の血が濃いせいか、人間よりも、狼人間の特性が濃厚に表れている。
特に満月期に入ると、俺は狼人間の本質である、超感覚と怪物並みの身体能力を手に入れる。
そして満月の時、おそらく俺は不死身になる。
あまり試そうとは思わないが、まあまあ高いビルの屋上から転落したとしても死ぬことはないだろう。
そしてこの不死身性のせいで、俺には色々とおかしなあだ名がつけられていた。
ゾンビ男。フランケンシュタイン。死んだことに気付いて無い馬鹿。切ってもすぐに生えてくるトカゲの尻尾になぞらえてか、トカゲ男と呼ぶ奴もいた。
冗談混じりにつけられたあだ名は、なかなか洒落が効いているものが多い。しかし未だに狼男と呼んでもらえていないのは、皮肉と言わざるを得ない。
今は少なくなったが、大学に入りたての頃、俺は色々な厄介ごとに首を突っ込んでは結構な頻度で酷い目に遭わされていた。
その代表的なものが、アメフト部によるリンチ事件だ。
ゼミで一緒だった女の子が、アメフト部の奴から猛烈なアタックを受けていた。
盛りのついた若者が密集する大学なら、そういったことは日常茶飯事であるのだが、この娘、実は女性が好きな、いわゆるジェンダー的な相違のある娘だった。
頼み込まれて、昼飯三日分に負けてアメフト部の男に直談判に行った俺は、そこでアメフト部員に取り囲まれた。
どうやら男は俺が横取りしたと勘違いしたみたいで、一発殴らせろと言ってきたのだ。
ただで殴られるのは嫌だったので、仕方なく相手を殴り倒したら、6人のアメフト部員が一斉に向かってきた。
その時の俺は月齢三日。あんまし普通の人と変わらない状態でやり合った結果、二人ほど病院送りにしてやったものの、俺は全治一ヶ月の大怪我を負った。
しかし一週間後、涼しい顔で普通に講義を受けている俺を見て、リンチしてくれた奴らの方がビビってくれた。
それ以来、厄介ごとを抱えた連中が、やたらと俺を訪ねてくるようになった。
バイトを掛け持ちしてもまだ金欠だった俺は、止せばいいのに頼まれたことを順番に解決していったのだった。
お陰でいろんな奴から恨みを買って、何度も闇討ちされる始末だ。それでもケロリとしているものだから、しまいには気味悪がられるようになった。
とある事情で親からの援助を一切受けていない俺は、学生である身なのだが、働かなければ学費も払えないし飯も食えない。
中学時代からの友人に頼み込んで借りた金は、まだ一円も返せていない。
いい加減まともな飯を食いたいと思っていた矢先、俺はアパートの鉄製の階段をカンカン鳴らして上がってくる足音を耳にした。
どうやらお客さんのようだ。
月齢八日。
この時期の狼人間の感覚はかなり鋭い。
このくたびれたボロアパートに住んでいる二階の住人は三人。
ほぼ引きこもりの自称漫画家を名乗るキモイおっさんと、時々大麻を吸っている安風俗に勤める痩せた女。そしてこのいつも金欠の狼男だ。
ここの二階の住人を訪ねてくる奴と言えば、アパートの管理人か借金取りぐらいだ。
ヒールを鳴らしながら階段を上がってくる音で、それが俺とそれほど歳も変わらない若い女だということが分かった。
俺の噂を聞きつけて、何か頼みごとをしに訪れた。そう推理するのが妥当であろう。
このとき馬鹿で能天気な俺は、金の匂いのする訪問者に尻尾を振るだけで、その奥底にある血の臭いに気付いていなかった。
そう、時折この世界には予測できないことが起こる。
ただ機嫌よく歩いているだけなのに、上空を飛ぶ鳥が頭の上にフンを落としてくるみたいに、それはなんの前触れも、予感さえも感じさせずに突然起こる。
そしてこの日の夜、安アパートの階段に響いた硬い靴音。
それは遠く高い空から何者かが落とした厄介事が、俺に向かって落ちてくるはじまりの靴音だった。
靴音は案の定、俺の部屋の前で止まった。
訪問者は壊れた呼び鈴を何度か試したあと、部屋のドアをノックした。
トントントン。
俺は起きあがって、取り敢えず手の届くところに置いてあった一番ましなシャツを手に取った。
こう見えても、一応は紳士のつもりだ。訪ねてきた女性を、わざわざ不快な気分にさせるような真似はしない。
着替え終えた俺は、たいして中身も入ってもいないペラペラの財布を、ジーンズのポケットにねじ込んでドアを開けた。
そこには予想通り、二十代とおぼしき女が立っていた。
歳は俺と変わらぬくらいか、肩より少し長めの髪を明るい栗色に染めている。
美人とまではいかないが、男好きしそうな顔立ちで、何かしら独特の色香の漂う女だった。
俺の姿を見るなり、女は口を開いた。
その唇から出て来た声は、俺の想像していた感じより少し低めだった。
「あの、大上さんですか?」
「ええ、そうです。何かご用ですか?」
用がなければ夜半にこんなところへ来ない。
分かっていて俺は様子を窺った。
「あなたの噂を聞きました。大学内で色々……その、頼みごとを聞いてくれるって……」
その口ぶりは、彼女が同じ大学に通う学生であることを示していた。
噂を聞きつけてここへ来たということは、やはり仕事の依頼のようだ。飯のタネが出向いて来てくれたことを俺は歓迎した。
「ここではなんですので、近くの喫茶店で話しましょう。この時間ならまだ開いてるはずです」
俺は上機嫌を表に出さないよう気をつけながら部屋を出た。
これでいくらか臨時収入が入る。
ペラペラの財布が少しは膨らむことを期待して、俺はアパートの階段を靴を鳴らして降りて行った。