夏の記憶
のれんを出して三十分経っても客はない。苛立ちカウンターの中を歩き回る。ジーンズのポケットで携帯が鳴り響き震えた。
「登ちゃんか?」
「どうしたんや? かあちゃん」
「元気か? たまには覗いてや。後からこっちおいでや」
「ランチ終わったらな、何か用事か?」
「そうか、待ってるからおいでや」
高校を出て、両親と男ばかりの四人兄弟で両親の経営している縫製工場で働き出した。父が亡くなり、後を引き継いだ長男の武の下で働くことになった。弟たちが結婚するまではなんとか事業は順調のように思えたが、それは母を含めた弟たちに労働賃金を支払わずにいたことで成り立っていたようなものだ。それぞれが家庭を持ち家計が別々になると、兄弟仲が悪くなり実家を離れた。武はその後、母と仕事を続けていたが経営に行き詰まり、自宅を処分し、工場のある実家で母と同居を始めたが、五年後実家に武が残り、母だけが市営住宅に移り住んだ。
引越しの日、俺にも連絡が入った。俺が幼い頃、通っていた保育園を挟んだ運河の向かいに建つ市営住宅だった。
「引越してん。また覗いてや」
母からの連絡は、簡単なものだった。
俺が妻の早苗に母の引越しを言うと、横で聞いていた中三になる息子の真平が俺を見て言った。
「おっちゃんと喧嘩したん?」
「分からん、そやけど何でおかあちゃんが出て行くんや。出るの兄貴やろ」
武が同居を始めてから母の顔を見ることがなくなっていた。次男と三男の兄も同じようだった。
母が市営住宅に移り住み、少しは顔を出そうと思っていたが、そうもいかずに時間だけが過ぎていた。
「家におるより、広いし、姉ちゃんに気兼ねせんでええから気楽でええわ」
俺が市営住宅を初めて訪ねたとき、母はそう言った。
「何で、かあちゃんが家、出なあかんのや。出るんやったら兄貴やろ」
「家はな、工場があるし、兄ちゃんも仕事せんといかんやろ」
母はそう言い、実家から持ち込まれた製品のボタン付けをしていた。
連絡の一つもせずに一年が過ぎ、母から電話が入ったのだ。
昼の営業終了まじかに客が入り、母の所へ行くのが億劫になっていた。母から電話が入った日にかぎって片付けが遅くなった。今日は母のところへは行かずにいようと思った。
外に出ると、蒸し暑かった。冷房の効いた店内にいたため、しばらくはその蒸し暑さをむしろ心地よく感じたが、十分も自転車を走らせると、耐え難い暑さに変わっていた。額に流れる汗をTシャツの袖で拭う。
ジーンズのポケットで携帯が震えた。
「登ちゃん。こっち来るやろ」
「店出たとこや、今から行くわ」
催促の電話に足を向けることにした。今行かなければ、今度は何時行けるか分からない気がした。
自転車置き場に自転車を止め、十一階建ての市営住宅を見上げた。中庭を抜け廊下を歩く。母の部屋は一階だった。インターホーンを鳴らす。
鍵を開ける音がして母が顔を覗かせた。母の頭は真っ白になっていた。
俺は母の脇をすり抜け中に入った。
「コーヒー飲むやろ」
俺の返事を待たずに母は冷蔵庫から、ペットボトルのコーヒーを注いで、俺の前のテーブルに置いた。
窓が開けられ風が簾を揺らしているが蒸し暑かった。俺は辺りを見回した。
「暑いな、クーラーないんか?」
「ないねん。こないだ。テレビショッピングで買おうと思ったけど、年やから、ローンが通らんであかんねんて、夜も扇風機だけや。今年は我慢するわ」
母は首からかけたタオルで汗を拭う。
九月に入っても残暑が続いていた。
「店、どないや?」
「借金増えて、しんどいだけや」
「どこも一緒やな、それより、早苗ちゃんのおかあさん入院してるんやろ。見舞いに行きたいけど、足が痛いから行かれへんし、これでなんか買うて持って行って、残ったお金は真平と亜季ちゃんに小遣いやって」
母の手には一万円札が握られていた。
「そんなんいらんし」
「気持ちやからな、なんか買うて持って行ったてえな、かあちゃんは年金もろてるからこれくらいは出来るし」
何度かの押し問答の末、断りきれずに一万円札を財布にしまった。
「だいぶ前やけど、一番上の兄貴が店に来たわ。仕事忙しい言うてたで」
「かあちゃんもあんまりミシン踏めんし、出し仕事してたら儲からんがな」
「まだミシン踏んでるんか」
「たまにな、せきもんが入ったら、兄ちゃんが連れに来るんや。こないだも、足手術した次の日に仕事したんやで、手直しやったんやけど、ごつうてな、縫われへん言うたら、えらい怒ってな、薄いもんやったら縫えるけど、厚手のもんはほんまにかなんで」
「一番上の兄貴に言われたわ。お前ら、親父もかあちゃんも俺に任せきりやないかって、俺は小遣いもやってるって」
「仕事したら小遣いくらいくれんと」
「二番目の兄貴は来てるか?」
「毎日来てる。水道の水飲んだらあかん言うて、特売あったからって水買うて持ってくるねん」
冷蔵庫の横にミネラルウォーターのケースが山積みになっていた。
「三番目の兄貴とこはどうや」
「昼の定食は何とか客ついたいうてるけど、たまに寿司持ってくるわ」
前に母に会った時、死んだほうが楽だと言ったのを思い出した。
「そんなこと言わんとき、かあちゃんここに来て良かったんかなと今さら思うねん。初めは広いし気兼ねないからええわ思ってたんやけどな、かあちゃんの部屋ぐちゃぐちゃや、植木も枯れてもて、近所の人がおばちゃんおらんかったらあかんなって、昨日も水やったか言うたら、怒りながらアホみたいに仰山やるし、そら植木も枯れるわ。どれだけしんどかったか。お前ら小さい時、その日のご飯代もないでな、とうちゃんに民生受けよ言うたくらいや。ほんまにしんどかった。子供おるから責任あるんやで、自分だけやったら簡単に死ねるけど、後に残った者のこと考えたら、そんな簡単にいかへんで、そや、こないだ文雄来てたで」
文雄は従兄弟で叔父が亡くなった後を引き継いで鉄工所を経営していたが、叔母が焼肉屋を始めた上、株や手形割引に手を出し、鉄工所はおろか自宅まで取られ姿を眩ませていた。
「どないしてるんや?」
「不動産屋してるって、叔母さんとはもう十年ほど会うてないって、連絡もないし、生きてるかも分からんって、兄弟とも一切連絡もない言うてた」
「そうか、どこも一緒やな、兄弟仲悪いのうちだけと違うし」
母は何処も同じだと言うと、安心したかのように溜息を吐いた。
幸せを感じるために他人の不幸を探すほうが安易だと言っている気がした。
「何も出来んでごめんやで」
「そんなこと言わんとき、みんな一緒や、こないだな言うたったんや。お前、かあちゃんのことここに押し込んだらしまいかって、同居するときも嫁さんも家賃のこと考えて、説得したんやろうけど気疲れしてな、仕事のあるときは連れていかれるし、縫いものの理屈もわからんのに偉そうに言うし」
「とうちゃんの墓参りも行かんとあかんけど、中々行かれへんわ」
「かあちゃんも全然、行ってないわ。また時間出来たら行ったらええがな」
時計を見ると、三時半を回っていた。買出しを済ませ店に戻らないと夜の営業に間に合わない。俺は立ち上がった。
「行くわ。戻らんと間に合わん」
「子どもにも遊びにおいで言うてや」
部屋を出て駐輪場に向かう俺は申し訳なさで一杯だった。手土産の一つどころか、逆に子供たちの小遣いまで持って帰るはめになった。
洋菓子屋でプリンを買い、義母の病室を訪れた。六人部屋の病室は老人ばかりで、三人は寝たきりだった。窓側の義母のベッドに向かう。
「どうですか?」
背中を向けていた義母が振り向いた。
「プリン母親が持って行けって」
「何か食べたかってん。嬉しい」
俺は封を開け、プリンを取り出し、スプーンと共に手渡す。
「時間がないから、直ぐに帰りますね」
義母がプリンを食べながら、もう一度礼を言うのを背中で聞いて病室を後にした。病室には三分もいなかった。
自転車をいつもより早く漕いでいた。暑かった。膝に水が何度も溜まり、手術を受ける母の病院には一度しか見舞いに行かなかった。兄から、俺一人に押付けやがってと言われても仕方ないと思った。しかし、兄に任せておけば大丈夫だとも思わない。母の言葉が気になった。ここに押し込んだら仕舞いかと、結局、兄も母には何もしてやれないのかと母を不憫に思った。母からの電話で足を運ぶ俺は親不孝だ。母は俺に何も求めなかった。
「ごめんやで」と俺は誰に言うとでもなく呟いていた。出来れば、クーラーだって買ってやりたい。
その日も、客入りはかんばしくない。
早苗からメールが入った。
〈今、帰りです。店どう?〉
〈暇やで〉
毎日、同じメールのやり取りだ。
家に帰ると、みんな起きていた。
「今日、かあちゃんから電話あってな」
「おかあさんとこ行ってきたん?」
「ああ、行ってきたで、おばあさんとこにプリンでもって一万円くれたわ。残りは子供らに小遣いやて」
俺はそう言いながら、財布の中から千円札を数枚取り出し、真平と亜季に手渡した。
高三になる亜季が手を引っ込める。
「それはあかんわ」
お金を持って帰ってきたのを少し後悔した。娘の亜季でさえ、母がさほど裕福でもないのを理解しているのだ。
「クーラーがないんやて」
「えっ、今年こんなに暑いのに、クーラーくらい買うたりいな。子供に小遣いくれてる場合違うやんか」
早苗が言うと真平が俺の顔を見た。
「おっちゃん、知らんのんかな」
俺はエアコンのスイッチを入れながら言った。
「知ってるやろ、風呂に入ってくるわ」
カラスの行水程度で風呂から上がってくると、真平と早苗がパソコンの前に座っている。
早苗が振り向く。
「五万くらいでエアコン買えるで、分割でなんとかなるし」
「そやけど、もう暑いのも終わりやし」
「おかあさん可哀想やんか、ゴエモンでも一日中、涼しい部屋に居るのに」
我が家では貧しいと言いながら、ペットの犬が快適に暮らしている。
「俺が買うたるわ。お年玉貯めた貯金五万くらいあるし」
息子の申し出にも返事を返せない。
次の日も猛暑だった。少し自転車を走らせると額から汗が流れる。店に入り、エアコンのスイッチを入れた。母はこの暑さの中どう過ごしているのだろう。エアコンを買ってやると言った子供の言葉をまに受けるわけにもいかない。涼しい風を顔に受け、蒸し風呂のような部屋で暮らす母を思った。少しのやりくりでエアコンを買ってやれないこともないがその少しが出来ない。
携帯が鳴った。表示は早苗だが、息子の真平の声がした。
「ママがエアコン買うって、かわるな」
「なぁー、エアコン買ってあげようや。今、ネットで調べたら五万までで買えるし、テレビでも今年はまだまだ、暑い言うてるやん。ふんでなホースの穴とか、エアコンのコンセントと室外機の取り付け場所、教えてほしいねん。電気屋がいっぱい聞いてくるねん」
「かあちゃんに電話して聞くわ」
俺は電話を切り、母に掛け直す。
「登ちゃんか、どうしたんや? 今、仕事しに家に来てるんや。どうしても縫わんとあかんもんがあってな、夕方には部屋に帰るけどな」
母は実家を家と言い、今住んでいる市営住宅を部屋と言った。
「嫁さんがな、クーラー買うたるって」
「早苗ちゃんが、お前とこもしんどいやろ」
「ネットで調べてるんやて、配管の穴とか、エアコン用のコンセントあるか聞いてくれ言うてるねん」
「前の人がエアコン入れてたから、穴あるし、コンセントもあるみたいや」
早苗に報告すると、コンセントの種類だとか、何ボルトだとかと聞かれたが、母に聞いても分からないだろう。
「お前、行って見てやってくれへんか、俺もう店開けんといかんし」
「うん。おばあさんとこに見舞い行く前に寄ってみるわ」
俺は母に部屋にいるようにと電話かけると、母は店に顔を出すと言った。
夕方、客のいない店に母が来るとカウンターに座った。
「何か飲むか」
「いや、なんもいらん」
「梅酒の薄いのんでも飲みぃや」
俺は母の返事を待たずに梅酒のソーダ割りをカウンターの前に置いた。
サラダと、串かつを三本出して、四本目を用意していると母が言った。
「もう、ええで、腹空いてないから」
「そうか、ご飯は?」
「ご飯もいらん」
母はかばんの中をゴソゴソと探り、財布から千円札を三枚取り出した。
「ええわ、そんなんいらんし」
「一人目やげんが悪いがな、とっとき」
「そんな食べてないがな」
「げんのもんやから」
「そうか、そない食べてないし」
千円札を一枚受け取り残りを返した。
「クーラー、ちょっと、時間掛かるみたいやな。出来るだけ早く取り付けるように言うてるみたいやけど」
「すまんな、今年は我慢せんなあかんなとおもてたんや」
俺にしてみても、母の部屋にエアコンがないと三日前に知りながら、自分では買ってやることが出来ずにいた。九月に入り、暑さももう少しだろうと言い訳を考え、早苗が買うと言い出さなければ、何もしなかったに違いない。そんな俺に兄の批判が出来るはずもない。金がなければ母親にエアコンも買ってやれない。罪悪感にかられ、どんどん母から遠のいていった気がする。今さら、金があればと思うが、親孝行どころか、自分自身が壊れていくみたいでどうにもならない。
電気屋から二日経っても連絡が入らなかった。まだ、暑いといっても、朝と夜は少しましになったような気がする。早苗が、在庫のあるエアコンを買ったにも関わらず、猛暑の続いていた日には間に合わなかった。
俺が電気屋に確認をとると、明日の工事予定だと言われた。早く確認すれば良かったのだが、自分が買ったものでもないので、気が引けていたのだ。自分が買ってやったものならば、俺は催促の電話を数日前に入れていただろう。誰に気が引けるのか自分に問いかけてみると、それは早苗であったり、母であったり、あげくには何もしてやれないことを電気屋に知られたりはしないかという情けなさだ。
俺は母に電話を入れた。
「エアコン明日工事に来るって、時間はそっちに連絡が入るって言うてた」
「そうか、すまんな」
母がそう言って電話を切り、折り返し電話がかかってくる。
「十時から十一時の間に来るって」
翌日は、店の定休日で義母の退院の日であった。痴呆の入った義母は退院後、早苗の姉がしばらく預かることになっていた。我が家は昼間誰も居なくなり、義母を一人にするのが、心配されたからである。十時に義姉と病室で待ち合わせをした。清算を済ませ、仏壇に手を合わせるだけのために我が家に立ち寄り、義母を連れて帰った。
時計を見ると、十時半を回っている。
母の住む市営住宅に自転車を走らせると、玄関先に工事の人間の姿が見えた。駐輪場に自転車を止め、部屋に向かうと、母がいた。
作業員が梱包を解き俺に言った。
「説明させてもらったんですけど、もう一度、説明させていただきますね」
俺が頷くと、作業員は工事に、七千円の別途料金がかかることを説明した。
母が割って入る。
「それ、かあちゃんが払うから」
俺は作業を見ているだけだった。
母がコーヒーを入れて俺の前に置き、一万円札を一枚、俺に握らせた。
「これで、追加のお金払ってや」
俺は黙って、一万円札をポケットにねじ込んだ。
作業を見ていたが、しばらくして作業員に言った。
「お金、払っておきますわ」
作業員が手を止める。
「後でいいです」
「僕、もう帰るから」
母が話に割り込む。
「後で、ご飯でも食べに行こうや」
「そやな」
母とご飯を食べることもそうそうないので、その申し入れを受け入れた。
作業が終わると、預かっていた一万円札を作業員に差し出した。
「すいません。おつりがないので、その辺で両替してきます」
俺は自分が両替に行くと部屋を飛び出し、パン屋で、缶コーヒーを買った。
部屋に戻り、別途料金を差し出す。
手元に三千円余りの金が残り、母に差し出すと、母は手を押し返した。
「それで、昼食べに行こ」
俺はどうしていいのかわからないまま、ポケットに金をしまった。
「商店街まで行かんと、ちょっと、距離あるし、自転車乗っていかんと」
俺が駐輪場で母を待っていると、車に荷物を積み終えた作業員が俺を見て頭を下げた。俺をどう見ているのだろう。年老いた母親にエアコンを買ってやる孝行息子、いや、もっと早くに買ってやればいいのにと思っているに違いない。まさか、妻が買ったとは知らない。購入者は早苗の名前になっている。会釈されるのにも後ろめたさを感じる。
駐輪場にやって来た母は足がおぼつかないようで、やっとの思いでサドルに跨る。俺は自転車の速度を弛めた。商店街は定休日が多く、目当てにしている店も休みだった。
「ここにしよか」
振り向くと母が立ち止まっていた。
母のもとに戻り、自転車を止めた。
店の中に入ると、右手に座敷あった。座敷に上がろうとカバンを置いた。
「かあちゃん、座敷に座られへん」
母は、自転車には乗れるものの、歩く時は少し足を引きずっていた。
俺たちはカウンターで寿司を食べている中年男の横に腰かけた。お茶が運ばれメニューが手渡された。
俺は串かつ定食を、母は少し悩んで天ぷら定食を指差した。
俺が注文を通してから直ぐだった。
「やっぱり、こっちがええかな」
母はメニューの写真を指差していた指をずらす。
「すいません。天ぷら定食、天ぷら御膳に変えてください」
先に串かつ定食が運ばれて来た。
次に運ばれて来た母のお膳は造りもあり豪華だった。
母は料理を見て、初めて料金を見た。
「ちょっと、贅沢やったかな」
「ええやん」
「こんな仰山食べられへん。登ちゃんこれ食べ」
母は、俺のお膳に造りと、エビの天ぷらを乗せた。
俺は言われるままそれを口に運んだ。絶賛するようなものではなかったが、空腹は満たされた。いち早く食べ終えた俺は母の食べ終わるのを待ち、預かっていた金で支払いを済ませた。
店を出た母は、自転車の鍵を開けながら言った。
「ありがとうな」
母は何にありがとうと言っているのだろう。何もしてやれないどころか俺は母に昼飯代まで出させている。
俺が言い返す。
「ありがとう」
「早苗ちゃんにあんじょう言うといてな」
「うん。帰るで」
俺は母と別れ店に向かった。シャッターを開けて、店の中からチラシをとり、ポスティングに出かけた。もう少し、客足が伸びればと思うと、ポスティングくらいしか出来ないでいた。それでいて、ポスティングだけで来店客が増えるとは思えない。それでも何をすればいいのか分からない。
ポスティングを終え、スーパーで晩ごはんのおかずを買って家に戻った。
定休日は早苗も早く帰ってくる。暑いがたまには家族で鍋でもと思う。
家に帰ると真平がインスタントラーメンを食べていた。
「塾か?」
「うん。これ食べたら行くわ」
「帰り何時や?」
「十時かな」
「鍋、帰って来て食べるか?」
「うん。置いとって」
娘の亜季も帰って来ると、すぐに塾に出かけると言った。
「八時には帰ってくるから」
早苗も八時には帰ってくるだろう。息子はいないが三人で鍋を囲める。
犬の散歩と風呂を済ませ、テレビを見ながら家族の帰りを待った。
娘から今から帰るとメールが届いた。早苗からの連絡はなかった。メールが入ったとしても、帰宅まで四十分はかかる。家族で鍋でもと思っていたが、今夜は娘と二人の夕食になった。
母から電話が入った。
「早苗ちゃんは?」
「まだ仕事から帰ってないんや」
「遅いんやな」
「もうちょっとしたら帰ってくるわ」
「また一時間ほどして電話するわ」
そう言って電話が切れた。
テレビを見て、亜季と鍋を食べた。
「今日はママ遅いな」
しばらくして玄関の開く音がした。
「ただいま、携帯忘れてメールでけへんかった」
コンセントの辺りを見ると、早苗の携帯が充電器の上に置かれたままだ。
早苗の階段を上がる足取りは、疲れを訴えるような重々しい音だった。
俺は立ち上がり、母に電話を入れた。
「帰ってきたわ」
そう言って、受話器を早苗に手渡す。
いいえだとか、母に応対する早苗の声を聞こえない振りをした。
しばらく会話した後、早苗が受話器を置いた。
母はエアコンが入ったと早苗に礼を言うために電話を掛けてきたのだ。実の息子である俺の決断ではないと知っている母は早苗に気を使っている。
「すまんな」
俺はそういうしかなかった。
翌日、店の前で自転車を止める音がした。入ってきたのは、亡くなった父親の従兄弟に当たる叔母さんだった。
「頑張ってるか?」
叔母さんはカウンター席に腰かける。
「うん。暇やけどなんとか、やってる」
「叔母ちゃんも今、年金もろてるけど、足らんで内職してるわ。一日やって八百円やで。息子も二人おるけど、十円の小遣いもくれんわ。娘はたまにくれるんやけどな。息子はあかんな」
「ほんまや、僕もかあちゃんに何もしてやられへん。もうちょっとお客さんでもあったら小遣いでもやれんのに、情けのうて足が遠のいてしまうわ。叔母ちゃん何食べる」
「とんかつ定食でももらおかな」
皿にキャベツを盛り叔母さんを見た。
「おかあちゃん、市営住宅で一人で住んでるねん」
「そうらしいな。一回覗いてみようと思ってるんやけど、中々行けんと、元気にしてるか」
「元気やで。僕も昼も夜も営業してるから中々行かれへんねん。行くんやったら小遣いでもやりたいんやけど、自分の生活で一杯やから、親父もそうやったけど、俺も同じやわ」
「墓参り、行ってるんか?」
「全然、行ってないわ。定休日はチラシ配って歩いたりして時間がないし」
「時間は作るもんや、墓参りはしときや。なんぼ嫌いな親でも、親は親やで、おばちゃんもこないだ、子どもと孫連れて旦那の墓参り行ってきたし」
「うん。親孝行出来んと情けないわ」
「情けないなんか思わんとき」
「おかあちゃんとこ行ったら、逆に子どもに小遣いや言うてお金くれるし」
俺は目頭が熱くなった。
「ばあちゃんは孫に小遣いやりたいんや、何もしてやれんでも、近所通ったら、十分でも話して帰ったらええんや。子どもが元気だけで親孝行なんやで」
フライヤーの中のとんかつが浮いてきた。俺はご飯を盛り、味噌汁を温めてカウンターの上に置く。
とんかつを刻み、盛り付ける。
「大きいとんかつやな」
「ボリュームださんと、今なんでも安いから」
「そやな、そやそや二枚持ち帰りで揚げといて、中学の孫に持って帰ったるわ。ちょっと泊まりに来てるねん」
俺はとんかつを二枚フライヤーに入れる。
「ほんまに暇やわ。あかんわ」
「そう言わんと頑張りや。朝から晩まで内職やって八百円の人間もいてるんやから、息子に言うたらそれでもやっとけ言うし、ほんま息子はあかんわ、あんたもやで、おかあちゃんとこ顔出してやりや。それだけでええんや」
叔母さんを見ると笑っていた。
とんかつをパックに詰め手渡した。
「お腹一杯なったわ。なんぼや?」
「千八百円」
一日働いて、八百円の叔母さんからお金を貰うのが申し訳ない気がした。
叔母さんは財布の中を探り、千円札を二枚カウンターに置いた。
俺は金を受け取りレジから二百円を取り出して叔母さんに手渡した。
「覗いたりや、通りすがりにちょっとだけ顔出したら、ええんやから」
叔母さんがもう一度言い席を立った。
俺は外に出て、自転車に跨り帰って行く叔母さんの姿が見えなくなるまで見送った。
店に入って、時計を見るとランチの営業時間が過ぎていた。片付けを済ませ、電話の子機を手に持つ。呼び出し音が三度鳴ると母の声がした。
「俺……」
「登ちゃんか? どうしたんや」
「ううん、何もない。元気か?」
「昨日、顔見たとこやがな元気やで、お前はどうや? 子どもら風邪引いたりしてないか、早苗ちゃんは元気か?」
「うん。元気やったらええんや」
「変な子やな」
「うん」
俺は電話を切った。