ロマンチックにリアリスト
【前編】
東京都の最北西端に位置し、東京都全体の十分の一もの面積を有する町、奥多摩町。そこに、「ヘアーサロン武田」という名の一軒の美容院がある。そこで働く一人の美容師、法華津つばめがこの物語の主人公だ。法華津は現在45になるがいまだ半人前の雇われ美容師の身で、彼と一緒に働く若者たちよりその実力は随分と劣っていた。一体彼はどのような経緯でここで働くようになったのであろうか――
法華津は大分県大分市で、法華津家長男として生を受けた。幼い頃から人一倍繊細で聡明だった彼は、物心ついたころから世間というものに大変恐れを抱いていた。ボヤボヤしていたらすぐに足元を掬われる、潰される――そんな風にいつもビクビク怯えて暮らしていた彼が見つけた、自分がこの世で生き延びる方法、それは優等生として生きることであった。優秀であれば周りは自分に一目置き、それによって自身を守ることができる。そうして昔から常に品行方正の優等生であった彼は、高校は地元でも有名な進学校、聖湯けむり高校、大学は国内屈指の文武両道の名門校である、大阪府岸和田市のだんじり男子大学の法学部へ進学した。
大学に入った頃は志高く弁護士や司法書士を目指していたのだが、卒業生の進路を調べたり勉強を重ねるうちにさすがにそれは敷居が高すぎると感じると、在学中に取った資格のうちの一つである行政書士を選択肢のひとつに入れることにした。行政書士という職業は独立開業して働くのが一般的であるが、その前に補助者として別の事務所に勤務し、仕事の仕方を覚えるのがベターな道だと考えていたのだが、卒業して行政書士として働いている先輩に話を聞くと、行政書士の補助者の給料は20万程度で、賞与も残業代もなく、事務所によっては保険すらつかないところもある。しかもやらされる仕事は先生の周辺の雑用みたいなことばかりで、ロクに仕事など教えてもらえず、殆ど単なる事務員として扱われるばかりだという。そんなものはとても資格保有者の仕事とは思えない、補助者として働くならコンビニのバイトでもしていた方がまだマシ、一旦行政書士として食べていくと決めたら後はひたすら開業あるのみだと先輩から熱いアドバイスを受けた法華津は、考えを改め、大学を卒業した後は福岡へと移住し、一旦一般企業へと就職した。
それから二年間は、会社勤めをして生活を安定させる傍ら、開業資金を集めたり、勉強をこなす日々を送った。初期営業費も含めて開業費用の百万円がたまると、法華津は会社を辞め、自宅のマンションにとうとう自分の城である「行政書士法華津事務所」を開業した。しかし最初のうちは勿論仕事など殆ど入らないので、生活を補う為土日はバイトをすることにした。そのバイト先で知り合ったのが、法華津より二つ年上の薦野冬樹という青年である。薦野は愛想がよくて軽妙なトークが得意な、法華津とは正反対のタイプであったが、友人が多く社交的で、後輩の面倒もよく見ている彼に法華津も信頼を置き、次第に自分のこともよく話すようになり、二人はすっかり打ち解けあうようになった。
そんなある日、法華津は薦野に誘われ、彼の行きつけのチェーン居酒屋に足を運んだ。そこで二人の前に現れたのが、そこの正社員であり、薦野とは前からの知り合いだという鬼丸理恵という少女であった。薦野が法華津を若き所長だと持ち上げて理恵に紹介すると、彼女は見る間に目を輝かせ、法華津に興味を持ち、彼に色々と質問する。理恵は法華津のエリートである部分は勿論、今まで自分の周りにはおらず(薦野も含めて)、自分とはまるで違う無口で物静かなところに色気を感じ、法華津も理恵の明るく快活なところに好感を持ち、二人は互いに惹かれあう。理恵は二人が店を出る時に法華津に自分の携帯の番号とアドレスが入ったメモを渡し、法華津はその後それを見て理恵を誘い、二人で飲みに出かける。その時に、下の名前である「つばめ」と呼ばれるのを嫌がる法華津に、理恵はふざけて「所長さん」と呼ぶ。当時はバカバカしいと思ったやり取りだったが、後にそれは苦い愛の思い出となった。
法華津は一流大卒の若き行政書士、理恵は工業高校卒の居酒屋店員という、社会的には不釣り合いな二人であったが、ここは平等の国日本、そんなことにはとらわれず、そうして何度か二人で会ううちに交際まで発展した彼らは、交際からわずか二年で結婚した。周囲にも祝福され、新婚旅行にも行き、最初の頃は平凡な新婚カップルのようにとても幸せな時を過ごした。だが理恵はひとつ深刻な悩みを抱えていた。彼女は一刻も早く子供を産んで暖かい家庭を築きたかったのだが、結婚から数年経ってもその兆しは全く見られなかった。更に法華津の方も、その真面目で誠実な人柄が業界内で認められ、仲間の紹介で次々と仕事が舞い込み、事業がやっと軌道に乗り始めてきた大切な時期であり、研修会や交流会などへの出席や業務の勉強で非常に多忙な日々が続き、理恵との時間が取りづらくなっていた。
理恵は子供ができるまでは仕事は続けたいと思っていたので、まだ二人が出会った居酒屋で働いていた。その頃既に以前のバイトを辞めていた法華津は、薦野と会うことも連絡を取り合うことも殆どなくなっていたのだが、その店にいまだ通っていた薦野と理恵は現在も何度か会うことがあった。すると、今まではせいぜい馴染みの客、よくて友人だった薦野がいきなり理恵に急接近し始め、口説いてくるようになったのである。子供もおらず夫にも構ってもらえない寂しい人妻につけ入るなんて陳腐な三文官能小説みたいなシナリオだが、運悪くそれらの条件をバッチリ満たしていた理恵は彼の思惑にまんまと引っかかってしまった。それに何しろ薦野は190センチ以上の長身に金髪の似合う超二枚目である。その魅力的な容姿の虜になってしまう女は理恵だけではなかった。そして理恵は法華津の知らないところで薦野との関係にズッポリハマっていき、とうとう彼の子をその身に宿してしまう。
既にすっかりその心は薦野のものとなっていた理恵は、薦野との関係と妊娠を法華津に告げ、自ら離婚を切り出す。愛する妻の浮気、しかもその相手はかつての友人、更にはその男の子をその体に宿しているとショックなことだらけの法華津であったが、そこはさすがに法律関係を仕事にしているだけあって、離婚を円満に済ませるため、そして何より自分を守るために、彼は最善の案を出す。離婚から300日以内に生まれた子供は必然的に前夫の籍に入ることになっており、理恵が今妊娠している子供はこのまま生まれた場合法華津の子として彼の籍に入るであろう。だがその子は法華津の子ではなく、両者の親子関係を取り消したければ、DNA鑑定などの証拠を持って調停へ赴き、事実関係を説明する必要がある。勿論それには法華津も裁判所で証言しなくてはならない。だがそれだけはならないと主張する法華津。やっと業界に顔が知られ、これからだという時に、妻に浮気相手の子を妊娠までされた惨めな寝取られ亭主という醜態を晒す訳にはいかないというのだ。その為には、子供が生まれたらその子をそのまま法華津の子として籍に入れ、その後薦野と再婚したら、他の再婚家庭のように薦野の養子にすればよいというのである。離婚の理由は性格の不一致とし、双方慰謝料は払わず、親権を持たない法華津がこれから生まれる子供の養育費を払うことで決着を着けようというのが法華津の言い分であった。戸籍のことなどよくわからない理恵であったが、とにかく法華津と別れられるならそれでよいとそれを承諾した。法華津も自分と血の繋がりのない子供の養育費を払うなど迷惑千万だったが、自分の顔に泥を塗られない為に金で解決がつくならそれでよいとした。
そうして離婚したはいいものの、その後の法華津は余りのショックにロクに仕事も手につかず呆然とした日々を送っていた。そんなある日、一連の騒動で手入れをするのも忘れ、伸ばしっぱなしにしていた髪を美容院で切ってもらうと、以前とは見違えるほどにカッコよくなり、自身の気分も大層明るくなった。その時法華津の体に電撃が走った。髪を切ってイメチェンしてもらうとこんなにも気分が変わるものなのか。これはいい! 自分もこの仕事に就きたい! そして自分のように落ち込んでいる人たちをヘアカットで元気にしてあげたい! そうなるとその後の行動は早かった。今まで築き上げてきた行政書士としてのキャリアや人間関係を一気に捨て、事務所を廃業し、理恵との思い出の残る家も売りに出し、東京の美容師学校に通うため福岡を後にしたのだった。
【後編】
それから13年後、法華津は奥多摩で自由な生活を送っていた。美容師学校に通い、免許を取得した彼は、最初は青山などの有名なオシャレスポットの店に就職するのを希望していたのだが、遅くから美容師になった自分にはそういうところは競争率が高く、色々探した結果、東京での田舎暮らしに最適と評判の奥多摩にあるヘアーサロン武田に就職することになったのであった。
しかし今の彼は幸せのまっただ中にいた。ここには以前の自分を知る者など一人もおらず、何のしがらみもないのだ。東京に来て彼は性格も生活スタイルも大きく変わった。朝は六時に起きてジョギングをし、酒も煙草もやらず、甘いものも一切食べない健康的な食生活を心がけている。そうして常にスリムな体型を保ち、フリマや古着屋でサイズの小さくて安い流行の服を買い、シーズンが終わったらズバッと全て捨ててしまう快適なプチプラオシャレライフを楽しむ。以前では思いつきもしなかった、ギターやキックボクシングや英会話などの様々な趣味も始め、性格も以前とは打って変わって元気でハイテンションなタイプに変わった。それはさながら、今までの冴えない自分から脱却しようと、進学を機に一念発起して大胆な中学、または高校デビューを果たした学生のようでもあった。そうして華麗なる変身を遂げた法華津は、コツコツ貯金をし、いつかは一人前になって、かつて痛快な青春時代を過ごした大好きな大阪に自分の店を持つという夢を持ち、清潔で美しく健やかな毎日を満喫していた。彼には兄弟こそはいなかったが、父方の従妹で、幼少の頃より実の妹のように可愛がっていた花鶏が東京の東の方に住んでいたので、上京してはじめの頃は彼女が色々と的確なアドバイスをくれ、それは右も左も分からない東京の暮らしの中で大きな助けになった。
信者になったわけではないが、地元の教会に通って地域の仲間もできた。しかし胸には過去の出来事による、いまだ消えない深い悲しみやわだかまりがあり、それが原因で、友達は作ってもこの13年間女と交際したことは一度もなかった。
そんなある日、仕事仲間の独立祝いで仕事帰りに飲みに行くことになった。行く店は、同僚によると食べログでもいいレビューが沢山投稿されている期待大の店だと言う。法華津は酒は飲みたくないと言ったが、そこは料理もおいしいらしいと言うのでみんなについていった。するとなんとそのスナックにいたのは理恵だった。思わずその場から走って逃げ出す法華津。理恵も慌てて後を追うが、男の足には追いつけず、そして何より夜の山の中で視界も悪くなっていてすぐに彼を見失ってしまった。仕方なく店に戻った彼女は、ヘアーサロン武田の一同から法華津のことを詳しく訊くのであった。
それから理恵は法華津の職場、自宅、そしてついには教会にまで押しかけて彼に会いに来るようになった。彼女は法華津に会うとまず浮気の件を謝罪し、あのことは自分も深く反省していると言い、彼と別れた後のことを語りだした。
離婚し、仕事も辞め、薦野との幸せな生活を夢見る理恵だったが、再婚禁止期間の六ヶ月(※この当時は法律改定前にあたる)を待たず、薦野は彼女の前から姿を消してしまった。薦野は最初から理恵のことなど本気ではなかったのだ。彼は最初から法華津も理恵もバカにしており、調子のいいことをペラペラと口にして相手をその気にさせ、そのくせ自分は一切の責任を負わないといういい加減極まりない男だったのだ。なので、アホだけど顔はいい人妻を引っ掛けてちょいと遊んでやろうぜ! 程度の軽い気持ちで、まさか理恵が離婚までして自分のところに来るとは思っていなかったのだ。その時は妊娠期間は既に中絶できないところまで来ており、失意の中子供を出産する理恵。しかし理恵は絶望のドン底におり、とてもこの子を育てることはできないと思った。自分をあっさり捨てた薦野の血を受け継ぎ、いずれは彼の面影を宿していくであろうこの子供をこれから先愛をもって接することができるか自信がなかったし、いくら法華津は浮気の事実を公にしなかったとはいえ、離婚してすぐに再婚相手が決まっており、しかもその男に逃げられたとなっては、何かやましいところがあるに違いない、生まれた子供はその男の子ではないかと陰険な噂をする者は後を絶たなかった。両親に預けようとも、年老いた両親はいずれ必ず死ぬ。そして自分の元に戻り、生まれる前から父に逃げられた哀れな子として生きるよりは、まだ物心つかない赤ん坊のうちから、どこか親切な人の元へ養子へ出して育ててもらった方がその子にとっても幸せなのではないかと思い、子供は生後まもなく養子に出したのだという。養子に出したということだけは法華津も知っていた。離婚する時もう二度と会わないとお互いに約束したので、理恵の代わりに彼女の親が、養子に出してその子供は理恵、法華津両方の戸籍から外れたのでもう養育費は不要だと電話して来たのである。しかしその勝手極まりない理由を聞いて法華津の胸に怒りがわいた。しかも更に言うなら養育費の面で法華津に負担をかけたくなかったとも言うのである。それなら最初から産まなければいい、そもそも不倫なんかしなければよかったのである。その子供に愛情などないが、子供を捨てるような真似をする理恵に腹が立ったし、一般的な道徳観からしてもその子供に哀れみの念がわいた。だが今では12になるその子も、その時ヤケクソで付けた花子という名も今は育ての親によって別の名に変わり、優しい両親の元で幸せに暮らしているから安心して欲しいと言って笑う理恵に、とうとう怒りを通り越して呆れてしまうのだった。
薦野に捨てられ、子供も養子に出した後の理恵は、その悪評で大切な地元の友人を殆どなくしてしまった。もうこれ以上福岡にいられないと悟った理恵は、高校卒業後上京した東京在住の友達を頼って福岡を発った。東京にやって来た理恵は、バイトやパートなどの非正規雇用の仕事をしてなんとか日々を過ごしていった。新卒ならともかく、一旦ドロップアウトしてまた再就職というのはこの不景気の時代にはとても難しい。正規雇用を目指して働く理恵だったが、それがいかに困難か知って、働くことの厳しさを痛感し、自分が浮気をしていたあの時、忙しく働いていた法華津がどれだけ自分たちのことを考えて努力してくれていたか今になって理解し、あの時彼を信じて待っていればいつかは春が訪れたのかもしれないと、己の愚かさを激しく悔いたのであった。だが数年前両親が他界して遺産が入ると、この金を遣って何か今までとは違うことをしてみたいと思った。そしてその時ちょうどネットで奥多摩にある駅から徒歩20分の中古物件を見つけ、居酒屋に勤めていた経験を活かして自分の店を持とうと、その物件を380万で購入し、スナック「鬼」をオープンしたのだった。法華津と別れた後、理恵は両親に内緒で一人で法華津に会いに行ったことがあったのだが、既にその時は法華津は福岡を去った後であり、事務所があった場所にはもう何もなく、彼の行方は全くわからなくなっていた。薦野に捨てられてからは彼に対する未練などなく、男にも失望し、ずっと男と関わりを持たずに生きてきた。理恵も法華津同様東京のしがらみのないサッパリした生活に救われたのだ。元のハツラツとした性格のおかげで幸い友達は沢山できたので寂しくはなかったが、その代わり、頭をよぎるのは自分の軽率な行いで深く傷つけてしまった元夫のことであり、ずっと彼に会って謝りたいと思っていたのだ。捨てた子供のことは忘れても、理恵は法華津のことは忘れていなかった。それはやはりかつては愛しあった仲であり、夫婦だからである。その証拠に、理恵は法華津を毎日のように追い掛け回しては、職場や教会の仲間などの、彼の周囲にいる若い女にはひどくヤキモチを焼いた。すると、その中で理恵に興味を持つ者が出てきた。理恵にあなたは何者なのかと尋ねると、理恵は自分は法華津の元妻で、自分の浮気によって離婚したという、法華津が最も知られたくないことまで簡単に話してしまったのだ。さすがに理恵もそれだけはいけないと思ったのか、子供のことだけは話さなかったが、法華津はそれを知ってショックを受け、絶望した。自分が寝取られ亭主だと知られてしまっては、もうここにはいられない……。この女は一度だけでは飽きたらず、二度までも自分の人生をぶち壊しにするのかと、理恵を恨みながらも観念してみんなの前から姿を消そうと思った彼だったが、みんなはその件をよくあることと至極あっさりと流してくれ、ロクに話題にもしなかった。これが都会というものなのか、と法華津は驚く。田舎では古い常識やメンツなどにこだわって、夫が妻に浮気されたということに過剰反応するところが、いくら東京の中でも田舎とはいえさすがは都会、現代的な考えと他人のことに深入りしない姿勢に法華津は感動した。まだ希望は失われていない、まだ自分はここで暮らしていけると、ひとまずホッとしたのであった。
だが理恵の復縁希望のアプローチは止まらない。法華津に自分の気持ちを真っ正面からぶつける理恵の一途な瞳は、昔と全く変わっていなかった。自分のしてきたことに何の罪の意識も持っていない瞳を見ると、法華津の胸は痛んだ。それと同時に、自分の胸にそれとは別のものが生まれてくるのを感じた。それは幸せだった新婚時代の思い出だった。結婚する頃には既に両親をなくし、天涯孤独の身の上だった法華津は、結婚によって妻という家族を得ることができた。しかも、こんな不器用な自分は結婚などできない、万が一できても絶対見合い結婚だと思っていたのが、熱烈な恋をして愛する者と一緒になれたのである。また、彼のいる法律の世界など、「××してはいけない法律はない」だの、「△△についてはこの条文には書いていない」だのという子供の揚げ足取りのようなやり取りばかりだし、証言なども嘘ばかりだ。そんな虚偽に満ちた仕事をこなす中で、言葉の裏をかいたり相手を疑ったりすることのない、無邪気で屈託のない理恵は彼にとって大いなる癒しだった。彼女は紛れもなく自分が生涯で最も愛した女性であり、そんな理恵と共にいた期間は短いものであったが、彼にとって人生で一番幸福な時期であったのだ。今は憎くてたまらなくても、それを思い出すと、法華津の瞳に自然と涙が浮かんだ。そして、その日、自分の家に押しかけてきた理恵を法華津は招き入れ、二人は一夜を共にした。すると、一度女と寝ると次第に気持ちがたるみはじめ、押し殺していた性の欲求が頭をもたげてきたのである。そうして、何度も交わされた理恵との問答の結果、殆どこちらが折れる形で法華津は理恵との復縁を承諾し、彼女の経営するスナックに一緒に住むことにした。いわゆる情にほだされた、というやつなのであろうが、法華津は彼女を許したわけでも愛したわけでもなかった。他の理由としては理恵と同居すると様々な家事を彼女に押し付けて生活が便利になるし、勿論昔と全く同じ心穏やかとまではいかないが、お互いよく知っている仲とあって彼女と一緒にいると楽な気持ちになれるというのもあった。だが、一番の理由は、彼女に触れると愛しく忘れがたいあの頃に戻れるような気がするというものであった。理恵との生活を始めたことを、花鶏は大分の親戚には黙ってくれていたが、それでもそんなことはまるで理解不能だと戦慄した。
思い出にすがりついているだけの法華津とは違い、理恵はすっかり舞い上がり、同居した途端、法華津との子供が欲しいとまで言ってきた。法華津は舌打ちをしてふざけるんじゃないと言い放つ。養子に出した少女が、いくら法華津の血が流れてはいないといえど、いまだ彼の心を苦しめているのだ。その少女は赤の他人に養子にまで出されたというのに、実の母親である理恵と元夫である自分が今更子供を作り、その子は実の両親の元でぬくぬくと育っているなんてその少女に申し訳がない。それに優しいのねと言う理恵に、法華津は益々嫌悪感がわく。血の繋がらない法華津ですらこんなに自責の念に苦しんでいるのに、母親である理恵は済んだこととすっかり知らんぷりなのだ。心底ポジティブ思考の理恵は、昔と違ってアクティブになった法華津も受け入れ、いつかは彼は自分を許して愛してくれると信じ、彼の子供を産んだら彼は笑顔になって自分と結婚してくれると夢見ていた。しかし当の法華津はそんなことは全く考えておらず、理恵の前では理恵が勝手にベラベラと喋るので、普段は饒舌な彼も、彼女の前では寡黙になった。
理恵と暮らし始めてから、法華津は自分の給料は自分の服などの私物、それと大阪に店を出す為の貯金にあて、あとは二人共同の生活費などは一切出さず、まるでヒモのような生活を送るようになった。しかし理恵は今度は自分が一所懸命働く番だとどこまでも健気だ。だが法華津はそんな彼女を決して許しはしなかった。むしろ、愛しているからこそ許せないのだ。東京に出て今までずっと一人だったのも理恵だけを愛していたからこそだ。子供など絶対に産ませてやるものか。だが、そんな彼もただ一つ、お互いどちらかが死ぬ時になったら許してやろうと、心の中で決めていた。そうして、最期だけは愛し合って別れてやろうではないかと。それが最後にたった一つだけ残っている、法華津の理恵に対する愛情なのであった。
そんな曖昧な日々を送る中、二人ともヒマができた時などは連れ立って外に出かけたりした。電車の音が聞こえる中、真っ赤な夕日を浴びてやる気なくブラブラと歩く法華津の手を、理恵がしっかりと握る。ふと立ち止まり、地平線に広がる茜雲をぼんやりと見つめて、まるで泣いているようだと思う法華津だったが、理恵は夕日ではなく、陽射しを浴びて燃えるように赤く輝く法華津の髪を見ていた。生まれつき赤茶色だというその髪を、昔からとてもオシャレだと思っていた理恵だったが、今はそれが更に美しく感じるのであった。
【完】